YOKAI.JP
有名な妖怪|日本を代表する妖怪・鬼・怪異

鬼、河童、天狗、雪女――時代を越えて名を残す日本の異形

有名な妖怪
日本を代表する妖怪・鬼・怪異

54体の妖怪

この特集の要点

日本で有名な妖怪には、鬼、河童、天狗、九尾の狐、雪女、座敷童子、ろくろ首、ぬらりひょんなどがいます。本特集では人気順位ではなく、古典、地域伝承、妖怪画、近現代文化を通じて広く知られるようになった代表的な妖怪を紹介します。

日本で有名な妖怪とは

日本で有名な妖怪として、まず名前が挙がるのは鬼、河童、天狗、九尾の狐、雪女、座敷童子などです。ただし、これらを同じ時代、同じ土地に生まれた一つの種族と考えることはできません。鬼は宗教や説話、年中行事に姿を変えながら現れ、河童と天狗には各地で異なる呼び名と性格があり、雪女は雪国の自然と暮らしの中で語られてきました。『日本妖怪大事典』のような総合事典を開いても、それぞれの妖怪は異なる原典、土地、時代を背負っています。

本特集は知名度を数値で競わせるランキングではありません。長い年月にわたって語り継がれたこと、複数の地域に異伝があること、絵巻や妖怪画によって忘れがたい姿を得たこと、漫画、アニメ、映画、学校の怪談、インターネットを通じて新たな世代にも共有されたこと。そうした「名が広がる道筋」を手がかりに、日本を代表する妖怪と怪異を選びました。同じ名前でも土地によって姿や行いが変わる例は多く、国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース」で確かめられる地域差も、この国の妖怪文化を豊かにする大切な一部です。

鬼、河童、天狗――誰もが名を知る定番

鬼、河童、天狗は、特定の一冊や一地方だけに収まらない広がりをもっています。鬼は地獄の獄卒、山の異人、退治される怪物、節分で追われる災厄など、場面ごとに役割を変えます。河童は川や淵の危険を人の姿へ映し、天狗は山の霊威、仏道への慢心、空を飛ぶ異能を重ねてきました。いずれも一つの決まった設定ではなく、各地の語りが積み重なって「誰もが知る姿」になった妖怪です。

雪女と座敷童子も、自然と家という身近な場所から全国へ名を広げました。柳田國男の『遠野物語』には河童や座敷童子を含む遠野の怪異が記され、土地に根ざした語りが書物を通して多くの読者へ渡った過程をうかがえます。ろくろ首は伸びる首という一目で伝わる異形をもち、ぬらりひょんは絵画、図鑑、後世の物語を重ねる中で印象を変えてきました。

一目で分かる姿――妖怪画が残した顔

名前だけで姿を思い浮かべられることは、妖怪が広く知られる大きな力です。一本足の傘に目と舌がつくからかさ小僧、顔の造作だけが消えたのっぺらぼう、老いた猫が異能を得る猫又、燃える車輪に顔が浮かぶ輪入道。説明が短くても輪郭が立ち上がる妖怪は、絵本、玩具、舞台、映像へ姿を移しやすく、世代を越えて記憶されてきました。

江戸期には、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』をはじめとする画集が、さまざまな怪異を名と図像で見比べる楽しみを広げました。先行する絵巻、地域の口承、絵師の見立てが重なり、目目連や垢嘗のような日常の隙間に潜むものまで、妖怪は「見て覚える」存在になります。付喪神は単一の妖怪名ではなく、古い器物が霊性を帯びるという大きな考え方であり、からかさ小僧のような器物妖怪を理解する入口でもあります。

酒呑童子、玉藻前、大嶽丸――物語を背負う大妖怪

酒呑童子、玉藻前、大嶽丸、鵺、土蜘蛛は、姿の奇抜さだけでなく、武将、陰陽師、宮廷、山岳信仰、退治譚と結びついた長い物語によって名を残しました。酒呑童子をめぐる『大江山絵詞』では、山中に構えた鬼の館と源頼光一行の計略が大きな物語として描かれます。玉藻前は宮廷の美女と九尾の狐を結び、鵺は正体の見えない声と複数の獣を合わせた姿によって、人の理解を越える恐怖を表しました。

牛鬼と海坊主は、海辺や淵、夜の海という人の力が及ばない場所に巨大な身体を与えます。一方、がしゃどくろは古代から同じ名で伝わった妖怪ではなく、巨大骸骨という現在の像が昭和中期の怪奇メディアで形づくられ、歌川国芳の骸骨図と後に結びついた存在です。「少年少女雑誌の怪奇記事とネタ元」がたどる成立史は、有名な妖怪にも古い伝承と近現代の創作が混在していることを教えてくれます。

山、家、水辺――土地に根を張る妖怪

山姥は山の脅威と恵み、産女は出産と死、絡新婦は滝や淵と蜘蛛、濡女は海辺や水際の危険を、人に近い姿で語ります。犬神は家や一族にまつわる信仰と畏れを背負い、鎌鼬は突然できた傷を風の仕業として説明します。木霊は森に響く声や古木の霊性を、枕返しは眠りの間に起きる小さな異変を形にしたものです。

これらは全国どこでも同じ姿をしているわけではありません。産女が亡くなった母の霊として語られる土地もあれば、子を守る存在として祀られる例もあります。犬神の伝承圏、山姥の性格、濡女の身体も地域によって異なります。名が有名になるほど一つの姿にまとめられがちですが、各地に残る異伝を読み比べると、妖怪の本体はむしろ土地ごとの差異にあることが見えてきます。

音、気配、しぐさ――短い話が名を残す

妖怪は壮大な退治譚がなくても、人が一度聞けば覚える動きによって名を残します。小豆洗いは水辺で小豆を研ぐ音を響かせ、ベトベトさんは夜道を歩く人の後ろから足音だけでついてきます。見越入道と大入道は見上げるほど大きくなり、一つ目小僧は幼い僧形と一眼という簡潔な姿で人を驚かせます。豆腐小僧は豆腐を載せた盆を運ぶだけの、害よりも愛嬌が勝る妖怪です。

火車は葬送の場から亡骸を奪い、船幽霊は柄杓で船へ水を入れると語られます。短い話の中に「どこで出会うか」「何をされるか」「どう逃れるか」が揃っているため、聞き手は場面をすぐに想像できます。有名さは必ずしも物語の長さではなく、名前、音、姿、動作が一つに結びつく強さからも生まれます。

地域の名から全国の名へ

一反木綿、子泣き爺、砂かけ婆、ぬりかべは、それぞれ地域の語りや採集記録をもつ一方、20世紀以降の妖怪図鑑、漫画、アニメなどを通じて、土地を越えて共有される姿を得ました。白沢、雷獣、件のように古い文献や図像をもつものも、展覧会、出版、映像、インターネットで繰り返し紹介されるたびに、新しい世代の「知っている妖怪」になります。総合事典にまとめられた多様な原典と異伝は、現在の知名度が長い記録と再解釈の上に成り立つことを示します。

不知火と人魂は、正体のある生物というより、夜に見える光へ名前と意味を与えた怪異です。アマビエは、1846年に肥後の海から現れ、疫病を予言して自らの姿を写すよう告げたとする一枚の瓦版に姿が残ります。残された記録が少なくても、後世に再発見され、社会の記憶と結び直されることで、妖怪の名が再び広がることがあります。

口裂け女から八尺様へ――現代に生まれる怪異

妖怪は古典の中だけにいるわけではありません。口裂け女は1970年代末、子どもたちの噂が地域を越えて広がり、当時の週刊誌にも取り上げられました。テケテケのように学校や鉄道を舞台とする話は、常光徹『学校の怪談』など、近現代の口承を集める書籍を通して読み継がれています。古い地誌や絵巻を原典としなくても、恐怖の場面と対処法が人から人へ渡ることで、怪異は共有の輪郭を得ます。

八尺様は2008年の匿名掲示板への投稿を起点として知られ、クネクネも初期のウェブ怪談が掲示板へ転載される中で姿を広げました。匿名投稿として残る記録は、作者や土地が明確な古典とは異なる、ネット時代の伝わり方そのものを映しています。これらを古い妖怪と同じ由来だと扱うべきではありませんが、「語られるたびに細部が変わり、それでも名が残る」という働きは、古くからの口承と地続きです。

有名さの向こうにある、土地と原典へ

広く知られた妖怪ほど、親しみやすい一つの姿の陰に、異なる土地、古い呼び名、怖さ、信仰、後世の脚色が隠れています。名前を知って終わるのではなく、気になった妖怪のページを開き、いつ、どこで、誰が語ったのかまでたどると、日本の怪異は「有名なキャラクターの一覧」から、人々が自然、死、家、社会の変化と向き合ってきた文化史へ変わります。

この特集は代表的な妖怪を選んでいます。条件を付けずに全体を探したい場合は妖怪図鑑へ、投票による現在の人気を見たい場合は妖怪人気ランキングへ進んでください。

更新: 2026/7/16
有名な妖怪代表的な妖怪日本の妖怪妖怪一覧怪異

収録妖怪

54体の妖怪が収録されています

この妖怪たちのアートカードも見つかります

全 158 枚のカード — 浮世絵、現代日本…

鬼

伝説

おに

角と虎皮褌の鬼

鬼・巨怪京都府

鬼は、頭に角を生やし、口に牙を持ち、虎の皮の褌をまとう異形として描かれる、日本の怪異の代表的な総称である。語源は目に見えぬものを意味する「隠(おぬ・おん)」に由来するとされ、本来は形を持たぬ邪気や死霊を指したと考えられている。仏教が伝わると地獄で亡者を責める牛頭・馬頭や夜叉・羅刹のイメージが重なり、さらに陰陽道で北東を鬼の出入りする鬼門(丑寅)とする観念が結びついて、牛の角と虎の皮という現在の像が成立したと説かれる。地獄の獄卒、節分で追われる邪鬼、山に棲む酒呑童子型の大鬼まで、性格も役割も多層的で、恐怖と畏怖の両面を担う存在である。

節分、説話、仏教の地獄、祭礼まで多層に現れ、日本の「鬼」の原型を担う。

河童

河童

伝説

かっぱ

川辺の皿頭・河童

河童は、川や池、沼などの水辺に棲むとされる、日本でもっとも名高い妖怪の一つである。背丈は四、五歳の子どもほどで、頭の上に水をたたえた皿(さら)をいただき、背に甲羅、口は嘴(くちばし)、手足には水かきをもつ。体は緑や赤がかった色で、生臭いともいう。この頭の皿こそが力の源で、皿の水がこぼれたり乾いたりすると、たちまち力を失うと信じられてきた。それゆえ、河童に深くお辞儀を返させて皿の水をこぼさせ、捕らえるという知恵も語り継がれた。 河童には、人や馬を水へ引きずり込んで命を奪う恐ろしい一面と、約束を固く守り、相撲を好み、ときに接骨の妙薬を伝える律儀な一面とがある。全国に広く分布し、土地ごとにガラッパ、メドチ、エンコウ、ヒョウスベなど、八十をこえる呼び名をもつ。日本の妖怪のなかでも、これほど深く地域に根を張った存在は珍しい。

川や沼に棲み、相撲、尻子玉、薬の伝承など各地で異なる顔をもつ水の怪。

天狗

天狗

伝説

てんぐ

天狗とは何か――類型と図像の総論

山野の怪京都府滋賀県

天狗は、日本の山岳に棲むとされる妖怪にして神格的存在であり、修験道の山伏と分かちがたく結びついてきた山の主である。その姿には大きく二つの系統がある。ひとつは赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる。古くは鳶(とび)のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていった。 天狗は仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じる――この両義性が天狗の本質である。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の絵巻にも風刺として描かれた。一方、山岳信仰のなかでは山の守護者・武芸と法力の達人として畏敬され、修行者を試し、あるいは導く存在とされた。京都の鞍馬山や愛宕山をはじめ、諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すと伝えられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げている。

山の霊威、山伏、飛翔の異能を重ね、古典から現代まで広く描かれる。

九尾の狐

九尾の狐

伝説

きゅうびのきつね

白面金毛の九尾狐

動物変化京都府栃木県

九尾の狐は、狐が長い年月を経て霊力を高め、尾を九つに分けたとされる妖狐である。ただし、その名は単に「尾の多い化け狐」を指すだけではない。日本の妖怪図像の中では、九尾の狐は狐信仰、稲荷信仰、狐憑き、王権を惑わす美女譚、そして玉藻前から殺生石へ至る物語を結びつける、もっとも大きな狐の像である。 源流をたどると、中国古典『山海経』南山経の青丘山に、狐に似て九つの尾を持ち、声は嬰児のようで人を食う獣が見える。ここでの九尾狐は怪物であると同時に、古代中国では太平の世に現れる瑞獣としても語られた。後代の中国・日本の文献は、この吉祥の狐と人を惑わす凶狐を重ね、九尾の狐を「めでたい神獣」と「国を傾ける妖狐」の両方に育てていった。 日本に入った狐の観念は、二つの方向へ広がる。一方には、稲荷大神の使いとして祀られ、田畑・商売・家内安全を守る白狐がある。伏見稲荷大社が語るように、稲荷信仰は奈良時代の和銅4年(711)に稲荷山へ神が鎮まったとする由緒を持ち、今も全国に約3万社といわれるほど広い信仰圏を持つ。もう一方には、人を化かし、人に憑き、家筋や土地に取りつく野狐・管狐・オサキ・飯綱の系統がある。九尾の狐は、この善狐と凶狐のあいだをまたぐ。神に近い白狐の高貴さを持ちながら、同時に人間社会の奥へ入り込み、権力そのものを揺るがす危うさを持つ。 とくに日本で九尾の狐を決定づけたのが、玉藻前と殺生石の物語である。玉藻前は、鳥羽院の寵愛を受けた絶世の美女として語られ、やがてその正体を狐と見破られて那須野へ逃れ、討たれた後に毒を放つ石になったとされる。ここで大切なのは、九尾の狐、玉藻前、殺生石が同じものではなく、物語上の段階を異にする点である。九尾の狐は本相、玉藻前は宮廷に現れた化身、殺生石は討たれた後の成れの果てである。この三段階が結びつくことで、狐はただ人を化かす動物ではなく、美、知、政治、死、鎮魂までを背負う大妖狐になった。

人に化ける狐から九尾の妖狐まで、知恵、美、畏れを一身に集める。

雪女

雪女

伝説

ゆきおんな

雪景と異伝の雪女

自然現象・自然霊新潟県東京都

雪女は、雪の夜、吹雪の山道、白く埋もれた村に、女性の姿をとって現れる怪異である。白衣の若い美女が冷たい息で人を凍らせる姿はよく知られているが、それだけが雪女ではない。長野県蓼科では、人に害をなさず、伐られた大木を夜のうちに谷へ渡して橋にする「積雪の霊女」として語られた。新潟県の記録では、真夜中の雪に血の点々が付いた足跡を残し、出会った者を殺す女となる。秋田では顔ののっぺりした女、群馬県昭和村では泣く子や寝ない子を連れて行くと母親が唱える雪夜の脅し、鳥取県若桜町では大雪に乗って現れる白い女である。同じ名の下に、無害な雪霊、恐ろしい遭遇者、子守の言葉、形だけが一瞬見えるものまでが並んでいる。 名称の歩みは、怪談集より早く俳諧の中に現れる。刊年を確認できる早い印刷例は、山本西武編『鷹筑波』(1642年)の句であり、その後も『毛吹草』『山之井』『崑山集』『増山井』などに「雪女」が重ねて詠まれた。雪景の白さや形を女へ見立てる言葉が、まず俳諧の機知を誘い、やがて怪異を指す名として輪郭を濃くしていったのである。 1685年刊『宗祇諸国物語』巻五は、越後の竹のそばに立つ、一丈ほどの若い白い女を描く。顔、髪、肌、単衣まで透き通るように白く、同行者は雪の精が形を変えたものだと説明する。題名に宗祇の名を掲げるものの、これは15世紀の連歌師が残した旅行記ではなく、宗祇の旅人像を借りて諸国の珍談を語る1685年の仮名草子である。 佐脇嵩之『百怪図巻』(1737年)と鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)は、雪女を名札のある一体の妖怪として画面に置いた。石燕の版面には「雪女」の名だけがあり、息で凍らせる、男を誘惑する、火に弱いといった説明はない。妖怪画は姿を共有しやすくしたが、後世の物語をすべて同時に与えたわけではなかった。 今日の代表的な物語は、小泉八雲が1904年の『Kwaidan』に収めた「Yuki-Onna」である。吹雪の渡し小屋で老樵茂作を白い息により凍死させた雪女は、若い巳之吉を見逃し、秘密を守るよう命じる。翌冬には旅の娘お雪として現れ、妻となり、十人の子を育てる。夫が禁じられた夜の記憶を語ると正体を明かすが、子どもたちのために夫の命を奪わず、白い霧となって去る。この婚姻、秘密、母としての情、破約と別離は「八雲のお雪」の物語を深く印象づけた一方、各地の雪女すべてに共通する性格ではない。 雪女という名の魅力は、一つの設定へ閉じないことにある。雪は道を消し、音を吸い、距離と形を変える。その雪を見た人々が、土地と時代に応じて、若い女、母、巨大な顔、揺れる影を見いだしてきた。その重なり全体が雪女である。

吹雪の夜に白い女の姿で現れ、雪国の美しさと死の危険を象徴する。

座敷童子

座敷童子

伝説

ざしきわらし

東北の家に宿る座敷童子

住居・器物岩手県青森県

座敷童子(ざしきわらし)は、東北地方、とりわけ岩手の古い家に宿ると語られてきた神霊・怪異である。子どもの姿で現れる話がよく知られるが、その姿を一つに定めることはできない。柳田國男『遠野物語』第17話には十二、三歳ほどの男児として見えた例があり、同じ話には姿を見せず、隣室で紙が鳴る音や鼻を鳴らす音だけで気配を知らせる例もある。第18話では二人の童女として語られ、後の地域記録には赤い小袖の子、老婆、老翁、細長い手だけを見せるものまで現れる。 座敷童子が家の盛衰と結びつけられることも重要である。『遠野物語』は、座敷童子を「神」と呼び、その神が宿る家は富貴自在だと伝える。一方で、童子が去った後に家運が傾いたとする話も語られた。ただし、これは座敷童子が気まぐれに罰を下すという一律の性格設定ではない。家の内部に感じられる人ならぬ気配と、家が栄えること、衰えることを重ねて理解する民俗的な語りである。 「座敷童子」という名は、特定の一体だけを指す固有名というより、家の内側で語られる怪異を束ねる呼び名として働いてきたように見える。座敷だけでなく、蔵、勝手、土間、床下など、日々の暮らしと家の境目にある場所が舞台になる。人に会うこともあれば、音、圧迫感、見慣れない影だけが伝えられることもある。童の姿は大切な代表像であっても、その多様な語りを消す標準像ではない。 佐々木喜善の収集記録は、座敷童子を単純な「幸福を呼ぶ幼児」へ縮めない。座敷、蔵、勝手、床下などに関わる異なる話があり、呼び名も土地ごとに揺れる。幼児死や間引きとの関連を考える記録もあるが、佐々木自身はそれを比較すべき事項の一つとして置いたのであって、座敷童子すべての起源とは断定していない。座敷童子とは、家の中にもう一人いるように感じられる存在を、土地ごとの記憶と家運の物語の中で語り継いだ、大きく多様なまとまりなのである。

家に棲む童子として、目撃される幸運と去った後の衰退をめぐって語られる。

ろくろ首

ろくろ首

伝説

ろくろくび

近世文献と飛頭伝承のろくろ首

人妖・半人半妖福井県熊本県

ろくろ首は、夜になると首が異様に長く伸びる妖怪として知られている。けれども、古い本を年代順に読むと、その姿は一つではない。頭が胴体から完全に離れて空を飛ぶ「抜け首」に近いもの、眠っている本人には夢としか思えないもの、頭と胴が細い筋でつながって見えるもの、そして長い首を自在に伸ばすものが、同じ「ろくろ首」という名の周りに集まっている。 現在確認できる早い語形候補は、俳諧集『鷹筑波』巻二に見える「ろくろ首」で、『日本国語大辞典』は1638年の用例として掲げている。ただし、同書には1642年とする現存書誌もあるため、絶対的な初出と断言するには原本の再確認が必要である。1648年『正章千句』には「轆轤頸」、1677年『諸国百物語』には「越前国府中ろくろ首」という題が確認できる。こうした早期例から、17世紀半ばから後半にかけて名称が広がっていたことが分かる。 越前を舞台にした『曾呂利物語』では、夜道で女の首に出会った男がそれを追い、首が家へ飛び込むと、眠っていた女は男に追われる恐ろしい夢を見たと語る。女は自分の妄念を恥じて仏道へ入るが、嫉妬で怪物になったとは書かれていない。ここでの怪異は、人間の心や魂が眠る身体を離れたような出来事である。 中国の『捜神記』には、夜に頭が飛び、明け方に胴へ戻る「落頭民」の女が登場する。『酉陽雑俎』の「飛頭獠子」は、首に赤い糸の輪のような痕を生じ、頭に翼をつけて飛び、蟹や蚯蚓を食べる。これらは日本の離頭型とよく似ているが、中国の伝承がそのまま日本妖怪へ変わったと証明されているわけではない。日本では漢籍の知識、怪談、絵本、滑稽な黄表紙が重なり、複数のろくろ首像が形作られていった。 1737年の『百怪図巻』は「ぬけくび」を描き、鳥山石燕は1776年初版の『画図百鬼夜行』で「飛頭蛮」に「ろくろくび」と読ませた。石燕の絵では、眠る女性の胴と浮かぶ頭が細い筋で結ばれる。こうした線が、やがて長い首として表されたと考える研究がある。1788年『狂言末広栄』では、恋い慕う女性の首が江戸から上方へ伸び、恐怖より笑いを生む。 小泉八雲が1904年の『怪談』に収めた「Rokuro-Kubi」は、長首の美女ではない。武士から僧となったKwairyōが甲斐の山中で、五人の首なしの身体と林を飛び回る五つの頭に出会い、一体の胴を動かして帰還を妨げ、襲ってきた頭と戦う。この作品の直接の原話は、十返舎一九『怪物輿論』巻四の一話である。赤い文字、胴を動かす対処、夜明けまでに限られた力は、この作品系統に属する要素である。

夜に首が伸びる、または頭が抜けて飛ぶという、忘れがたい身体変異の怪。

ぬらりひょん

ぬらりひょん

伝説

ぬらりひょん

妖怪総大将のぬらりひょん

人妖・半人半妖秋田県

ぬらりひょんは、大きくふくらんだ禿頭をもつ老人風の姿と、その名が江戸時代の妖怪図像に残る存在である。名の響きから「つかみどころのない大妖怪」を思い浮かべる人も多いが、古い資料がまず伝えるのは、詳しい来歴よりも、強く印象に残る姿と名である。元文2年(1737)の佐脇嵩之『百怪図巻』に描かれた名付きの人型は、制作年を確定できる現存図像の最古級にあたる。安永5年(1776)初刊の鳥山石燕『画図百鬼夜行』も、この老人風の図像を広く伝えた。 これらの図像は、ぬらりひょんの来歴や行動を細かく語らない。その余白に想像が入り、近代には「怪物の親玉」、児童向け図鑑では忙しい家へ上がり込む老人、さらに漫画・アニメでは一派を率いる首領という役割が育った。無言の絵から物語の中心人物へと変わってゆく過程そのものが、ぬらりひょんの大きな魅力である。 名称の歴史も単純ではない。『精選版日本国語大辞典』は、1679年の『西鶴五百韻』に副詞的な「ぬらりひょん」の用例を掲げ、名詞としての化物名には1797年頃の『俚言集覧』を挙げる。秋田には百鬼夜行の一員として名を記す地域資料があり、備讃瀬戸には姿の異なる海上怪異の報告もある。図像、地域資料、近現代受容という複数の層をたどると、同じ名が時代と媒体を越えて豊かな姿を得てきたことが見えてくる。

つかみどころのない姿が絵画、図鑑、後世の物語を経て広く知られた。

からかさ小僧

からかさ小僧

一般

からかさこぞう

幕末に形づくられた一本足の傘怪

住居・器物奈良県

からかさ小僧は、紙を張った傘が顔や手足を得たように描かれる、日本を代表する器物妖怪である。現在広く知られるのは、開いた傘の中央に大きな一つ目があり、口から長い舌を出し、一本の脚で立つ姿だ。絵によっては左右に腕が伸び、脚に下駄を履く。しかし、この姿が古くから同じ名前、同じ物語とともに伝わってきたわけではない。史料を年代順に見ると、名前と図像が異なる媒体のなかで少しずつ重なり、現在の定型像がつくられたことがわかる。 名の歴史と姿の歴史は、同じ場所から始まらない。宝暦12年(1762)刊の奇談集『咡千里新語』には、奈良の興福寺にいる化物を列挙した箇所に「東花坊のからかさ」と記されている。ところが、そこには「小僧」という名も、一つ目、一本足、長い舌といった姿の説明もない。この一文は、傘にまつわる怪異の名が18世紀の印刷物に現れた証拠ではあるが、現在のからかさ小僧がそのまま記録された証拠ではない。 現在の姿へ近づく資料は幕末に現れる。安政4年(1857)の役者絵「写絵七化ノ内 とうふかひ 壱本足ノお化」には、閉じた傘のような胴から人の顔と両腕を出し、一本脚で立つ舞台扮装が描かれている。翌安政5年(1858)、歌川芳員『百種怪談妖物双六』の「鷺淵の一本足」では、一つ目の傘が一本脚で立ち、赤い舌を出している。画中名はいずれも「からかさ小僧」ではないが、現代の定型像へ通じる特徴を年代の確かな資料で確認できる早い実例である。 ただし、一つ目だけが古来の決まりだったわけではない。刊年未詳の歌川芳盛『しん板化物尽し』に描かれた傘妖怪は、二つの目、二本の腕、一本脚、下駄、長い舌を備えている。1857年の舞台型では閉じた傘のような胴から役者の顔と両腕が出ており、別のおもちゃ絵では傘そのものに顔が付く。現在では一つ目の姿がもっとも有名だが、古い図像には複数の型が並行していたのである。 からかさ小僧について確認できる古い記録は、まとまった物語よりも、化物の名を並べた一語、役者絵の役名、双六の一枠といった短いものが中心である。それらの短い記録だけからは、何をしたのか、なぜ現れたのかまではわからない。古傘が百年を経て必ず付喪神になる、人の顔を舐める、驚かすだけで害はない、灯りに弱いといった説明も、今回確認した古典資料からは裏づけられない。からかさ小僧は、長い説話によってではなく、歌舞伎、錦絵、双六、児童文化を通じ、ひと目で覚えられる姿によって広まった妖怪なのである。

一本足の傘に目と舌という簡潔な姿で、器物妖怪の代表格となった。

のっぺらぼう

のっぺらぼう

名妖

のっぺらぼう

紀伊国坂の顔なき怪・のっぺらぼう

人妖・半人半妖東京都

のっぺらぼうの核心は、「顔」という人間認識の最小単位が突然消えることにある。人の姿で立ち、泣く女や店の主人のように日常の役割をまといながら、振り向いた瞬間に目鼻口のない滑らかな面だけを見せるため、怪物の外見よりも「相手を人間だと信じた判断」が崩される。小泉八雲が『怪談』に収めた「むじな」では、赤坂紀伊国坂で顔のない女に遭遇した男が蕎麦屋へ逃げ込み、そこで店主まで同じ顔を見せる。この二段階の反復が、のっぺらぼうを単なる異形ではなく、安心できる場所を奪う怪異として際立たせている。 のっぺらぼうは独立した「種族」というより、ムジナ・狸・狐などの化ける獣が人を脅かす話型から析出した顔のない人型怪異である。村上健司『妖怪事典』では、狢や化け狸の伝承と接続しながら、夜道・坂道・水辺に現れる化け物として整理される。水木しげるの妖怪図鑑類は、この曖昧な化かしの型を「目鼻口を失った顔」という強烈な図像へまとめ、現代読者が即座に思い浮かべる姿を定着させた。つまりのっぺらぼうは、古い獣の化かしが近代怪談と視覚文化を経て、顔の喪失そのものを主題化した妖怪なのである。

顔の造作が突然消える一場面だけで、日常が崩れる恐怖を伝える。

猫又

猫又

伝説

ねこまた

古猫変化の二股尾・猫又

動物変化栃木県

猫又(ねこまた)は、日本の妖怪のなかでも最も広く知られ、かつ最も複雑な変遷を辿った怪異の一つである。その姿は、歳月を経て巨大化した獣、あるいは尾が二股に裂けた怪猫として描写される。この妖怪の概念には二つの明確な系譜が存在し、一つは鎌倉期の文献に見える「山中に棲む恐ろしい猛獣としての猫又」、もう一つは江戸期以降に定着した「人家で長年飼われた老猫が化けた家妖としての猫又」である。日本の民俗信仰において、ネコは魔性や霊力を秘めた存在と見なされることが多く、その境界を越えた者への畏怖が、この二股の尾を持つ妖怪の姿に結実した。

長く生きた猫が尾を分かち異能を得る、身近な動物変化の古典的存在。

化け猫

化け猫

一般

ばけねこ

年経た飼い猫の化け猫

動物変化島根県佐賀県

化け猫は、年を経た家猫の変化、人の姿をとる猫、夜に立ち上がる猫、主人の仇を討つ怪猫など、時代も由来も異なる猫の怪異を広くまとめる名である。一匹の妖怪に共通する伝記ではなく、中世の猫胯・猫また、近世の怪談と妖怪画、幕末以後の芝居と錦絵、近代の怪猫映画という複数の層から、現在の多彩な姿を読み取ることができる。 古い前史として、藤原定家『明月記』天福元年八月二日条には、南都から来た使者が「猫胯」と呼ばれる獣の噂を伝えたことが記される。猫のような目と犬のような体を持つとされるが、年老いた飼い猫が変化したとも、尾が二本だったとも書かれない。およそ一世紀後の『徒然草』第八十九段では、山奥の猫またと、飼い猫が年を経て猫またになるという二つの噂が語られる。ところが法師を襲った正体は、暗闇で主人を見つけて飛びついた飼い犬だった。猫怪異への恐れと、噂が見間違いを生む可笑しさを同時に描いた話である。 家の中で暮らす老猫の変化は、近世の怪談で輪郭を強める。荻田安静『宿直草』巻四には「ねこまたといふ事」「年へしねこはばくる事」が続き、猫が母の姿をとる話と、年月を経た猫の異変が収められる。身近な飼い猫が家族に似た姿を見せるという場面は、山野の正体不明の獣とは異なる、家の内部の怪異として読者の前に現れる。 十八世紀の資料は、猫に与えられた印が一つではなかったことを示す。『和漢三才図会』「猫」は「十有余年」を経た老いた雄猫が妖をなすという記述を載せ、油を舐めることをその性質が表れるしるしの一つに挙げる。これは特定資料の記述であり、すべての化け猫に共通する年齢規則や力の源ではない。倉本昭が引用する『大和怪異記』の猫は、赤い手巾をかぶり、後足と尾で立って周囲を見回す。寛延二年(一七四九)刊『新著聞集』には、猫が集まって踊る話がある。立つ猫と踊る猫は近い印象を与えるが、同じ文章の一場面ではない。 二本に分かれた尾は、近世に「猫また」と名付けられた図像でとりわけ有名になった。鳥山石燕『画図百鬼夜行』「猫また」は、手拭いをかぶり、二本の尾を見せて後足で立つ猫を描く。中世の猫胯・猫またに尾の数は記されないため、二尾は猫怪異すべての古来の特徴ではない。「一尾なら化け猫、二尾なら猫又」という区別も、現代の整理としては分かりやすいが、すべての古い資料には当てはまらない。 江戸後期には、怪猫が舞台と芝居絵の大きな見せ場になった。文政十年(一八二七)初演の『独道中五十三驛』では、老婆おつたの正体が怪猫であるという趣向が組み込まれた。後世に「岡崎の猫」と呼ばれる一方、場割には鞠子の古寺や猫石の怪異が見え、岡崎の実地伝承をそのまま上演した作品ではない。歌川国芳の約一八五〇年の二枚続は、巨大な猫の顔、女性、亡霊、炎を一画面に配する。ここで見るのは、自然観察の記録ではなく、怪猫の正体を一目で伝える劇場的な図像である。 鍋島物も、一つの事件記録から直線的に生まれたのではない。早川由美の研究は、歌舞伎の『花嵯峨猫魔稿』と実録・講談の鍋島猫騒動が当初は直接結びつかず、後者が道中記、武勇譚、軍書的要素を加えて長編化した過程を示す。明治十三年(一八八〇)市村座の『嵯峨奥妖猫奇談』では、怪猫そのものが俳優似顔錦絵の中央に置かれた。実在の家名や土地を背景にしても、怪猫の復讐を歴史上の事件として扱うことはできない。 地域には、それぞれ独立した猫怪異の記憶がある。隠岐諸島では、猫に人語、踊り、歌など人間と連続する文化を認める語りが、二〇一二年の民族誌研究に記録されている。徳島県阿南市のお松大権現には、お松が愛猫に遺恨を伝えた後、怪猫が不正を行った者の家に現れたという縁起が伝わる。熊本県水上村の生善院は、玖月善女と愛猫玉垂をめぐる伝説から「猫寺」と呼ばれる。これらは同じ化け猫の移動経路ではなく、それぞれの土地で伝えられてきた別の物語である。 近代には怪猫が映画の題材にもなった。国立映画アーカイブは中川信夫監督『亡霊怪猫屋敷』(一九五八)を紹介し、別の上映解説では『佐賀怪猫伝』(一九三七)から『山吹猫』(一九四〇)まで、鈴木澄子主演の怪猫映画が六作製作されたことを記す。この映画群も、中世以来変わらない一つの姿ではなく、怪猫表象の近代的な一層である。 化け猫には、共通の年齢、毛色、尾の数、性格、能力、弱点、退治法はない。人に化ける猫もいれば、立ち上がる猫、踊る猫、主人の仇を討つ猫もいる。どの時代、地域、作品の猫なのかを確かめることで、ひとまとめの能力表では見えない化け猫の広がりが見えてくる。

飼い猫が化けて人を惑わすという、多数の怪談と土地伝承をもつ。

付喪神

付喪神

伝説

つくもがみ

節分に変化した古道具衆・付喪神

住居・器物出自不詳

付喪神(つくもがみ)は、長く用いられた器物が人ならぬ姿と働きを得たものを指す名称である。今日では古い道具の妖怪全般をまとめる語として広く使われるが、古典での用例はそれほど多くない。名称を明記して物語の中心に据える代表資料は、室町時代に成立したとされる『付喪神絵巻』または『付喪神記』である。そこでは「神」と書かれていても、初めから人に福を授ける神格ではない。捨てた人間を怨み、都で人畜を襲う「妖物」として現れ、最後に仏道へ帰依する存在として描かれる。 絵巻の冒頭は、今は伝わらない『陰陽雑記』の説として、器物は「百年」を経ると精霊を得て人の心を誑かし、これを付喪神と呼ぶ、と記す。一方、「つくもがみ」という音には、老女の白髪をいう「九十九髪」が重なる。『伊勢物語』六十三段にも「百年に一年たらぬつくも髪」と詠まれ、老いと九十九を結びつける語であった。この二つが掛け合わされたため、百年と九十九年の説明が併存する。現代には「九十九神」と書く例もあるが、これは九十九髪との連想を見えやすくした異表記である。したがって、よく語られる「道具は満九十九年で必ず魂を得る」という厳密な年齢規則が古典に定められているわけではない。 変化後の姿にも一つの型はない。『付喪神絵巻』では男・女、老人・子供、魑魅魍魎、獣などへ姿を改め、絵では鍋、壺、杵、扇、数珠など元の器物を残しながら顔や手足を備えるものもいる。唐傘お化けや琴古主のような個別の器物妖怪を、後世に付喪神の一種として説明することはできるが、古い道具にまつわる怪異がすべて当初から「付喪神」と呼ばれていたわけではない。近年は、これを日本に一様に広がった古来の信仰とみなすより、絵巻・絵本・語りが物に生命を与えてきた文化史として捉える研究も進んでいる。

古い器物が霊性を帯びるという、日本の器物妖怪を理解する中心概念。

輪入道

輪入道

名妖

わにゅうどう

燃ゆる車輪の入道顔・輪入道

住居・器物京都府

炎に包まれた牛車の車輪の中心に、憤怒の形相を浮かべた大入道の顔が現れる怪。鳥山石燕『今昔画図続百鬼』はこれを片輪となって転がる火車輪として描き、見た者は魂を奪われると添える。石燕の解説には、戸口に「此所勝母の里」と書いた紙を貼れば近づけないとあり、これは『史記』鄒陽列伝で曽子が「母に勝つ」の名を嫌い里に入らなかった故事に由来する。京都・東洞院に現れたと伝える諸国百物語の怪に取材したもので、同じ説話から分かれた片輪車とは本来同一系統の異形とされる。

燃える車輪と巨大な顔を一体化した、江戸妖怪画の強烈な図像。

目目連

目目連

名妖

もくもくれん

障子一面の眼群・目目連

住居・器物出自不詳 (石燕等・障子一面の眼群・在地古伝なし)

鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』に描かれる妖怪。荒れた家の障子一面に無数の目が現れ、じっと見返すとされる。石燕の画図では碁打ちの念が碁盤から家全体に及んだ旨が添えられ、障子という住居要素に宿る怪として示される。後世の妖怪事典でも創作色が指摘されるが、障子の文様や薄明かりが与える不気味さを象徴する存在として広く知られる。

破れ障子の穴が無数の目になる、家の内側に潜む視線の怪異。

垢嘗

垢嘗

名妖

あかなめ

夜の風呂場に潜む垢嘗

住居・器物文献・絵巻発祥(『古今百物語評判』『画図百鬼夜行』)。在地伝承・出現地不詳

古い風呂屋や荒れた屋敷の湯殿に現れるとされる妖怪。ざんぎり頭の童子の姿に描かれ、長い舌を垂らし、足には鉤爪を備える。人の寝静まった夜更けに音もなく忍び入り、桶や板壁、簀の子、流しにこびり付いた垢や水垢、黴を、その長い舌で丹念に舐め取るという。人を襲い害をなすという筋立ては本来の伝承には乏しく、むしろ出現そのものが、手入れを怠った湯殿の不浄の兆しと受け取られた。垢を舐めるという即物的で生々しい所業ゆえに、おどろおどろしい恐怖よりも、どこか滑稽味を帯びた身近な怪として語られてきた。別名に垢舐・垢ねぶりがあり、文献によっては嬰児に似た姿とも記される。鳥山石燕『画図百鬼夜行』に描かれた長舌の怪童の図像が広く流布の基となったが、石燕本には詞書(解説文)が一切付かず、性質や由来は語られないまま、姿だけが先行して知られていった妖怪である。後世にはこの姿絵をもとに、湯殿を清潔に保つべしという生活上の戒めと結び付けて理解されるようになった。

風呂場の垢をなめる姿で、不潔への戒めと生活空間の不気味さを結ぶ。

酒呑童子

酒呑童子

伝説

しゅてんどうじ

大江山絵詞の鬼王・酒天童子

鬼・巨怪京都府滋賀県

酒呑童子は、都から人々をさらう鬼王と、勅命を受けて山へ入る武者たちの対決を描く、中世の鬼退治物語の中心人物である。物語は一条天皇の時代に置かれ、実在した武将・源頼光や藤原保昌を登場させるが、平安時代の同時代記録ではない。逸翁美術館所蔵の重要文化財『大江山絵詞』は、南北朝時代・14世紀に制作された、現存する大江山系最古の絵巻である。平安の舞台と中世の作品成立を分けて読むことで、物語をそのまま史実の盗賊討伐へ置き換えず、後世の人々が平安武者と鬼王を通して描いた世界として捉えられる。 名前の表記も一つではない。『大江山絵詞』は主に「酒天童子」と書き、童子自身が、酒を深く愛するため眷属から酒天童子という異名で呼ばれると語る。ほかにも「酒伝童子」「酒顛童子(酒顚童子)」などの表記があり、現在は「酒呑童子」が広く用いられている。「童子」という語だけから、特定の年齢、髪型、僧としての身分を決めることはできない。能『大江山』では少年姿の前シテが定着する一方、『大江山絵詞』の昼の姿は一丈ほどもある、威厳を備えた人物として描かれる。 物語は大きく、鬼王の居所を大江山とする系統と、近江国伊吹山とする系統に分けられる。サントリー美術館所蔵『酒伝童子絵巻』は大永2年(1522)に制作された、伊吹山系の現存最古例とされる。二つの系統は山名だけを置き換えた同じ物語ではなく、伝本によって人物の配置、酒の名、鬼王の姿や来歴にも異同が生じる。そのため、大江山、伊吹山、越後、老ノ坂の話を、一人の酒呑童子がたどった確定的な生涯としてつなぐことはできない。 大江山系最古の本文では、都で人の失踪が続き、安倍晴明の占いが大江山の鬼王を指す。勅命を受けるのは頼光と保昌の両将であり、郎等を伴って山へ向かう。後世によく知られる「頼光と四天王」だけの物語へ縮めてしまうと、古い伝本の構成が見えなくなる。一行は山中で出会った神仏の化現から山伏の装束と特別な酒を授かり、鬼城へ入り、童子の宴に加わる。鬼王は昼には一丈ほどの童子形へ変じ、威厳と知恵深さを示すが、夜には五丈ほどの鬼身となる。頭と胴は赤、左足は黒、右手は黄、右足は白、左手は青く、十五の眼と五本の角を現す。酒に酔って眠ったところを神仏の化現に押さえられ、頼光・保昌主従に首を斬られるが、その首はなお空を飛び、頼光の三重の兜へ食いつく。 酒呑童子は、酒に酔って倒されるだけの単純な悪鬼ではない。華麗な鬼城の主人として客を迎え、自らの流転を語る一方、捕らえた人々を食料にする。客を遇する礼と残忍さ、知性と巨大な鬼身、敗北と飛ぶ首が、同じ物語の中に並んでいる。能、御伽草子、絵巻、版本、浄瑠璃や歌舞伎は、それぞれ異なる酒呑童子像を広めてきた。鳥山石燕も安永8年(1779)刊『今昔画図続百鬼』に「酒顛童子」を描き、酔って横たわる童子と鬼たちを妖怪画集の一頁へ収めている。酒呑童子は一つの姿に固定された怪物ではなく、伝本、芸能、土地の記憶によって繰り返し語り直されてきた、日本を代表する鬼王の一人なのである。

大江山に鬼の一団を率いる頭領として、退治譚と絵巻を代表する大鬼。

玉藻前

玉藻前

伝説

たまものまえ

鳥羽院寵愛の九尾狐・玉藻前

動物変化京都府栃木県

玉藻前は、平安時代の末、鳥羽上皇に仕えたという絶世の美女である。その正体は九尾の狐とされるが、人としての玉藻前は何より、たぐいまれな美しさと深い学識をそなえた宮廷の女君として語られてきた。和歌や管弦はもちろん、仏教の経典から天竺・震旦(インド・中国)の故事まで、どんな問いにもよどみなく答え、宮廷の人々を驚かせたという。 「玉藻前」という名にも物語がある。ある夜、清涼殿での詩歌管弦の宴のさなか、一陣の風が灯火を吹き消すと、暗闇の中で彼女の身からまばゆい光が放たれ、あたりを昼のように照らした。玉のように光る藻、という意味で「玉藻前」と呼ばれるようになったと伝わる。それまでは藻女(みくずめ)と呼ばれていたともいう。やがて上皇の寵愛を一身に集めるが、上皇が原因の知れぬ病に倒れたことから、その正体が疑われていく。

宮廷の美女に化けた九尾の狐として、美貌、知略、国家的危機を結ぶ。

大嶽丸

大嶽丸

伝説

おおたけまる

鈴鹿山に籠もる鬼神魔王・大嶽丸

鬼・巨怪三重県京都府

大嶽丸(おおたけまる)は、伊勢国と近江国の境にある鈴鹿山・鈴鹿峠を根城にしたと語られる鬼神である。御伽草子・田村語りでは、都への貢物を奪い、黒雲・雷電・火の雨で軍勢を退ける大魔王として現れ、坂上田村麻呂をモデルにした田村丸と鈴鹿御前によって討たれる。物語上の田村丸は史実の征夷大将軍そのものではなく、中世の清水観音信仰・鈴鹿峠の境界信仰・東北の田村伝承が重なって生まれた英雄像である。大嶽丸は酒呑童子・玉藻前と並ぶ「三大妖怪」の一説にも挙げられ、討伐後の首や遺骸が宝物・縁起・塚の物語へ移されていく点に、中世的な「退治された大敵」の重みが残る。

鈴鹿山の難敵として、武勇、呪術、山の異界を背負う鬼神的存在。

鵺

伝説

ぬえ

『平家物語』・頼政退治譚の鵺

動物変化京都府大阪府

鵺(ぬえ)は、古代の鳥名と、中世の宮中怪異・武者説話、さらに能や妖怪画が重なってできた存在である。今日よく知られるのは、猿の頭、狸の胴、虎の手足、蛇の尾をもつ怪物が、夜の御所を覆う黒雲から現れ、源頼政に射落とされたという姿だろう。しかし、その姿だけを「鵺の本来の形」と決めることはできない。本文の系統によって身体の組み合わせは異なり、鵺という語そのものも、怪物より古く、鳴く鳥を指していた。 『古事記』上巻・八千矛神歌の「阿遅夜麻爾奴延波那伎奴」は、少なくとも古代に「ぬえ」という鳥名があったことを伝える。ここで語られているのは後世の合成獣ではない。現代の辞書ではトラツグミに比定されることが多いが、古い歌語を現代の生物分類へ一対一に押し込めるより、まず鳥の名として受け取るのがよい。 中世の説話では、鳥としての鵺と異形の怪物が、単純な前後関係ではなく並行して現れる。『十訓抄』第十「才芸を庶幾すべき事」10-56の頼政説話では、雨の夜に御殿上で鳴く鵺を「昼だにも小さき鳥」と考えて矢を放つ。一方、『頼政記』と刊年不明版『平家物語』を比較する国立公文書館資料には、黒雲の中から落ちた怪物の身体を猿・狸・虎・蛇などで語る伝えがある。鵺は、鳥の名、怪鳥、合成獣が早い時期から重なり合ってきた怪異なのである。 後代の受容は、この重なりをさらに深くした。能『鵺』では、退治された怪物が芦屋で自らを鵺の亡魂と名乗り、うつほ舟で流された不遇を語って僧の供養を求める。江戸後期以降の妖怪画や武者絵は、頼政、黒雲、複合した身体を何度も描き直した。鵺は一つの固定種ではなく、異なる本文、芸能、図像、地域伝承が一つの名へ集まり続けた存在として読むことができる。

複数の獣を合わせた姿と夜の不気味な声で、正体不明の恐怖を形にする。

土蜘蛛

土蜘蛛

伝説

つちぐも

葛城山年経の蜘蛛・土蜘蛛

総称・汎称奈良県京都府

本来は古代、朝廷に従わなかった在地勢力を指す蔑称として正史に見える語で、『日本書紀』の神武・景行・神功の各紀や諸国の風土記逸文に名が見える。山野の岩屋・土窟に拠って抵抗した者たちを称し、生物の蜘蛛とは本来無関係であった。中世以降、この語が妖怪と結びつき、『土蜘蛛草紙』や謡曲で巨大な蜘蛛の化生として造型され、病臥する源頼光を糸で苦しめる怪として広く知られるようになった。鳥山石燕も『今昔画図続百鬼』に山中の蜘蛛として描く。

巨大な蜘蛛の怪物と討伐される異族像が重なり、武将の退治譚に名を残す。

牛鬼

牛鬼

伝説

うしおに

牛頭蜘蛛体の海鬼・牛鬼

動物変化愛媛県高知県

牛鬼(うしおに)は、主に西日本の海岸や淵、山間部に現れるとされる、日本妖怪の中でも屈指の獰猛さと霊格を持つ存在である。姿は「牛の頭に鬼の胴」あるいは「蜘蛛の胴体に牛の首」など多様な異形として描かれる。古くは平安時代の『枕草子』において「おそろしきもの」として名指しされており、古来より人々に深く畏怖されてきた。その本質は、無差別に人を喰らい毒気を撒き散らす「残忍な悪鬼・疫病神」としての顔と、祭礼において神輿を先導し悪魔祓いを行う「強力な守護神」としての顔という、極端な両義性(善悪の二面性)を併せ持つ点にある。文献上の怪異から、地域の民俗信仰・芸能の対象へと変遷を遂げた、民俗学的に極めて重要な妖怪である。

牛角をもつ巨怪として海辺や淵に現れ、地域ごとに姿と性格を変える。

海坊主

海坊主

伝説

うみぼうず

油貸せと囁く・海坊主

海坊主(うみぼうず)は、日本各地の沿岸部に伝わる海上の怪異で、とりわけ漁師の間で恐れられてきた。穏やかだった海面が突如盛り上がり、巨大な黒い影、あるいは禿げ頭の坊主の姿となって船の行く手に立ちはだかるとされる。全身が見えることは少なく、海上に頭や肩だけを突き出した姿で語られることが多い。夜の海や時化の最中に現れ、船を転覆させ、海底へ引きずり込むと信じられた。『和漢三才図会』(1712年)や『物類称呼』(1775年)など江戸期の文献にも、海上に立つ巨大な怪異の名がみえる。

夜の海から巨大な黒い僧形が立ち上がる、航海の恐怖を凝縮した怪異。

がしゃどくろ

がしゃどくろ

伝説

がしゃどくろ

昭和の紙面から歩き出した大髑髏・がしゃどくろ

霊・亡霊創作由来(1966年『別冊少女フレンド』)

がしゃどくろは、夜の野を歩く巨大な骸骨として知られる現代妖怪である。古い村の口承や江戸時代の妖怪画集にその名があるわけではない。現在確認できる出発点は、斎藤守弘が無記名で執筆した「あなたのそばにいる日本の妖怪特集」『別冊少女フレンド』2巻9号、昭和41年(1966)である。廣田龍平の研究は、斎藤がこの妖怪を作り、それ以前の歴史的記録がないこと、二年後に水木しげるの妖怪集へ既存の妖怪のように採録されたことを明らかにしている。「古くから語られたものだけが妖怪である」という考えを揺さぶる、戦後出版文化の代表的な創造なのである。 学術資料から確定できる初期像の核は、野を歩く巨大な骸骨である。初出記事の全文は一般公開されていないため、骨音、野垂れ死にした人々の髑髏の集合、人を襲う姿など、研究者の転記に見える細部と、後続媒体で付加された設定を区別して読む必要がある。戦死者や餓死者の怨念、吸血、夜明け、護符、供養なども、どの媒体がいつ語ったかを確かめず、一括して古い伝承へ遡らせることはできない。ひらがなで記された「がしゃどくろ」という名は骨のぶつかる擬音を思わせるが、初出記事の正式書誌で確認できる表記は「がしゃどくろ」であり、「餓者髑髏」は後世に用いられる当て字として区別する必要がある。 今日、この妖怪の姿として最もよく想起されるのは、歌川国芳の三枚続『相馬の古内裏』である。しかし、この錦絵はがしゃどくろ誕生より約120年早い。弘化2~3年(1845~46)頃、国芳が山東京伝『善知安方忠義伝』を題材に、滝夜叉姫の妖術で現れる骸骨と大宅太郎光国の対決を描いた作品で、原作の複数の骸骨を一体の巨大骸骨へ置き換えた構図である。画中の骸骨に「がしゃどくろ」という名はない。国芳がこの妖怪を描いたのではなく、戦後の妖怪出版が巨大骸骨の名画を新しい妖怪像へ結びつけたのである。 過去の図像へ新しい名を与え、図鑑、漫画、テレビ、ゲームがその組合せを共有してゆく過程は、妖怪が現代にも作られ続ける仕組みをよく示す。がしゃどくろの価値は、偽の古さにない。昭和の一記事から生まれた名前が、幕末の図像、古い死者観、戦後の怪奇ブームと交わり、半世紀余りで広く知られる日本妖怪へ成長した。その成立過程そのものが、この巨大骸骨の最も確かな物語である。

昭和期に名と像を得た巨大骸骨で、近現代に成立した有名妖怪の代表例。

山姥

山姥

伝説

やまんば

深山の老婆・山姥

山野の怪神奈川県

山姥(やまうば・やまんば)は、深山に棲むと伝えられる老女の姿をした怪。長い白髪を乱し、口が耳まで裂けた鬼婆として描かれる一方、山の幸を授け富をもたらす「山母」としても語られ、人を喰う恐ろしさと福徳を与える慈悲との二面を併せ持つ。鳥山石燕『画図百鬼夜行』や佐脇嵩之『百怪図巻』は、子を抱き、あるいは髪を振り乱した山中の老女としてその像を伝える。坂田金時(金太郎)の母とする近世の伝承でも知られ、単なる人喰いの鬼にとどまらない複雑な性格を帯びる。

山中の恐ろしい老女、山の主、養育者など相反する姿で語られる。

産女

産女

名妖

うぶめ

渡し場で赤子を託す産女

霊・亡霊出産時・産後に亡くなった女性の霊/全国各地。中世『今昔物語集』に著名な早期例がある。

産女(うぶめ)は、出産の最中や産後まもなく亡くなった女性の霊が、赤子を抱く姿で現れるとされた日本の怪異である。多くの話では、夜の渡し場・橋・辻などで通行人を呼び止め、「この子を抱いてほしい」と頼む。受け取った赤子が急に重くなる、木の葉や石に変わる、最後まで抱き通した者が怪力や財を授かるなど、結末は土地と文献によって異なる。したがって産女は、ただ人を襲う悪霊ではない。出産で断たれた母子の縁、死者への恐れ、頼みを引き受ける者の勇気や慈悲を、一つの遭遇譚に集めた存在である。 現存する著名な早期例は、十二世紀前半ごろ成立した『今昔物語集』巻二十七第四十三話「頼光郎等平季武値産女語」である。源頼光が美濃守であった時、郎等の平季武が肝試しのため闇夜の渡しへ赴き、川中で女から赤子を託される。館へ持ち帰って袖を開くと、そこにあったのは少しの木の葉だった。説話の末尾は、産女を狐の変化とする説と、出産時に死んだ女の霊とする説を並べ、正体を一つに決めていない。この段階では、後世に有名となる血染めの腰巻や鳥の羽もまだ描かれていない。 一方、「姑獲鳥」と書いて「うぶめ」と読む表記には注意が要る。唐代の『酉陽雑俎』巻十六に見える夜行遊女は、羽毛を着れば鳥、脱げば女となり、人の子を取る中国の怪鳥である。赤子と産死者に関わる点から、日本の産女と重ねられたが、もとは別系統の存在だった。安井眞奈美の研究によれば、中国の姑獲鳥に日本語名を当てた林羅山は、寛永8年(1631年)の『新刊多識編』で初めて「姑獲鳥」を「うぶめ鳥」または鵺と明示した。日本の産女が「自分の赤子を人に託す母の霊」を核とするのに対し、中国の姑獲鳥は「他人の子を奪う鳥怪」を核とする。この違いを押さえると、産女という妖怪が中世説話、産死者供養、中国由来の怪鳥知識、近世の妖怪画を重ねながら形を変えたことが見えてくる。

出産と死の境から現れ、赤子を抱かせる話や子を守る信仰へ枝分かれする。

絡新婦

絡新婦

伝説

じょろうぐも

女の姿と蜘蛛の糸――重なり合う絡新婦

動物変化静岡県宮城県

絡新婦(じょろうぐも)は、実在する蜘蛛の名、女に化ける蜘蛛を語る近世怪談、鳥山石燕の図像、各地の蜘蛛淵伝説が重なって知られる妖怪である。どこか一つの滝に棲む一人の美女を指すのではなく、時代と資料によって姿も行動も異なる。「絡新婦」は文字どおり「人を絡める新婦」という意味で作られた妖怪名ではない。『和漢三才図会』は「絡新婦」を「ちょろうくも」と読み、「俗に女郎蜘蛛という」と記す。漢籍・本草に遡る蜘蛛名と、日本語のジョロウグモという呼称が交差した表記なのである。 蜘蛛が女の姿で現れる話は、石燕以前から確認できる。延宝5年(1677)刊『宿直草』では、子を抱いた若い女を怪しんだ侍が斬りつけ、翌日、天井裏で刀傷を負った女郎蜘蛛と多数の人の骸を見つける。享保17年(1732)刊『太平百物語』では、作州高田の孫六が老女に招かれ、幻の屋敷で娘から結婚を迫られるが、逃げると自宅の縁側へ戻り、軒下の小さな女郎蜘蛛と大量の巣に気づく。孫六は食べられず、話の焦点は夢と幻にある。 鳥山石燕は安永5年(1776)初刊『画図百鬼夜行』で、長い髪と衣をまとう女体へ蜘蛛の脚を重ね、周囲に多数の小蜘蛛を配した姿を「絡新婦」と題した。小蜘蛛から糸、煙、炎のような線が伸びるが、説明の詞書はなく、琵琶を奏でる男誘いの場面でもない。国立国会図書館の文献調査でも、「美女が琵琶を聞かせて男を誘い、最後に食べる」という完全に一致する古典は確認されていない。 水辺の絡新婦像は、さらに別の伝承層を持つ。蜘蛛が人の足へ糸を掛け、人が糸を木へ移すと木が水中へ引き込まれる「蜘蛛淵」の話は全国に分布する。浄蓮の滝では、この糸掛け型と、落とした鉈を美女が返し、秘密を破った男が命を失う禁忌型が結合して、現在知られる女郎蜘蛛伝説になった。原典ごとの差を残すと、絡新婦は単なる誘惑者ではなく、小さな蜘蛛への油断、夢と現実の境、水辺の地形と危険、名と絵が伝承をまとめてゆく過程まで映す妖怪として見えてくる。

蜘蛛が美しい女に化けて人を誘う、滝や淵に多くの異伝をもつ怪異。

濡女

濡女

名妖

ぬれおんな

磯浜の濡髪女・濡女

濡女(ぬれおんな)は海辺や川辺に現れる、蛇身に女の頭をもつ怪である。腰から下は鱗に覆われた長大な蛇体で、上半身は女、いつも濡れたままの黒髪を垂らし、その名もこの姿に由来する。鳥山石燕『画図百鬼夜行』は風の巻に、長い髪を水に浸した女面の蛇体としてこれを描き、絵巻系統の濡女像を定着させた。石燕に先立つ佐脇嵩之『百怪図巻』ら江戸前期の妖怪絵巻にも蛇体の女怪が見え、絵師の手を経て図像が受け継がれてきた経緯がうかがえる。西日本の海辺では、濡女が抱いた赤子を通りかかった人に押しつけ、受け取った途端それが重い石と化して動けなくする話型が語られ、牛鬼と組んで人を襲う異伝も伝わる。九州の磯女や濡女子(ぬれおなご)と近縁視され、ウミヘビの化身とする説もあるが、蛇体視は主に絵画資料からの解釈で、一次史料の裏づけは乏しいとされる。長い濡れ髪と水辺、抱き子で人を縛る性状が、西日本一帯の水の女怪に共通する核として語り継がれてきた。

濡れた女の顔と蛇の身体をもち、海辺や川岸で人を待ち受ける。

犬神

犬神

伝説

いぬがみ

憑物筋の犬神

動物変化徳島県高知県

犬神は西日本を中心に分布する犬霊の憑き物で、狐憑き・管狐などと並ぶ強力な憑霊とされた。四国、とくに徳島・高知・愛媛などで本場視され、島根・山口から九州、薩南諸島や沖縄にも分布する。家筋に憑き続ける「犬神筋」の観念が強く、婚姻に際して家筋が調べられるなど、通婚忌避や差別と結びついた負の社会史を伴った。姿はハツカネズミほどの斑のある小獣とする説が主で、鼬状・蝙蝠状など地域差が大きい。

犬の霊を使役する家筋への信仰と差別の記憶を背負う、複雑な憑きもの。

鎌鼬

鎌鼬

伝説

かまいたち

風の傷から獣の姿へ――鎌鼬

自然現象・自然霊新潟県長野県

鎌鼬は、風が通り過ぎた後、刃物も見当たらないのに皮膚や肉が裂けているという不可解な出来事につけられた名である。現在確認できる名称例の古い層には北村季吟『山之井』(1648年)がある。詳しい散文では、浅井了意『伽婢子』(1666年)が、関八州を旅する人が旋風に巻かれ、腿を刃物で切ったように傷つけられた話を記す。しかし、この段階では襲撃者の姿を鼬として見たとは書かれず、三匹の役割分担もない。傷は大きく開いたのに痛みが強くなく、血も出なかったとされるが、後代には出血する型もあり、無血・無痛を全国共通の特徴とはできない。 江戸時代の人々は、この現象を一つの原因に定めていなかった。『古今百物語評判』(1686年)は越後新潟を題にしながら秋田や信濃へ話を広げ、北国の強い風と鬼魅の働きとして考える。十八世紀の節用集では「窮奇」「鎌馳」の字が「かまいたち」に結びつけられ、本草書では風狸などの獣類知識とも接続された。中国古典の窮奇は、風との関係を持つ記述がある一方、牛に似て人を食う獣ともされ、日本の鎌鼬と同じ姿ではない。近世日本の知識人が、風、疾走、獣という連想を利用して土地の怪異へ漢字と姿を与えたと考えるのが妥当である。 今日よく知られる鼬の姿を強く印象づけたのは、鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「窮奇(かまいたち)」である。原版は1776年に刊行され、石燕は渦巻く風の中を走る一体の鼬状の獣を描いた。長い爪は鎌を思わせるが、画面にいるのは一体である。飛騨の採訪には、一人が倒し、一人が切り、一人が薬をつける三人の神が現れ、美濃にも同じ三役の異伝が記録される。三匹の鼬や三兄弟とは記されない。鎌鼬は、風、傷、神、鼬、鎌、漢籍の名、絵師の造形が、時代と土地ごとに重なって形成された怪異である。

風の中で人を切るとされ、突然できた傷へ素早い獣の姿を与えた。

木霊

木霊

名妖

こだま

老樹に応える・木霊

山野の怪東京都沖縄県

木霊(こだま)は、樹木に宿るとされる精霊で、その精が宿った樹そのものを指すこともある。古信仰では百年以上の年輪を重ねた老樹に神霊がこもると考えられ、山や谷で声を投げると遅れて同じ声が返る「山彦(やまびこ)」の現象も、木霊が応えるものと捉えられた。源を辿れば木の神格の余映であり、『古事記』では木の神とされる久々能智神(ククノチ)を木霊と解する見方があり、平安期の辞書『和名類聚抄』には樹神の和名として「古多万(こだま)」の語が記される。一方『源氏物語』には「鬼か神か狐か木魂か」「木魂の鬼や」とあって、当時すでに木霊を妖怪に近いものと見る感覚があったことがうかがえる。外見はごく普通の樹木と変わらないが、不思議な力を帯び、不用意に伐ろうとすれば祟るとされた。鳥山石燕は『画図百鬼夜行』に「木魅」と題し、百年を経た木に神が宿って姿を現すとして、老木の傍らに立つ老いた男女の姿を描いている。「木霊」「木魂」「谺」などと表記され、音の反響を指す「こだま」と樹の精を指す「こだま」は同じ語に重なり合い、自然の声と樹木の魂が一体に捉えられてきた。

山に返る声や古木の霊性を、人に応える森の存在として語る。

枕返し

枕返し

珍しい

まくらがえし

夜の寝所で枕を返す・枕返し

住居・器物全国各地に類似伝承、石燕も地名を指定せず

夜更けに寝所へ現れ、枕をひっくり返したり、頭と足の向きを入れ替えるとされる怪異。江戸時代以降の記録に多く、姿は一定せず、童子や坊主、あるいは不詳とされる場合が多い。鳥山石燕『画図百鬼夜行』では小さな仁王風の像のように描かれる。枕を返されることは魂と身体の秩序が乱れる兆しとされ、かつては死や病と結びつく不吉として畏れられた。

眠っている間に枕の向きや位置を変え、寝室の日常を小さく乱す。

一つ目小僧

一つ目小僧

名妖

ひとつめこぞう

額の単眼坊主・一つ目小僧

山野の怪片目片足の山神信仰の零落、事八日俗信、全国分布

額の中央に大きな一つ目を据えた、坊主頭の童子の姿で現れる妖怪。人に害を加えるよりも、夜道や辻、空き屋敷などに不意に現れて「わっ」と人を驚かす程度の、比較的おとなしい部類に数えられ、からかさ小僧などと同様、ユーモラスに描かれることも多い。豆を嫌うとする俗信は、節分の豆まきや語呂合わせに由来するとみられ、これがのちに豆腐を好む像へ転じて、近世末以降「豆腐小僧」と重ねて語られるようにもなった。江戸の絵巻や随筆には一つ目の小坊主の怪が散見され、屋内の掛物に戯れる姿から、路傍にぬっと立つ姿までさまざまに記される。舌を長く垂らし、片手に番傘や盆を持つ図様は、同じく一つ目の妖怪である豆腐小僧と通じ合い、近世後期の黄表紙や錦絵では両者の像がしばしば重ね描きされた。一方で民俗学では、この愛嬌ある妖怪の背後に古い信仰の影が見いだされてきた。柳田國男は、一つ目という異形を単なる怪異とみず、かつて神に捧げられた者の片目を損なう古俗や、製鉄など特殊な生業の痕跡が、神の零落とともに妖怪へと姿を変えた残響として読み解いた。

一眼の小僧という明快な姿で、人を驚かせる妖怪として親しまれる。

見越入道

見越入道

名妖

みこしにゅうどう

見上げて伸びる入道・見越入道

鬼・巨怪東京都埼玉県

夜道や坂の突き当たり、四つ辻、石橋、木の上などに現れる入道姿の怪異。見上げれば見上げるほど巨大化し、恐れに囚われた者を脅かす。対処は「見越した」「見抜いた」と唱える、あるいは落ち着いて頭から足へと見下ろすなどが知られる。正体は一定せず、『宿直草』ではタヌキの変化、福島県南会津郡檜枝岐村ではイタチ、信濃ではムジナとするなど、地域によって動物の化生説が伝わる。『宿直草』『煙霞綺談』『古今百物語評判』など江戸期の怪談・随筆にも見える著名な類型で、緋衣をまとい一丈に及ぶ姿を語る『煙霞綺談』のように大入道と重なる記述も多く、地方では両者を混同して伝える。

見上げるほど背が伸び、視線を誘って人を脅かす夜道の入道。

大入道

大入道

名妖

おおにゅうどう

見上げて伸びる巨僧・大入道

鬼・巨怪三重県

大入道は各地に伝わる巨大な入道姿、あるいは影法師のような巨体の怪異。名称は大きな僧を指すが、実際は僧形に限らず巨人状や不定形の影として現れる例もある。見上げるほどの大きさで迫り、睨まれた者が卒倒・病を得ると恐れられる。正体は不詳とされることが多いが、狐・狸・鼬・獺などの動物や石塔が化けたとする説も各地に見える。見上げると伸び上がる見越入道とは性質が近く、地方ではしばしば両者が混同して語られる。三重県では諏訪神社の祭礼四日市祭で曳かれる「大入道」のからくり山車が知られ、首が伸縮する全高約9mの巨像として今に伝わる。

巨大な僧形という広い型をもち、各地の夜道や町に異なる話を残す。

小豆洗い

小豆洗い

名妖

あずきあらい

谷川夜更けの小豆洗い

霊・亡霊東京都茨城県

小豆洗い(あずきあらい)は、夜更けの川辺や沢で「ショキショキ」「ザクザク」「シャリシャリ」と小豆をとぐような音を響かせる、音を本体とする妖怪である。関東(茨城・東京檜原村・埼玉)、甲信越(山梨・長野・新潟)、中国地方(広島・山口・岡山・鳥取)を中心に全国へ分布し、土地ごとに小豆とぎ・小豆さらさら・小豆ごしゃごしゃ・砂洗いなど多彩な異名で呼ばれる。多くの伝承で姿は現れず、近づくと音だけがぴたりとやみ、音に気を取られた者が足を滑らせて川や谷へ落ちるとされる。まれに目撃される姿は、背の低い目の大きな法師、小坊主、老婆、童などと一定せず、地域差が著しい。大分県では「小豆洗おか、人取って喰おか」と唄いながら小豆をとぐという、無邪気な所作と人取りの恐怖を一句に同居させた文句が伝わり、この唄こそ小豆洗いの性格をよく示す。実体の見えにくい音の怪である点に最大の特徴があり、視覚より聴覚に訴える怪異として、水辺の危険を子どもに戒める民俗的機能を強く帯びている。

水辺で小豆を研ぐ音を響かせ、姿を見せずに人を不安にさせる。

ベトベトさん

ベトベトさん

名妖

べとべとさん

夜道に続く足音・ベトベトさん

山野の怪奈良県静岡県

ベトベトさんは、姿を見せずに足音だけで人の背後へ付き添う夜道の妖怪である。奈良県宇陀郡を中心に知られ、暗い道を歩いていると「べとべと」「ぺたぺた」と湿った足音が後ろから続くが、振り返っても誰もいない。恐ろしさは形の奇怪さではなく、足音の距離がいつまでも変わらないことにある。追いつくでも離れるでもなく、人の歩幅にぴたりと合うため、歩く者は自分の背後に見えない同行者を背負わされる。 ベトベトさんは、危害を加える妖怪というより、見えないものへ礼を尽くすことで通過できる境界の怪である。「ベトベトさん、お先へお越し」と声をかけて道を譲ると、足音が前へ移り、やがて消えるとされる。この作法は、恐怖を力で排除するのではなく、相手を存在として認め、道の順番を譲る民俗的な知恵を示す。水木しげるの図像化は丸く親しみやすい姿を与えたが、本来のベトベトさんは、夜道の音、湿った土、背後の空白から生まれる無形の気配である。 この妖怪は、可視化された近代妖怪キャラクターと、無形の民俗経験との距離が大きい。絵では小さな姿を得たが、伝承の中心はあくまで背後の足音である。だからベトベトさんを読むときは、姿を探すより、暗い道で自分の歩行音がもう一つ増える感覚を想像する必要がある。

夜道の後ろから足音だけでついてくる、気配そのものの妖怪。

豆腐小僧

豆腐小僧

珍しい

とうふこぞう

黄表紙が生んだ江戸の道化妖怪・豆腐小僧

人妖・半人半妖東京都

豆腐小僧(とうふこぞう)は、大きな笠をかぶった子どもの姿で、紅葉印の豆腐を一丁のせた盆を捧げ持って雨の夕暮れに現れる妖怪である。といっても人を襲うでも化かすでもなく、ただ豆腐を持って立っているだけという、妖怪らしからぬ間の抜けた愛嬌が身上で、江戸後期の人々に親しまれた。注目すべきは、その出自が古い民間伝承ではなく、江戸の出版文化そのものにある点だ。安永年間(一七七〇年代)、挿絵入りの娯楽本である黄表紙や草双紙の登場人物として突如あらわれ、初出は黄表紙『妖怪仕内評判記』とされる。妖怪研究者の京極夏彦・多田克己らは、豆腐小僧を、商品として人工的に作り出された「キャラクター妖怪」の早い例と位置づけている。すなわち豆腐小僧は、地方の闇から這い出てきた怪物ではなく、出版という都市の産業が生んだ、江戸生まれの妖怪なのである。

豆腐を載せた盆を運ぶ小僧姿で、江戸の黄表紙や絵画に愛嬌を残す。

火車

火車

名妖

かしゃ

葬列を襲う化け猫・火車

霊・亡霊岩手県群馬県

葬式・葬列や墓場に現れ、棺や亡骸を奪うとされる妖怪。近世初期には地獄の獄卒や雷神の所為として語られ、黒雲や雷とともに死体をさらうとされた。語の本義は悪人を地獄へ運ぶ仏教の「火の車」に由来するが、のちに猫又伝承と習合し、老いた猫が火車となって遺骸を狙うとする説が広まった。善悪の応報に必ずしも限定されず、葬送の怪として全国で事例が報告される。対策として刃物・数珠・盛土や夜伽の見張りなどが伝わる。

葬送の場から亡骸を奪うものとして、猫、火、車の像をまとった怪。

船幽霊

船幽霊

名妖

ふなゆうれい

壇ノ浦の提子乞い・船幽霊

船幽霊(ふなゆうれい)は、水難で命を落とした者の霊が海上に現れる怪異である。船や亡霊、怪火、海坊主のような影など、その姿は地域や伝承によりさまざまに語られる。多くは時化の夜や霧のかかった晩に現れ、ひしゃくで船内へ海水を注ぎ込んで沈めようとする、あるいは進路を惑わせて座礁させるとされる。底を抜いたひしゃくを渡す、握り飯や灰を投げる、睨み据えるなど、地域ごとに異なる対処法が伝えられる。亡者船・ボウコ・アヤカシなどの呼称もある。鳥山石燕も『今昔画図続百鬼』に船幽霊を描いている。

海で亡くなった者の霊が柄杓で船に水を入れ、沈めようとすると語られる。

一反木綿

一反木綿

名妖

いったんもめん

大隅高山に舞う一反木綿

住居・器物鹿児島県

一反木綿(いったんもめん)は、大隅高山地方(現在の鹿児島県肝付町高山周辺)に伝わる、長い木綿のような怪異である。柳田國男「妖怪名彙(四)」は1938年、一反木綿の形をしたものが夜間にひらひらとして人を襲う、と記録した。色、顔、手足、声までは書かれず、夜の空間を舞う長いものの気配だけが鮮烈に残されている。 1942年の『大隅肝属郡方言集』は「イッタンモンメン」を「お化けの一種」とし、「長さ一反もある木綿の様な物」が夜間に人を襲うと説明する。一反は反物一枚分を表す単位だが、時代、産地、布の種類によって寸法が異なり、特定のメートル数には定まらない。人の身体を覆えるほどの長い反物が、生き物のようにひらめく――その異様さが名の中心にある。 後代の地域資料には、夕方に飛来して人の頭や首へ巻きつく一反木綿が現れる。肝付町で行われた聞き取りは、池之園、波見、権現山、肝属川沿いの語りとともに、伝承を知らない集落もあったことを伝える。一反木綿は鹿児島一円の均一な物語ではなく、大隅の限られた土地で濃淡をもって記憶されてきた怪異なのである。 今日広く知られる姿には、水木しげるの仕事が大きい。文化庁の解説によれば、水木は姿形の描き伝えられていなかった「妖怪名彙」の妖怪たちに独自の造形を与えた。一反木綿も、短い文字の記録から、空を飛ぶ長い布の身体をもつ妖怪として視覚化され、漫画やアニメを通じて全国的な存在になった。

細長い木綿が夜空を飛び人に巻きつく、鹿児島から全国へ知られた妖怪。

子泣き爺

子泣き爺

伝説

こなきじじい

徳島山地の赤子泣き爺·子泣き爺

山野の怪徳島県

子泣き爺は徳島県三好郡 (旧三名村字平、 現·三好市) の山間部に伝わる妖怪で、 老人の姿をしながら山道で赤ん坊のような泣き声を発するとされる。 通行人がこれを哀れんで抱き上げると、 重さが次第に増して圧死させるという加害形式を持つ。 柳田國男『妖怪談義』(修道社、 1956 年) に取り上げられ、 四国全域に分布する「ゴギャ泣き」 「オキャアキャア」 等の赤子泣き怪と同系とされる。 柳田はこの「抱き上げると重くなる」 特性が「おばりよん (負ばりよん)」 「産女 (うぶめ)」 等の妊婦·赤子型怪と共通する事を指摘し、 後世の創作的接合の可能性を示唆した。 1968 年から水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』 のレギュラー脇役として全国知名度を獲得し、 現代日本で最も親しまれた在地伝承妖怪の一つとなった。

赤子のように泣き、抱くと石のように重くなるという徳島の伝承で知られる。

砂かけ婆

砂かけ婆

伝説

すなかけばばあ

姿なき砂の老婆·砂かけ婆

山野の怪奈良県

砂かけ婆は奈良県·兵庫県·滋賀県等に伝わる妖怪で、 神社の側·人通りの少ない森·竹薮·松の木の上等から通行人に砂を浴びせて驚かすとされる老婆姿の存在である。 柳田國男『妖怪談義』 (修道社、 1956 年) に「おばけのうちにスナカケババといふものあり、 人淋しき森のかげ、 神社のかげを通れば、 砂をバラバラふりかけておどろかすといふもの」 と記述され、 「その姿見たる人なし」 と特筆される。 柳田の友人·沢田四郎作 (医学博士) 著『大和昔譚』 が砂かけ婆についての直接の典拠である。 古典絵巻に図像が無く、 戦後の水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』 で和服老婆姿として全国的に定着するまでは、 姿形を持たない「音と砂のみの妖怪」 として伝承された珍しい存在である。

砂を浴びせる老婆の怪として、地域伝承と現代の妖怪文化をつなぐ。

ぬりかべ

ぬりかべ

名妖

ぬりかべ

九州夜道の見えぬ壁・ぬりかべ

総称・汎称福岡県大分県

夜道で行く手をふさぐ見えない壁として語られる妖怪。歩行者は突然進めなくなり、手探りしても平らな面に阻まれるように感じるという。多くは暫く立ち止まる、脇へそれる、棒で足元を払うなどすると解けるとされる。姿は本来定まらず、見えないもの、あるいはのっぺりした壁状と語られることが多い。人を食らうなどの害は乏しく、道迷いを起こす厄介者として恐れられた。水木しげるの作品で広まった長方形の壁の姿は、後世に定着した造形である。

夜道に見えない壁として立ちはだかり、進路を失わせる福岡の怪異。

白沢

白沢

神格

はくたく

万事を見通す瑞獣・白沢

神霊・神格中国 (『白沢図』由来・江戸期に辟邪図として流布)

白沢(はくたく)は、中国の古伝承に由来する瑞獣で、人語を解し天下の妖異・鬼神・病災のことごとくに通暁するとされる。麒麟や鳳凰と同じく、徳ある聖王の世にのみ姿を現す瑞祥の獣と位置づけられ、その口から授けられた知識を書き留めたのが妖怪除けの書『白沢図』であったと伝える。図像の典型は獅子に似た白い獣で、牛のような二本の角をもち、額や胴の側面に複数の眼を備える──鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』では頭部に三眼、左右の胴に各三眼を配した「九眼」の姿に描かれ、これが後世の日本の白沢像の基準となった。額の眼や全身の眼は、あらゆる妖異を見通す全知性の表象と解される。日本では江戸期にこの図そのものが辟邪(へきじゃ)の護符として流布し、旅の安全や病魔除け、さらには悪夢を食らうとされる獏(ばく)と並んで悪夢除けにも用いられた。重要なのは、白沢が妖怪を腕力で「退治する」獣ではなく、妖怪を知り尽くすことで人にその正体と防ぎ方を教える、知と分類の象徴としての神獣だという点である。すなわち未知の災いに名を与え、対処法を整理して人に手渡すところに本領があり、妖怪学の祖型ともいえる存在として尊ばれた。なお角や眼の数、獅子形か牛形かといった姿の細部は文献・絵師により差異があり、一定しない点には注意を要する。

世の怪異に通じる霊獣として、知識、辟邪、図像の伝統をまとった。

雷獣

雷獣

伝説

らいじゅう

久慈雷鳴の獣・雷獣

動物変化茨城県秋田県

雷獣は、激しい雷雨や落雷とともに天から落ち来たると信じられた獣状の妖怪で、近世の各地に広く伝承された。姿は一定せず、曲亭馬琴『玄同放言』では狼に似て前脚二本・後脚四本、尾は二股に分かれた異形として図示される一方、駿河国の地誌『駿国雑誌』は高草山の雷獣を全長二尺ほどで「鼬に類し、また猫のようにも見える」と記すなど、狸・鼬・猫・狐に擬する諸説が並び立った。毛は灰色ないし黒みを帯び、日中は黄茶に輝くとも、体毛が長く獣臭いとも伝わり、地域ごとに大きさも鼠ほどから二尺五寸、因幡では「雷龍」と呼んで八尺に及ぶとするものまで振れ幅が大きい。共通して語られるのは鷲のごとく鋭い爪で、雷雲に乗って飛び、墜落の際にはその爪で樹皮を引き裂き、幹に焦げ跡や裂け目を残すという点である。落雷の近くにいた人は気を奪われて呆然となるとも伝えられ、その怪異は天候や雷神への畏れと結びついて理解された。雷が収まれば再び雲に乗って天へ帰るとされ、捕獲・飼育・見世物の記録も近世博物趣味のなかで数多く残された。

落雷とともに現れる獣として、雷という自然現象に身体を与えた。

件

名妖

くだん

天保丹後の予言獣・件

人妖・半人半妖京都府広島県

件は江戸後期に広く流布した半人半牛の予言獣。人の顔に牛の躯を備え、出現しては世情や豊凶を告げ、ほどなく死ぬとされる。天保年間の瓦版や版本に記載が見られ、出現地や容貌は諸説がある。絵像を掲げると厄除け・家内繁盛に効験ありとする触書もあるが、地域や史料により語り口は異なる。語句「件の如し」との直接関係は俗説とされる。

人面牛身で災厄を予言するとされ、近代の噂と戦争の記憶にも姿を現す。

不知火

不知火

珍しい

しらぬい

八朔の沖の親火・不知火

不知火は九州沿岸、とくに八代海や有明海に現れるとされた怪火。旧暦八月一日(八朔)前後の風弱い夜、沖に親火が一、二つ生じ、左右に分かれて数を増し、数百から数千の火が横に連なるという。海面近くからは見えにくく、高所からよく見えるとされ、近づけば遠ざかるとも伝えられる。千灯籠・竜灯とも称され、出漁を忌む予兆として恐れられた。今日では蜃気楼に類する大気光学現象と解されている。

八朔前後の海上に連なる光として、火国の名とともに伝えられる怪異。

人魂

人魂

名妖

ひとだま

夜空に漂う魂火・人魂

霊・亡霊死者の魂の火の玉、『万葉集』既出、全国共通

人魂は、夜間に空中を漂う小さな火の玉として目撃される霊的現象で、古くは「人の体から離れた魂」と解される。色は青白・橙・赤など諸説あり、尾を引いて低く漂うとされる。鬼火・狐火と混同されがちだが、人魂は人の魂の発光として語られ、死や生死の境に関わる前兆ともされる。『万葉集』をはじめ古典や近世の随筆・地方伝承に頻出し、近代以降も各地で目撃談が続く。

死者の魂が青白い火となって飛ぶという、広く共有された霊魂の像。

アマビエ

アマビエ

伝説

あまびえ

弘化三年「肥後国海中の怪」のアマビヱ

水の怪熊本県

アマビエは、弘化三年四月中旬(西暦一八四六年)の年記を持つ一枚摺によって知られる、肥後国の海中から現れて未来を告げた異形の存在である。本文では「アマビヱ」と名乗り、資料自身は、土地の役人から江戸へ申し送られた報告の写しであると説明している。作者、絵師、版元、発行部数、肥後から江戸へ届くまでの詳しい経路は分からない。そのため、現地の役人が描いた原画や実在する行政文書と断定するのではなく、肥後国で起きたとされる怪異を図と文章で伝えた一枚物として読む必要がある。 物語は、肥後国の海中に毎夜「光物」が現れたことから始まる。土地の役人が見に行くと、図のような者が姿を現し、自らを海中に住むアマビヱと名乗った。そして「当年より六ヶ年之間、諸国豊作也、併、病流行」と告げ、早々に自分の姿を写して人々に見せるよう求め、海中へ戻ったという。四月資料に明記されているのは、諸国の豊作、病の流行、姿を写して見せるよう求めたことまでであり、絵を見た者が病を免れる、病が治るとは書かれていない。 挿絵には、左右へ長く垂れる髪または体毛のような線、菱形に近い眼、横へ突き出した嘴状の口、鱗を思わせる胴、下方へ三つに分かれた肢または鰭状の部分が描かれている。ただし、本文は容姿を「図の如き者」とするだけで、性別、年齢、体色、大きさ、魚・鳥・人のどれに属するかを説明しない。また、毎夜現れた「光物」とアマビヱの関係も明示されず、アマビエ自身が光を放ったとは断定できない。 同年五月の西高木家文書には、「アマヒエ」と記される書付と絵が一括で残り、書付の目録題は、姿の写を見れば流行病を患わないという内容を要約している。これは護符的な理解が近い時期の関連資料に現れたことを示すが、四月のアマビヱ資料との直接の写し関係や共通の底本は分かっていない。 アマビエは二十世紀末までの妖怪事典や研究ですでに紹介されていたが、二〇二〇年、新型コロナウイルス感染症への不安の中で広く描き直され、疫病退散の象徴となった。厚生労働省も感染拡大防止の啓発にアマビエを用いたが、これは超自然的な効力の認定ではなく、外出や密集を避けるといった現実の予防行動を伝えるための利用だった。

肥後の海から現れて疫病を予言したとする一枚の瓦版から、再び名を広げた。

口裂け女

口裂け女

伝説

くちさけおんな

赤マスクの女・1979 年の口裂け女

人妖・半人半妖1978年岐阜発祥の現代都市伝説、在地聖地なし

口裂け女(くちさけおんな)は、1978-1979 年に岐阜県を発祥として全国に伝播した、戦後日本を代表する現代都市怪谈である。マスクで口元を覆った美しい女が夜道で子供を呼び止め、「私、キレイ?」と問うて、答えに応じてマスクを取り、耳まで裂けた口を見せて「これでもキレイ?」と重ねる ── 否定すれば鋏や出刃包丁で襲いかかる、という対話と襲撃のパターンを持つ。 初出は岐阜日日新聞 1979 年 1 月 26 日付コラム「編集余記」 とされ、 1979 年 3 月から週刊朝日・週刊新潮・週刊女性・女性自身等の全国誌が次々に取り上げ、同年 6 月には 週刊朝日 6 月 29 日号の平泉悦郎による大型特集「全国の小中学生を恐れさせる『口裂け女』風説の奇々怪々」 が掲載されてピークに達した。兵庫県姫路市では口裂け女に扮した模倣犯が銃刀法違反で逮捕され、福島県郡山市・神奈川県平塚市ではパトカーが出動し、北海道釧路市・埼玉県新座市で集団下校が実施されるなど、風説が現実の社会対応を引き起こした。江戸期の素朴な信仰や在地伝承から拾い上げられた怪ではなく、学習塾と全国誌が連動して半年で全国制覇するという、マスメディア時代の妖怪発生学を体現する稀有な事例である。 1990 年に 常光徹『学校の怪談』 が学術的に整理して以後、現代妖怪・都市伝説研究の代表事例として読まれ続けている。

1970年代末に子どもたちの間で急速に広がり、全国的な都市伝説となった。

テケテケ

テケテケ

名妖

てけてけ

校庭を駆ける半身の怪・テケテケ

霊・亡霊全国の学校怪談(出自不詳。1993~94年頃に名称が出版・映像で定着)

放課後の校庭の端に、身体が半分しかない何かが見える。遠くにいたはずなのに、次の瞬間には地面を打つ音がすぐ近くまで来ている。テケテケは、上半分または下半分だけの身体で校庭や校舎を移動し、人を追う現代の学校怪談である。列車事故で下半身を失った若い女性が腕や肘で迫る姿は、いまや代表的なテケテケ像となった。一方、1994年のテレビドラマ「妖怪テケテケ」を書いた小中千昭が制作時に読んだ1993~94年頃の学校怪談本では、上半身だけのものも下半身だけのものも走り、老女である場合が多く、由来譚はなかったという。一人の事故死者の経歴より先に、「半分の身体が異様な音と速さで動く」という短く演じやすい場面があった。 「テケテケ」という名は、身体や腕が床・地面を打つ移動音から生じたと説明されることが多い。その周りには、鹿児島の「パタパタさん」、滋賀の「コトコトさん」、神奈川の「カタカタ」、さらに「ひじかけババア」「肘子さん」「肘かけ女」といった名が響く。身体の一部が反復音を立てて動く複数の話が、1990年代の出版と映像を通じて「テケテケ」の名へ集まっていったと考えられる。だから性別、年齢、欠けている側、出現場所、速度、危害の方法まで、語る学校と世代に応じて変わる。 「テケテケ」の名が出版物の中ではっきり姿を現すのは1993~94年頃である。それより早い気配も、後年の記憶の中に残る。2004年に寄せられた投稿は、1980年頃の沖縄で似た話を聞いたと振り返り、ある高校で教師から生徒へ伝えられた型は、1980年代末から1990年代初頭へ遡る可能性を持つ。ただし、それらは一つの駅や事故へ収束しない。いくつもの土地で記憶された半身の怪が、やがて同じ反復音の名で呼ばれるようになったのである。 地域の語りは、映画で知られる姿より自由である。2001年に報告された神戸市立六甲アイランド高校の話では、鏡の中のテケテケさんと目が合うと追われる。2022年の口承文芸研究に登場する高校の型では、テケテケは男性の上半身で、手や首を猛烈に回す一方、追跡速度は人間と同じと語られた。こうした矛盾は誤記ではなく、語り手の声、擬音、身振りによって恐怖と笑いを同時に生む学校怪談の技法でもある。 やがて半身の姿へ、鉄道事故で亡くなった女性の前日譚が重なった。さらに、遭遇から三日または72時間以内の死、正しい答えによる回避、鎌や鋸による切断が加わる。とくに「話を聞いた者のもとへ三日以内に来る」「問いへ答える」という規則は、カシマさん系の怪談で強く語られる仕組みである。半身と鉄道という近い像を介して、二つの怪談は互いの名前と規則を交換していった。 2009年公開の白石晃士監督『テケテケ』は、加古川の戦後鉄道自殺、カシマレイコ、遭遇後72時間という要素を一本の起源物語に統合した。映画が示した鮮烈な女性像は、その後の「テケテケらしさ」を大きく整えた。それでも怪談の奥では、「半分の身体が、名を発するような音を立てて追ってくる」という簡潔な場面が動き続ける。教室、鏡、廊下、線路、映像、ゲームへ移るたび、その半身は新しい姿と規則をまとってきた。

下半身を失った姿で地面を進む、学校や鉄道を舞台に語られる現代怪談。

八尺様

八尺様

伝説

はっしゃくさま

白っぽいワンピースの長身女・八尺様

霊・亡霊オンライン(2ちゃんねる・オカルト板)

春休みに入ったばかりの晴れた日、農家の広縁へ、意味の分からない人声が庭から届く。「ぽ」と「ぼ」の間を揺れるような音のあと、約2メートルの生垣の上を帽子が横切り、切れ目から白っぽいワンピースの女が現れる。頭は生垣よりも高い。八尺様は、この日常の寸法が突然合わなくなる場面から始まる、現代日本を代表するネット怪談の一つである。 語り手が目撃した女を祖父母へ話すと、二人の態度は一変する。祖母によれば、その地区にいる「八尺様」は名の通り八尺ほどの背丈を持ち、見る人によって喪服の若い女、留袖の老婆、野良着姿の年増にも見えるという。共通するのは女性の姿、異常な長身、頭に何かを載せていること、そして男の声にも似た奇妙な笑いである。近代の度量衡で1尺は10分の33メートルと定められ、8尺は約2.424メートルに相当する。帽子の色や形、髪、顔立ちを描き切らない文章の余白が、後世の多様な図像を育てた。 物語の舞台は、市名と旧村名を伏せられた、大字ほどの一地区である。東西南北の村境には4体の地蔵が置かれ、八尺様の通れる道を塞いでいる。魅入られた語り手は、札、窓の目張り、四隅の盛塩、小さな仏像と祈りを重ねた二階の部屋で、日没から翌朝7時までを過ごす。深夜には祖父に酷似した声が扉の外から呼び、窓を軽く叩く音が続く。翌朝は9人乗りの車の中央へ座り、薄い血縁のある7人の男たちと助手席のKさんに八方を囲まれ、その祈りと前後の車列に守られて地区外へ出る。さらに10年後、4体のうち自宅へ通じる道の地蔵が壊れたという電話が届き、声が再び来るかもしれないという不安を残して話は閉じる。 現在、起点として確認できるのは、2008年8月26日に匿名掲示板「2ちゃんねる」のオカルト板へ投稿された「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?196」のレス908から916である。同じIDの匿名利用者が、午前9時45分56秒から9時54分54秒までの約9分間に9件を連続投稿した。スレッドは体験談にも創作にも開かれた場であり、現実の地名や事件を裏付ける別資料は知られていない。八尺様は、古い土地の記憶を語る体裁と、匿名掲示板の一気読みできる連投形式が結び付いて生まれたネットロアである。 投稿から1か月足らず後の2008年9月22日までには、洒落怖まとめサイトへ「八尺様」の題で再掲されていた。八尺様はやがて民俗学や説話研究の対象となり、映像集『封印映像16 八尺様の呪い』、小説『裏世界ピクニック』とそのアニメなど、新しい語り手によって声、顔、衣服、動きを与えられてきた。公式の挿絵を持たずに始まった怪異が、読む身体から聴く身体、見る身体へ移りながら成長した点に、八尺様の文化史が表れている。

異様に背の高い女と独特の声をもつ、匿名掲示板から広がったネット怪談。

クネクネ

クネクネ

名妖

くねくね

田園の遠景に立つ白い人影·クネクネ

霊・亡霊2000年頃のネット発の現代怪談

クネクネは、 2000年代初頭インターネット発の都市怪谈に登場する、 田園地帯に現れる白い人型の怪である。 真夏の日中、 田圃や河原·海辺の遠景に、 紙の人形のように細く白い人影が左右にくねくねと身体をうねらせて立つ姿で目撃されるとされる。 「遠くから見るぶんには害は無いが、 双眼鏡等で正体を理解しようとすると発狂する」 という認識ベースの恐怖構造を持つ点が最大の特徴である。 2000年に怪谈投稿サイトへ書き込まれた創作が、 2003年に2ちゃんねるオカルト板へ転載される過程で「フィクション注記」 が抜け落ち、 実体験談として独立流通した経緯 が知られる、 ネット発「投稿型怪谈」 の代表例の一つ。 八尺様 (2008) に先行する2000年代前半の2ch怪谈ブームを象徴する一体である。

遠くの田畑で白いものが身をくねらせ、正体を理解すると危険だとされる。