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神田明神 江戸を守る逆賊の神 ── 神田明神と平将門

将門·首塚·総鎮守。逆賊から江戸の守り神へ

江戸を守る逆賊の神 ── 神田明神と平将門

神田明神 · かんだみょうじん

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東京·大手町、高層ビルの谷間に、ぽっかりと「将門の首塚」がある。日本有数の金融街の一等地でありながら、撤去や移転を試みるたびに事故や不幸が続いたと噂され、今もなお丁重に祀られている。千年以上前に死んだ一人の武将の首が、現代の東京の一角を、動かしがたい聖地にしているのである。

平将門。朝廷に「逆賊」と断じられて討たれながら、関東では英雄として慕われ、やがて江戸の総鎮守·神田明神に祀られた男。逆賊とされた者が、なぜ都市を守る神になったのか。本稿は、将門と神田明神の物語をたどる。

新皇を称した男

平将門は、平安中期に関東で勢力を張った武将である。一族の所領争いに端を発した争乱は、やがて関東一円を巻きこむ大乱へと発展した。承平·天慶年間(九三五年頃から)に起きたこの「平将門の乱」で、将門は関東の国々を制圧し、ついには「新皇」を自称して、京の朝廷から独立した東国の王たらんとした

平将門

たいらのまさかど

平将門(たいらのまさかど)は、平安中期の坂東(ばんどう)に勢力を張った桓武平氏の武者であり、朝廷に反旗を翻して「新皇(しんのう)」を称し討たれた人物である。死後、その斬られた首にまつわる怪異から日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて関東の守護神・御霊神(ごりょうしん)として神田明神などに祀られた。 承平・天慶のころ、将門は一族内の私闘から身を起こし、天慶二年(九三九)には常陸(ひたち)をはじめ関東諸国の国府を攻め落として東国を制圧、八幡大菩薩の託宣を称して自ら新皇と名のった。だが翌天慶三年(九四〇)、平貞盛と藤原秀郷(俵藤太)の追討軍に額を射られて戦死する。その生涯は同時代の軍記『将門記』に詳しい。 将門を妖怪・怨霊たらしめたのは、史実の乱そのものよりも、後世に語られた首の伝説である。京で晒された首が腐らず夜ごと叫んで東へ飛び去ったという物語は、東京・大手町の将門塚(首塚)の畏怖と結びつき、移し動かせば祟るという信仰を今に伝える。一方で神田明神では、江戸の総鎮守、武運と商売繁盛の神として篤く敬われ、祟りと守護という御霊神の二面を体現している。

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将門の乱の背景には、関東という土地の特殊な事情があった。都から遠く離れた東国は、中央から派遣される国司による収奪に苦しみ、在地の武士たちは不満を募らせていた。一族間の私闘から身を起こした将門は、やがて国府を襲い、関東諸国の国司を追放して、独自の政権を打ち立てようとする。「新皇」── 新しい天皇を名乗ったその行為は、もはや所領争いの域を超え、京の朝廷の権威そのものへの正面からの挑戦であった。

朝廷にとって、これは前代未聞の反逆であった。追討の命がくだり、天慶三年(九四〇)、将門は藤原秀郷·平貞盛らの軍に討たれて果てる。新皇の都はわずかな期間で潰え、将門の首は京へと運ばれた。

飛んだ首、
祟る霊

将門の首は京都で晒された。だが、物語はそこで終わらない。晒された首は、関東を恋うて夜空を飛び、東国へと帰っていったという伝説が生まれた。その首が落ちた地が、現在の東京·大手町に残る「将門の首塚」だと伝えられる。

以後、将門は祟りをなす怨霊として畏れられた。首塚をめぐっては、これを軽んじた者に災いが及ぶと語りつがれ、近代以降も、塚の撤去や移転を試みた際に事故や急死が相次いだと噂された。真偽はともあれ、人々が将門の霊を本気で畏れ、丁重に扱いつづけてきたことは確かである。将門は菅原道真·崇徳天皇とならび、「日本三大怨霊」の一に数えられる

江戸総鎮守 ── 神田明神

その将門を祀るのが、東京都千代田区外神田に鎮まる神田明神(正式には神田神社)である。

社伝では、天平二年(七三〇)に出雲系の氏族が大己貴命(だいこく様)を祖神として祀ったのが始まりとされる。将門との結びつきは後のことで、討たれた将門は当初その首塚の近くに祀られ、のちに神田明神へ正式に合祀された。現在の祭神は三柱 ──縁結びの大己貴命(だいこく様)、商売繁昌の少彦名命(えびす様)、そして除災厄除の平将門命(まさかど様)である

神田明神は「江戸総鎮守」として、江戸の町とそこに暮らす人々を守る社と位置づけられた。徳川の世にあって、かつて朝廷に弓引いた逆賊が、将軍のお膝元·江戸を守る神とされたのは、考えてみれば不思議な逆転である。

この逆転には、立地も関わっている。神田明神は、江戸時代のはじめに、江戸城の表鬼門 ── 北東の方角にあたる現在地へと遷されたとされる。陰陽道では、鬼門は邪気の出入りする方位とされ、その方角を社寺で固めるのは、平安京が比叡山に都の鬼門を守らせたのと同じ発想である。かつて朝廷に背いた逆賊の霊を、城の鬼門を守る最強の守護神として据える ── 徳川の都市づくりは、将門の強大な霊力を、いわば逆手にとったのである。

逆賊か、
英雄か

将門ほど、評価が割れた人物もいない。中央の記録は彼を朝廷に背いた逆賊と断じたが、関東の人々は、重い負担を強いる中央権力に立ち向かった英雄と見た。一つの国のなかに、まったく逆の将門像が並び立ったのである。

この二重性こそ、将門が強烈な怨霊となり、同時に篤く祀られた理由でもある。無念の死を遂げた強い霊を、祓うのではなく神として祀りあげ、その力を守護へと転じる ── 菅原道真と同じく、将門もまた御霊信仰の枠組みのなかで、祟り神から守り神へと姿を変えていった。逆賊であったからこそ、その怨念は強く、祀られたのちの加護もまた大きいと信じられたのである。

福の神と、
武の神と

神田明神の祭神三柱の取り合わせは、よく見ると江戸という都市そのものの願いを映している。縁結びの大己貴命(だいこく様)、商売繁昌の少彦名命(えびす様)、そして除災厄除の平将門命(まさかど様)── 縁と富をもたらす二柱の福の神に、災いを退ける武の神が加わる。恋も、商いも、厄除けも、この一社で願える。

だいこく様·えびす様は、商人の町として栄えた江戸で篤く信仰された福の神である。そこへ、武勇に秀で、強い霊力をもつ将門が「除災厄除」の神として並んだ。福を招く神と、災いを祓う武神 ── 攻めと守りのそろったこの顔ぶれが、江戸総鎮守としての神田明神の懐の深さを形づくっている。商人も、職人も、武士も、それぞれの切実な願いを携えて、この社の石段をのぼった。逆賊として討たれた将門が、町人たちの暮らしを守る親しみ深い「まさかど様」になっていたのである。

首塚は、
今も

将門の首塚は、今も大手町にある。周囲を巨大なオフィスビルに囲まれながら、その一画だけは手厚く守られ、線香の煙が絶えない。ビジネスマンが手を合わせ、訪れる人があとを絶たない ── 千年前の逆賊の霊は、今や東京の守り神の一柱として、静かに都市を見つめている。

神田明神の例大祭·神田祭は、江戸三大祭の一つに数えられ、「天下祭」と呼ばれた。近年ではアニメの舞台としても親しまれ、新たな参拝者を集めている。逆賊から江戸総鎮守へ、そして現代の聖地へ ── 平将門と神田明神の物語は、いまも更新されつづけている。東京全体の妖怪文化については、東京都の妖怪事典も併せて読まれたい。

神田明神の妖怪一覧2

神田明神ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

  • 平将門

    平将門

    神格

    たいらのまさかど

    関東の御霊神・平将門

    神霊・神格坂東(下総・常陸)に拠った将門。首は東京・大手町の将門塚に落ち、神田明神に御霊神として祀られる。

    この版では、一人の坂東武者がいかにして「飛ぶ首」の怪異となり、さらに江戸を守る神へと転じたか――史実と伝説の境を見定めながら徹底して追う。 まず史実と怪異を分けねばならない。乱そのものを伝えるのは同時代的な『将門記』で、935年の私闘に始まり、関東諸国府の制圧、新皇宣言、940年の戦死までを漢文で記す。だがここに飛首の怪異は無い。首が腐らず叫び飛んだという超自然の物語が現れるのは、それより数百年下った南北朝期の『太平記』においてであり、両者の間には『今昔物語集』のような説話的な中継が挟まる。将門が「妖怪」として語られるのは、この後世の伝説の層においてである。 その首塚をめぐる祟りの物語は、さらに新しい。大手町の将門塚に伝わる「動かせば祟る」という畏れは、大正・昭和に都市の中心で起きた出来事――関東大震災後の大蔵省仮庁舎建設にまつわる関係者の死、占領期のブルドーザー横転事故――に重ねて語られる、近代の都市伝説である。事実の出来事と、それを将門の祟りに帰す解釈とは、慎重に切り分ける必要がある。 他方、神格化の筋道は中世にさかのぼる。延慶二年(一三〇九)、疫病を将門の祟りとした時宗の真教上人が霊を鎮め、神田明神の祭神に加えた。これは道真と同じく、荒ぶる怨霊を祀り上げて守り神に転じる御霊信仰の典型である。江戸総鎮守として庶民の崇敬を集めながら、明治には逆臣として祭神を退けられ、昭和末に復帰するという浮沈もまた、王権に反逆した英雄という将門像の二面性をよく映している。なお後世、娘の滝夜叉姫が巨大な骸骨を操る物語が歌舞伎や読本で人気を博し、歌川国芳の「相馬の古内裏」に描かれたが、これは将門本人ではなく娘を主役とする派生であることに留意したい。

  • 怨霊

    怨霊

    伝説

    おんりょう

    御霊鎮めの怨霊

    霊・亡霊御霊信仰の全国概念。神泉苑御霊会(京都)を起点に道真(京都・福岡)・将門(東京)・崇徳院(香川)ら個別怨霊が各地に祀られる

    怨霊を御霊として祀り、祟りを鎮め福徳へ転ずると捉える枠組み。疫病や天災は怨みの発露と見做され、社殿の創建、神格の贈与、祭礼の恒例化などによって和解を図る。祟り神は、畏れと尊崇が重なる二面性を持ち、荒ぶる力は鎮魂の作法を通じ共同体の守護へ変容すると理解された。国家的儀礼から村落の供養まで階層的に実施され、改元・勅使の派遣、御霊会、放生会などが制度化。個人に対しては回向・写経・念仏・加持祈祷が施され、名誉回復や神階授与が霊の鬱念を解く手立てとされた。物語・縁起は、なぜ怨みが生じたかを説き、冤罪・非命・断絶といった原因に社会的な記憶の場を与える役割を担う。怨霊の力は無差別ではなく、因由に沿って兆しを示すとされ、夢告・神託・雷火・疫癘などの徴をもって意思表示を行うと信じられた。鎮魂は一度で終わらず、年次の祭礼や社頭の整備をもって継続され、忘却が再発を招くと警められた。

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