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佐賀県 海と泥がうむ妖異。佐賀県の妖怪事典

鍋島の化け猫・有明の不知火・龍宮の神社姫。肥前の海と泥に棲む怪

海と泥がうむ妖異。
佐賀県の妖怪事典

佐賀県 · さが

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佐賀県は、北に玄界灘、南に有明海をいだく肥前の地である。北の海は朝鮮半島へと開け、加唐島や神集島のような離島が点々と浮かぶ外海の世界。半島との往来は古代にさかのぼり、加唐島には百済の武寧王生誕の伝承さえ残る。一方、南の海は干満差が日本最大級にもなる遠浅の泥海で、引き潮のあとには見渡すかぎりの干潟がひろがる。ムツゴロウが跳ねるその泥の海は、海であった場所がやがて泥になり、泥がまた海へ還る、たえず姿を変える境界の世界である。この二つの海にはさまれ、内陸には筑後川と嘉瀬川が運んだ低湿の沖積平野が横たわる。海と泥と水路 ── 佐賀の妖怪は、ほとんどがこの水の境界から生まれている。

政治の中心には、龍造寺氏の村中城を鍋島氏が拡張した佐賀城があった。多布施川の水を引き込み、いざという時には本丸以外を水没させる構えから「沈み城」と呼ばれた水の城である。その城の奥座敷で語られたのが、日本三大怪猫伝の一に数えられる鍋島の化け猫騒動だった。海の怪、泥海の怪火、川辺の河童、そして城の化け猫 ── 本稿は、肥前という土地の地理と歴史をたどりながら、佐賀に棲みついた七つの妖異を順に訪ねていく。それぞれの怪が、なぜほかでもない佐賀の地に像を結んだのか。その問いの答えは、いつも水のかたわらにある。

二つの海にはさまれた肥前

佐賀の妖怪文化を理解するには、まずこの土地の地理を頭に入れておきたい。古代の肥前国は、現在の佐賀・長崎にまたがる広い領域で、有明・玄界の二つの海に深くかかわってきた。北の玄界灘は朝鮮半島・大陸への玄関口で、唐津・呼子の港からは古来、無数の船が外海へ漕ぎ出した。加唐島・神集島・松島といった離島が点在し、それぞれに海の信仰と怪異の伝承を抱えている。一方、南の有明海は閉ざされた内海で、筑後川・嘉瀬川・六角川が運ぶ泥が広大な干潟を育てた。干満差は六メートルにもおよび、潮が引けば数キロの泥の平原が現れ、満ちればそれが海に戻る。

有明海の干潟。日本最大級の干満差がもたらすこの広大な泥の海は、一日に二度、海であった場所が泥になり、泥がまた海へと還る。この「海でも陸でもない」不安定な空間こそが、佐賀の多彩な境界の怪異を育てた土壌である。
有明海の干潟。日本最大級の干満差がもたらすこの広大な泥の海は、一日に二度、海であった場所が泥になり、泥がまた海へと還る。この「海でも陸でもない」不安定な空間こそが、佐賀の多彩な境界の怪異を育てた土壌である。

この「海でも陸でもない時間」が一日に二度くりかえされる土地で、人びとは境界というものに敏感だった。境界は、異なる世界が触れ合う場所であり、妖怪が立ち現れる場所でもある。海の怪、川の怪、そして暦の境目に吹く風 ── 佐賀の妖異は、ことごとくこの境界の感覚から生まれている。政治の世界もまた境目に満ちていた。中世の肥前を支配した龍造寺氏から近世の鍋島氏への権力の移行は、その最たるものだった。妖怪はその継ぎ目にも宿る。まずは、その政治の境目から生まれた城の怪 ── 化け猫から見ていこう。

沈み城の奥 ── 鍋島の化け猫騒動

佐賀の妖怪を語るとき、まず外せないのが城の化け猫である。有馬・岡崎と並べて日本三大怪猫伝の一に数えられ、講談・芝居を通じて全国に化け猫像を広めた立役者でもあった。

化け猫

ばけねこ

古い猫が年を経て妖力を得たとされる動物変化の一。人に化け、人語を話し、死者を操り、家に祟るなど多様な怪をなすとされ、しばしば尾の裂けた猫又と混同される。行灯の油を舐める所作は怪異の兆しと見なされ、尾の長い猫ほど化けやすいとの俗信もあった。近世には都市に暮らす身近な猫へ神秘性が投影され、版本・浮世絵・芝居を通じてその像が大きく広まった。

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物語のあらすじはこう伝わる。佐賀二代藩主・鍋島光茂の碁の相手をつとめた龍造寺又七郎が、些細なことで光茂の不興を買い斬殺される。悲嘆した又七郎の母は飼い猫に胸の内を語って自害し、その血をなめた猫が化け猫となって城に忍び込み、夜ごと光茂を苦しめる。やがて忠臣・小森半左衛門が怪猫を退治し、鍋島家は救われる ── という筋立てである。

だが、これは史実ではない。背後にあるのは、戦国大名・龍造寺隆信の死後、その重臣だった鍋島直茂が実権を握り、隆信の孫・高房や子の政家が相次いで世を去ったという、肥前のお家の記憶である。九州の覇を競った龍造寺隆信は天正12年(1584)の沖田畷の戦いで島津勢に討たれ、以後、政務は補佐役の直茂の手に移った。形のうえでは穏当な権力の継承であったが、龍造寺の血筋が衰えていく不穏さは、城下の人びとの胸に澱のように残った。その遺恨を、人びとは想像上の猫の怪としてかたちにした。直茂が龍造寺の霊を鎮めるため天祐寺を建てたとも伝わる。なぜ猫だったのか ── 近世の城下では、行灯の油をなめ、人語を解し、年を経て尾を裂くと信じられた猫が、もっとも身近な変化の妖怪だった。その身近さに、貴人の怨念という重い主題が宿ったとき、化け猫騒動は生まれた。

鍋島の化け猫騒動。龍造寺から鍋島への政権交代の影を映したこの怪猫伝は、江戸後期の芝居や講談を通じて全国に広まった。障子に映る巨大な猫の影は、旧家の遺恨という政治の闇が、身近な飼い猫の怪異へと転じた姿である。
鍋島の化け猫騒動。龍造寺から鍋島への政権交代の影を映したこの怪猫伝は、江戸後期の芝居や講談を通じて全国に広まった。障子に映る巨大な猫の影は、旧家の遺恨という政治の闇が、身近な飼い猫の怪異へと転じた姿である。

この怪談が一気に広まったのは、嘉永6年(1853)に三世瀬川如皐が書いた歌舞伎『花嵯峨猫魔稗史』によってだった ── ただし佐賀藩の抗議で上演が中止されたとも語られ、藩の権威に触れる危うさをはらんでいた。実在の藩を題材にできないため、舞台では地名や人名を別の物語へ移し替える趣向がとられた。それでも観客は、その下に肥前佐賀の影を読み取った。明治以降は講談・映画へと姿を変え、佐賀の化け猫は有馬・岡崎と並ぶ三大怪猫伝の一として全国に知られていく。なお岡崎の猫騒動は歌舞伎の創作色が強く、これに代えて徳島のお松大権現を三大の一に数える説もある。いずれにせよ、城という権力の中枢の奥に、年経た飼い猫の妖異が棲むという構図は、肥前の政治史と近世の俗信が出会った地点に立ち現れた、佐賀ならではの怪である。

有明海の泥 ── 不知火という海の怪火

城を出て南へ向かえば、日本一の干潟をもつ有明海にたどりつく。佐賀の妖怪文化のもう一つの核は、この遠浅の泥海と、それに連なる八代海に現れる怪火 ── 不知火である。

不知火

しらぬい

不知火は九州沿岸、とくに八代海や有明海に現れるとされた怪火。旧暦八月一日(八朔)前後の風弱い夜、沖に親火が一、二つ生じ、左右に分かれて数を増し、数百から数千の火が横に連なるという。海面近くからは見えにくく、高所からよく見えるとされ、近づけば遠ざかるとも伝えられる。千灯籠・竜灯とも称され、出漁を忌む予兆として恐れられた。今日では蜃気楼に類する大気光学現象と解されている。

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不知火は、旧暦八月一日(八朔)前後の風弱い夜、沖に一つ二つの「親火」が生じ、それが左右に分かれて数を増し、数百から数千の火が横一線に連なる現象として語られた。火列は数キロにわたって連なるとも伝わる。海面近くからは見えにくく、丘や高所からよく見え、近づこうとすれば遠ざかる ── この「近づけば逃げる火」という性質こそ、漁師たちに不知火を尋常ならぬものと信じさせた。千灯籠・竜灯とも称され、その夜の出漁を忌む予兆として恐れられた。

名の由来は古い。『日本書紀』景行紀は、景行天皇が九州を巡るさなか、葦北から海を渡って進路を見失った夜、遠くに赤々とした火が現れ、その火に向けて舵を取らせて無事に岸へ着いたと伝える。土地の者に「誰が灯した火か」と問えば「知らぬ」と答えたことから、この火は「不知火(しらぬひ)」と名づけられたという。火が天皇を導いたという神話の記憶は、のちに「火の国」── 肥後・肥前を含む古代の地域名の由来とも結び付けられた。神話に淵源をもつ怪火が、近世には漁村の暦の中へ降りてきたのである。

八代海に面する永尾剱神社は、不知火観望の名所として知られる。今も旧暦八月一日の未明、潮が最も引く頃合いに人びとが参集し、沖の親火と分火を待つ習いが残る。観望の好機は満潮から大きく潮が引いた深夜から未明にかけてで、気温と海面温度の差が大きいほど火がよく立つという。不知火は有明海ぞいの佐賀の沿岸でも語られ、夜の海に灯る無数の火は、漁村の暮らしと信仰のなかに深く根を張っていた。今日では、漁火や陸の灯火が大気の異常屈折で像を結ぶ蜃気楼の一種と解されている。だが、その科学的説明が、神話と暦と漁師の畏れを千数百年にわたって束ねてきた火の文化的重みを減じることはない。むしろ自然現象だからこそ、それは毎年同じ夜に律儀に現れ、人びとは今もその火に名と物語を重ねつづけている。

龍宮の使者 ── 神社姫とアマビエの前史

同じ有明・玄界の海から、まったく性格の異なる怪も現れた。災いを「予言」し、その姿を写し見ることで難を逃れさせるという予言獣 ── 神社姫である。

神社姫

じんじゃひめ

江戸後期、肥前国の浜に出現したと伝わる予言獣的な人魚類。顔は人、体は魚で、腹は紅色、二本の角と三つ叉の剣形の尾を持つとされる。自らを「龍宮よりの使者・神社姫」と名乗り、豊作ののちに流行病「ころり」が広まると告げ、写し絵を見れば難を逃れ長寿を得ると宣した。『我衣』などに板行・写し絵の文言が記録され、護符として各家に掲げられた。

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加藤曳尾庵の随筆『我衣』によれば、文政2年(1819)4月、肥前の浜に全長二丈余の異魚が現れた。顔は人、体は魚、腹は紅色、二本の角と三つ叉の剣形の尾をもつ。自らを「龍宮よりの使者・神社姫」と名乗り、向こう七年の豊作と、その後に流行する病「ころり」を予言し、わが姿を写した絵を見れば疫を避け長寿を得られると告げて去ったという。「ころり」は、急激に人を死に至らしめる流行病で、のちのコレラを思わせる。この文言と図は瓦版として板行され、行商の手で各地へ広まり、護符として家々の柱や戸口に掲げられた。類例として平戸の「姫魚」、越後の「大神社姫」「人魚之図」などがあり、いずれも出現と予言、そして写し絵の効験を唱える点で共通する。神社姫はその嚆矢ともいえる存在だった。

肥前の浜に現れた神社姫。文政2年(1819)に現れ、豊作と疫病を予言したとされるこの龍宮の使者は、瓦版を通じて護符として広く流通した。後のアマビエへと連なる「予言獣」の系譜は、大陸へと開けた九州西岸の海から始まったのである。
肥前の浜に現れた神社姫。文政2年(1819)に現れ、豊作と疫病を予言したとされるこの龍宮の使者は、瓦版を通じて護符として広く流通した。後のアマビエへと連なる「予言獣」の系譜は、大陸へと開けた九州西岸の海から始まったのである。

神社姫が重要なのは、それが疫病退散の妖怪として2020年に世界的に再注目されたアマビエの、約四半世紀前を行く先行例だという点である。出現を告げ、豊凶と疫病を予言し、写し絵に効験を宿す ── この予言獣の型は、弘化3年(1846)に肥後の海に現れたとされるアマビエへと受け継がれていく。アマビエが肥後(熊本)なら、神社姫はその隣、肥前(佐賀・長崎)の海から生まれた。同じ九州西岸の海が、予言する海の女怪を続けて世に送り出したことになる。海の彼方に龍宮があり、そこから使者が訪れて未来を告げるという信仰は、半島と大陸へ開けた九州西岸の沿岸文化に深く根ざしている。その古い海の信仰が、近世商業出版の瓦版という新しい器を得て、疫病という人びとの最大の不安を妖怪のかたちで流通させた ── 神社姫は、海の信仰と出版文化が交わる地点に立つ、格好の標本である。文政2年の浜は史料の上では「肥前」とのみ記され、平戸沖とする伝えもあって、佐賀・長崎の県境にまたがる肥前の海全体が、この姫の故郷だといってよい。

玄界灘の島 ── 磯女と磯撫で

北の海へ視点を移そう。佐賀県最北端、唐津市鎮西町の沖に浮かぶ加唐島は、百済の武寧王生誕の伝承をもち、『日本書紀』に「各羅島」と記された朝鮮半島との交通の要衝である。椿が自生し猫が多いこの島には、海辺の女怪・磯女が伝わる。

磯女は、天草・島原・対馬・加唐島など九州北西部の沿岸に出没する女の海怪である。砂浜や磯辺、停泊中の舟に近づき、長い髪で人にまとわりついて生血を吸うとされる。上半身は美しい女に近いが、下半身は朧ろとも蛇状ともいい、背後から見れば岩にしか見えないとも語られた。長崎県南島原では、磯女が沖を凝視し、声をかけた者に甲高い叫びを放って髪を絡め、生血を吸うと伝わる。天草では夜、艫綱を伝って船に忍び込み、眠る者に髪を被せて害するため、見知らぬ港では艫綱を取らず錨だけを下ろす習いがあったという。島原半島では、苫の茅を三本着物に乗せて寝れば避けられるともいう。陸でも沖でもない、磯辺という陸と海の境にこそ立つ ── 海坊主や船幽霊が沖の舟を直接襲うのとは異なる、境界の女怪である。北九州には磯女を蟹の化身とする説もあり、水死者の霊と結びつける土地もあった。加唐島という外海の離島にこの怪が伝わるのは、半島へ開けた玄界灘の航海文化が、よその港で夜を明かす船乗りの不安 ── 見知らぬ岸辺で、夜、何かが舟に這い上がってくるかもしれないという恐れを、女と髪と血をめぐる像に結晶させたためだろう。

玄界灘の磯女。加唐島などの九州北西部の沿岸に伝わるこの境界の女怪は、夜、岩場に停泊する船の艫綱を伝って忍び込み、眠る者の血を吸うと畏れられた。見知らぬ港で夜を明かす船乗りたちの不安が、このような像を結んだのだろう。
玄界灘の磯女。加唐島などの九州北西部の沿岸に伝わるこの境界の女怪は、夜、岩場に停泊する船の艫綱を伝って忍び込み、眠る者の血を吸うと畏れられた。見知らぬ港で夜を明かす船乗りたちの不安が、このような像を結んだのだろう。

同じ玄界灘の海には、姿なきサメの怪・磯撫でも棲む。外見はサメに似るが、尾びれに無数の細かい針を備える。北風が強い折に現れ、海面を撫でるように近づき、人目につかぬまま尾の針で船上の人を引っ掛けて海中へ落とし、呑み込むという。肥前松浦などでは、海の色がふと変わり仰ぐような風を感じたとき、すでに磯撫での尾が海面に現れている前触れとされた。姿は人を襲う刹那まで見えず、気づいた時には尾の針に絡め取られている ── この「見えなさ」が、磯撫でを海難そのものの擬人化に近いものにしている。天保12年(1841)の桃山人作・竹原春泉斎画『絵本百物語』は、肥前松浦の沖に「礒撫」を描き、その姿をフカ(大鮫)に擬し、尾を上げて船人を撫で海へ引き込むと記す。本草書には巨口鰐の名でも見え、三重県熊野地方では海辺の変死に際し「磯撫でに撫でられた」と語られた例もあるが、その名と最も濃い縁をもつのは石燕らの絵師が描いた西海 ── 肥前松浦の沖である。磯女が「触れる女怪」なら、磯撫では「撫でる魚怪」── 玄界灘の荒れ海は、人の身体にそっと触れて連れ去る二様の怪を、対のように生み出したのである。

川と田の境 ── 肥前の河童ひょうすべ

海から内陸の水路へ。低湿の佐賀平野を縦横に走る川は、九州ならではの毛深い河童・ひょうすべの棲み処だった。

へうすへ

ひょうすべ

へうすへ(ひょうすべ)は、九州各地に伝わる、水辺にかかわる毛深い妖怪である。河童と同類、あるいは近い仲間とされ、彼岸のころに川から山へと行き来するともいう。「ヒョーヒョー」と鳥のように鳴くことから、その名がついたと語られる。茄子(なす)を好み、初物の茄子を供える習俗が一部に残る。人家の風呂に忍び込んで湯を使い、あとの湯に体毛が大量に浮いていた、という話がよく知られ、その姿を見た者は熱病にかかるとも伝えられる。

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ひょうすべ(へうすへ)は、河童と同類、あるいは近い仲間とされる毛深い妖怪である。「ヒョーヒョー」と鳥のように鳴くことから名がついたといい、彼岸のころには川から山へと行き来するとも伝わる。佐賀や長崎では、河童をガワッパ、ガアタロと呼ぶ一方、ひょうすべ、ヒョウスボなどさまざまに呼び分け、その境界はしばしば入り混じった。茄子を好み、初物の茄子を供える習俗が一部に残った。もっとも知られるのが、湯と馬にまつわる祟りの話型である。毛深いひょうすべが浸かったあとの風呂の湯には大量の体毛が浮き、その湯に馬が触れて死んだ、湯を抜いた者が祟られて馬を殺された、という話が各地に伝わる。畑では茄子を荒らすともいい、初物を供えて機嫌をとった。

佐賀でこの河童が特別なのは、確かな縁起と祀る場所をもつ点にある。肥前の軍記『北肥戦誌』の伝えるところでは、その名は「兵主部」── すなわち兵部に支配された者の意で、天平年間の春日大社造営の折に職人が秘術で命を吹き込んだ人形が、用済みののち川へ捨てられて河童と化したものという。橘氏の祖が勅命を受けてこれを鎮め、以来ひょうすべと呼ばれた。後世、橘氏の末裔・橘公業が嘉禎3年(1237)に伊予から肥前武雄へ移り住んで潮見城を築いた際、ひょうすべもまた主に従い、潮見川へ移ってきたと語られる。武雄市の潮見神社は、その河童を祀る社として知られる。さらに佐賀城下では、藩祖・鍋島直茂が松原川の河童を改心させ、水辺の守り神に転じさせたという伝えも残る。妖怪が、退治される側から土地を守る側へと反転していくこの語りは、水路と田に深く依存した佐賀平野の暮らしと、ひょうすべがいかに密接に結びついていたかを物語る。

江戸期の絵巻や図譜にも、毛深く禿げ頭で、どこか滑稽なその姿が描かれた ── 佐脇嵩之の元文2年(1737)『百怪図巻』や鳥山石燕の『画図百鬼夜行』、寺島良安の『和漢三才図会』がそれである。「見ただけで必ず死ぬ」といった過激な言い方は後世の誇張で、本来は家の中の衛生や禁忌、そして田の神信仰と結びついて穏やかに語られた、暮らしのそばの妖怪だった。今日でも佐賀では「おばけ街道」と銘打った地域の催しに登場するなど、ひょうすべは退治されるべき害ではなく、水辺を見守る土地の象徴として親しまれている。

全国の海怪のなかの佐賀

ここまで見てきた怪を、全国の妖怪分布のなかに置きなおしてみると、佐賀 ── 肥前の特異さがよく見える。海辺の女怪は各地にいるが、髪と血をめぐる磯女のかたちは、天草・島原・対馬から加唐島へと連なる九州北西部の沿岸に固有のものだ。予言獣もまた、神社姫・姫魚・アマビエと、肥前から肥後にかけての西海岸に集中して現れた。怪火は全国に龍灯・狐火の類があるが、八朔の夜に親火が分かれて数千に増える不知火は、有明・八代という特定の内海でしか語られない。河童は日本中にいるけれども、人形が化したという縁起と社をもつひょうすべは、肥前を中心とする九州の語りである。

これらに共通するのは、いずれも「水の境界」を舞台とする点だ。京都の妖怪が平安京という都市と宮廷文化から高位の妖異を生んだのとは対照的に、佐賀の妖怪は、海と泥と川という自然の境界から、生活に密着した怪を立ち上げた。貴族や僧の書物よりも、漁師の禁忌、船乗りの習い、農民の祀り、瓦版を買う庶民の手のなかでこそ、これらの怪は生き続けてきた。佐賀の妖怪は、徹底して暮らしの妖怪なのである。それゆえ、化け猫のように権力の物語に呼び出されたときでさえ、その姿は行灯の油をなめる、どこにでもいる飼い猫だった。

盆の風 ── 精霊風という無形の怪

最後に、姿をもたない妖異を一つ。佐賀から長崎の島嶼にかけての海辺には、盆に吹く不吉の風 ── 精霊風が伝わる。

精霊風

しょうろうかぜ

精霊風は、盆の十六日の朝に吹くとされる不吉の風。実体はなく、当たると急な発熱や悪寒、ふらつきなどの災厄を招くと畏れられた。ここでいう「精霊」は仏教でいう死者の霊(しょうろう)の意で、盆に帰る霊を運ぶ風と解される。五島ではこの日、墓や墓道へ近づかない習俗があり、霊障を避ける忌みとして守られてきた。

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精霊風は、盆の十六日の朝に吹くとされる風である。実体はなく、当たると急な発熱や悪寒、ふらつきといった災厄を招くと畏れられた。ここでの「精霊(しょうろう)」は、仏教でいう死者の霊を指す。盆に帰っていた死者の霊が、十六日にあの世へ戻る ── その霊を運ぶ風が精霊風だと解されたのである。だから人びとはこの日、霊の通り道を避けた。隣接する五島では、この日、墓や墓道へ近づかない忌みが守られ、壱岐では病をもたらす風を死霊風・生霊風と呼び分け、生霊風は胸苦しさを生むという例も報告されている。風そのものが、見えない霊の往来の痕跡として受けとめられていたのである。

各地に魔風と総称される信仰があり、清川ダシやヤマジ、一目連の風のように、局地的な突風が災厄の由来と解された例は全国に珍しくない。だが精霊風が際立つのは、それが盆という死者と生者が往き来する暦の節目に、ぴたりと重ねられている点である。海から帰る不知火、海から現れる神社姫、磯辺に立つ磯女、海面を撫でる磯撫で、川辺のひょうすべ ── 佐賀とその周辺の妖怪はみな水と境界に棲んだが、精霊風はそのなかでただ一つ、空間ではなく時間の境界に吹く風として、この系譜を静かに締めくくる。

結び ── 水の境界が生んだ妖怪たち

こうして佐賀の七つの妖異を並べると、一本の軸が浮かびあがる。玄界灘と有明海という二つの海、それをつなぐ川と干潟、そして盆という時間の節目 ── すべてが「境界」である。陸と海の境に磯女が立ち、海面の上に磯撫でが撫で、沖に不知火が灯り、龍宮の使者として神社姫が予言を告げ、川と田の境にひょうすべが棲み、生と死の境を精霊風が吹き抜ける。城の奥に潜む化け猫さえ、龍造寺と鍋島という旧家と新家の境目に生まれた怨念の化身だった。

妖怪は、人が世界に引いた境界線の上に立ち現れる。日本最大級の干満差をもつ有明海では、海であった場所が泥になり、泥がまた海に還る ── その境目の不安定さこそ、肥前の地に多彩な怪を呼び寄せた土壌だったのだろう。佐賀の妖怪を訪ねることは、海と泥と暦が織りなす、土地の境界の物語を読むことにほかならない。

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佐賀県の妖怪一覧8

佐賀県ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

この県の伝承地

山・神社・淵など、佐賀県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

  • 化け猫

    化け猫

    伝説

    ばけねこ

    年経た飼い猫の化け猫

    動物変化日本各地 (鍋島=佐賀・お松大権現=徳島の猫騒動が著名)

    江戸期の版本・浮世絵・口承に現れる典型像を基に整理した化け猫像。年を経た飼い猫、あるいは虐げられた猫が怨霊性を帯びて妖となる。行灯の油を舐める、二足で立つ、人の姿に変じて家に入り込むといった挙動が前兆とされる。祟りの対象は多くが飼い主や加害者で、病や怪死、家運の衰退として現れると語られる。葬送儀礼への干渉や死体への悪戯も型の一つで、僧侶や祈祷で鎮める筋立ても見られる。尾の長短への忌避は近世の俗信に基づき、尾の長い個体が妖力を得ると畏れられた。地域差はあるが、猫又との境は曖昧で、尾の分岐を強調しない語りでは総称的に化け猫とされた。都市部での娯楽作品により怪猫像は洗練され、遊女像と結びついた表象も流布したが、根底には身近な獣への畏怖と報恩・報復観がある。

  • 磯女

    磯女

    名妖

    いそおんな

    磯女 ── 艫綱を伝う海辺の怪

    水の怪九州北西部沿岸 ── 天草(熊本)・島原(長崎)・加唐島(佐賀)・長島(鹿児島)を中心に、五島・対馬、遠く北陸加賀橋立まで異称が及ぶ

    磯女は、九州北西部の海辺に語られる女の海怪である。その姿は、上半身こそ潮に濡れた黒髪を垂らす若い女に見えるが、腰から下は輪郭が定まらず、波や霧に溶けて足跡を残さないとも、蛇の身であるともいう。背後にまわれば、ぬれた岩にしか見えないとも伝わる。長崎県南島原では、磯女は沖を凝視して立ち、声をかけた者に甲高い叫びを返し、長い髪を絡めて生血を吸うとされる。 その本領は、停泊中の舟を襲う点にある。熊本県天草では、夜半に艫綱(ともづな)を伝って舟に忍び込み、眠る者の顔に髪を被せて害する。そのため見知らぬ港で夜を明かすときは、艫綱を岸に取らず、錨だけを下ろす習いが守られた。艫綱という「岸と舟を結ぶ縄」を磯女が道として伝う、という観念がこの作法の根にある。 避けの呪いも各地に伝わる。島原半島では、屋根の苫(とま)から抜いた茅(かや)を三本、着物に乗せて眠れば、磯女の髪が絡まず守られるとされた。柳田國男監修『綜合日本民俗語彙』も、九州の沿岸に分布するこの女の海怪を、磯女・磯女房などの名で書きとめている。 磯女は、海坊主や船幽霊のように沖の只中で舟を直接襲う怪とは性格を異にする。磯辺・停泊地という、陸と海の境にあらわれる点にこそ磯女の特質があるとされ、水死者の怨霊や、夫を待ちわびて果てた女の念と結び付けて語る土地も多い。西日本では、同じ海辺の怪である牛鬼と組んで現れ、牛鬼が人を襲う前に磯女が近づいて油断させるとも伝わる。 髪と血、そして「境界」── これが磯女の像の核である。艫綱を伝い髪を被せるという化けの手順も、錨のみを下ろし苫の茅を供えるという避けの作法も、いずれは漁村の夜の海に対する畏れと、その畏れを御するための知恵として語り継がれてきたものである。

  • 磯撫で

    磯撫で

    名妖

    いそなで

    北風の海に撫づる・磯撫で

    水の怪肥前国松浦(現·佐賀県·長崎県) ── 『絵本百物語』西日本近海の怪魚

    江戸期の奇談や本草の記述に基づく磯撫で像を整理した版。海面を乱さず寄せ、海の色や風の変化のみを兆しとして示す点を重視する。身体はサメ様で、尾から背にかけて粗い突起や針状の器官を持つと語られる。現れる時節は寒風の立つ折が多く、特に北風が強い日に警戒された。船人は賑やかな作業を避け、網や縄を整理し甲板の縁に身を寄せぬなど、海難回避の作法と結びつけて語り継いだ。土地ごとに名称や細部は揺れがあるが、核心は「気づけば遅し」という不可視の接近と、尾の一撃による転落の恐怖である。近世の記録は、海上の危険認識と戒めの語りとしての性格も示す。

  • 藤原広嗣

    藤原広嗣

    名妖

    ふじわらのひろつぐ

    御霊信仰の前触れとなった反乱者の霊

    霊・亡霊肥前国松浦郡 (現·佐賀県唐津市周辺) / 鏡神社

    この版本の藤原広嗣は、怨霊になる前の政治史を背負っている。彼は最初から怪物だったわけではない。藤原氏の一員として中央政治に関わりながら、政争の中で大宰府へ遠ざけられ、吉備真備・玄昉への批判を掲げて兵を挙げた。怨霊性は、その敗北の後に生まれる。 広嗣の乱は、都の権力争いが九州の軍事空間へ移された事件である。大宰府は外交と軍事の要地であり、そこに置かれた広嗣の不満は、単なる個人感情では済まない広がりを持った。兵を集め、追討され、捕らえられ、処刑される。反乱の筋は短いが、その後に残る霊的な影は長い。 この版本で重要なのは、怨霊を「死後に突然発生する幽霊」と見ないことである。日本の御霊信仰では、政治的な不正、無念の死、疫病や災害への恐れ、鎮魂の儀礼が絡み合って霊威が作られる。広嗣は、後の早良親王や菅原道真に連なる構造を早い時期に示す人物として読める。つまり彼は、御霊信仰の前触れである。 鏡神社に関わる伝承は、中央の反乱者が地域の神霊へ転じる過程を見せる。都で敗れた人物の名が、九州の土地に残り、祭祀や伝承の中で鎮められる。歴史の中心から外された者が、周縁の土地で別の中心を得る。この反転は、YOKAI.JP の場所記事とも相性がよい。 玄昉との因縁は、広嗣を物語化する強い糸である。政敵として名指しした僧の後年の不幸を、広嗣の霊の作用として読む語りは、史実の確認とは別に、怨霊譚の想像力を示す。恨みはまっすぐ相手へ返るのではなく、時間を置いて政治・宗教・病の不安を巻き込みながら語られる。 現代のカードや診断では、広嗣は派手な怪物ではなく、記録の行間に残る圧力として表現するとよい。甲冑よりも、太宰府の暗い庁舎、海辺の処刑地、破れた上表、鏡の社、遠い都への視線が似合う。彼は勝者の物語に消されかけた者が、霊として歴史へ戻ってくる型を示している。 広嗣は、怨霊としての姿が派手に固定されていないからこそ、丁寧に書く価値がある。姿が曖昧な霊は、資料の薄さではなく、歴史の層として表現できる。正史に記された反乱、地域に残る祭祀、政敵との因縁が少しずつ重なり、輪郭のはっきりしない圧力になる。そこが彼の怖さである。 御霊信仰のページ群では、広嗣は導入と深掘りの両方に向く。早良親王へ行けば皇位継承の悲劇、菅原道真へ行けば学問神への転化、平将門へ行けば東国の武威が見える。その前段に広嗣を置くと、怨霊がどのように政治史から生まれるかがより長い時間軸で理解できる。 この版本をカード化するなら、顔を恐ろしく誇張するより、破れた上表、遠い都を向く海、鏡神社の社、追討軍の影を組み合わせたい。広嗣は怪物的な外見より、記録と記憶の間に立つ霊である。その控えめな暗さが、YOKAI.JP の重厚な怨霊ラインに合う。

  • へうすへ

    へうすへ

    珍しい

    ひょうすべ

    九州川辺の毛河童・へうすへ

    水の怪肥前国諫早(現·長崎県)+佐賀松原河童社 ── 『和漢三才図会』ヒョウスベ

    この版では、へうすへが「家の中の禁忌」と深く結びついた九州型の河童である点を見る。河童の話の多くが川や淵を舞台にするのに対し、へうすへの話は風呂場や湯屋、そして馬小屋へと入りこんでくる。毛深いへうすへが使ったあとの湯は、体毛が浮いて穢(けが)れたものとされ、その湯に触れた馬が倒れる、湯を勝手に抜いた者が祟られて馬を殺される、という話が各地に伝わる。風呂の湯をいつ抜くか、誰が使うか――そうした暮らしの作法への戒めが、へうすへの祟りという形で語られたのである。 畑では茄子を好んで荒らすとされ、初物の茄子を供えて機嫌をとった。「ヒョーヒョー」という鳥のような鳴き声は、その名の由来とも言われる。江戸期の『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』に描かれた、毛むくじゃらで禿げ頭の滑稽な姿は、恐ろしさよりもむしろ、人の暮らしのすぐそばにいる親しい怪としてのへうすへをよく伝えている。

  • 神社姫

    神社姫

    珍しい

    じんじゃひめ

    肥前龍宮の使者・神社姫

    水の怪肥前国平戸(現·長崎県) ── 『我衣』の予言獣、姫魚系

    加藤曳尾庵『我衣』に写された板行文言に基づく像。人面・二角・紅の腹・三剣尾という特徴を備え、龍宮の使いとして現れ、豊穣と疫病流行を告げたと伝わる。写し絵を戸口に貼る、あるいは拝観することで難除・延命の効験があると喧伝され、各地で図像が流布した。平戸の「姫魚」や越後の類例は図像・詞書が近似し、当時の民間における疫病対策の信仰実践と出版流通の結節点として理解される。起源を具体的生物に比定する説もあるが確証はなく、民俗的には予言獣群(アマビエ・アマビコ等)と同系統の機能を担った存在として扱われる。

  • 精霊風

    精霊風

    珍しい

    しょうろうかぜ

    盆十六日の死霊風・精霊風

    天候・災異肥前国五島列島(現·長崎県) ── 盂蘭盆16日の旋風、当たると急病、長崎島嶼固有

    精霊風は姿なき風として語られ、触れた者に急な悪寒や発熱、立ちくらみをもたらすとされる。盆の十六日の朝に吹くという時期性が重視され、ここでいう精霊は先祖や無縁の死者の霊のことで、帰幽と送魂の境に現世を渡る霊気を運ぶ風と理解される。五島では当日、墓や墓道を避け、外出を控える忌みが徹底される。壱岐では病を風の憑き物と見なし、墓場由来を死霊風、生者の怨み由来を生霊風と名づける例がある。各地の魔風信仰と同系で、季節の疲労や突風など自然条件が民間の説明枠組みと重なり、霊障として語り継がれてきた。妖としての能動的悪意は語られず、期日と場を誤る人に災が及ぶというタブーの形で戒める役割を持つ。

  • 不知火

    不知火

    珍しい

    しらぬい

    八朔の沖の親火・不知火

    水の怪八代海・有明海沿岸 (熊本県・佐賀県・長崎県島原半島)

    「八朔の親火導き」は、不知火のうちでも旧暦八月一日の未明に姿をそろえる格の高い変種である。海岸から数キロ沖にまず一つ、あるいは二つ、里人が親火(おやび)と呼ぶ赤みを帯びた灯が差し、そののち両翼に割れて子火を増やし、やがては百千の火が横一線に列をなす。列は四里から八里にも伸びると語られ、海面に近い浜では見えず、潮風を受ける十間ほどの高みや岬の上からよく映る。引き潮が最も深く息を引く刻、すなわち三つ時を中とした前後二刻に、炎の息は最も揃い、遠見の者は波の裏にひそむ龍の鱗のような明滅を知るという。火は追えば退き、寄れば遠のく。舟を出して掴まえようとすれば、水脈の影ごとするりと身をかわし、ただ進路だけを指し示して近づくことを許さない。古き記に景行の御舟が闇に包まれた折、遠前にこの親火が現れ、舳先を向けしめて岸へ導いたとある。それゆえ里人は、誰が灯したともしれぬ火ゆえの名を畏れ敬い、八朔の夜半には網手を止め、櫂を休め、火の列がほどけるのを待つ習いを守った。親火導きは、荒ぶる龍神の気配と結び付けて語られるが、人を損なうことは好まず、むしろ驕りと拙速を戒める。浅はかに利を急ぐ船は、火の列に惑って沖を彷徨い、やむなく帆を畳む。対して、潮の言葉を聞く者は、浜の松に登って火の呼吸を確かめ、灯の切れ目とともに静かに出る。すると、沖の瀬は思いのほか穏やかで、帰り路には岸影に残り火が揺れ、舟を迎えるという。親火は、里の者が「千灯籠」「竜灯」と唱えて手を合わせるほどの清冽さを湛えるが、人が名を荒く呼び立て、笑い囃すと、列はたちまち乱れ、浜霧となって散る。火は風に煽られて大きくはならず、潮の脈に従ってのみ増え減りする。ゆえに、岬や築山などの高所からは整った帯のごとく見え、波打ち際からは見えない。親火導きは、海辺の社の注連の向きや灯台の火色をも変えると伝えられ、夜、注連縄がわずかに海側へ撓むとき、遠き沖で火の群れが生まれはじめる徴とされる。これを知る古老は、若船に「今日は潮が退き、火が出る。出漁を慎め」と諭す。親火は、人の手の灯と異なり、燃え滓も煙も残さぬ。ただ夜明けの一刻、干潟の貝殻が薄紅に光り、葦の穂先に露が火の名残を宿すという。そうした朝には、村人は浜に塩を撒き、火に導かれた命への感謝を告げる。親火導きは、畏れと礼を知る者には道を開き、思い上がる者には遠ざかり、海と人との境を静かに引き直す怪火である。

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