日本三大怨霊

日本三大怨霊

3体の妖怪
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「怨霊(おんりょう)」と聞くと、背筋がぞくっとする人もいるかもしれませんね。日本の歴史には「怒りや無念を抱えて亡くなった魂が、この世に災いをもたらす」という考えが古くからありました。その中でも特に有名で、「三大怨霊」として語り継がれてきた人物がいます。それが 菅原道真(すがわらのみちざね)・平将門(たいらのまさかど)・崇徳天皇(すとくてんのう/崇徳院) の三人です。 この三人の共通点は、いずれも政争や権力闘争の中で不遇の死を遂げ、その後「怨霊」として恐れられたこと。そして同時に、やがては「神」として祀られ、人々に深く信仰される存在へと変わっていったことです。 江戸時代になると、読本(よみほん)や歌舞伎などの大衆文化の中で、三人の怨霊譚はよりいっそう広まりました。怪談として人々を怖がらせるだけでなく、「怒れる魂を鎮めるために祀る」という考えも浸透し、現代に至るまで大切に信仰されています。 たとえば、学問の神様として有名な「天神さま」=菅原道真。かつては雷や天災を操る恐ろしい怨霊と恐れられたのに、今では受験生たちの強い味方になっているのは面白いですよね。平将門は江戸の守護神として、東京のど真ん中にある将門塚に今も祀られていますし、崇徳天皇は「日本史上最強の怨霊」なんて呼ばれることもあります。 つまり、恐れられる存在でありながらも、人々に敬われ愛される――これが「日本三大怨霊」の不思議な魅力なのです。

更新: 2026/3/23
怨霊

収録妖怪

3体の妖怪が収録されています

この妖怪たちのアートカードも見つかります

全 5 枚のカード — 浮世絵、現代日本…

菅原道真

菅原道真

神格

すがわらのみちざね

天満大自在天神・道真

神霊・神格京都府福岡県

菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安時代の学者・漢詩人にして右大臣にまで昇った政治家であり、その死後、日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて学問の神「天満天神(てんまんてんじん)」として全国に祀られた人物である。学問の家・菅原氏に生まれ、宇多・醍醐の二朝に重用されたが、昌泰四年(九〇一)、左大臣藤原時平の讒言により大宰府へ左遷され、延喜三年(九〇三)、失意のうちに同地で没した。 道真の死後、都では時平をはじめとする政敵の相次ぐ死や、疫病・旱魃(かんばつ)が続き、これらは無実の罪に沈んだ道真の祟りと噂された。なかでも延長八年(九三〇)、宮中清涼殿への落雷で公卿に多くの死傷者が出た事件は、道真を雷を操る「火雷天神(からいてんじん)」とする観念を決定づけた。朝廷はその荒ぶる霊を鎮めるため神として祀り、京都の北野天満宮、墓所に建つ太宰府天満宮を中心に、天神信仰が広まっていった。 当初は祟り神として畏れられた天神は、やがて道真の生前の卓越した学識ゆえに学問・詩文の守護神へと性格を変え、近世には寺子屋の広まりとともに、学業成就・冤罪を晴らす神として庶民にまで親しまれた。生前こよなく愛した梅と、怨霊として操った雷とが、その象徴として今に伝わる。

平将門

平将門

神格

たいらのまさかど

関東の御霊神・平将門

神霊・神格東京都千葉県

平将門(たいらのまさかど)は、平安中期の坂東(ばんどう)に勢力を張った桓武平氏の武者であり、朝廷に反旗を翻して「新皇(しんのう)」を称し討たれた人物である。死後、その斬られた首にまつわる怪異から日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて関東の守護神・御霊神(ごりょうしん)として神田明神などに祀られた。 承平・天慶のころ、将門は一族内の私闘から身を起こし、天慶二年(九三九)には常陸(ひたち)をはじめ関東諸国の国府を攻め落として東国を制圧、八幡大菩薩の託宣を称して自ら新皇と名のった。だが翌天慶三年(九四〇)、平貞盛と藤原秀郷(俵藤太)の追討軍に額を射られて戦死する。その生涯は同時代の軍記『将門記』に詳しい。 将門を妖怪・怨霊たらしめたのは、史実の乱そのものよりも、後世に語られた首の伝説である。京で晒された首が腐らず夜ごと叫んで東へ飛び去ったという物語は、東京・大手町の将門塚(首塚)の畏怖と結びつき、移し動かせば祟るという信仰を今に伝える。一方で神田明神では、江戸の総鎮守、武運と商売繁盛の神として篤く敬われ、祟りと守護という御霊神の二面を体現している。

崇徳天皇

崇徳天皇

名妖

すとくてんのう

讃岐配流の怨霊・崇徳天皇

霊・亡霊香川県

崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安末期の第七十五代天皇であり、保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流され、無念のうちに没したのち、日本でもっとも強大な怨霊・大天狗となったと畏れられる人物である。菅原道真・平将門と並ぶ「日本三大怨霊」のなかでも、しばしば最強と語られる。 鳥羽(とば)天皇の子として生まれたが、実は祖父白河法皇の子だという「叔父子(おじご)」の噂につきまとわれ、鳥羽院に疎まれた。三歳で即位するも院政の権を握れぬまま二十三歳で譲位を強いられ、保元元年(一一五六)、弟の後白河天皇との対立が保元の乱として武力衝突に至る。源為義・平忠正らを擁した崇徳方は、平清盛・源義朝を擁する後白河方に夜襲で敗れ、崇徳は讃岐へ配流され、長寛二年(一一六四)、帰京を許されぬまま生を終えた。 配流地での写経が朝廷に拒まれたことに激怒し、舌を噛み切って血で呪詛を書し、爪も髪も切らずに天狗と化したという伝説が、崇徳を妖怪・怨霊たらしめた。死後、世が乱れるたびにその祟りと恐れられ、朝廷は改謚や社の造営によって鎮魂に努めた。上田秋成『雨月物語』の名高い怪異譚にも、その怨霊が描かれている。

このコレクションと響き合うサガ

「日本三大怨霊」の妖怪たちが連なる系譜を辿ってみよう。