長崎県ながさき
九州・長崎県に伝わる妖怪 13 体。その土地に根ざした物語と伝承地を辿ります。

神格 豊玉姫
とよたまひめ
海宮の姫·龍宮乙姫の祖型·豊玉姫
神霊・神格鵜戸神宮 (現·宮崎県日南市大字宮浦、 海岸絶壁岩窟·豊玉姫出産洞窟伝承の本宮) / 和多都美神社 (現·長崎県対馬市豊玉町仁位、 海宮伝承地·海中三鳥居·阿曇磯良墓) / 玉前神社 (現·千葉県長生郡一宮町、 上総国一宮·玉依姫を主祭神とし豊玉姫を併祀) / 豊玉姫神社 (現·佐賀県嬉野市嬉野町、 嬉野温泉の美肌信仰)豊玉姫の正体は『古事記』 上巻末·『日本書紀』 神代下 第十段·第十一段に登場する海神·綿津見大神 (ワタツミノオオカミ) の娘である。 神名「豊玉 (トヨタマ)」 の語義について國學院大学古典文化学事業は二説を挙げる: ① 「豊」 = 美称、 「玉」 = 神霊の依り憑く乙女 → 「神聖な巫女」、 ② 「玉」 = 海神の神宝である真珠 → 「多くの真珠で容儀された巫女」。 近年は「真珠だけでなくヒスイ等の石製玉をも含める」 説も。 妹·玉依毘売 (タマヨリビメ) = 「玉に依り憑く巫女」 と対をなす命名で、 古代日本の姉妹巫女制度 (神に仕える複数姉妹) の反映と考えられる ── 海宮統治の二姉妹一対構造は古代日本神話の特色である。 物語の核心は山幸彦との海宮譚と「見るな禁忌」 破りの悲劇である (古事記·日本書紀第十段·第十一段)。 兄·海幸彦の釣り針を失った山幸彦が塩椎神 (シオツチ、 海の翁神) の助けで無目籠 (まなしかたま) に乗って海宮 (綿津見大神の宮殿) を訪れ、 井戸の傍らで豊玉姫と出会い、 一目で結ばれて結婚した。 山幸彦は海宮で三年滞在、 故郷を思い出して涙を流したのを豊玉姫が父·綿津見大神に報告、 海神は鯛 (赤海鯽魚) の喉から失われた釣り針を見つけ出し、 さらに潮盈珠·潮乾珠を授けて山幸彦を地上へ送り返した。 妊娠していた豊玉姫は山幸彦を追って海辺に上陸し、 「他国の人は子を産む時は本国の形に成りて産むなり。 故、 妾今本の身を以て産まむとす。 請ふ、 我をな見たまひそ」 と禁忌を告げ、 鵜の羽で葺いた産屋に籠もった。 山幸彦が好奇心に駆られて覗くと、 豊玉姫は『古事記』 では八尋和邇 (やひろわに、 大きな鮫) の姿で匍匐し身をくねらせていた。 恥じた豊玉姫は児 (鵜葺草葺不合命) を遺し、 海坂 (うなさか、 海と陸の境) を閉じて海宮へ戻った。 妹·玉依姫が地上に派遣されて鵜葺草葺不合命の養育を担当した。 『日本書紀』 神代下 第十段·第十一段は本書·一書 (異伝) でそれぞれ異なる本体を記す: 本書「龍」、 一書一「八尋大熊鰐 (やひろくまわに)」、 一書三「八尋大鰐」、 『先代旧事本紀』 でも「龍」 等の併記。 異伝の多さ自体が古代の海獣信仰の流動性と、 中央 (記紀編纂者) が地方海人族の伝承を統合した痕跡を示す重要な学術論点。 古代日本に爬虫類のワニ (鰐) は生息せず、 『古事記』 の「和邇 (ワニ)」 は通説で鮫 (サメ) ── 歴史学者·喜田貞吉が教科書で「ワニザメ」 と書いたのが流布の起点で、 古語の「ワニ」 は「大型水棲動物」 一般を指したとされる。 一方『日本書紀』 本書が「龍」 と書くのは、 大陸文化 (中華龍信仰) の影響を受けた古代日本の海獣·海神信仰の習合相を示す。 豊玉姫を単純に「龍神」 と呼ぶのは『日本書紀』 本書系の解釈で、 『古事記』 主体なら「八尋和邇 = 鮫·海獣」 が原型と理解するのが学術的に堅い。 「見るな禁忌 (見るなのタブー)」 は学術分類「メルシナ型 (Melusina type) 異類女房譚」 として世界的に分布する神話類型である。 構造は: 異類の妻が「見るな」 を告げる → 夫が禁を破る → 妻が原郷へ去る → 残された子孫が栄える、 という普遍類型。 日本神話内の類例: 伊邪那岐·伊邪那美 (黄泉国訪問·腐乱した姿を見る)·浦島太郎·乙姫 (玉手箱を開ける)·鶴の恩返し (機織りを覗く)·安珍清姫·人魚等。 海外の類例: メルシナ伝説 (フランス)·オルフェウスとエウリディケ (ギリシャ神話)·セレナードの妖精シレーヌ等。 一部研究者は「元来の海幸山幸神話には豊玉姫婚姻譚は無く、 皇統系譜要素を加えるため『古事記』 編纂時に挿入された」 と主張し、 豊玉姫譚を皇統正統化の編纂物として読む見方がある。 皇統系譜上の豊玉姫の位置は決定的に重要である ── 綿津見大神 (海神) → 豊玉姫 (=山幸彦の妻) → 鵜葺草葺不合命 (=玉依姫の夫) → 神武天皇 (初代天皇)。 豊玉姫は神武の父方祖母にあたり、 妹·玉依姫が乳母として地上に派遣されて成長した鵜葺草葺不合命と結婚し神武を生むため、 玉依姫は神武の母 (= 豊玉姫から見れば孫嫁にして妹)。 古代天皇家が海神族を母系祖先に取り込んだ重要な神統譜で、 海人族·阿曇氏との皇統の結節を示す。 主祭神社の代表は鵜戸神宮 (宮崎県日南市大字宮浦 3232)。 海岸絶壁の岩窟内に本殿が鎮座し、 本殿岩窟が豊玉姫が産屋を建て鵜葺草葺不合命を産んだ場所と伝わる。 「お乳岩 (おちちいわ)」 は豊玉姫が海宮へ戻る際、 御子の養育のため左の乳房を岩に貼り付けたとされる岩で、 滴り落ちる「お乳水」 で作られる「おちちあめ」 が現在も授与品として有名。 創建は社伝で崇神天皇代に六所権現として創祀、 推古天皇代に岩窟内社殿創建、 延暦元年 (782) 天台僧·光喜坊快久が別当として再建 (異説並存)。 本殿は八棟造権現造 (1711 改築·宮崎県有形文化財)、 鵜戸海岸は国指定名勝 (2017)、 鬼の洗濯板 (千畳敷奇岩) は県天然記念物。 和多都美神社 (わたづみじんじゃ、 〒817-1201 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮 55) は山幸彦が辿り着いた海宮の古跡と伝える延喜式内社·名神大社。 創建は不詳だが、 貞観元年 (859) に清和天皇から従五位上の神階を賜った記録 (『三代実録』 推定)、 主祭神は彦火火出見尊·豊玉姫命の夫婦神格。 社殿正面から海へ向かう五本の鳥居 (うち海中に二基立つ) は印象的で、 干潮時には鳥居の根元まで歩いて行ける神秘的景観。 境内には三柱鳥居が二基あり、 「磯良恵比寿」 という鱗状亀裂の岩礁は安曇磯良 (あづみのいそら、 海人族·阿曇氏の祖) の墓と伝承される。 安曇磯良は記紀には登場せず、 中世の『太平記』 や神社縁起に伝承される阿曇氏の祖神で、 一説では鵜葺草葺不合命 (=豊玉姫の子) と同一神格とされ、 豊玉姫の子に比定される。 神功皇后三韓征伐の際、 鮑·海藻を纏う醜貌を恥じて顕現を渋ったが、 龍宮の真珠·珊瑚で身を飾って出現し皇后の船を導いたという伝承を持つ。 阿曇氏は古事記で「綿津見神の子·宇都志日金拆命 (うつしひかなさく) の後裔」、 『日本書紀』 で「海人の宰 (うながいのみやつこ)」 に任じられた海人族の宗主で、 対馬·壱岐·北部九州 (志賀島の志賀海神社) が本貫地、 瀬戸内海·安芸·淡路·播磨·摂津·河内·近江 (安曇川) まで広がった。 豊玉姫 ← 綿津見大神の血脈 → 玉依姫 → 鵜葺草葺不合 (= 安曇磯良) → 神武の系譜で、 海人族の系譜と皇統が豊玉姫·玉依姫を蝶番として結節する構造を成す。 ほかに玉前神社 (千葉県長生郡一宮町一宮 3048、 上総国一宮·名神大社·黒漆塗権現造) は妹·玉依姫を主祭神とし豊玉姫を併祀、 永禄年間 (1558-1570) 戦火で記録焼失·鎮座 1200 年以上。 豊玉姫神社 (佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙) は神使が鯰 (なまず) で、 嬉野川を支配し郷を守護する大鯰伝承を持ち、 嬉野温泉の美肌信仰 (日本三大美肌の湯) の鎮守として皮膚病平癒 (白なまず) 平癒祈願·美肌祈願を集める。 室町時代以前と推定 (不詳)、 天正年間 (1573-1592) 兵火焼失、 元和年間 (1615-1624) 社殿再興、 寛永 18 年 (1641) 領主鍋島氏祈願所。 民俗信仰での豊玉姫は安産·航海·漁業·縁結び·美肌の女神として広く崇敬される。 産屋伝承·お乳岩信仰 (鵜戸神宮) から安産·子授け、 海神の娘としての本質から航海·漁業、 山幸彦との婚姻譚から縁結び、 真珠の象徴性 + 嬉野温泉から美肌祈願、 と多面的な御利益を持つ。 後世の浦島太郎説話の乙姫像のモデルとしても日本人の想像力に深く根付いており、 「龍宮乙姫」 の原型として現代アニメ·小説·ゲームに頻出する重要神格である。 対馬·壱岐の阿曇氏 (海人族の宗主氏族·志賀島の志賀海神社が本宮) の祖母神として、 「海人族の祖母神」 という位置付けが古代海人族研究の中軸を成す。

伝説 海坊主
うみぼうず
油貸せと囁く・海坊主
水の怪中国地方・九州・四国沿岸 (各地の海坊主)海坊主は、航海中の人々が海の恐怖と不安を具現化した妖怪とされる。 その姿は一定せず、ただ黒い影のように現れることもあれば、巨大な僧形で海面から立ち上がることもある。 船に近づき「油を貸せ」と囁く話が有名で、油を渡すと炎を起こし船を沈めるとも言われる。 一方で、近年の伝承では「沈んだ船や網を集め、海底に積み上げている収集癖がある」「時折光る瓶やランタンを手にして現れる」などのバリエーションも語られている。 人を驚かせる存在でありながら、海の神秘を象徴する存在として畏敬の対象にもなっている。

名妖 アヤカシ
あやかし
西海の海上怪火・アヤカシ
総称・汎称西日本沿岸 (対馬・長崎・山口・佐賀・房総等)各地で海難に結び付けられた海上怪異の呼称としてのアヤカシ像を整理。姿は怪火・幻影・見女・海蛇など多様で、船を惑わせ進路を遮る、乗組員の注意を乱す、水を求める者を誘うなどの振る舞いが共通する。対馬では怪火が山に化すとされ、思い切って突き進むと霧散するという知恵が語られる。長崎では海上に漂う怪火、山口・佐賀では船幽霊として恐れられ、房総では井戸の女の怪として記録が残る。実在のコバンザメが船脚を鈍らせるとの俗信も名義を共有し、自然現象や航海不安の民俗的説明装置として機能した。鳥山石燕の図像では巨大な海蛇が示され、古来の海上怪の観念と結びつけられている。

名妖 ぬりかべ
ぬりかべ
九州夜道の見えぬ壁・ぬりかべ
総称・汎称九州 (夜道の見えぬ壁)目視できぬが、手触りだけが確かな壁として感じられる型。九州北部の道迷い怪談に即し、強い害は与えず進行を止めることに特化する。足元から肩口ほどの高さで広がる感覚があり、正面突破はかなわない。脇へそれる、少し休む、地面や路端を杖で探るなど、従来の対処で薄れる。人を試す路の霊的障害として理解される。

名妖 磯女
いそおんな
磯女 ── 艫綱を伝う海辺の怪
水の怪九州北西部沿岸 (天草・島原・加唐島・長島・小値賀等)磯女は、九州北西部の海辺に語られる女の海怪である。その姿は、上半身こそ潮に濡れた黒髪を垂らす若い女に見えるが、腰から下は輪郭が定まらず、波や霧に溶けて足跡を残さないとも、蛇の身であるともいう。背後にまわれば、ぬれた岩にしか見えないとも伝わる。長崎県南島原では、磯女は沖を凝視して立ち、声をかけた者に甲高い叫びを返し、長い髪を絡めて生血を吸うとされる。 その本領は、停泊中の舟を襲う点にある。熊本県天草では、夜半に艫綱(ともづな)を伝って舟に忍び込み、眠る者の顔に髪を被せて害する。そのため見知らぬ港で夜を明かすときは、艫綱を岸に取らず、錨だけを下ろす習いが守られた。艫綱という「岸と舟を結ぶ縄」を磯女が道として伝う、という観念がこの作法の根にある。 避けの呪いも各地に伝わる。島原半島では、屋根の苫(とま)から抜いた茅(かや)を三本、着物に乗せて眠れば、磯女の髪が絡まず守られるとされた。柳田國男監修『綜合日本民俗語彙』も、九州の沿岸に分布するこの女の海怪を、磯女・磯女房などの名で書きとめている。 磯女は、海坊主や船幽霊のように沖の只中で舟を直接襲う怪とは性格を異にする。磯辺・停泊地という、陸と海の境にあらわれる点にこそ磯女の特質があるとされ、水死者の怨霊や、夫を待ちわびて果てた女の念と結び付けて語る土地も多い。西日本では、同じ海辺の怪である牛鬼と組んで現れ、牛鬼が人を襲う前に磯女が近づいて油断させるとも伝わる。 髪と血、そして「境界」── これが磯女の像の核である。艫綱を伝い髪を被せるという化けの手順も、錨のみを下ろし苫の茅を供えるという避けの作法も、いずれは漁村の夜の海に対する畏れと、その畏れを御するための知恵として語り継がれてきたものである。

名妖 磯撫で
いそなで
北風の海に撫づる・磯撫で
水の怪九州北西部沿岸 (北風の海を撫づる怪)江戸期の奇談や本草の記述に基づく磯撫で像を整理した版。海面を乱さず寄せ、海の色や風の変化のみを兆しとして示す点を重視する。身体はサメ様で、尾から背にかけて粗い突起や針状の器官を持つと語られる。現れる時節は寒風の立つ折が多く、特に北風が強い日に警戒された。船人は賑やかな作業を避け、網や縄を整理し甲板の縁に身を寄せぬなど、海難回避の作法と結びつけて語り継いだ。土地ごとに名称や細部は揺れがあるが、核心は「気づけば遅し」という不可視の接近と、尾の一撃による転落の恐怖である。近世の記録は、海上の危険認識と戒めの語りとしての性格も示す。

名妖 産女
うぶめ
赤子を抱く産死女・産女
霊・亡霊東北・関東・九州 (産死女の霊)産褥で亡くなった女の未練が、夜路や辻、川辺に姿を取るとされた像。近世の説話集や図会に見える描写では、腰より下が血に染み、赤子を抱いて人に子守を頼む。応じた者は、石や地蔵を抱かされていたと判明する型、代償として大力や財を授かる型、あるいは赤子に噛まれる災厄譚まで幅がある。地域差として、福島の「オボ」では布切れで注意を逸らす対処法、九州の「ウグメ」では夜明けに正体が露わになる話が知られる。江戸の知識人は中国記事に見える夜行の鳥的怪と対照し、産死者の気が妖となる理を論じた。寺社縁起では、抱き手が念仏や題目で救済し、子安・安産の信仰と結び付く。産女は恐れの対象であると同時に、子への思いを象徴する霊的存在として語られてきた。

名妖 船幽霊
ふなゆうれい
壇ノ浦の提子乞い・船幽霊
水の怪全国沿岸 (壇ノ浦・福島・銚子・隠岐・久慈・平戸等)壇ノ浦の合戦に沈んだ平家一門の落魄が、西海の潮目と霧の夜に船縁へ寄り、甲冑の水気を滴らせながら「ていご(提子)をくれ」と乞うて現れる船幽霊の異相。顔は白く、眼は塩に焼けて赤く、声はかすれているが言葉遣いは武家の礼を失わない。彼らは生前の軍陣の律を保ったまま、海上でも列を組み、先ぶれが声を掛け、続いて数多の手が船板に取りすがる。渡されたひしゃくが底付きなら、そのまま船中へ海水を汲み入れ、音もなく船を重く沈める。対して、古よりこの海を渡る者は椀やひしゃくの底を抜き、舷側に結び供えておく作法を守った。幽霊がそれを受け取れば、水は舟に留まらず零れ落ち、恨みの気のみが潮に散っていく。ときに僧が法会を修して弔えば、陣笠の影は潮霧へ溶け、甲冑の鎖は波の音に帰すという。彼らは無分別に人を沈めるのではなく、自らの没落を世に刻まんとする証左として、作法を知らぬ者、慢心して海を侮る者へと近づく。盆の十六日、彼岸や合戦の忌日には、とりわけ海が静まり返るほど足音は近く、篝火のような怪火が水面に並び、かつての船列を写す。灰、餅、香花、団子などの供物はその執心を和らげ、舳先に投じれば、白拍子の袖のような波が一度だけ返り、船を押し出す。睨み据えれば退くこともあるが、それは眼力ではなく、生者が死者を真正に見据えたとき、滞った気がほぐれるためだと古老はいう。山岡元隣が語るところの気の凝滞、その煤のような恨みが潮の流れに乗って形を得たものが本相であり、風が変わり、読経が響き、供物が沈めば、ほどけた気は海に散り失せる。ゆえにこの版の船幽霊は、恐れのみでなく、弔いによって静まる存在である。彼らの列に幼子の影も混じることがあり、そのときは声はさらに細く、「水を」とは言わず、ただ舷に指先をかけるのみという。甲冑の鈴の微かな触れ音が聞こえたなら、舵を立て直し、早鞆の瀬を斜に取り、口ずさむ念仏を風へ放て。西海の闇を漂う討ち死にの気は、作法と慈悲にのみ道を譲る。

名妖 濡女
ぬれおんな
磯浜の濡髪女・濡女
水の怪九州沿岸 (磯浜の濡髪女)海浜や河岸に現れ、濡れた長髪の女として目撃される。地域により、赤子を抱かせて足を奪う型、あるいは蛇身・長大な尾を想起させる威圧的な水怪として語られる。江戸の妖怪画には蛇体の女が多いが、物語資料の実証は乏しい。石見では牛鬼と関わる水妖として位置づけられ、対処法として素手で抱かぬことが説かれる。近縁の磯女と混称される例もあり、呼称や性質は土地ごとに幅がある。

稀少 人魚
にんぎょ
古代~現代に変遷する水妖·人魚
水の怪近江国蒲生川 (現·滋賀県東近江市~近江八幡市·『日本書紀』 推古 27 年 619 初出) / 摂津国堀江 (現·大阪市中央区~北区·『日本書紀』 推古 27 年 619) / 観音正寺 (現·滋賀県近江八幡市安土町繖山·聖徳太子人魚成仏縁起·西国 32 番札所)西洋のマーメイドとの図像学的断絶。現代の日本人が思い浮かべる「美しい女性の上半身と魚の下半身」という人魚のイメージは、近代以降に西洋のマーメイド伝説(アンデルセンの『人魚姫』など)が輸入されて定着したものです。それ以前の日本の伝統的な人魚の図像は、『海国兵談』などに描かれたように「人間のような顔(あるいは猿のような顔)に、鱗に覆われた魚の胴体」という、極めて異形かつグロテスクなものでした。顔の造作も美しい女性とは限らず、鋭い牙を持つ恐ろしい老若男女の姿で描かれるのが一般的でした。この造形の醜悪さこそが、人魚が持つ「異界の生物」としての生々しさと、その肉を食べる行為の禁忌的でグロテスクな側面を強調していました。 モデルとなった生物と博物学の視点。日本の人魚伝承の核には、実在する生物の誤認が少なからず含まれていると考えられています。例えば、ジュゴンやマナティーといった海牛類、アシカやアザラシなどの海獣類が海坊主や人魚のモデルになったという説が有力です。また、内陸部(川や沼)の人魚伝承においては、巨大なオオサンショウウオがその正体であったと推測されるケースもあります。江戸時代の本草学者たちは、こうした未知の海洋生物の漂着記録を丹念に収集・分類し、妖怪を「科学(博物学)」の網の目で捉え直そうと試みました。 「永遠の命」という呪い。人魚の肉がもたらす「不老長寿」は、人類普遍の願望であると同時に、日本の伝承においては常に「悲劇」と表裏一体のものとして描かれます。八百比丘尼の伝説が示すように、人魚の肉を食べて永遠の若さを得た者は、愛する家族や夫が次々と老いて死んでいくのを何度も見送らなければならないという、耐え難い孤独と絶望(時間的な孤立)を味わうことになります。人魚は、人間に「死を免れることの恐ろしさ」を突きつける、残酷な鏡のような妖怪なのです。

珍しい へうすへ
ひょうすべ
九州川辺の毛河童・へうすへ
水の怪九州 (九州川辺の毛深い河童・各地)この版では、へうすへが「家の中の禁忌」と深く結びついた九州型の河童である点を見る。河童の話の多くが川や淵を舞台にするのに対し、へうすへの話は風呂場や湯屋、そして馬小屋へと入りこんでくる。毛深いへうすへが使ったあとの湯は、体毛が浮いて穢(けが)れたものとされ、その湯に触れた馬が倒れる、湯を勝手に抜いた者が祟られて馬を殺される、という話が各地に伝わる。風呂の湯をいつ抜くか、誰が使うか――そうした暮らしの作法への戒めが、へうすへの祟りという形で語られたのである。 畑では茄子を好んで荒らすとされ、初物の茄子を供えて機嫌をとった。「ヒョーヒョー」という鳥のような鳴き声は、その名の由来とも言われる。江戸期の『百怪図巻』や『画図百鬼夜行』に描かれた、毛むくじゃらで禿げ頭の滑稽な姿は、恐ろしさよりもむしろ、人の暮らしのすぐそばにいる親しい怪としてのへうすへをよく伝えている。

珍しい 精霊風
しょうろうかぜ
盆十六日の死霊風・精霊風
天候・災異長崎県五島 (盆十六日・死霊風)精霊風は姿なき風として語られ、触れた者に急な悪寒や発熱、立ちくらみをもたらすとされる。盆の十六日の朝に吹くという時期性が重視され、ここでいう精霊は先祖や無縁の死者の霊のことで、帰幽と送魂の境に現世を渡る霊気を運ぶ風と理解される。五島では当日、墓や墓道を避け、外出を控える忌みが徹底される。壱岐では病を風の憑き物と見なし、墓場由来を死霊風、生者の怨み由来を生霊風と名づける例がある。各地の魔風信仰と同系で、季節の疲労や突風など自然条件が民間の説明枠組みと重なり、霊障として語り継がれてきた。妖としての能動的悪意は語られず、期日と場を誤る人に災が及ぶというタブーの形で戒める役割を持つ。

珍しい 野狐
やこ
九州群行の下位狐・野狐
動物変化九州北部・和泉等 (位階の低い狐霊)この版では、野狐が仏教、とくに禅の世界でどう語られたかに目を向ける。禅には「野狐禅(やこぜん)」という言葉がある。まだ悟りきっていないのに、悟ったつもりになっている半端な境地を、戒めをこめてそう呼ぶ言葉である。 もとになったのは、宋の時代の禅の問答集『無門関』に載る「百丈野狐」という有名な話だ。唐の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の説法に、毎回ひとりの老人が聞きに来ていた。あるとき老人は身の上を明かす。昔この寺の住職だったころ、「悟りを開いた者も因果(報い)に落ちるか」と問われ、「落ちない(不落因果)」と答えてしまった。そのたった一語の誤りのために、五百回もの生まれ変わりのあいだ、野狐の身に堕とされたのだ、と。老人は百丈に正しい答えを乞う。百丈が「因果をくらましはしない(不昧因果)」と言い直してやると、老人はその場で迷いを解かれ、野狐の身を脱して成仏したという。 ここでの野狐は、生半可な悟りに落ちた者が姿を変えられてしまう、いましめの象徴になっている。人を化かす里の野狐とはまた別に、野狐は「半端な賢(さか)しらの行き着く先」として、禅の言葉のなかにも長く生きつづけてきたのである。