九州の北東、瀬戸内へ突き出した国東半島と、阿蘇から流れくだる大河に潤された平野とを併せ持つ大分県は、かつて豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)の二国、合わせて「豊(とよ)の国」と呼ばれた。この土地の怪異を一本の糸で貫こうとするとき、まず思い当たるのは、ここが「神と仏が一つになった場所」だという事実である。
全国に約四万社あるとされる八幡宮の総本宮・宇佐神宮はこの地に鎮まり、その背後の国東半島には、八幡信仰と天台修験が溶け合った六郷満山(ろくごうまんざん)[1]という独特の山岳仏教文化が花開いた。神が菩薩となり、鬼が祓われる存在ではなく祖霊や仏の化身として迎えられる ── そうした神仏習合のダイナミズムが、この地の妖怪観の底に静かに流れている。豊の国の怪異は、恐れて遠ざけるものというより、しばしば祀り、なだめ、信仰の側へ引き入れるものとして語られてきた。
一方で、阿蘇の伏流をあつめて流れる豊後の川々には河童(河太郎)が泳ぎ、夜更けの沢には小豆を洗う音の怪が潜み、夜道には見えない壁が立ちはだかる。東部の村々には、犬神という憑きものの記憶が近代まで根深く残った。神格としての八幡神から、川辺の音の怪、夜道の障り、家筋に憑くものまで ── 本記事では、宇佐の託宣を起点に、国東の鬼、豊後の川、そして村に憑くものへと、豊の国の怪異を順にたどっていく。
八幡神 ── 地方神が国家神へ、
神が菩薩になった場所
大分県の妖怪文化を語るうえで、避けて通れないのが八幡神である。妖怪というより神格そのものだが、この神の出自と歩みは、豊の国の怪異観を理解する出発点になる。

八幡神
八幡神(はちまんしん/やはたのかみ)は、日本で最も広く信仰されている神の一つであり、全国に約四万社あるとされる八幡宮(八幡神社)の主祭神です。その起源は九州・豊前国の宇佐(大分県宇佐市)に祀られていた地方神・土着神であったとされますが、『古事記』や『日本書紀』といった日本神話には一切登場しないという、極めてミステリアスな出自を持ちます。奈良時代から平安時代にかけて、第15代天皇である応神天皇(誉田別命)の神霊と同一視(習合)されるようになり、皇室の祖先神(皇祖神)としての地位を確立しました。また、日本の神として初めて仏教の「菩薩」の号を授けられ「八幡大菩薩」となった、神仏習合の歴史の最先端を突き進んだ神でもあります。中世以降は源氏の氏神となり、全国の武士から「武運長久の神(武神)」として圧倒的な崇拝を集めました。
詳しく見る八幡神(はちまんしん)は、もともと豊前国の宇佐(現・大分県宇佐市)に祀られていた一地方神・土着神であったとされる。『古事記』『日本書紀』には一切登場しないという、神としては異例の出自を持つ ── 全国に四万社を数える大神でありながら、記紀神話のどこにもその姓名が見えないのである。それが奈良時代に第十五代・応神天皇の神霊と同一視され、皇祖神の格を得て、さらに日本の神として初めて「菩薩」の号を授かり「八幡大菩薩」[2]となった。神道の神が仏教の菩薩を名乗る ── この神仏習合の最先端を走ったのが、ほかならぬ宇佐の神であった。妖怪事典の冒頭に神を据えるのは奇妙に見えるかもしれないが、神とも仏とも、人とも異形ともつかぬこの神の振る舞いこそ、豊の国の怪異が立つ土台にほかならない。
その契機となったのが、養老四年(720)の隼人(はやと)の乱である。大隅・日向で大和朝廷に背いた隼人を鎮めるため、宇佐八幡大神は神輿に乗って南九州へ出御したと伝わる。乱の平定後、宇佐へ還った八幡神は、殺生の罪を悔いて「年ごとに放生会(ほうじょうえ)を修すべし」と託宣を下した。

この放生会[3]こそ、神が仏の不殺生戒に救いを求めた象徴的な祭礼であり、宇佐がきわめて早い時期に神仏習合を成立させていた証とされる。現在も仲秋祭として続くこの祭は、和間(わま)の浜で生き物を放つ神事を核とし、討たれた隼人の御霊を鎮める意味を負っていた。
八幡神はまた、強烈な「託宣の神」でもあった。奈良時代、東大寺の大仏建立が行き詰まったとき、宇佐の八幡神は「天の神、地の神を率いて必ず成し遂げる」と神託を下し、都へ出向いて事業を後押ししたと伝わる。そして歴史を動かした最大の託宣が、神護景雲三年(769)の宇佐八幡宮神託事件[4]である。「道鏡(どうきょう)を天皇の位につければ天下太平になる」という神託が奏上されると、称徳天皇は和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐へ遣わして真偽を確かめさせた。清麻呂が受けた託宣は逆であった ── 「我が国は開闢以来、君臣の別が定まっている。臣をもって君とすることなどありえない」。この報告によって道鏡の皇位簒奪はくじかれ、清麻呂は大隅へ配流された。皇位の継承を一個の神託が左右しかけたという点で、宇佐八幡の託宣の重みは群を抜く。
八幡三神(はちまんさんじん)という祀り方にも、この神の幅広い神格があらわれている。宇佐神宮の本殿は一之御殿に八幡大神(応神天皇)、二之御殿にその母とされる神功皇后、三之御殿に比売神(ひめがみ)を祀る三神一体[5]の構成をとる。なかでも神功皇后は、身重の体で石を腹に巻いて出兵を指揮し、帰国後に無事応神天皇を産んだという伝説を持つため、八幡信仰には武神としての厳しさだけでなく、安産・子育てを守る母性的な側面も強く宿る。比売神の正体は宗像三女神とも、地主神ともいわれ、いまなお謎に包まれている。武と母性、神話と謎とを一身に抱え込んだこの三神が、宇佐の社に静かに鎮まっている。
中世以降、八幡神は源頼義・頼朝の清和源氏に氏神として奉じられ、「南無八幡大菩薩」と旗に染め抜く武神として全国へ広がった。源頼義が石清水八幡宮の神霊を鎌倉へ勧請し、後の鶴岡八幡宮の礎を築いて以降、武士たちは出陣に際して弓矢に誓いを立てる「弓矢八幡」を口にした。地方の一神が国家神となり、武家の守護神となり、ついには約四万社へ分祀されていく ── その源流が、すべてこの豊前宇佐の地にある。妖怪を語る本記事が、まず神の話から始めなければならない理由がここにある。豊の国では、神格も、鬼も、川の怪も、同じ神仏習合という地層の上に積み重なっているのだ。
国東半島の鬼 ── 祖霊であり仏である怪異
宇佐神宮の東に広がる国東(くにさき)半島は、奈良・平安期にその大部分が宇佐八幡の荘園であった。そこに八幡信仰と天台の修験道が結びついて生まれたのが、六郷満山と呼ばれる山岳仏教文化である。養老二年(718)に仁聞菩薩(にんもんぼさつ)が開いたと伝わり、半島の谷々に石仏・石塔・磨崖仏が刻まれ、無数の僧坊が連なったこの地は、いまも「神仏習合発祥の地」と呼ばれる。仁聞菩薩はしばしば八幡神の化身とも語られ、神と仏と開山の祖がひと続きに溶け合っているところに、この半島の信仰の独自性がある。
ここで注目したいのは、国東の「鬼」の独特な性格である。一般に鬼は祓われ討たれる対象だが、国東半島で旧暦正月に営まれる修正鬼会(しゅじょうおにえ)[6]では、松明(たいまつ)を担いだ鬼は祓われるどころか、六郷満山を開いた先師の祖霊、あるいは仏の化身として迎えられる。

荒鬼(あらおに)・災払鬼(さいばらいおに)と呼ばれる鬼たちが燃えさかる松明を振り回して堂内を駆けめぐり、人々はその鬼に背や肩を打たれ、足を踏まれることでむしろ無病息災・五穀豊穣を授かると信じた。鬼が厄災ではなく救済をもたらす ── この反転は、節分に豆をぶつけて追い払われる一般の鬼とはまるで逆の発想である。それは、地方神が菩薩になり、討たれた隼人が放生会で祀られたのと同じ、神仏習合の論理の延長線上にある。鬼の面の奥に祖霊と仏を見るまなざしが、この半島には根づいている。
修正鬼会は平安期の正月行事と、国東半島で行われていた仏教の修行法とが結びついて生まれたとされ、江戸初期から盛んに営まれてきた。かつては六郷満山の多くの寺で開かれたが、過疎化により次第に数を減らし、昭和五十二年(1977)に国の重要無形民俗文化財へ指定された現在は、豊後高田市の天念寺(てんねんじ)で毎年、国東市の成仏寺(じょうぶつじ)で西暦偶数年、岩戸寺(いわとじ)で奇数年に交互に営まれている。火の粉を浴びながら鬼を拝むこの奇祭こそ、豊の国が鬼すらも仏の側へ引き寄せた何よりの証である。
豊後の川 ── 河童(河太郎)と相撲の記憶
豊後の地形は水に恵まれている。阿蘇山系の伏流をあつめる筑後川の上流域・日田(ひた)をはじめ、大野川・大分川といった川が平野を潤す。こうした川と淵には、九州で広く「河太郎(かわたろう)」と呼ばれた河童の伝承が濃く堆積している。
豊後河太郎(ぶんごのかわたろう)は、その名のとおり豊後の川に棲む河童である。九州では河童を河太郎と呼ぶことが多く、薩摩・大隅にかけては「ガラッパ」、山間部では「ヤマワロ(山童)」と呼び分ける地域もあって、河童一つをとっても九州の呼称は実に多彩である。豊後河太郎は頭の皿に水をたたえ、体は毛におおわれて猿に似るが、嘴(くちばし)状の口や甲羅も備えるとされる。相撲と水中の悪戯を好み、馬を水辺へ引き込んで腸(はらわた)を抜くと恐れられた一方、礼を尽くして頭を下げ合えば皿の水がこぼれて力が抜け降参する、捕らえれば接骨や傷の薬を教わる、胡瓜(きゅうり)に名を書いて流せば難を避けられる ── そうした九州共通の話型が、豊後でもよく語られた。
注目すべきは、こうした河太郎の見聞が早くから文献に書きとめられている点である。文化二年(1805)、日田の地で集められた『河童聞合(かっぱききあわせ)』[7]は、土地の役人の依頼で儒者が近隣の目撃者から河童譚を聞き取ったもので、豊前・筑後にまたがる数話が記録され、そのうち複数が相撲をめぐる話であったと伝わる。河童と相撲という結びつきが、この地で繰り返し語られていたことがうかがえる。日田が天領(幕府直轄地)として九州の経済・文化の要衝であり、聞き書きという知的営みが成り立つ土地柄であったことも、こうした記録が残った背景にあるだろう。

その相撲好きの性格を、一個の事件として伝えるのが正吉河童(しょうきちかっぱ)である。豊後国日田郡竹田村(現・大分県日田市)の少年・正吉が川辺で悪戯者を懲らしめたところ、その夜、川へ誘い出され、大勢の子河童を相手に相撲を取りつづけたという。家の者が連れ戻しても、正吉は目に見えぬ相手と組み合うように暴れまわり、河童に憑かれたと見なされた。郷義弘(ごうのよしひろ)の銘を持つ脇差(わきざし)をそばに置くと、河童は刃の威を恐れて怯み、刀を遠ざけるとまた騒ぎだす。最後は修験者の祈祷によってようやく鎮まった、と伝わる。鋭い刃物や仏法・修験の力を恐れるというのは、九州の河童退治譚に広く共通する要素である。この話は寛永のころの『川太郎伝』[8]や、大正期に編まれた『日田郡誌』[9]に見え、「正吉河童」の呼び名は後年の整理によるものだが、その筋は土地の言い伝えと古い記録に根ざしている。日田が古くから河童譚の濃い土地であったことは、これらの地誌からもうかがえる。
河太郎の二面性は、川そのものの二面性を映している。豊後の川は田畑を潤す恵みであると同時に、馬や子どもをのみ込む脅威でもあった。馬を水辺へ引き込んで腸を抜くという凄惨な言い伝えは、川辺で馬や人が命を落とす現実の危険を、河童という姿に託して子らへ戒めた民俗の知恵であろう。一方で、供物を捧げて水害を鎮めてもらった、捕らえた河童から接骨や傷薬を教わったという話は、川との折り合いをつけて生きてきた村の記憶でもある。恐ろしくも頼みになる ── 河太郎は、豊後の人々が川とともに生きるなかで結んだ、危うい契約の象徴であった。
河童が「見える怪」だとすれば、川辺にはもう一種、「聞こえる怪」がいる。小豆洗い(あずきあらい)は、夜更けの川辺や沢で「ショキショキ」「ザクザク」と小豆をとぐような音を響かせる、音を本体とする妖怪である。多くの伝承で姿は現れず、近づくと音だけがぴたりとやみ、音に気を取られた者が足を滑らせて川や谷へ落ちるとされた。全国に分布するが、大分県には「小豆洗おか、人取って喰おか」と唄いながら小豆をとぐ[10]という文句が伝わり、無邪気な所作と人取りの恐怖を一句に同居させたこの唄こそ、小豆洗いの性格をよく示している。文献では『絵本百物語』(天保十二年〔1841〕)[11]が、山寺で小豆をとぐのが得意だった小僧が悪僧に妬まれて谷川へ突き落とされ、以来その霊が夜ごと小豆をとぐ音を立てるようになったと語る。数を一合から一升まで違えず数え当てるという几帳面さの記憶を性状とする伝えもあり、生者の無念や律儀さが音の怪へ転じた跡をとどめている。もっとも民俗の現場では、その音をイタチやカワウソ、あるいは竹の葉擦れや水音といった自然現象に帰す合理的な理解も併存していた。怪と自然の境界が曖昧なまま、人は夜の川音に耳を澄ましてきた。豊後の川は、河童の相撲と小豆洗いの音という、見える怪と聞こえる怪の両方を抱え込んでいたのである。
夜道の壁 ── 大分のぬりかべは「狸」が塗る
川が水辺の怪を生むとすれば、夜道は道行きの怪を生む。

ぬりかべ
夜道で行く手をふさぐ見えない壁として語られる妖怪。歩行者は突然進めなくなり、手探りしても平らな面に阻まれるように感じるという。多くは暫く立ち止まる、脇へそれる、棒で足元を払うなどすると解けるとされる。姿は本来定まらず、見えないもの、あるいはのっぺりした壁状と語られることが多い。人を食らうなどの害は乏しく、道迷いを起こす厄介者として恐れられた。水木しげるの作品で広まった長方形の壁の姿は、後世に定着した造形である。
詳しく見るぬりかべは、夜道で行く手を急にふさぐ見えない壁の妖怪である。歩行者は突然進めなくなり、手探りしても平らな面に阻まれるように感じる。多くは暫く立ち止まる、脇へそれる、棒で足元を払うなどすると解けるとされた。民俗語彙としてのぬりかべは、柳田國男『妖怪談義』の「妖怪名彙」[12]に福岡県遠賀郡で採集された事例として載るのがよく知られ、九州北部に分布の中心を持つ妖怪とされる。だが同様の怪は大分にも色濃く伝わり、しかも豊後での語り口には独特の彩りがある。
大分県では、この行く手をふさぐ怪を狸(たぬき)の仕業とみなして「狸の塗り壁」と呼んだ。さらに香々地町(かかぢまち、現・豊後高田市)では同じ怪を「イタチの塗り壁」と語る。見えない壁の正体を、抽象的な「壁の妖怪」としてではなく、人を化かすことで知られた身近な獣 ── 狸やイタチ ── に帰すのは、化かし話の伝統が豊かな九州ならではの理解である。ここでのぬりかべは固有の妖怪というより、獣の化かしが見せる幻の一種なのだ。さらに南海部郡(現・佐伯市)に伝わる民話では、七曲(ななまがり)という坂道に、ぬりかべが先に述べた小豆とぎ(小豆洗い)とともに現れ、夜歩く者の目の前が急に真っ暗になると語られる。水辺の音の怪と夜道の壁の怪が、同じ峠道で出会うのである。水木しげるの作品で広まった、目鼻のついた長方形の壁という愛嬌ある姿は後世に定着した造形であり、豊後の夜道の壁は、本来こうした「獣が化かす見えない障り」として恐れられていた。
東部の村に憑くもの ── 犬神
最後に、豊後の村落社会の深部に根づいた憑きもの、犬神に触れておきたい。
犬神(いぬがみ)は、西日本を中心に分布する犬霊の憑きものである。本場は四国の徳島・高知とされるが、島根・山口から九州にかけても色濃く、とりわけ大分県東部は、近年に至るまで犬神の観念が根強く残った地の一つに数えられる。姿はハツカネズミほどの斑(まだら)のある小獣とする説が主で、納戸や床下、水甕などに飼われ、主の意を読んで他家に憑き、病や家運の乱れを招くと信じられた。憑かれた者は胸や手足の痛み、犬のような吠え声などの症状を示し、医療では治らず祈祷で落とすとされた。

犬神でとりわけ重いのは、それが「犬神筋(いぬがみすじ)」[13]という家筋の観念と結びついた点である。犬神は代々その家に憑き続けると考えられ、婚姻に際して家筋が調べられ、犬神筋とされた家との通婚が忌避された。これは差別と結びついた負の社会史であり、近代に至るまで深刻な社会問題として尾を引いた。背景には、ある家が急に富み栄えたり、逆に他家が衰えたりする ── そうした富の偏在や家の盛衰を説明する村落社会の論理が、目に見えぬ憑きものという形に投影された事情がある。妬みや不和が「あの家は犬神筋だ」という噂を生み、噂がまた差別を再生産した。犬神は獣の霊であると同時に、共同体の緊張がつくり出した社会的な怪異でもあった。
起源については、中国の『捜神記』が説く「犬蠱(けんこ)」[14]に連なる蠱術(こじゅつ)が日本へ伝わったとする説や、飢えさせた犬の首を辻に埋めて怨念を呪物としたという製法の俗信が伝わる。しかしこれらは犬神の由来を後から説く語りであって史実ではなく、むしろ犬神筋とされた家々への差別を正当化する物語として機能した面が指摘される。由来譚を真に受けるのではなく、なぜそうした語りが必要とされたのかを問うことが、この憑きものを理解する鍵になる。徳島の賢見神社(けんみじんじゃ)[15]が犬神除けの社として名高いように、豊後の人々もまた、この見えない憑きものを祈祷と神仏の力で祓おうとした。祓いを求める先が、結局はあの宇佐以来の神仏の力であったところに、この地の怪異と信仰の地続きの関係が、ここでも顔を出している。
結び ── 神が菩薩になり、
鬼が仏になる地
こうして豊の国の怪異を見渡すと、一本の軸が浮かび上がる。地方の一神が菩薩となり国家神へ昇った宇佐、討たれた隼人を放生会で祀り、鬼を祓うどころか祖霊・仏として迎える国東の修正鬼会 ── この地では、本来は祓い・恐れの対象であるものが、しばしば信仰と救済の側へ反転する。河童は刃と修験に屈して鎮められ、捕らえられれば薬の知恵を授け、小豆洗いの音は水辺の危険を子に戒め、ぬりかべは抽象的な壁ではなく身近な獣の化かしとして理解され、犬神という社会の闇すらも最後は祈祷で落とそうとされた。恐ろしいものを討ち滅ぼすのではなく、なだめ、祀り、神仏の手で鎮める ── 神と仏、鬼と祖霊、怪と信仰が一つの地層に折り重なっているのが、豊前・豊後という「豊の国」が育てた妖怪文化の核心である。同じ妖怪が他国にも伝わるなかで、豊後の語りがどこか救済の匂いを帯びるのは、この土地が神仏習合の発祥の地であったことと、決して無縁ではないだろう。
宇佐の託宣と国東の鬼については、より深い土地密着の物語が六郷満山[1]の各寺と、宇佐神宮そのものの長い社史に眠っている。八幡大菩薩を生んだ宇佐の地、火の粉のなかで鬼を拝む国東の谷、相撲好きの河太郎が泳ぐ日田の川、そして犬神の噂が交わされた東部の村々 ── 大分の妖怪は、地図の上をたどれば必ず具体的な場所へ行き着く。本記事を入口に、豊の国の神と鬼と河童の世界へ分け入ってほしい。




