福岡県ふくおか
九州・福岡県に伝わる妖怪 11 体。その土地に根ざした物語と伝承地を辿ります。
この県の伝承地
山・神社・淵など、福岡県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

神格 住吉三神
すみよしさんじん
海上守護·和歌·武運の三神一体·住吉三神
神霊・神格住吉大社 (現·大阪府大阪市住吉区住吉、 摂津国一宮·総本宮·神功皇后伝承の鎮座地) / 住吉神社 (現·山口県下関市一の宮、 長門国一宮·神功皇后帰途神託の荒魂祀社) / 住吉神社·日本第一住吉宮 (現·福岡県福岡市博多区住吉、 筑前国一宮·阿波岐原比定の最古説) / 本住吉神社 (現·兵庫県神戸市東灘区住吉宮町、 本居宣長『古事記伝』 古宮説)住吉三神の正体は『古事記』 上巻 (神代) に登場する伊邪那岐命の禊祓三神である。 伊邪那岐命が黄泉国から帰還し、 筑紫の日向の橘の小門 (をど) の阿波岐原 (あはぎはら) で禊祓を行った際、 海水に潜って身を清めた水深の異なる三段階から三柱が誕生した: 古事記では「底筒之男神·中筒之男神·上筒之男神」 (上筒之男)、 『日本書紀』 神代上 第五段·一書では「底筒男命·中筒男命·表筒男命」 (表筒男)。 古事記の「上」 と書紀の「表」 の用字差が、 後世「ツツ」 = 水中の上下層という解釈を支える根拠の一つ。 同時にワタツミ三神 (底津綿津見·中津綿津見·上津綿津見) も生まれ、 住吉三神とワタツミ三神は対偶的に語られる ── 水底=底筒男·底津綿津見、 水中=中筒男·中津綿津見、 水面=表 (上) 筒男·上津綿津見の三層対応構造は両書共通である。 「ツツ」 の語源は学術的に決着していない。 主要諸説を並記する: ① 星説 ── 「ツツ」=「星 (ホシ)」 の古語、 オリオン座中央三つ星 (カラスキ星·古名「箕星=みぼし」) を神格化、 古代海人族の航海星とする説。 ただしこれは野尻抱影『日本の星』 (1936) 以降に主唱された近代由来の説で、 折口信夫·柳田國男が直接同説を支持した一次文献は確認できず、 「民俗学者により提唱」 と総称せず「野尻抱影に始まる近代の星宿説」 と記すのが学術的に正確。 ② 津 (港) 説 ── 「ツ」=助詞「の」、 「ツ」=「津 (港·海路)」 で折口信夫系の解釈、 ③ ツチ転訛霊格説 ── 「ツ」=助詞、 「チ」=尊称·霊格 (オロチ·ノヅチ等と同類) で國學院古典文化学事業の解釈、 ④ 津路説 ── 「ツチ」=「津路」=海路、 ⑤ 船魂·船霊説 ── 古代の船底に祀る船霊信仰=船の守護、 ⑥ 対馬豆酘 (つつ) 地名説 ── 対馬南端 (現·長崎県対馬市厳原町豆酘) の海人族発祥地由来、 ⑦ 文字通り筒説 ── 竹筒等の容器を依代とする。 複数説を併記するのが学術的に正確で、 とくに「星説」 のみを「通説」 とするのは不正確である。 神功皇后伝承は住吉三神の信仰史で最重要な物語である。 『日本書紀』 神功皇后摂政前紀によれば、 仲哀天皇崩御後に神功皇后が神懸かりした際、 住吉三神が「金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。 我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」 と神託。 皇后の三韓征伐 (新羅·百済·高句麗服属) を海上守護し、 帰途「我が荒魂を穴門 (長門) の山田邑に祀れ」 と再神託 ── これが下関住吉神社 (長門国一宮、 荒魂を祀る) の起源。 摂津に和魂を祀ったのが住吉大社の起源。 神功皇后と住吉三神の併祀構造はここに端を発し、 住吉大社の第四本宮に神功皇后が祀られる独特な四本宮構造が成立した。 ただし神功皇后紀の年代論自体が学界の議論対象で、 伝承年代 (211 年) を歴史的事実として扱うのは慎重を要する ── 4 世紀以降の事跡の可能性が考古学的に指摘される。 総本宮·住吉大社 (大阪府大阪市住吉区住吉 2-9-89) は摂津国一宮·二十二社 (中七社) の一·旧官幣大社 (昭和 21 年まで)。 創建伝承は神功皇后摂政 11 年=西暦 211 年、 辛卯年卯月上卯日鎮座 (公式由緒) ── 伝承年代であり、 考古学的確証ではない。 四本宮配置は独特で、 第一本宮·第二本宮·第三本宮が縦に並び (西向き、 海に向かう)、 第四本宮が第三本宮の南に並ぶ L 字型。 第一=底筒男命、 第二=中筒男命、 第三=表筒男命、 第四=神功皇后 (息長足姫命)。 住吉造は神社建築史上最古とされる様式で、 切妻造妻入·檜皮葺·朱と白の壁、 現本殿は文化 7 年 (1810) 造営、 四棟全て国宝指定。 反橋 (太鼓橋) の急勾配の朱塗り橋は住吉信仰の象徴的視覚意匠で、 浮世絵·絵画·和歌に頻出する。 全国分社は約 2300 社余 (住吉大社公式由緒の数字、 Wikipedia は約 600 社と過少集計の差あり、 公式の 2300 社が通説)。 海岸·港湾·瀬戸内海·九州·北部日本に集中する分布パターンを示し、 古代から現代まで漁業·海運·海軍関係者の最重要信仰となった。 「日本三大住吉」 と古宮論争 ── ① 住吉大社 (大阪) = 摂津国一宮·和魂·総本宮、 ② 住吉神社 (山口県下関市一の宮) = 長門国一宮·荒魂·神功皇后帰途神託地、 ③ 住吉神社 (福岡県福岡市博多区住吉) = 筑前国一宮·「日本第一住吉宮」 自称·阿波岐原 (伊邪那岐禊地) 比定の最古説。 加えて本住吉神社 (神戸市東灘区住吉宮町) は本居宣長『古事記伝』 (1764-1798) が摂津国菟原郡住吉郷 (現·東灘) を「大津渟中倉之長峡」 と比定した古宮説で、 江戸期の有力学説。 学術的には「最初の住吉」 は確定不能で、 各社が独自の縁起で最古性を主張する。 古代~中世の信仰史では、 遣隋使·遣唐使は出航前に住吉大社で祈願を行うのが慣例で、 『土佐日記』 (紀貫之、 935) にも住吉神への航海祈願記述がある。 平安期歌人·和泉式部·紀貫之·小野小町等の和歌で住吉が頻出し、 「和歌三神」 (=住吉明神·玉津島明神·柿本人麻呂) の筆頭に位置する歌神となった。 中世·近世には能『高砂』 の「住吉と高砂の松」 (相生の松) は夫婦和合·長寿の象徴として神社結婚式·能舞台で頻繁に題材化、 能『住吉詣』 も住吉信仰の代表曲。 御田植神事 (国重要無形民俗文化財) は住吉大社の代表的祭礼で、 田植から収穫までの稲作儀礼を神事化したもの。 中世~江戸期の武家信仰として、 神功皇后の三韓征伐伝承から源氏など武家の崇敬を集めた。 室町~戦国期には住吉大社が瀬戸内海·摂津·和泉の海運業者から多大な崇敬を受け、 大阪湾の海上交通の守護神として商業·軍事の双方に関わった。 現代では海上自衛隊·商船·漁業·海運業者の参詣が今も盛んで、 大阪市民の初詣スポット·七五三·神社結婚式の最重要拠点の一つ。 関西圏で「すみよしさん」 の愛称で親しまれ、 海上守護·航海安全·和歌·学問·夫婦和合·安産·子授け·商売繁盛の幅広い御利益を持つ国民的神格である。 全国 2300 社の住吉神社·住吉社·墨江神社·墨吉神社が日本の海岸線·港湾に並び、 古代から現代まで脈々と続く海洋信仰の中軸を成す。

神格 菅原道真
すがわらのみちざね
天満大自在天神・道真
神霊・神格京都市北野天満宮・太宰府天満宮 (菅原道真御霊)この版では、一人の文人がいかにして雷神となり、さらに学問の神へと転じたか――その二度の変身を、年代と図像に即して徹底して追う。 道真の怨霊化は、死の直後に始まったわけではない。延喜八年(九〇八)に元門弟の藤原菅根が、翌延喜九年(九〇九)に左遷の張本人・藤原時平が三十九で没し、延喜二十三年(九二三)には皇太子保明親王が薨じた。朝廷はこの年、道真を右大臣に復し正二位を追贈して罪を解いたが、災いは止まらず、延長三年(九二五)には次の皇太子慶頼王までもがわずか五歳で世を去った。こうした死の連鎖が、無実の道真の祟りとして都人に意識されていった過程こそ、御霊信仰の生成そのものである。 その頂点が延長八年(九三〇)の清涼殿落雷であった。雨乞いの議の最中に宮中を撃った雷は、道真を大宰府で監視した藤原清貫を即死させ、居合わせた公卿を次々と焼いた。雷=道真の意志という解釈はここで決定的となり、霊は単なる怨霊を超えて、雷を支配する「火雷天神」「天満大自在天神」「日本太政威徳天」と称される畏怖の神格へ昇華した。鎌倉期の『北野天神縁起絵巻』は、この雷神化の場面を絵巻の白眉として描き、雷雲を駆る天神の像は、のちの俵屋宗達らの風神雷神図にまで影を落とした。 天神の図像には、対照的な二つの系統がある。一つは縁起絵巻が描く荒ぶる火雷天神、雷雲に乗り雷を放つ姿。いま一つは、衣冠束帯に笏を執り、傍らに梅を伴う端正な文人官僚の像で、これが学問神としての標準像となった。中国風の衣をまとい袋を負って梅の一枝を持つ「渡唐天神(ととうてんじん)」は、道真が一夜にして宋の禅僧のもとへ渡り教えを受けたという禅林の説話にもとづく変種である。 怨霊から学問神への重心の移動は、緩やかに進んだ。平安中期にはすでに、詩文と正直を司る慈悲の神として祭文に讃えられ、正暦四年(九九三)には贈正一位・太政大臣が追贈されて名誉は完全に回復した。だが、学業成就の神としての庶民的な定着は、はるかに下って江戸時代、寺子屋の普及とともに訪れる。卓越した学者であった道真の生前の姿が手習いの場に掲げられ、読み書きと学問の守り神として、天神は雷神の畏れを脱いで全国の天満宮へ広がっていった。

神格 磐長姫
いわながひめ
永遠·堅固·縁結びの女神·磐長姫
神霊・神格雲見浅間神社 (現·静岡県賀茂郡松崎町雲見、 全国浅間神社で磐長姫のみを祀る稀社) / 細石神社 (現·福岡県糸島市三雲、 姉妹両方を主祭神とする伊都国古社) / 銀鏡神社 (現·宮崎県西都市銀鏡、 銀鏡神楽 33 番·国指定重要無形民俗文化財) / 貴船神社 結社 (現·京都府京都市左京区鞍馬貴船町、 縁結び信仰の本宮)磐長姫の正体は『古事記』 上巻末·『日本書紀』 神代下 第九段に登場する大山祇神の娘である。 『古事記』 表記は「石長比売 (いしながひめ)」、 『日本書紀』·『先代旧事本紀』 では「磐長姫 (いわながひめ)」、 異称に苔牟須売神 (こけむすひめ)·木花知流比売 (このはなちるひめ) との同一説もある。 神名の語義について國學院大学古典文化学事業の解釈では、 「岩 (磐) のように永遠·堅固で長久に変わらない女性」 ── 不死·長寿·堅固·磐石を象徴する女神であることが明らか。 妹·木花之佐久夜毘売 (コノハナノサクヤビメ) と並ぶ大山祇神の二人の娘として位置付けられ、 「岩 vs 花」「永遠 vs 儚さ」「堅固 vs 美」「不死 vs 短命」「拒絶された姉 vs 受容された妹」 という対比構造の中核を成す。 物語の核は『古事記』 上巻末·『日本書紀』 神代下 第九段の天孫降臨譚にある。 邇々芸命 (ニニギ、 天孫) が日向高千穂に降臨した後、 笠沙岬で美しい姫·木花咲耶姫に出会い、 父·大山祇神に求婚した。 大山祇神は大いに喜んで、 姉·磐長姫と妹·咲耶姫を多くの献物とともに共に献上した。 しかし邇々芸命は磐長姫の容姿が醜いとして父のもとに送り返し、 咲耶姫だけを娶った。 これを嘆いた大山祇神が下した言葉が物語の頂点である ── 古事記版「石長比売を共に侍らせれば天孫の御命は岩のごとく永遠不動だったが、 咲耶姫だけを留めたゆえ御命は木の花のごとく短くなる」 (大山津見神の誓約 (うけい) 不成立による寿命短命化)、 日本書紀版「受け入れられなかった石長比売の呪詛により短命化」 (より直接的因果)。 両書の記述は若干異なるが、 いずれも天皇家·人類が短命となった起源神話 (死の起源譚) として機能し、 仏教伝来以前の日本固有の死生観の根幹を成す。 比較神話学者·大林太良はこの磐長姫·木花咲耶姫の対比譚を「バナナ型神話」 (石とバナナの選択譚) の日本版変形と分類した。 インドネシア·スラウェシ島の死の起源神話 (神が人類に石と熟したバナナを選ばせ、 人類が「美味しい」 バナナを選んだため石のような永遠を失い、 バナナのように一世代で枯れる短命を得たという譚) と同系統で、 旧約創世記 (エデン追放)·ギリシャ神話 (パンドラ譚) に相当する普遍的死の起源神話の日本版である。 主祭神社では、 雲見浅間神社 (静岡県賀茂郡松崎町雲見 386-2) が全国約 2000 社の浅間神社で磐長姫尊のみを祀る稀有な社として神道史·民俗学研究で注目される。 烏帽子山 (標高 162m) 山頂に鎮座し、 「烏帽子山が晴れると富士山が曇る」 という古来の伝承 (本居宣長『古事記伝』 に記載、 18 世紀末) があり、 妹·咲耶姫の富士山と対をなす姉の鎮座地と古来比定された。 明暦 3 年 (1657) 再建、 創建は不詳。 細石神社 (福岡県糸島市三雲) は伊都国の中心地に位置し、 姉妹両方を主祭神として祀る古社 (元禄 8 年=1695 年『細石神社縁起記』 に記録)。 姉妹一対祭祀の貴重な事例で、 伊都国 (筑前国怡土郡) が古代日本の対大陸玄関口だったことから、 渡来文化と磐長姫信仰の接続を示唆する。 銀鏡神社 (しろみじんじゃ、 宮崎県西都市銀鏡、 旧西米良村圏) は磐長姫·大山祇命·懐良親王 (南北朝期の征西将軍宮) の三柱を祀る神社で、 長享 3 年 (1489) 創建、 元宮は延宝 3 年 (1675)。 ご神体は「銀の鏡」 ── 磐長姫が自分の醜貌を嘆いて投げた鏡が龍房山の大木に懸かり、 「白見村」 から「銀鏡村 (しろみむら)」 へと地名が変わったとする伝承が地名起源譚として伝わる。 鏡=磐の象徴的等価物として、 磐長姫の岩石信仰と鏡神信仰が習合する特異な祭祀。 毎年 12 月 12-16 日に奉納される銀鏡神楽 33 番は国指定重要無形民俗文化財で、 磐長姫信仰の現代的継承の最重要拠点として九州民俗芸能の頂点を成す。 京都·貴船神社 結社 (中宮、 京都市左京区鞍馬貴船町)は縁結びの神社として平安期以前から深く信仰されている。 磐長姫が拒絶の恥から貴船に隠れ、 「人々に良縁を授けん」 と鎮座したとする逆説的伝承から、 「縁を切らない·永続させる神」 として信仰された。 平安期歌人·和泉式部 (978?-1041?) が夫·藤原保昌との不仲を貴船結社に祈願し、 蛍の歌「もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」 (『後拾遺和歌集』 巻第二十) を奉納して夫婦復縁を果たしたという故事が結社の縁結び神格の文学的根拠となった。 岩 = 永遠不動の象徴が「永続する縁」 と結びつく逆説的信仰構造が、 平安期から現代まで途切れず継承される。 民俗信仰では、 伊豆地方の大室山 (静岡県伊東市、 標高 580m) が磐長姫の化身とされ、 「大室山に登って妹の富士山を褒めると怪我·不漁の祟り」 という同情的俗信が伝わる ── 「醜くて拒絶された姉を慮る」 民間信仰の典型例。 また筑波山月水石神社 (茨城県つくば市) には磐長姫が歿したと伝わる磐座が祀られ、 古代日本の岩石信仰圏 (磐座·磐境) と磐長姫神格の習合を示す。 大山祇神社の境内社·阿奈波神社 (愛媛県今治市大三島) には父神大山祇とともに磐長姫が祀られ、 父娘祭祀の原点を保つ。 現代では富士山世界遺産登録 (2013) 以降、 雲見浅間神社·烏帽子山が観光資源化され、 また「美の基準で拒絶された姉」 として現代女性読者の共感対象としてフェミニズム的再評価が進行している。 アニメ·ゲーム·小説で「不死·堅固」「醜さの裏の優しさ」「縁結び」 のモチーフで頻繁に再登場し、 古代神話の現代的再解釈が進む。

伝説 河童
かっぱ
川辺の皿頭・河童
水の怪日本全国の川・池・沼 (文化的求心地: 肥後・筑後・遠野・牛久沼)河童とは、実は一匹の決まった妖怪の名ではない。川や池に棲む水の霊を、日本じゅうがそれぞれの言葉で呼んできた、その総称にほかならない。南九州ではガラッパ、東北ではメドチ、四国ではエンコウ、中部ではカワランベ、近畿ではガタロ、九州ではヒョウスベ――土地ごとに名も姿も少しずつ違い、その数は八十をこえるとも言われる。猿に近いもの、毛深いもの、群れをなすもの。だが、どれも「水辺にいて、頭の皿に水をたたえ、人や馬を引く」という芯を分かちもつ。河童とは、いわば全国の水の霊が寄り集まった大きな一族の、共通の呼び名なのである。 これほど多彩な変種を一本に束ねているのが、民俗学の見立てである。柳田國男や折口信夫は、河童をもともと水をつかさどる神(水神)だったものが、信仰の衰えとともに妖怪へ零落した姿だと考えた。駒引きの伝説で河童がきまって馬や牛を水へ引こうとするのも、もとは水神に馬牛を捧げて豊作を祈った祭りの記憶ではないか――石田英一郎は『河童駒引考』(1948)で、この馬と水神の結びつきをユーラシア各地の神話と比べてみせた。水をつかさどる神だからこそ、河童は田に水を引き、魚を恵み、接骨の妙薬まで伝える一方で、人を溺れさせ、尻子玉を抜く。恵みと祟りの両面は、零落した水神の表と裏なのである。 水神の名残は、季節のめぐりにも見える。西日本では、河童が秋の彼岸に山へ入って山童(やまわろ)となり、春の彼岸にまた川へ下りて河童に戻る、と広く語られる。春に山から里へ下りる田の神、秋に山へ帰る山の神――その去来の観念と、河童と山童の交替はぴたりと重なる。一族の変種どうしも、こうして互いに地続きにつながっている。 一族には、頭領の伝説まである。九州の球磨川には、九千匹もの眷属を率いて大陸から渡ってきた河童の大将「九千坊(くせんぼう)」の話が伝わる。加藤清正の怒りを買って一帯を追われ、筑後川へ移って久留米の水天宮の眷属になったという。河童がただ一匹の化け物ではなく、川から川へと連なる一族として想像されていたことが、この親分伝説によく表れている。 河童ゆかりの土地は全国にある。岩手の遠野には河童が出るという「カッパ淵」があり、火事を頭の皿の水で消した功により、頭が皿の形をした「かっぱ狛犬」が常堅寺に据えられている。茨城の牛久沼では、生涯河童を描いた画家・小川芋銭が「河童の芋銭」と呼ばれ、福岡の田主丸は「河童族発祥の地」を名のる。東京の合羽橋には、治水を進める商人を隅田川の河童が夜ごと助けたという伝説が残る。今も各地で河童祭が開かれ、酒の銘柄や町のマスコットにもなって、河童は日本でもっとも愛される水の妖怪でありつづけている。

伝説 天狗
てんぐ
天狗とは何か――類型と図像の総論
山野の怪愛宕山(京都)・鞍馬山(京都)・比良山(滋賀)・飯縄山(長野)・大山(神奈川)・英彦山(福岡)・白峰(香川)・大峰山(奈良)・比叡山(滋賀)・高野山(和歌山) ─ 諸国の霊山に座す大天狗この版は、特定の霊山の一座ではなく、「天狗とは何か」を図像と類型の歴史から徹底して解きほぐす総論である。各座の個別伝承は、それぞれの大天狗の頁に譲る。 天狗の姿は一様ではない。第一の類型は鼻高天狗――赤ら顔に高い鼻、山伏の兜巾と鈴懸をまとい、羽団扇を手に一本歯の高下駄を履く。第二は烏天狗で、鴉のくちばしと翼をもち、剣や金剛杖を執る。第三は木の葉天狗・木っ端天狗と呼ばれる下位の天狗で、力弱く数多い眷属とされる。これらは固定した分類というより、時代と地域による天狗像の幅を映している。 図像は時代とともに変遷した。平安期の天狗はまず鳶(とび)のごとき鳥として観念され、烏天狗の像はその名残をとどめる。長い鼻が際立つのは鎌倉末以降で、『是害房絵巻』には、人に化けていた天狗が鳥の姿へ戻る際に鼻が伸びる場面が描かれる。鼻高の起源については、伎楽面の高鼻の治道(じどう)面に由来するとし、烏天狗を迦楼羅(かるら)面に結ぶ学説があり、長い鼻を鳥の嘴の図像的な遺存とみる見方もあるが、いずれも定説とまでは言いがたい。『日本書紀』で鼻長七咫(しちあた)と描かれる猿田彦神と重ねられ、祭礼の猿田彦役に天狗面を用いる風も生まれた。 天狗の両義性は、仏教の天狗道の観念に根ざす。仏道を学ぶゆえに地獄には堕ちず、邪法を扱うゆえに極楽にも行けない中間の境涯――そこに堕ちるのは慢心した僧とされた。『天狗草紙』はこの観念を七大寺の僧への風刺として描くが、ただし「高慢な僧だけが天狗になる」という単純化には知切光歳も行き過ぎと釘を刺している。魔でありながら、調伏されれば護法に転じ、修験者が『天狗経』を誦せば諸国の天狗を招いて願を叶えるとされた――この護法と魔の振幅こそ天狗の核である。 「八大天狗」という括りの確かな中世典拠は、室町期の謡曲『鞍馬天狗』の詞章にある。大天狗が従える諸国の天狗を「筑紫には彦山の豊前坊、四州には白峰の相模坊、大山の伯耆坊、飯綱の三郎……大峰の前鬼が一党、葛城高間」と地理順に唱え上げるくだりがそれで、八大天狗が江戸の創作ではなく中世の信仰と芸能に根を張っていたことを示す。もっともその構成は資料により揺れ、石鎚山法起坊を加える異伝もあるなど、固定した名簿ではない。

伝説 彦山豊前坊
ひこさんぶぜんぼう
九州の天狗の頭目・彦山豊前坊
山野の怪豊前国・英彦山(福岡県田川郡添田町)彦山豊前坊を読み解く鍵は、英彦山という日本三大修験道の一たる巨大霊場と、賞罰両面という天狗の性格にある。 英彦山修験の歴史は、奈良時代の僧法蓮に発する。『続日本紀』が大宝三年(七〇三)に豊前国の野四十町を賜ったと記すこの僧を開祖とし、英彦山は出羽三山・大峰と並ぶ修験の一大中心地へと成長した。豊前坊の名が確かに現れるのは、鎌倉期の縁起『彦山流記』(一二一三)である。同書は英彦山の峰々に穿たれた四十九窟を弥勒の兜率天に擬し、その第十八を「豊前窟」として豊前坊の座とした。この窟の体系こそ、九州の天狗の頭目たる豊前坊の信仰の母胎である。江戸時代の「彦山三千八百坊」という規模は、この霊場の隆盛を物語る。 豊前坊の天狗を特徴づけるのは、その賞罰の峻厳さである。高住神社の由緒が伝えるように、欲深く邪な心をもつ者には、子をさらい、家に火を放って罰を与える。逆に、心正しく信心篤い者の願いは聞き届け、これを守護する。この賞と罰の二面は、修験の山が課す厳しい戒律と、それを守る者への恵みとを、天狗の裁きとして象徴したものである。子をさらう天狗という畏怖と、子の無事を祈る親の信仰とは、同じ豊前坊の表裏であった。 明治元年の神仏分離と明治五年(一八七二)の修験禁止令は、英彦山の山伏を離散させ、三千八百坊の世界を解体した。修験の制度は失われたが、豊前坊の天狗信仰は高住神社に生きつづけ、室町の謡曲『鞍馬天狗』に唱えられ、『天狗経』の四十八天狗に連なる九州の大天狗として、今も英彦山の峰に座すと畏れられている。天狗研究の知切光歳も、これを諸山の大天狗の体系に位置づけた。

名妖 ぬりかべ
ぬりかべ
九州夜道の見えぬ壁・ぬりかべ
総称・汎称九州 (夜道の見えぬ壁)目視できぬが、手触りだけが確かな壁として感じられる型。九州北部の道迷い怪談に即し、強い害は与えず進行を止めることに特化する。足元から肩口ほどの高さで広がる感覚があり、正面突破はかなわない。脇へそれる、少し休む、地面や路端を杖で探るなど、従来の対処で薄れる。人を試す路の霊的障害として理解される。

名妖 濡女
ぬれおんな
磯浜の濡髪女・濡女
水の怪九州沿岸 (磯浜の濡髪女)海浜や河岸に現れ、濡れた長髪の女として目撃される。地域により、赤子を抱かせて足を奪う型、あるいは蛇身・長大な尾を想起させる威圧的な水怪として語られる。江戸の妖怪画には蛇体の女が多いが、物語資料の実証は乏しい。石見では牛鬼と関わる水妖として位置づけられ、対処法として素手で抱かぬことが説かれる。近縁の磯女と混称される例もあり、呼称や性質は土地ごとに幅がある。

稀少 琴古主
ことふるぬし
忘れられし筑紫箏・琴古主
付喪神・骸怪福岡県 (旧筑紫国・忘れられし古箏の精)石燕が『百器徒然袋』で示した標準像。筑紫箏が長年打ち捨てられ、音色を理解されぬ嘆きから霊性を帯び、夜陰に姿を現す。胴体は古箏そのもので、割れや欠けが口となり、節目が目に見立てられる。絃は切れ乱れて髪状に垂れ、わずかに掻き鳴らすだけで湿りを帯びた音を立てるという。図像上は同見開きに琵琶の付喪神「琵琶牧々」が配され、楽器妖怪の連関が意識される。伝承上の固有の名所や人物との直接的な結び付きは確認されず、器物霊観に基づく寓意的存在として理解されるのが妥当である。

珍しい 赤足
あかあし
路傍に絡む赤い足・赤足
総称・汎称香川県塩飽諸島・福岡県・青森県八戸 (各地の山道怪)各地の記録に見える赤足像を踏まえ、姿を見せる地域では赤い足のみが路傍から突き出し、驚きと足どりの乱れを誘う。姿を見せない地域では、乾いた綿や蜘蛛の巣のような感触が脛にまとわり、歩幅が縮み疲れが増す。害は致命的ではないが、転倒や道迷いの原因となると畏れられた。赤手児との対関係は資料上の指摘に留まり、同一視は断定されない。遭遇は辻、山道、藪際など人影の疎い場所が多く、夕暮れから夜半にかけて語られることが多い。祓い方としては深呼吸して足をととのえ、腰を下ろして草履の緒を締め直す、路傍の草を払うなど実践的な対処が伝えられる地域もあるが、詳細は地方差があり不詳とされる。

珍しい 釣瓶火
つるべび
樹上に下る怪火・釣瓶火
自然現象・自然霊京都府西院・四国・九州 (樹上から下る怪火)江戸期の怪談と石燕の図像に基づく釣瓶火の伝統的解釈。木霊・樹の精に由来する怪火として各地で語られ、青白い火珠が枝先からぶら下がり、井戸の釣瓶のように上下して旅人を惑わす。火勢は見かけほど強くなく、衣や草木に燃え移らないとされる。近世の怪異記には京都西院周辺の火の怪が引例され、近代以降の妖怪事典では釣瓶落とし類似の怪火、あるいは別種として整理される。目撃は月のない晩や霧の立つ夜に多いとされ、近づくとふっと遠のき、離れるとまた寄る。顔の影が浮かぶことがあり、人魂との混同も生じたが、地付きの怪火として伝えられる。