九州の北の玄関口、福岡県。古代の筑前・筑後・豊前という三つの令制国が重なるこの地は、玄界灘と有明海というふたつの海に挟まれ、海を越えて大陸と向き合う最前線であり、同時に都の権力から最も遠い「辺境」でもあった。大宰府はその二面性の結節点である。律令国家が西海道九国を統べ、外交と防衛を担うために置いた官衙――「遠の朝廷」と呼ばれた西の都でありながら、政争に敗れた者が流される左遷の地でもあった。福岡の妖怪文化を貫く一本の軸は、この「中央と辺境のあいだ」という地政から立ちのぼる。
都を追われた貴人が大宰府で果てて怨霊となり、やがて学問の神へと昇りつめる。豊前・筑前の境にそびえる霊峰・英彦山では修験者が天狗となり、九州じゅうの天狗を束ねる頭目を生んだ。阿蘇から有明海へ注ぐ九州最大の暴れ川・筑後川には、肥後を追われた九千匹の河童が王国を築いた。そして北部の海辺、遠賀の夜道には、行く手をふさぐ見えない壁が現れた。怨霊・天狗・河童・ぬりかべ――福岡の妖怪はいずれも「外から来て、この地で異形となり、やがて祀られ語り継がれる」という物語を共有している。退治するのではなく、和解し祀って味方に変える。その想像力こそが、この地の妖怪を貫く背骨である。
怨霊から天神へ――大宰府が生んだ日本三大怨霊
福岡の妖怪を語るとき、まず大宰府を避けて通れない。菅原道真は、代々学問を家業とする菅原家に生まれ、漢詩文の才で世に出て、宇多天皇に抜擢され醍醐朝で右大臣にまで昇った学者政治家だった。藤原氏が摂関の地位を固めていく時代に、藤原氏ならぬ身でここまで昇ったこと自体が異例であり、それは同時に強い反発を呼んだ。昌泰4年(901)正月、道真は突如として大宰権帥に左遷され、筑前国の大宰府へ下る。醍醐天皇を廃して娘婿の斉世親王を立てようとした、という讒言――時平らによる「昌泰の変」が直接の引き金だったが、これは謀略だったと見られている[1]。

京を発つ際、庭の梅へ詠みかけたと伝わるのが「東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」の一首である。そしてその梅が、主を慕って一夜のうちに京から大宰府へ飛んできたという「飛梅」の伝説は、左遷の悲嘆と道真への敬慕をいまに伝える。大宰権帥とは名ばかりで、道真は実権を奪われ、わずかな供とともに荒れた官舎で謹慎の日々を送った。

菅原道真
菅原道真(すがわらのみちざね)は、平安時代の学者・漢詩人にして右大臣にまで昇った政治家であり、その死後、日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて学問の神「天満天神(てんまんてんじん)」として全国に祀られた人物である。学問の家・菅原氏に生まれ、宇多・醍醐の二朝に重用されたが、昌泰四年(九〇一)、左大臣藤原時平の讒言により大宰府へ左遷され、延喜三年(九〇三)、失意のうちに同地で没した。 道真の死後、都では時平をはじめとする政敵の相次ぐ死や、疫病・旱魃(かんばつ)が続き、これらは無実の罪に沈んだ道真の祟りと噂された。なかでも延長八年(九三〇)、宮中清涼殿への落雷で公卿に多くの死傷者が出た事件は、道真を雷を操る「火雷天神(からいてんじん)」とする観念を決定づけた。朝廷はその荒ぶる霊を鎮めるため神として祀り、京都の北野天満宮、墓所に建つ太宰府天満宮を中心に、天神信仰が広まっていった。 当初は祟り神として畏れられた天神は、やがて道真の生前の卓越した学識ゆえに学問・詩文の守護神へと性格を変え、近世には寺子屋の広まりとともに、学業成就・冤罪を晴らす神として庶民にまで親しまれた。生前こよなく愛した梅と、怨霊として操った雷とが、その象徴として今に伝わる。
詳しく見る道真は失意のうちに延喜3年(903)、大宰府で薨去し、安楽寺の地に葬られた。享年五十九[1]。問題はその後である。京では延喜9年(909)に政敵・藤原時平が三十九歳の若さで早世し、さらに醍醐天皇の皇子や皇孫が相次いで世を去った。そして延長8年(930)、内裏の清涼殿に落雷があり、政務にあたっていた大納言藤原清貫らが雷に打たれて死ぬという凄惨な事件が起こる。醍醐天皇もこの直後に体調を崩し、ほどなく譲位・崩御した。人々はこれら一連の凶事を道真の祟りと畏れ、その怒れる霊を雷の神「火雷天神」と結びつけて祀るようになった。怨霊が雷神となり、やがて学問・文芸の守護神「天神」へと昇華していく――この劇的な転生の過程は、後世『北野天神縁起絵巻』(承久本ほか、1219頃)に詞書と絵で克明に描かれることになる[2]。道真は平将門・崇徳院と並んで日本三大怨霊の筆頭に数えられる[3]。
ここで強調すべきは、道真自身は実在の歴史上の人物であり、左遷・薨去という出来事は史実だという点である。一方、怨霊化・天神化は、それを受け止めた都と地方の人々の解釈であり、信仰の層に属する。両者を混同してはならない。福岡という地から見れば、道真の墓所に門弟・味酒安行が廟を建てた延喜5年(905)に始まり、延喜19年(919)に醍醐天皇の勅命で最初の社殿が造営された太宰府天満宮こそ、この壮大な物語の起点である[1]。京の北野天満宮が天慶5年(942)以降に成立し天神信仰の中央拠点となったのに対し、太宰府は道真終焉の地として、信仰の「源泉」であり続けた。今日、受験シーズンに全国から参拝者が集まる学問の神の総本宮が、もとは怨霊鎮めの社であったという事実は、福岡の妖怪文化を象徴している。

怨霊
怨霊は、非業の死を遂げた者や深い恨みを呑んで世を去った者の霊が、祟りをなして疫病・天災・政変を引き起こすとされる存在をいう。単に現れて訴える幽霊と異なり、怨霊は災厄の能動的な原因として畏れられ、その力を鎮め祀ることで守護神「御霊」へと転じうる両義性を本質とする。古代から中世の日本では、社会を襲う不可解な災いを死者の怨みによって説明する観念が広く共有され、恐怖と祭祀が表裏一体で語られてきた。 この体系の中核が御霊信仰である。怒れる霊を社寺に丁重に祀り、誦経・舞楽・雑伎などを捧げて慰撫すれば、祟る霊は転じて疫病や災いから人々を守る神になるという論理が、平安京の宮廷から地方へと広がった。疫神を祭場へ招いて饗応し、満足させて送り返すという去り神の作法は、のちの祇園御霊会(祇園祭)や各地の鎮花祭にも受け継がれ、都市の防疫と結びついて制度化されていった。個別の名をもつ歴史上の人物が忌むべき祟り神でありながら同時に篤い崇敬を集める例が多く、畏怖と帰依が分かちがたく結びつくのが、日本の怨霊観の際立った特徴である。
詳しく見る大宰府に渦巻いたのは道真の念ばかりではない。律令の時代以来、この地は政争に敗れた皇族・貴族が流される場所でもあった。神亀年間に左大臣まで昇りながら策謀に沈んだ者、天平12年(740)に大宰府で挙兵して敗れた藤原広嗣のように、都を追われ西の果てで無念に果てた者たちの記憶が、幾重にも積み重なっている。妖怪としての怨霊は、特定の一体を指すのではなく、「鎮められなければ祟る死者の念」という日本人の宗教観そのものを体現する総称的な存在である。だが福岡においてその最大かつ最初の体現者が道真であったことは間違いない。荒ぶる死者の霊を恐れ、退治するのではなく丁重に祀り上げることで守護神へと転じさせる――この「御霊信仰」の論理は、まさに大宰府を舞台に成熟した。能の世界でも、怨霊は退治される悪ではなく、舞い、語り、やがて鎮められる主役として扱われる。福岡の妖怪が示す「祀って味方に変える」発想の原型が、ここにある。
英彦山の修験が育てた天狗――九州の頭目・彦山豊前坊
筑前・豊前・豊後の境にそびえる英彦山(標高1199メートル)は、出羽の羽黒山・熊野の大峰山と並ぶ日本三大修験道場のひとつに数えられる。神武天皇の御子・天忍穂耳命を祀る古社を核に、12世紀以降は天台系修験の一大拠点となり、最盛期には山中に三千余りの僧坊が建ち並び、四十九の行場の窟が穿たれていたと伝わる[4]。「彦山」がのちに霊威を称えて「英彦山」と改められたこと自体が、この山がどれほど崇敬されたかを物語る。深山に分け入り、断食・水行・籠山によって超人的な験力を求めた修験者(山伏)たちのイメージ――常人を超えた力、空を飛ぶ術、神とも魔ともつかぬ威――が、やがて山の霊威そのものを体現する天狗の姿に重ねられていったのは、英彦山に限らず愛宕・鞍馬・大峰など全国の霊山に共通する現象である。天狗が「堕落した高僧の化身」「仏法を妨げる魔」と語られる一方で、山の守り神として畏敬された両義性も、この修験との結びつきに由来する。

天狗
天狗は、日本の山岳に棲むとされる妖怪にして神格的存在であり、修験道の山伏と分かちがたく結びついてきた山の主である。その姿には大きく二つの系統がある。ひとつは赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる。古くは鳶(とび)のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていった。 天狗は仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じる――この両義性が天狗の本質である。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の絵巻にも風刺として描かれた。一方、山岳信仰のなかでは山の守護者・武芸と法力の達人として畏敬され、修行者を試し、あるいは導く存在とされた。京都の鞍馬山や愛宕山をはじめ、諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すと伝えられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げている。
詳しく見る天狗は一様ではない。鼻の高い赤ら顔の大天狗(鼻高天狗)、烏のくちばしと翼を持つ烏天狗(小天狗)、木の葉に紛れる木の葉天狗など、図像にも明確な階層がある。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(安永8年・1779)をはじめとする近世の妖怪画集が、こうした類型を視覚的に定着させ、今日に至る天狗像の原型を作った[5]。そして全国の名だたる大天狗を序列づける「日本八天狗」の伝承が生まれると、英彦山にはその一柱が住むとされた。それが九州を代表する大天狗彦山豊前坊である。

彦山豊前坊
彦山豊前坊は、豊前国の英彦山(ひこさん)に座す大天狗であり、九州の天狗の頭目(元締)とされる。八大天狗の一に数えられ、室町期の謡曲『鞍馬天狗』に「筑紫には彦山の豊前坊」と唱えられる。 英彦山は、出羽三山・大峰とともに日本三大修験道の一とされる北部九州随一の修験霊場である。その名と所在の文献初出は、鎌倉期の縁起『彦山流記』(一二一三)で、英彦山の四十九窟のうち第十八「豊前窟」として豊前坊が記される。豊前坊は、現在の高住神社(福岡県添田町、江戸期まで「豊前坊」と称した)に祀られ、欲深い者には罰を、心正しき者には加護を与える賞罰両面の天狗として、九州の山岳信仰に深く根を張ってきた。
詳しく見る豊前坊は、京の愛宕山太郎坊・近江の比良山次郎坊・鞍馬山僧正坊・信濃の飯綱三郎・大峰山前鬼坊・伯耆の大山伯耆坊・讃岐白峰の相模坊と並ぶ日本八天狗の一に数えられ、九州じゅうの天狗を束ねる頭目とされた[4]。その性格は単なる妖魔ではない。むしろ賞罰を司る神に近い。配下の天狗たちを使い、欲深い者や驕り高ぶる者に対しては子供を攫い、家に火を放って罰を下す。一方で心正しき者には願いを聞き届け、その身辺を守護する――という賞罰両面の厳しくも頼もしい伝承が、英彦山一帯に色濃く残る[4]。山に入る者の心を見透かし、敬虔な者を助け不遜な者を罰するこの性格は、まさに修験の山の戒律を人格化したものといえる。天狗研究の集大成として知られる知切光歳『天狗の研究』(1975)も、こうした地方の大天狗たちの伝承を丹念に拾い上げ、豊前坊を九州天狗界の総帥として位置づけている[6]。

豊前坊を祀るのが、英彦山の北岳中腹、巨大な岩壁を背に鎮座する高住神社である。同社は江戸時代まで社名そのものを「豊前坊」と称しており、社名が天狗信仰の名残をそのまま留めている[4]。主祭神は豊日別命――豊前・豊後の国土を人格化した古い神とされ、その上に天狗信仰が幾重にも習合した形をとる。神と天狗、修験と神道が分かちがたく溶け合うこの聖地は、明治の神仏分離で多くの修験霊場が打撃を受けたなかでも、天狗の山としての記憶を今に伝えている。境内に立つと、修験の山が育てた験力への畏敬が、神と天狗のあわいで結晶しているのが感じ取れるはずだ。
筑後川の河童王国――肥後を追われた総大将・九千坊
阿蘇に源を発し、筑紫平野を貫いて有明海へ注ぐ筑後川は、流域面積で九州最大の河川である。古来その流れは荒く、一夜で流路を変えてしまうことから「一夜川」とも呼ばれ、たびたび洪水で田畑と命を奪った。水と人とがこれほど切実に向き合う土地は、おのずと「水の怪」の本場となる。福岡、わけても筑後川流域は、全国でも屈指の河童伝承の宝庫である。河童はもともと水神が零落した姿とも、田の神が春秋に山と川を行き来する信仰の名残ともいわれ、馬を水中へ引き込もうとする「駒引き」の怪としても語られる。その起源と分布をめぐっては、民族学者・石田英一郎の比較研究『河童駒引考』(1948)が、ユーラシア規模の水馬信仰のなかに河童を位置づけた古典として知られる。

河童
河童は、川や池、沼などの水辺に棲むとされる、日本でもっとも名高い妖怪の一つである。背丈は四、五歳の子どもほどで、頭の上に水をたたえた皿(さら)をいただき、背に甲羅、口は嘴(くちばし)、手足には水かきをもつ。体は緑や赤がかった色で、生臭いともいう。この頭の皿こそが力の源で、皿の水がこぼれたり乾いたりすると、たちまち力を失うと信じられてきた。それゆえ、河童に深くお辞儀を返させて皿の水をこぼさせ、捕らえるという知恵も語り継がれた。 河童には、人や馬を水へ引きずり込んで命を奪う恐ろしい一面と、約束を固く守り、相撲を好み、ときに接骨の妙薬を伝える律儀な一面とがある。全国に広く分布し、土地ごとにガラッパ、メドチ、エンコウ、ヒョウスベなど、八十をこえる呼び名をもつ。日本の妖怪のなかでも、これほど深く地域に根を張った存在は珍しい。
詳しく見る筑後川流域、とりわけ久留米市田主丸町には、いまも二十数体に及ぶ河童の石像や碑が点在し、祇園社には「河の殿様」と呼ばれて長く崇められてきた木像まで伝わる。

河童をめぐる伝承がこれほど濃密に堆積した背景には、治水と水難という現実の切実さがあった。川を恐れ、その主たる存在に祈り供物を捧げることが、河童信仰の土台にある。子供が川で溺れぬよう、馬が水に引き込まれぬよう――河童の話は単なる怪談ではなく、川とともに生きる暮らしの知恵でもあった。
この筑後川の河童群を束ねる総大将が、九千匹の眷属を率いるという九千坊である。伝承によれば、九千坊はもと肥後の球磨川に九千匹もの一族とともに棲んでいた。だがその傍若無人な振る舞い――婦女子を攫い、清正の寵童を害したとも伝わる――に怒った肥後の領主・加藤清正が、河童の天敵である猿を九州じゅうから集めて攻めさせ、川には毒と焼けた石を投じた。なすすべなく肥後を追われた九千坊一族は、海を渡って筑後川へと落ちのびたという[7]。

九千坊
九千坊(きゅうせんぼう・くせんぼう)は、九州の河童をすべて束ねる総大将とされる伝説的な妖怪である。江戸の『本朝俗諺志』によれば、もとは中国の黄河から一族を率いて肥後の八代(やつしろ)に渡来し、球磨川(くまがわ)に住みついた河童で、その数が九千に達したことから、頭領を「九千坊」と呼んだという。 姿そのものは河童と変わらず、特別な異形をもつわけではない。九千坊を際立たせるのは、姿ではなく、西国の河童九千匹を従える「長(おさ)」としての立場である。一国を脅かすほどの力をもちながら、河童の天敵である猿には弱いという河童の本性を、そのまま大きな規模で体現する存在でもある。のちに筑後川へ移り、水難から人を守る水神の眷属へと転じた、改心の物語をもつ点でも知られる。
詳しく見る筑後川にたどり着いた九千坊は、久留米藩主・有馬侯に願い出て、「人畜に害をなさぬこと」を条件に川に棲むことを許された。これに深く感謝した九千坊一族は、以後、久留米水天宮の御護り役となり、領民を水害から守ることを誓ったと伝わる[7]。久留米水天宮は全国の水天宮の総本宮で、安産と水難除けの信仰を全国から集める社である。暴れる水の怪が、約定によって人と和解し、社の眷属=守り神へと転じる――この構図は、怨霊が天神へ昇華した道真の物語と見事に響き合う。荒ぶるものを退治するのではなく、契りを結んで祀り、味方に変える。福岡の妖怪文化を貫くのは、まさにこの想像力である。ただし、この九千坊譚は加藤清正(1562-1611)以降、すなわち近世に整えられ語り継がれた伝承であり、歴史的事実として裏づけられるものではない。あくまで久留米の地に根づいた信仰の物語として読むべきものである。
河童文学の系譜も、福岡を語るうえで忘れがたい。旧遠賀郡若松(現・北九州市若松区)に生まれた芥川賞作家・火野葦平(1907-1960)は、生涯にわたって河童をこよなく愛した。自宅を「河伯洞」――河童(河伯)の棲む洞、の意――と名づけ、その二階の書斎で小説・随筆・童話にわたる百を超える河童作品を書き続けた。「河童は私の文学の支柱である」とまで言い切ったその情熱は、北九州の風土に深く根ざしている[8]。代表的な説話集『河童曼陀羅』(1957)は、もとNHKラジオの朗読番組に発した連作で、各地の河童説話を北九州の作家の眼差しで近代文学のなかへ繊細に編み直した仕事である[9]。筑後の田主丸の石像から、遠賀の河伯洞の文学まで、福岡における河童は一貫して人の暮らしのすぐ隣に棲み続けてきた。
夜道の見えぬ壁――遠賀郡のぬりかべ
最後に、福岡が日本の妖怪史に刻んだもうひとつの名がある。ぬりかべである。夜道を歩いていると、突如として目の前に壁が立ちはだかり、前へ進めなくなる――横へよけようとしても壁は左右どこまでも続き、上を叩いてもどうにもならないが、棒で下のほうを払うと消えるという。

広大な平野や海辺の闇のなか、進むべき道を見失う心細さを、形なき「壁」の怪として語った素朴な怪異である。

ぬりかべ
夜道で行く手をふさぐ見えない壁として語られる妖怪。歩行者は突然進めなくなり、手探りしても平らな面に阻まれるように感じるという。多くは暫く立ち止まる、脇へそれる、棒で足元を払うなどすると解けるとされる。姿は本来定まらず、見えないもの、あるいはのっぺりした壁状と語られることが多い。人を食らうなどの害は乏しく、道迷いを起こす厄介者として恐れられた。水木しげるの作品で広まった長方形の壁の姿は、後世に定着した造形である。
詳しく見るこの怪異が広く知られるようになった出典は、民俗学者・柳田國男が雑誌『民間伝承』(第37号・1938)に発表し、のち『妖怪談義』(1956)に収めた連載「妖怪名彙」である。そこには「ヌリカベ。筑前遠賀郡の海岸でいふ。夜路をあるいて居ると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といつて怖れられて居る。棒を以て下を拂ふと消えるが、上の方を敲いてもどうもならぬといふ」と記されている[10]。すなわちぬりかべは、もともと福岡県遠賀郡の海岸地方――火野葦平の故郷と地続きの土地で語られていた、れっきとした筑前の怪異だったのである。実際、遠賀の地には「ぬりかべ岩」と呼ばれる巨岩も伝わり、地名と怪異の結びつきの深さをうかがわせる。
ここで史実と創作の層を厳密に分けておきたい。柳田が記録したのは、あくまで「行く先が壁になり進めなくなる」という体験談であって、原文に「目に見えない壁」とも「目鼻のある壁」とも明記はない。今日、多くの人が真っ先に思い浮かべる、目と手足を備えた巨大な四角い壁の姿は、水木しげるが『ゲゲゲの鬼太郎』のために創作した造形である。水木は、古典の絵図を持たず文献と口承のなかにしか存在しなかった妖怪に、独自の図像を与えた。みずからも南方ラバウルで巨大な壁に行く手を阻まれた体験を語っており、その実感がキャラクターに結実したともいう。つまりぬりかべは、福岡の海辺で口承されてきた土俗の怪異が、戦後の漫画とアニメによって国民的キャラクターへと姿を変えた、稀有な事例なのである。伝承の核は福岡の遠賀にあり、世界に広まった愛嬌ある姿は現代の創作にある――この二層をきちんと分けて読むことこそ、妖怪を正しく愛でる作法だろう。
妖怪を貫く一本の論理――「祟り」を「霊力」に変える
ここまで見てきた福岡の四つの妖怪――道真の怨霊・天神、英彦山の天狗、筑後川の九千坊、遠賀のぬりかべ――は、一見すると種類も性格もばらばらに見える。だが並べてみると、根底に同じ論理が流れていることに気づく。それは「人に害をなしうる強大な力を、退治して消し去るのではなく、敬い祀ることでこちらの味方に転じさせる」という思想である。
怨霊は最も典型的だ。道真の怒れる霊は、放っておけば京を災厄で焼き尽くす。だが手厚く祀り、官位を追贈し、社殿を建てて天神として崇めれば、その力はそっくり学問・文芸を守る恩寵へと反転する。九千坊もまた、肥後では暴れ者として猿に攻め立てられ討伐の対象となったが、筑後川では約定を結ぶことで水難除けの守護神に変わった。討伐(肥後)と祭祀(筑後)――同じ河童に対するこの正反対の処し方の対比が、福岡的な解決法を際立たせている。豊前坊の天狗ですら、不遜な者を罰し敬虔な者を守るという賞罰の神であり、敵にも味方にもなりうる力として畏敬された。
この「強い力を畏れつつ祀って取り込む」発想は、おそらく大陸と向き合い、たびたび災害や外敵に晒されてきたこの地の歴史と無縁ではない。制御しがたいものを力ずくで排除するのではなく、距離を保ちながら祀り上げて共存する――福岡の妖怪文化は、その知恵の結晶なのである。
海と大陸が運んだもの――福岡妖怪の地理
福岡の妖怪をもう一段深く理解するには、この地が「海の県」であることを思い出す必要がある。北は玄界灘を隔てて朝鮮半島・大陸と向き合い、博多はその昔から国際交易の港であった。古代には遣隋使・遣唐使がここから旅立ち、鴻臚館で外国の使節を迎えた。鎌倉時代には元寇の戦場となり、博多湾沿いには今も防塁の遺構が残る。海の向こうから来るものへの畏れと期待が、この地の文化に独特の緊張を与えてきた。河童が古代に大陸の黄河あたりから渡ってきたという荒唐無稽な伝承すら、海を介して異物が流れ着く港町の感性を反映している、と読めばまた味わい深い。
南の有明海は、これと対照的にゆるやかで、干潟と泥の海である。筑後・柳川の水郷地帯は無数の堀割が網の目を成し、水と人の距離がきわめて近い。河童伝承がこの地に濃く根づいたのは偶然ではない。玄界灘の荒い外海と有明海の柔らかな内海、そのあいだに筑紫平野と筑後川が広がる――福岡の妖怪は、この多様な水辺の地理がそのまま生んだものでもある。山にあっては英彦山の修験が天狗を、水にあっては筑後川の脅威が河童を、都市にあっては大宰府の政治が怨霊を育てた。地形ごとに異なる妖怪が立ち上がる、その豊かさが福岡の特色である。
結び――辺境が神を生む地
福岡の妖怪を並べてみると、ひとつの揺るがぬ共通項が浮かぶ。都を追われた貴人が怨霊となり、やがて学問の神・天神となった大宰府。修験者の験力が大天狗に結晶し、賞罰を司る頭目を生んだ英彦山。肥後を追われた河童の一族が約定を結び、水難除けの守り神となった筑後川と久留米水天宮。そして海辺の闇に立ちはだかる名もなき壁が、戦後の漫画の主役へと転生した遠賀郡。いずれも「外から来て、この地で異形となり、やがて祀られ、あるいは語り継がれる」という同じ物語の変奏である。
中央から見れば西の果ての辺境であったこの地は、だからこそ、恐れと畏れを神へと昇華させる強靭な想像力を育てた。怨霊を学問の神へ、暴れ川の怪を水難除けの守り神へ、修験の山の霊威を賞罰の天狗へ、海辺の不安を愛嬌ある妖怪へ。福岡県の妖怪文化とは、祟るもの・恐ろしいものをただ退治して終わらせるのではなく、祀り、契りを結び、和解させて味方に変える――そうした九州北部の精神史そのものなのである。受験生が天神さまに手を合わせ、川辺の子供が河童に気をつけ、登山者が高住神社で天狗に頭を垂れる。福岡の妖怪たちは、いまも人々の暮らしのなかで静かに生きている。

