東京都 庶民が語り、出版が運んだ怪異。東京都の妖怪事典
関東
平将門、本所七不思議、四谷怪談、鳥山石燕。江戸が生んだ「都市怪談」の系譜

庶民が語り、出版が運んだ怪異。東京都の妖怪事典

東京都·とうきょう

平将門

たいらのまさかど

平将門(たいらのまさかど)は、平安中期の坂東(ばんどう)に勢力を張った桓武平氏の武者であり、朝廷に反旗を翻して「新皇(しんのう)」を称し討たれた人物である。死後、その斬られた首にまつわる怪異から日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて関東の守護神・御霊神(ごりょうしん)として神田明神などに祀られた。 承平・天慶のころ、将門は一族内の私闘から身を起こし、天慶二年(九三九)には常陸(ひたち)をはじめ関東諸国の国府を攻め落として東国を制圧、八幡大菩薩の託宣を称して自ら新皇と名のった。だが翌天慶三年(九四〇)、平貞盛と藤原秀郷(俵藤太)の追討軍に額を射られて戦死する。その生涯は同時代の軍記『将門記』に詳しい。 将門を妖怪・怨霊たらしめたのは、史実の乱そのものよりも、後世に語られた首の伝説である。京で晒された首が腐らず夜ごと叫んで東へ飛び去ったという物語は、東京・大手町の将門塚(首塚)の畏怖と結びつき、移し動かせば祟るという信仰を今に伝える。一方で神田明神では、江戸の総鎮守、武運と商売繁盛の神として篤く敬われ、祟りと守護という御霊神の二面を体現している。

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京都が宮廷と寺社の都であったのに対し、江戸は町人と武家の都として育った。妖怪文化の重心もまたこの違いに従って動く。京都が貴族の絵巻と御霊信仰のなかで怪異を語ったのに対し、江戸は板本・浮世絵・歌舞伎・落語という大量流通のメディアで怪異を語った。本所の堀端、四谷の長屋、吉原の遊郭、大名屋敷の天井、夜の蕎麦屋台、伊豆諸島の波打ち際。京都の宮廷から見れば「縁」でしかない場所が、江戸では怪異の主舞台となる。

「日本三大怨霊」のうち菅原道真と崇徳院が京都の御霊鎮魂装置に組み込まれたのに対し、もう一柱平将門は東京の都市そのものに住む。大手町の将門塚は今も移転を拒み、神田明神は江戸城の鬼門を封じる装置として庶民の祭礼の核に置かれた。京都が祟りを神社に祀って終わらせるなら、江戸はそれを祭で生かし続ける。本記事ではこの東京固有の怪異文化を、ゆかりの妖怪四十五体で辿る。

京から江戸へ:妖怪文化の重心移動

中世の妖怪文化は京都に集中していた。室町後期に成立した真珠庵本『百鬼夜行絵巻』(大徳寺塔頭・真珠庵蔵、伝・土佐光信)は公家と寺院の所蔵物であり、庶民が手に取る媒体ではなかった。これが変わったのは江戸期の出版革命を経てからである。木版出版は寛永年間(1624-1644)に京都で始まったが、寛文年間(1661-1673)に江戸へ到達し、商業出版圏として独立する。京都発の最後の代表的怪談集が浅井了意『伽婢子』(寛文6・1666)であり、その翌十年に江戸刊『諸国百物語』(延宝5・1677、全五巻百話)が出る。怪談の媒体が「絵巻」から「板本」へ、担い手が「公家」から「庶民」へ移った瞬間である。

この変化を完成形に持っていったのが鳥山石燕(1712-1788)であった。江戸生まれの絵師である石燕は、安永5年(1776)に『画図百鬼夜行』を刊行する。続編『今昔画図続百鬼』(安永8・1779)、『今昔百鬼拾遺』(安永10・1781)、『画図百器徒然袋』(天明4・1784)とあわせ、京の絵巻が描いてきた「行列する妖怪たち」を、一頁一体・名前付きの個別図鑑に再編した。後世の妖怪百科(水木しげるに至る系譜)が踏襲するテンプレが、ここで決定された。

暮露暮露団毛倡妓は石燕の創作色が強い妖怪で、語呂遊びと江戸の風俗を素材に新しく描き起こされた。一方の骨女は浅井了意『伽婢子』所収「牡丹灯籠」を典拠とすると石燕自身が解説で示しており、創作と再構成の両輪が同時に動いていたことが分かる。雲外鏡の舌を出した悪戯顔は、室町絵巻の付喪神を江戸戯作の感覚で再描画した好例である。

平将門:江戸城を守る怨霊

承平・天慶の乱(935-940)で坂東に勢力を張った平将門は、朝廷に反旗を翻し「新皇」を称して討たれた。京で梟首された首は怨念のまま関東へ飛び去ったと伝えられ、大手町の将門塚(千代田区)に祀られる。京都の道真・崇徳と異なるのは、将門が江戸という都市そのものの中核に組み込まれていることである。

平将門

たいらのまさかど

平将門(たいらのまさかど)は、平安中期の坂東(ばんどう)に勢力を張った桓武平氏の武者であり、朝廷に反旗を翻して「新皇(しんのう)」を称し討たれた人物である。死後、その斬られた首にまつわる怪異から日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて関東の守護神・御霊神(ごりょうしん)として神田明神などに祀られた。 承平・天慶のころ、将門は一族内の私闘から身を起こし、天慶二年(九三九)には常陸(ひたち)をはじめ関東諸国の国府を攻め落として東国を制圧、八幡大菩薩の託宣を称して自ら新皇と名のった。だが翌天慶三年(九四〇)、平貞盛と藤原秀郷(俵藤太)の追討軍に額を射られて戦死する。その生涯は同時代の軍記『将門記』に詳しい。 将門を妖怪・怨霊たらしめたのは、史実の乱そのものよりも、後世に語られた首の伝説である。京で晒された首が腐らず夜ごと叫んで東へ飛び去ったという物語は、東京・大手町の将門塚(首塚)の畏怖と結びつき、移し動かせば祟るという信仰を今に伝える。一方で神田明神では、江戸の総鎮守、武運と商売繁盛の神として篤く敬われ、祟りと守護という御霊神の二面を体現している。

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徳川家康による江戸開府(1603)以後、天海大僧正が江戸城の鬼門封じを設計した際、北東に上野寛永寺、東に神田明神を据えた。神田明神は元和2年(1616)に現在地(千代田区外神田)へ遷座し、将門を主祭神の一柱として迎える。江戸三大祭の一つ神田祭は、二年に一度、町々を将門の御神輿が巡行する都市儀礼として今日まで続く。京都の御霊会が祟りを神社で「封じる」ならば、江戸の神田祭は祟りを祭礼で「祝う」。同じ御霊信仰の文法が、都市の性格に応じて反転した形である。

将門塚の現代における祟りは二度にわたって語られる。大正12年(1923)の関東大震災後、大蔵省仮庁舎建設のために塚が一時撤去されると、大蔵大臣早速整爾以下の省内関係者に不審な死が相次ぎ、昭和3年(1928)に仮庁舎が取り壊され鎮魂碑が建立された。戦後にもGHQによる区画整理でブルドーザーが入った際、運転手が事故死し計画が中止された逸話が伝わる。事実か作話かは措くとして、これらの逸話が広く受容されたこと自体が、平将門という存在が東京の都市記憶に深く食い込んでいることを示している。

疫病神やくびょうがみ

疫病神(やくびょうがみ)は、人々に流行病や災厄をもたらすと畏れられた神/鬼の総称である。平安期以降、中国伝来の疫鬼観が受容され、貴族社会の怨霊・御霊(ごりょう)観と、民間に根づく病魔への畏怖とが結びついて形づくられた。姿は通常は目に見えぬ存

将門と並んで江戸の都市霊として畏れられたのが疫病神である。江戸は人口百万を超える世界最大級の都市として、麻疹・天然痘・コレラの流行を繰り返した。特に文久2年(1862)の麻疹コレラ大流行時には、麻疹除けの守護神である麦殿大明神を描いた多色木版の「麻疹絵」が大量に刊行され、護符として家内に掲げられた。麦穂と鬼を踏み伏せる像は、近世医療・出版・民間信仰が一枚の摺物に結晶した産物である。

本所七不思議:都市怪談の発明

東京の妖怪文化のなかで最も独創的なのが、本所(現・墨田区南部)に集中する怪異群である。本所は江戸後期に田畑から町屋へ急速に都市化した地域で、堀・橋・蕎麦屋台・大名屋敷といった新しい都市装置が密集した。「本所七不思議」と総称される怪異はここで生まれた。「七」は数の符牒であって実数ではなく、版によって八から十まで揺れるが、その揺れ自体が「都市は常に語り直される」というメッセージを担っている。

置行堀は本所の堀で釣果を持ち帰ろうとすると水中から「置いていけ」と声が響く怪異で、現在の錦糸町・錦糸堀公園付近に伝承碑が残る。片葉の葦は両国橋付近で群生する葦の葉が一方にしか付かないという怪異であり、植物の異常を介して原因不明の怨念を語る寡黙な怪である。燈無蕎麦は南割下水沿いの蕎麦屋台の怪で、店主が姿を見せず行灯が常に消えており、火を点けた者には不幸が訪れるという。足洗邸は旗本屋敷の天井を突き破って巨大な足が現れ「足を洗え」と命じる怪で、武家屋敷の天井という閉鎖空間を舞台に取った点で江戸固有である。

送り拍子木送り提灯は夜回りや夜道に「もうひとり」が付き従う怪で、近づけば消え離れれば現れる。狸囃子は夜更けにどこからともなく聞こえる笛太鼓の音で、本所では『甲子夜話』に「馬鹿囃子」とも記録される。落葉なき椎は平戸新田藩松浦家上屋敷の椎の古木で、常緑樹であっても四季を通じて一枚も葉が落ちないと噂された。

これらに加え津軽の太鼓も本所七不思議に数えられる。本所緑町に置かれた弘前藩津軽家上屋敷の火の見櫓では、通常用いられる板木ではなく太鼓が吊るされた。理由は不詳で、ただ「異物」として語り継がれる。津軽固有の太鼓文化が江戸庶民の感覚と衝突した結果であろうが、その衝突自体が怪異として保存された点に、江戸都市民俗の機微がある。

七不思議が示すのは、自然怪異(狐狸・山姥)ではない新しい怪異の型である。堀・橋・屋台・大名屋敷・夜道といった都市インフラそのものを舞台にし、住人の日常感覚のなかに異物として滑り込む。後世の現代都市伝説(口裂け女、トイレの花子さん、八尺様)が踏襲する型は、すでに本所で完成していた。

江戸三大悪所と幽霊譚

江戸庶民の怪談は遊郭・刑場・歌舞伎座という三つの「悪所」をめぐって育つ。元和3年(1617)に日本橋葺屋町で公許された吉原は、明暦の大火(1657)後に浅草寺裏(現・台東区)へ移転し新吉原となった。遊女の死と転生を扱う怪談はこの地で量産され、蔦屋重三郎が刊行に関わった『清楼奇事・烟花清談』など、吉原専門の怪談集も成立する。飛縁魔の伝承(見目麗しい美女が実は男を破滅させる夜叉である)は、遊郭文化のなかで仏教的戒めとして繰り返し語られた。

飛縁魔

ひのえんま

江戸時代の奇談集『絵本百物語』に見える妖怪名。仏教的戒めから説かれ、女の色香に惑うことの愚を示す比喩として描かれる。見目は菩薩のごとく美しく、内は夜叉のごとく恐ろしいとされ、心を乱された男は家を失い、身を滅ぼすと戒められる。名称は「因縁に魔障が飛び来る」の意とも解され、丙午生まれの女性観への俗信とも結び付けて語られた。

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四谷の長屋から生まれた幽霊譚は江戸怪談の頂点を成す。鶴屋南北作『東海道四谷怪談』は文政8年(1825)7月26日、中村座で初演された。江戸城警備の御先手同心・田宮又左衛門の娘お岩を題材に、『仮名手本忠臣蔵』の外伝として組まれたこの脚本では、3代目尾上菊五郎がお岩・小仏小平・佐藤与茂七の三役を演じ、毒で顔を歪められたお岩が怨霊として民谷伊右衛門を破滅させる。歌舞伎の常識を覆す残酷描写と、恨みを抱える女が亡霊として復讐する型は、その後の日本ホラーの底流に流れ続けている。

四谷怪談と並んで江戸怪談を代表するのが、骨女系の物語である。骨女は浅井了意『伽婢子』所収「牡丹灯籠」が典拠で、夜ごと牡丹模様の提灯を携えて訪れる女が実は骸骨であったという話。三遊亭円朝はこれを元治年間(1864頃)から『怪談牡丹燈籠』として口演し、根津・本郷を舞台にお露と新三郎の物語に再構成した。明治17年(1884)に刊行された速記本は、当時の言文一致体の先駆として二葉亭四迷『浮雲』へと繋がる言語史的事件にもなった。

産女は難産で亡くなった女が血染めの腰巻きで赤子を抱き夜道に現れる怪、大首はお歯黒を施した既婚女性の巨大な首が雨夜の空に漂う怪、二口女は項にもう一つの口を持つ女の妖怪である。いずれも女性の死や身体的変容を介して人間関係の闇を描き出す。

刑場の怪は鈴ヶ森(品川)と小塚原(荒川区)に集中した。慶安4年(1651)に設置された小塚原刑場では二二〇年間に延べ二十万人が処刑され、磔・火炙・梟首が常時行われた。延命寺の首切地蔵は今もその記憶を残す。これらの場所から流れ出る亡霊譚。加牟波理入道のような厠の怪や、屋敷を彷徨う百々目鬼、夜の通行人を脅かす大座頭の風雨の夜の徘徊。これらはみな江戸という都市が処刑と亡霊を地続きで生きていたことを示している。

鳥山石燕の妖怪百科:江戸の図像革命

暮露暮露団

ぼろぼろとん

暮露暮露団(ぼろぼろとん)は、鳥山石燕の妖怪画集 『画図百器徒然袋』(天明 4 年・1784) 中巻に収められた、古びた布団の付喪神である。同書は鳥山石燕の妖怪四部作 (画図百鬼夜行 1776 / 今昔画図続百鬼 1779 / 今昔百鬼拾遺 1781 / 画図百器徒然袋 1784) の最終巻で、付喪神を専門に扱う絵本。暮露暮露団は中巻のうち「如意自在 → 暮露暮露団 → 箒神」という配列に置かれ、楽器付喪神 (琴古主・琵琶牧々・三味長老) と仏具付喪神 (経凛々・乳鉢坊・木魚達磨) が並ぶ流れの末尾、布団・箒・蓑草鞋という日用品付喪神群の冒頭にあたる。石燕の詞書は普化禅宗 → 虚無僧 → 薦僧(こもそう) → 『七十一番職人歌合』 (= 職人づくし歌合) の「暮露暮露」 という連想を踏まえ、結びに「かの世捨人のきふるせるぼろぶとんにやと、夢の中におもひぬ」と詠じて、中世遊行僧「暮露」が着古した襤褸布団であるかと夢のなかで思った、という発想で命名する。つまり暮露暮露団は、在地の口承から拾い上げた怪ではなく、中世遊行僧の文学的記憶 + 「ぼろぼろ」 + 「布団」の二重の語呂遊戯 + 図像という、完全に文人の机上で組み上げられた創作妖怪である。 多田克己『百鬼解読』(2002) が指摘するように、石燕付喪神シリーズは中世文献を踏まえつつ語呂で結ぶ江戸後期擬古的言語遊戯の到達点であり、暮露暮露団はその核手法を最もコンパクトに体現する作例である。

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鳥山石燕の四部作は江戸妖怪文化の決定的事件である。寛永以来の妖怪絵巻は構図の連続で語ったが、石燕は一頁一体に分解し、名前と漢字表記、出典の有無、簡潔な解説を添えた。京都の絵巻文化が江戸で「図鑑」に変換された瞬間と言ってよい。

『百器徒然袋』に収められる槍毛長猪口暮露絹狸袋狢はいずれも器物に魂が宿った付喪神で、語呂遊びと故事の引用に石燕の戯作者気質が現れている。三味長老は古び朽ちた三味線の付喪神、文車妖妃は古文書を載せた文車に女姿の妖怪を重ねた優艶な造形である。

後神は背後から忍び寄る漠然たる気配の擬人化、青行燈は百物語の最後の灯火に現れる青き顔の女、青鷺火は青鷺が夜に発する怪火で、鳥獣変化と火怪の中間的存在として描かれた。雨降小僧は中骨を抜いた和傘を頭に被り提灯を手にした小僧の姿で、雨の神「雨師」に仕える侍童として石燕が考案した。

石燕の重要性は、創作と典拠を厳密に区別し続けた点にある。骨女加牟波理入道では浅井了意や厠俗信を典拠として明示する一方で、毛倡妓や暮露暮露団は明らかに創作として描き加える。同じページの中で学者気質と戯作者気質が共存している点は、江戸後期の知識人としての石燕の特異な立ち位置を示している。

浮世絵の妖怪:北斎、国芳、芳年

石燕が確立した「図鑑としての妖怪」は、浮世絵の流通網に乗って江戸庶民の視覚に深く食い込む。葛飾北斎は天保2年(1831)頃から『百物語』シリーズを開始した。百枚を予定したものの現存五点(「お岩さん」「皿屋敷」「笑ひはんにゃ」「しうねん」「こはだ小平二」)にとどまるが、いずれも恐怖と滑稽味と悲哀を交叉させる独自の画風で、「妖怪を見るとはどういうことか」という問いを画面に持ち込んだ。

歌川国芳の『相馬の古内裏』(弘化2-3頃・1845-1846)は山東京伝『善知安方忠義伝』を取材したもので、平将門の遺児・滝夜叉姫が父の館跡で妖術を使い巨大な髑髏を呼び出す場面を描く。西洋解剖学を参照した骨格の正確さと、複数の骸骨を一体に統合した構図の発明によって、戦後の妖怪文化が「がしゃどくろ」と呼ぶ巨大骸骨像の原型が成立した。「がしゃどくろ」という名称自体は戦後の妖怪本で生まれた新名であるが、像の起源は国芳のこの一枚にある。

木霊こだま

木霊(こだま)は、樹木に宿るとされる精霊で、その精が宿った樹そのものを指すこともある。古信仰では百年以上の年輪を重ねた老樹に神霊がこもると考えられ、山や谷で声を投げると遅れて同じ声が返る「山彦(やまびこ)」の現象も、木霊が応えるものと捉えら

月岡芳年は「最後の浮世絵師」とも呼ばれ、明治22年から25年(1889-1892)にかけて『新形三十六怪撰』を完成させた。三十六図の特徴は、妖怪そのものではなく「妖怪を見る人間」を画面の中心に据えたことである。妖怪が客体としてではなく、人の妄想と意識の産物として描かれる。明治の文明開化以後の科学的世界観のなかで怪異が再定義される時代精神が、ここに結晶している。木霊小豆洗いのような自然霊系の妖怪も、芳年の手で都市民の心理空間に取り込まれた。

三遊亭円朝と落語怪談:江戸から明治への橋

天保10年(1839)江戸湯島生まれの三遊亭円朝は、江戸怪談を明治の新メディアに架橋した最重要人物である。『怪談牡丹燈籠』を元治年間頃から口演し、『真景累ヶ淵』では下総羽生村の累譚を「神経」と「真景」の漢字遊びで再解釈し、明治の心理主義へと変換した。

円朝の口演を活字化した速記本は、当時の言文一致運動の先駆として位置づけられる。明治17年(1884)刊『怪談牡丹燈籠』速記本の自然な口語体は、二葉亭四迷『浮雲』(1887-1889)に先んじて日本語散文の革新を準備した。江戸落語の口演という庶民的場が、近代日本語そのものを形成した稀有な例である。

甘酒婆あまざけばば

夜更けに「甘酒はござらんか」と戸口をたたき歩く老女の姿で現れる妖怪。返答の有無や内容にかかわらず病をもたらすと恐れられ、戸口にスギの葉やナンテンの枝、トウガラシを吊すと避けられるとされた。江戸から東北各地に伝承があり、流行病の流布と結びつけ

夜更けに戸口を叩く老女が病をもたらす甘酒婆、頭部の異様に大きい子どもの姿で豆腐屋を脅す大頭小僧、市中で人の頭髪を密かに切り落とす髪切り。これらは石燕の図像と落語の口演の両方に登場し、文字と語りの両ルートで江戸の隅々まで浸透した。

小泉八雲『怪談』:英語で書き出された江戸

明治29年(1896)、ラフカディオ・ハーン(帰化後の名で小泉八雲)が東京帝国大学英文学講師として上京する。前任は外山正一、後任は夏目漱石という日本英文学の中軸であった。彼が日本各地で蒐集した怪談、すなわち妻・小泉セツが松江・熊本・東京で口承した話を、英語で再構築した『Kwaidan: Stories and Studies of Strange Things』が、明治37年(1904)4月にボストンの Houghton, Mifflin 社から刊行される。

雪女・耳なし芳一・むじな・ろくろ首 ── 江戸の民間信仰のなかに沈んでいた怪異が、英語という国際語に書き写されたとき、「Japanese ghost story」という普遍ジャンルが世界に対して開かれた。1965年の小林正樹監督による映画『怪談』はカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、京都・江戸の地域文化が世界の映画史に正面から位置づけられる契機となった。八雲自身の主要な著述拠点は東京帝大であり、彼が住んだ西大久保の旧居跡は今も新宿区の文学史的場所として記憶される。

池袋の女と江戸の周縁意識

池袋の女

いけぶくろのおんな

江戸後期の俗信で、池袋出身の女を他所で雇うと家内に怪音や投石、食器や行灯が飛び交う騒擾が起こるとされた呼称。初出は根岸鎮衛『耳袋』(寛政期)に見え、家人が下女と密通した後に怪異が続き、下女を暇にすると止んだという。池尻・沼袋・目黒など同類の伝承も知られ、産土神の加護やオサキ使いの祟りと結び付けて語られた。

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寛政期(1789-1801)に編まれた根岸鎮衛『耳袋』に、興味深い俗信が記録される。江戸の屋敷で池袋出身の女を女中として雇うと、屋敷に家鳴り(やなり)が起こり、行灯や臼が踊り、食器が飛ぶ、西洋で言うポルターガイスト現象が頻発するという。下女が家人と密通した後にこの怪異が続き、下女を解雇すると収まったという話が初出である。

類話は池尻(世田谷)・沼袋(中野)・目黒(目黒区)・大宮(埼玉)・千葉と、江戸の周縁・郊外の地名に広く分布する。共通の構造は「中心(江戸城下)から見て周縁から来た者が、中心の秩序を乱す」というものである。江戸後期の都市意識(中心は文明、周縁は怪異)が出身地差別と結びついて妖怪化した例で、民俗学と差別研究の交点に位置する重要な事例である。

池袋の女に並んで、江戸の都市意識のなかで怪異化された存在に馬憑きがある。馬を虐待した者に死馬の霊が憑き、嘶きや水桶の雑水を漁る動物的挙動を生じさせるとされ、武家・庶民の双方で恐れられた。馬という生活インフラに対する負い目が怪異の形を取って戻ってくる ── これも江戸固有の感覚である。

武蔵野と多摩:東京西郊の怪

東京の妖怪文化は二十三区に閉じない。武蔵野台地から多摩丘陵にかけての西郊もまた、独自の怪を育てた。八王子市の高尾山には真言宗智山派・薬王院があり、本尊の飯縄大権現信仰と結びついて天狗の聖地となっている。『天狗経』の八大天狗のうち飯縄三郎は本来信州飯綱山が本拠であるが、高尾山に勧請されて関東天狗信仰の核となった。

天狗礫は出所不明の小石が空から降りかかる怪で、高尾山や奥多摩の山中で頻繁に語られた。投げた者は見えず、痕も残らない。山岳信仰の境界感覚が物理現象として体験される型である。箕借り婆は関東一円に伝わる一つ目の老婆で、旧暦十二月八日と二月八日の「事八日」に人家を訪れ、人の目や箕を借りるとされた。目籠を門口に出して魔除けとする習俗が今も残る地域がある。雨女は雨を呼び寄せる女妖怪で、農村社会で雨乞いと天変の境界に位置づけられた。

伊豆諸島の妖怪:東京都の海

行政区画としての東京都は、本州内陸の二十三区・多摩地域に加えて伊豆諸島と小笠原諸島を含む。本州の妖怪体系とは別系統の怪異が、ここでは語り継がれてきた。

海難法師

かいなんほうし

海難法師(かいなんほうし)は、伊豆諸島に伝わる水難死者の怨霊で、地元では「かんなんぼうし」ともいう。旧暦一月二十四日の夜、笠をかぶった僧の姿で沖から来訪し、その姿を見た者は気が狂う、あるいは同じ最期を迎えると畏れられた。この夜は外出を慎み、門口に籠をかぶせ、雨戸に柊やトベラの枝葉を挿す物忌みが行われる。発祥は江戸期の島役人にまつわる怨霊譚として語られる一方、地域により海から訪れる神とみなす来訪神的な解釈もみられる。

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海難法師(かいなんほうし、または「かんなんぼうし」)は伊豆七島で旧暦一月二十四日夜の外出禁忌として継承される。寛永5年(1628)頃に島民を苦しめた悪代官・豊島忠松を島民が嵐の海に送り出して殺した報復として、その亡霊が二十四日夜にたらいに乗って島を巡るとされる。見た者は同じ死に方をするため、当夜は門口に籠を伏せて目印とし、柊やトベラの葉を雨戸に挿して魔除けとする。仕事を休み、家に篭るのが古来の習わしである。

各島で呼び名が異なる ── 利島ではヤダイジー、神津島では二十五日様、三宅島では忌の日、大島では日忌様(ひいみさま)。同じ怪が島ごとに違う名で語られること自体が、伊豆諸島の独立した民俗世界を示している。

絹狸きぬたぬき

絹狸は、江戸時代の絵師・鳥山石燕が『百器徒然袋』に描いた創作色の濃い妖怪。八丈島の名産である八丈絹と、化け狸の俗説を掛け合わせた意匠で、絹布と狸が一体化した姿で示される。名称は砧(きぬた)と「きぬ・たぬき」の語呂にも通じ、具体的な怪異譚は伝

石燕『百器徒然袋』所収の絹狸は、八丈島の名産である八丈絹と化け狸の俗説を掛け合わせた創作妖怪で、絹布と狸が一体化した姿で描かれる。「砧(きぬた)」と「絹・狸」の音通を踏まえた言葉遊びで、伊豆諸島の物産が江戸の絵師の戯作のなかに引用される構造を示している。

戦後・現代:東京西郊への移植

戦後の東京は江戸都市怪談の文脈を継承しつつ、新たな地理を妖怪文化に編入した。漫画家・水木しげる(1922-2015)は鳥取県境港市の出身であるが、1959年の漫画家デビュー以後、現在の調布市に移住し、亡くなるまでこの地で活動した。調布駅前の天神通り商店街には水木自身の提案で1991年から妖怪モニュメントが設置され、深大寺門前の鬼太郎茶屋とともに、東京西郊が現代妖怪文化の聖地となった。鳥山石燕の図鑑を「現代の妖怪百科」として水木が継承した系譜は、京の絵巻と江戸の図鑑と戦後の漫画とを一直線に結ぶ。

猫娘ねこむすめ

猫娘は、猫の所作や嗜好を示す女性に与えられた呼称で、近世の見世物記録・実見談・読本などに現れる。妖怪としての固定した像は弱く、奇癖を持つ人や見世物の呼び名として扱われる例が中心である。江戸・上方の見世物、読本『絵本小夜時雨』の奇女譚、雑記類

猫娘はもともと近世の見世物記録や読本に現れる、猫めいた所作を示す女性に与えられた俗称であった。江戸・上方の見世物小屋で実演された奇癖を持つ娘の呼称が、水木の『ゲゲゲの鬼太郎』を介して全国的キャラクターへと変換された。江戸の見世物文化が戦後アニメに直結した好例である。

スタジオジブリ『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994、高畑勲監督)は多摩ニュータウン(多摩市)のニュータウン開発に抵抗する狸の物語であり、東京西郊の妖怪を都市開発史と重ね合わせた最も鋭い作品である。1970年代に日本アニメーション(多摩市)に勤務した高畑の体験が原点となり、邦画興行収入1位、アヌシー国際アニメ映画祭長編グランプリ(1995)を獲得した。本所七不思議が江戸の都市化の隅で生まれたように、ぽんぽこの狸群は戦後郊外化のフロンティアで生まれた。「都市化に追われる妖怪」という主題は、江戸都市怪談の戦後変奏として読まれるべきである。

京極夏彦『姑獲鳥の夏』(1994)に始まる百鬼夜行シリーズ、諸星大二郎『妖怪ハンター』(1974-)もまた東京の出版文化圏で発信され、戦後日本の妖怪文化を新たな知的高みへ押し上げた。京の絵巻、江戸の浮世絵、明治の落語と速記本、戦後の漫画。「妖怪をどう媒介するか」の革新が、千年を通じて常に新しいメディアの先端で起こり続けている。

結び:庶民が語り、出版が運んだ怪異

京都の妖怪が貴族の絵巻と神社の鎮魂儀礼で語られたのに対し、東京(江戸)の妖怪は庶民の板本と浮世絵と歌舞伎と落語で語られた。本所の堀、四谷の長屋、吉原の遊郭、鈴ヶ森と小塚原の刑場、神田明神の祭礼、調布駅前の妖怪モニュメント、伊豆大島の海難法師。怪異の発生地はすべて「都市の装置」であり、語り手は常に町人と武家と漂泊する芸能民であった。

平将門は京で梟首されてなお関東に飛び帰り、江戸城の鬼門封じとなって庶民の祭礼の核に居続ける。鳥山石燕は京の絵巻を江戸の図鑑に翻案し、後世のすべての妖怪百科のテンプレを書いた。鶴屋南北のお岩、三遊亭円朝の累とお露、葛飾北斎の百物語、歌川国芳のがしゃどくろ、月岡芳年の妖怪と人、小泉八雲の Kwaidan、水木しげるの鬼太郎、高畑勲のぽんぽこ。千年の間に世代と媒体は変わっても、東京は妖怪を語り続け、運び続け、世界に出し続けてきた。京都が祭礼で祟りを「祀って終わらせる」都市ならば、東京は祭礼と出版で祟りを「広めて生かす」都市である。これがこの記事の語る四十五体の妖怪が共通して証言する、東京固有の妖怪文化の姿である。

東京都の妖怪一覧51

東京都ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。