神奈川県 海の龍と山の天狗、武家の都の怨念。神奈川県の妖怪事典

江ノ島の龍神・大山の天狗・鎌倉の怨霊。相模の海と山の怪異

海の龍と山の天狗、
武家の都の怨念。
神奈川県の妖怪事典

神奈川県 · かながわ

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相模湾を弓なりに抱き、背に丹沢・大山(おおやま)の山塊を負う神奈川の地は、海と山という二つの霊域を同時に抱え込んできた。南に開けた海には潮を操る龍がうずくまり、西にそびえる雨降山(あふりやま)には天狗が座す。そしてその中ほど、由比ヶ浜の渚に都を開いた鎌倉武士は、戦と政争のなかで数知れぬ怨念を生んだ。海の龍、山の天狗、そして武家の都が生んだ亡霊 ── この三つの磁場が、相模国(さがみのくに)の妖怪文化を形づくっている。

海の側では、江ノ島の岩屋に棲んだ五頭龍が天女に恋して悪行を改め、箱根芦ノ湖では万巻上人が九頭龍を調伏した。山の側では、相模大山の大天狗が八大天狗の一に数えられ、足柄山では山姥が金太郎を育てたと語られる。そして武家の都では、真鶴の海に三つの首が咬み合う舞首が、由比ヶ浜の白骨が歌う溝出が伝わった。本稿は、この海と山と都の怪異を、地理と歴史と民俗の三層から読み解く。

江ノ島と箱根の龍 ── 海と湖の水神

神奈川の妖怪を語るとき、まず海の龍から始めねばならない。相模湾に突き出た小島・江ノ島は、古来この地の信仰の核であった。

相模湾から湧き出た江ノ島と五頭龍。『江島縁起』が伝える暴虐な龍神は、天女(弁財天)への恋によって改心し、以後はこの地を護る善龍へと転じた。
相模湾から湧き出た江ノ島と五頭龍。『江島縁起』が伝える暴虐な龍神は、天女(弁財天)への恋によって改心し、以後はこの地を護る善龍へと転じた。

江島神社に伝わるは、欽明天皇十三年(五五二)、深沢(現在の鎌倉市深沢一帯)の大きな湖に、五つの頭をもつ悪龍が棲んでいたと語る。この五頭龍は山を崩し、洪水と疫病をもたらし、人の子をさらって生贄に求める荒ぶる存在であった。ところがある日、空が暗み大地が揺れて海中から一島が湧き出で、そこへ天女が天降る。五頭龍は天女に恋して妻に望むが、天女はその悪行を諫めて拒んだ。龍は悔い改めて善龍へと転じ、以後は旱(ひでり)には雨を降らせ、嵐を鎮めて里を守る守護神となった ── これが江ノ島の起こりの物語であり、天女こそ江島神社に祀られる弁財天、改心した龍は片瀬・腰越の龍口明神社に祀られる五頭龍大神だと伝える。

龍神

りゅうじん

龍神は、水・雨・海をつかさどる龍蛇形の神。日本固有の蛇=水神の信仰に、中国渡来の「龍」と仏教のナーガ(八大龍王)が幾重にも習合して成り立った複合的な神格である。記紀では海を治める綿津見神(海神)として現れ、『古事記』・『日本書紀』の山幸彦神話では、海神の娘豊玉姫が出産の折に和邇(わに)あるいは龍の正体を顕す。雨を呼び水を鎮める力ゆえ、旱魃には祈雨、洪水には止雨の神として全国の社に祀られ、潮を操る潮満珠・潮干珠や如意宝珠を握る姿で描かれる。海・湖・大河・淵をことごとく領分とする、水の最高神である。

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龍神は、水・雨・海をつかさどる龍蛇形の神である。日本固有の蛇=水神の信仰に、中国渡来の「龍」と仏教のナーガ(八大龍王)が幾重にも習合して成り立った複合的な神格で、海・湖・大河・淵をことごとく領分とする水の最高神であった。江ノ島の龍は、その全国的な龍神信仰が一島の縁起へと結晶した好例といえる。

縁起が舞台とする島の南端には、波の浸食が穿った海食洞 ── 江の島岩屋がある。古くは弘法大師空海や日蓮も参籠したと伝える聖地で、修行者にとっては龍の棲む異界への入口であった。中世の武家がこの島を篤く崇めたのも、海の彼方と地の底に通じる龍の力を畏れたからにほかならない。軍記物のは、北条時政が子孫の繁栄を祈って江ノ島に参籠したとき、弁財天が龍と化して三枚の鱗を残し、これが北条家の家紋「三つ鱗」になったと記す。海の龍は、鎌倉幕府そのものの守護神でもあったのだ。江戸期には弁天信仰の高まりとともに江ノ島詣でが庶民の行楽となり、相模湾を望む島は信仰と遊興の入り混じる名所として浮世絵にもしばしば描かれた。

同じ龍でも、内陸の箱根芦ノ湖には別の物語が伝わる。によれば、天平宝字元年(七五七)、箱根大神の神力を授かった万巻上人(まんがんしょうにん)が、芦ノ湖(かつての万字ヶ池)で娘をさらい洪水や疫病をもたらした九つ頭の毒龍を、湖底に祭壇を築いて二十一日の祈祷で調伏したという。

九頭竜

くずりゅう

九頭竜(九頭龍)は九つの頭を備えた龍として語られる水神・龍神で、雨乞いと治水を司り、各地で土地の守護神として祀られる。その信仰の核には、もとは人に害をなす毒龍・荒ぶる龍が、法力ある修験者や高僧に調伏されて鬼性を捨て、善神へと転じるという転換の物語がある。戸隠(長野県)では修行者「学門(学問行者)」の法華経の功徳によって岩戸に封じられた九頭一尾の鬼が善神となり、地主神「九頭龍大神」として鎮まったと伝える。箱根(神奈川県)では奈良時代の万巻上人が芦ノ湖の毒龍を調伏し、九頭龍大神として湖の守護神に祀ったとされる。越前(福井県)では白山権現の縁起に結びつき、九頭の龍が尊像を頂いて泳ぎ着いた故事が川名「九頭竜川」の由来と語られる。歯痛平癒・縁結び・国家安泰など信仰の対象は地域ごとに広がりをもち、龍蛇を水の象徴とする日本の水神信仰の一典型をなす。

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調伏された九頭竜は人身御供の慣習を改め、市杵島姫尊とともに芦ノ湖の守護神・九頭龍大神として祀られた。満願の旧暦六月十四日に因む祭礼(湖水祭)は今に続く。荒ぶる龍が法力ある者に調伏されて善神へ転じるというこの話型は、戸隠(長野)・越前(福井)など全国に分布するが、江ノ島の五頭龍が「恋」によって改心するのに対し、箱根の九頭龍は「調伏」によって屈する点で対照をなす。海の龍は天女に惚れて自ら悔い、湖の龍は修験の祈祷に組み伏せられる ── 神奈川は、龍が善神へ転じる二つの異なる道筋を一県のうちに併せもつ。

そして、龍が恋した相手こそ弁財天であった。

弁財天

べんざいてん

弁才天 (ベンザイテン·弁財天) は古代インドのヒンドゥー教女神サラスヴァティー (Sarasvatī) を起源とする仏教守護神で、日本では中世以降に独自の発展を遂げた神格である。サンスクリット名「サラスヴァティー」が漢訳経典で「弁才天·辨財天」と訳された。原型のサラスヴァティーは音楽·学芸·言語·川の女神で、仏教受容後は法華経·金光明経等で守護尊化された。日本では鎌倉時代以降、日本古来の人頭蛇身の宇賀神 (うがじん) と習合して宇賀弁才天 (うがべんざいてん) という独自の神格が成立、これが本来「弁才天」から「弁財天」へと呼称が変化する財福神化の決定的契機となった。日本三大弁天 (神奈川県·江島神社·滋賀県·竹生島宝厳寺·広島県·厳島神社) を中心に、銭洗弁財天宇賀福神社 (神奈川県鎌倉市)·天河大弁財天社 (奈良県天川村) 等の主要鎮座地を持つ。江戸期には七福神唯一の女神として広く崇敬され、現代では蛇神化·財福神化·カップル参拝禁忌等の俗信も含めて妖怪学·民俗学の重要素材となっている。

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弁財天は古代インドのヒンドゥー教の川の女神サラスヴァティーを起源とする仏教守護神で、日本では鎌倉時代以降、人頭蛇身の宇賀神(うがじん)と習合して独自の発展を遂げた。江島神社は、滋賀の竹生島宝厳寺・広島の厳島神社と並ぶ日本三大弁天の一に数えられる。蛇身の宇賀神と結ぶことで弁財天は蛇神性・水神性・財福神性の三層を獲得し、本来「弁才天」であった呼称が財福をもたらす「弁財天」へと変じていった。江ノ島の縁起で弁財天が龍と結ばれるのは、この弁財天=蛇=水という連想の地脈の上にこそ成り立つ。江島神社奥津宮近くには裸形の弁財天像(妙音弁財天)も伝わり、芸事・財福を願う参詣者を今も集めている。

大山の天狗と足柄の山姥 ── 山が抱く神と怪

海の龍に対するのは、山の天狗である。相模平野の西にそびえる大山(おおやま)は、雨を降らせる山として雨降山とも呼ばれ、その霊威は古代にさかのぼる。官撰のは、山上の阿夫利神社を相模国の式内社に列ね、大山祇神を主祭神とする。仏教側ではが、相模国司の夫妻が観音に子授けを願う場に始まり、鷲にさらわれて奈良で育った良弁(ろうべん)が天平勝宝年間に大山寺を開き、本尊不動明王を安置したと伝える(この相模版の縁起絵巻は、同名の伯耆国大山寺の縁起とは別物である)。この大山寺を拠点に中世以降は修験(大山修験)が栄え、二重瀧・良弁瀧といった滝での水垢離(みずごり)を経て登拝する、山伏の修行の場となった。雨を呼ぶ山という性格は農耕の祈雨信仰とも結びつき、大山は相模一円の水源を象徴する霊山として崇められた。

天狗

てんぐ

天狗は、日本の山岳に棲むとされる妖怪にして神格的存在であり、修験道の山伏と分かちがたく結びついてきた山の主である。その姿には大きく二つの系統がある。ひとつは赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる。古くは鳶(とび)のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていった。 天狗は仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じる――この両義性が天狗の本質である。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の絵巻にも風刺として描かれた。一方、山岳信仰のなかでは山の守護者・武芸と法力の達人として畏敬され、修行者を試し、あるいは導く存在とされた。京都の鞍馬山や愛宕山をはじめ、諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すと伝えられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げている。

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天狗は、その山伏と分かちがたく結びついた山の主である。赤ら顔に高い鼻、山伏装束に羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗と、鴉のくちばしをもつ烏天狗の二系統があり、仏法を妨げる魔でありながら調伏されれば護法神に転じる両義性をその本質とする。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、鎌倉末の天狗を描く絵巻にも風刺として現れた。諸国の霊山にはそれぞれ大天狗が座すと信じられ、愛宕山太郎坊・比良山次郎坊・鞍馬山僧正坊らを筆頭に「八大天狗」と束ねる枠組みが近世に整えられた。その八大天狗の一に、相模大山の大天狗が数えられる。

大山伯耆坊

おおやまほうきぼう

大山伯耆坊は、相模国の大山(おおやま、別名雨降山)に座す大天狗であり、八大天狗の一に数えられる。室町期の謡曲『鞍馬天狗』にも「大山の伯耆坊」として名が見える。 その座す大山は、古代の正史にさかのぼる霊山である。『延喜式』神名帳(九二七)は、山上の阿夫利神社を相模国の式内社として載せ、大山の神格が古代に国家的な公認を受けていたことを示す。伯耆坊の名には、天狗界の座をめぐる移座の伝えがまとう。もと相模大山には相模坊という大天狗がいたが、讃岐に配流された崇徳上皇の霊を慰めるため白峰へ移った。空席となった相模大山の座に、伯耆国(鳥取)の大山(だいせん)から伯耆坊が後任として入った――この対構造を、天狗研究の知切光歳が整理して示した。ゆえに大山伯耆坊と白峰相模坊は、つねに対で語られる。

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その名を大山伯耆坊という。室町期の謡曲にも「大山の伯耆坊」として名が見える、相模を代表する大天狗である。その名には、天狗界の座をめぐる「移座」の伝えがまとう。もと相模大山には相模坊という大天狗がいたが、保元の乱に敗れ讃岐で崩じた崇徳上皇の霊を護るため白峰(香川)へ移ってしまった。空席となった相模大山の座へ、伯耆国(鳥取)の大山(だいせん)から伯耆坊が後任として移り入った ── という対構造である。この移座の整理は、検証の限りでは天狗研究のが諸国の天狗譚を体系化するなかで示したもので、古典籍に明文の典拠を見いだしがたい。したがって大山伯耆坊を語ることは白峰相模坊と崇徳怨霊を語ることに通じる一方、移座そのものは後世の整理として読むのが穏当である。

巨大な木太刀を担いで大山を登る江戸の職人衆と、雲間から見下ろす大山伯耆坊。『新編相模国風土記稿』に記されるほど賑わった大山詣りにより、天狗の山は庶民の信仰と行楽の地となった。
巨大な木太刀を担いで大山を登る江戸の職人衆と、雲間から見下ろす大山伯耆坊。『新編相模国風土記稿』に記されるほど賑わった大山詣りにより、天狗の山は庶民の信仰と行楽の地となった。

大山の天狗は、近世には庶民信仰のなかへ降りてきた。官撰地誌は大山の例祭に諸国からの参詣者がはなはだ多いと記す。江戸の鳶や大工ら職人衆は、講(大山講)を組んで巨大な木太刀(きだち)を担いで登拝し、山上に古い太刀を納めて新しい太刀を授かって持ち帰った ── この「木太刀奉納」の風習は、落語「大山詣り」の題材にもなり、江戸庶民の信仰と行楽が一つになった「大山詣り」として今も日本遺産に語り継がれている。天狗の山は、いつしか庶民の盛り場ともなったのである。

山が抱くのは天狗ばかりではない。県西の足柄山(あしがらやま)には、山の老女の怪 ── 山姥が棲むと伝えられた。

山姥

やまんば

山姥(やまうば・やまんば)は、深山に棲むと伝えられる老女の姿をした怪。長い白髪を乱し、口が耳まで裂けた鬼婆として描かれる一方、山の幸を授け富をもたらす「山母」としても語られ、人を喰う恐ろしさと福徳を与える慈悲との二面を併せ持つ。鳥山石燕『画図百鬼夜行』や佐脇嵩之『百怪図巻』は、子を抱き、あるいは髪を振り乱した山中の老女としてその像を伝える。坂田金時(金太郎)の母とする近世の伝承でも知られ、単なる人喰いの鬼にとどまらない複雑な性格を帯びる。

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山姥は、深山に棲む老女の姿をした怪で、口が耳まで裂けた人喰いの鬼婆として描かれる一方、山の幸を授け富をもたらす「山母」としても語られる、恐ろしさと慈悲の二面を併せもつ存在である。には、源頼光が足柄山にさしかかった折、深山の庵に老女と若者が住み、その子こそ後の坂田金時(金太郎)であったとする説話があり、これが金太郎を山姥の子とする近世伝承の下地となった。足柄山に「まさかり担いだ金太郎」が育ったという物語は、この地と山姥を不可分に結びつけている。室町期のは山姥を山々を巡って人の務めを助ける存在として描き、後世の山姥像に大きな影響を与えた。柳田國男は、こうした山姥を、山の住人や山の神に仕えた巫女が零落して怪と見なされた姿ではないかと論じている。山という領域への畏怖と恵みへの感謝が、一人の老女の像に重なったのである。

鎌倉と相模の海辺の怨霊 ── 武家の都が生んだ亡霊

相模の海は、龍だけのものではなかった。源頼朝が由比ヶ浜の奥に幕府を開いて以来、鎌倉は武家の都となり、戦と政争のなかで数知れぬ死をのみ込んだ。その怨念は、海辺の怪異となって語り継がれる。

真鶴の海で凄惨に食い合う三つの首「舞首」。『絵本百物語』が伝えるこの怨霊譚は、斬られてなお争いをやめぬ武士の怨念が極まった姿である。
真鶴の海で凄惨に食い合う三つの首「舞首」。『絵本百物語』が伝えるこの怨霊譚は、斬られてなお争いをやめぬ武士の怨念が極まった姿である。

県西端、伊豆との境に近い真鶴(まなづる)の岬の沖には、三ツ石と呼ばれる岩礁がある。江戸期の奇談集に載る舞首は、この真鶴の海にまつわる怨霊譚である。鎌倉中期、真鶴の祭で口論から斬り合いとなり、小三太・又重・悪五郎の三名が討ち死にした。海へ落ちた首は互いに咬み争い、三つの首が水中でなおも食い合った。夜は口より火を吐き、昼は巴(ともえ)形の波が立つため、その淵を「巴が淵」と称したという。斬られてなお争いをやめぬ三つの首は、武士の確執と怨念が極まった姿にほかならない。

舞首と対をなすのが、鎌倉の渚に伝わる溝出である。同じ『絵本百物語』に載るこの死霊譚は、北条高時の頃、鎌倉の武士・戸根の八郎が家来の遺体を櫃(ひつ)に入れて由比ヶ浜へ捨てたところ、打ち上げられた櫃の中から歌声が聞こえ、寺僧が改めると海水に晒された白骨があった、と語る。これを手厚く葬ったのち、新田義貞の鎌倉攻めに出陣した八郎は、隊から遅れて由比ヶ浜で矢に貫かれ戦死する ── 遺骸を捨てた場所と同じであったため、供養を欠いた報いとされた。舞首が「斬り合いの怨念」を語るなら、溝出は「弔いを怠った報い」を語る。武家の都・鎌倉の海辺には、戦の怨念と供養の戒めという二つの亡霊が並んで漂っているのである。

これらが江戸後期の絵本という二次的な創作層に多くを負うことは、率直に断っておかねばならない。舞首・溝出はいずれもが伝える話で、鎌倉・真鶴という具体の地名を背負いながらも、その細部は近世の怪談作者の筆によって整えられている。とはいえ、武家の都が生んだ死の累積という土地の記憶がなければ、これらの海辺の怨霊譚は生まれようがなかった。地名が物語を呼び、物語が地名を意味づけ返す ── 怪異とはそのようにして土地に根を張る。

近世の海辺の都に対し、近代の都市の片隅にも亡霊は語られた。横浜市保土ケ谷区に伝わる明石様である。

明石様

あかしさま

明石様は、神奈川県横浜市保土ケ谷区に伝わる亡霊譚で、江戸後期頃に乱心した殿様の霊とされる。明石御前とも称され、子どもに外出を戒める口承として語り継がれた。外に出歩くと明石様が現れると怖れられ、夜分の外遊びを抑止する教訓的怪異として機能した。固有の姿形の詳細は伝承によって明らかでなく、名のみが恐れの対象となる典型的な地域怪異である。

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明石様(明石御前とも)は、江戸後期頃に乱心した殿様の霊とされる。伝承では、主君が乱心して人を斬ろうと望み、制止を破って外にいた猟師の娘を斬殺したため、その父の猟師に討たれて落命したという。以後、その怨霊が「明石様」として語られ、子どもが夜に出歩くと出るとして戒めに用いられた。固有の姿形は語り分けによって定まらず、名のみが恐れの対象となる ── これは、怪異が「夜の外出を抑止する脅し文句」として地域社会に機能した典型である。怨霊の物語が、いつしか子をしつける生活の知恵へと姿を変えていったのだ。

事八日の里の怪 ── 暮らしを律する妖怪たち

海辺の怨霊が「死と怨念」を語るのに対し、相模の里には「暮らしの節目」を律する妖怪が伝わる。その代表が、丹沢の後追い小僧と、関東一円に分布する箕借り婆である。

丹沢山地の東部には、後追い小僧という山霊が伝わる。四〜十歳ほど、時に十五歳ほどの子供の姿で、むしろや絣(かすり)の着物をまとい、山道で人の後を無言でついて来る。振り返れば木や岩陰に隠れて姿を消し、害は与えない。ときに先導するように前を歩き、夕刻以降には提灯のような小さな火をともすが、里近くに至ると自然に消えるという。古老は昼下がりに出ることが多いと語り、幾度も遭った者は握り飯や芋、干し柿を岩や切り株に供えたと伝える。山が死者の界に近いという観念から、亡くした子の霊が人に懐いた姿と解されることもあった。供物を置く所作には、それが我が子の霊であってほしいという親の祈りが滲む ── 後追い小僧は、山の不安が我が子への思慕と溶け合って結晶した、相模の山の優しい怪である。

事八日の夜、人家を覗こうとする箕借り婆。一つ目の老婆は軒先の目籠や柊鰯に怯んで退散する。相模の里では、妖怪が暮らしの物忌みや暦のリズムを律していた。
事八日の夜、人家を覗こうとする箕借り婆。一つ目の老婆は軒先の目籠や柊鰯に怯んで退散する。相模の里では、妖怪が暮らしの物忌みや暦のリズムを律していた。

里の暦のうえで畏れられたのが、箕借り婆である。関東地方に伝わる一つ目の老婆の妖怪で、旧暦十二月八日または二月八日の「事八日(ことようか)」に人家を訪れ、箕(み)や人の目を「借りる」とされた。一つ目小僧と連れ立って来るともいう。目の編目が多い籠やざるを門口に出し、目籠を竿の先に付けて棟に立てると、多くの「目」を恐れて避けられると信じられた。神奈川では、横浜市港北区に独特の伝えがある ── 箕借り婆は地に落ちた米粒まで拾いに来て、口にくわえた火で火事を起こすと畏れられ、人々は十二月一日に落ち穂米で「ツヂョー団子」を作って戸口に刺し、もう拾う米はないと示して災いを避けたという。事八日は、家に籠もり物忌みをして一年の節目を慎む日であり、箕借り婆はその物忌みを破る者を戒める、暦の番人のような妖怪であった。

箕借り婆

みかりばば

箕借り婆は関東地方に伝わる一つ目の老婆の妖怪。旧暦十二月八日または二月八日の事八日に人家を訪れ、箕や人の目を「借りる」とされる。一つ目小僧と連れ立つともいう。目の編目が多い籠やざるを門口に出し、目籠を竿の先に付けて棟に立てると避けられると信じられた。家籠もりや物忌みの習俗と結びつき、禁忌を守らせる象徴として語られてきた。

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この事八日の習俗と一つ目の妖怪の結びつきには、深い民俗の層がある。柳田國男以来、一つ目の怪異はもともと山の神・祭の神に捧げられた供犠の名残ではないかとも論じられてきた。片目を潰された存在が神に近づき、やがて妖怪へと零落していく ── 箕借り婆の一つ目は、そうした古い信仰の痕跡を宿しているのかもしれない。事八日は地域によって性格を変える。千葉南部では「ミカリ(ミカワリ)」という物忌み期間を設け、夜の外出や山入り、騒音や点灯、結髪、入浴までを慎む習俗が伝わり、神奈川でも家ごとに目籠を立て、いわしの頭を柊(ひいらぎ)に刺して門口に掲げ、餅や団子を供えて妖怪の来訪をやり過ごした。事八日とは、田の神が山へ帰り山の神が里へ降りるとも語られる、一年の循環の結び目であり、人と神と妖怪の境がもっとも薄らぐ日であった。相模・武蔵の境に位置する横浜から丹沢の山里にかけて、人々は暦の節目ごとに目籠を立て、団子を供え、夜の外出を慎んだ。妖怪は、暮らしのリズムそのものを律する存在だったのである。

海と山と都が織りなす相模の怪

こうして見れば、神奈川の妖怪文化は三つの磁場の重なりとして立ち現れる。南に開けた相模湾には潮と雨を操る龍が ── 江ノ島の五頭龍、箱根芦ノ湖の九頭龍、そして龍と結ぶ弁財天が棲み、西にそびえる大山・足柄の山々には大山伯耆坊ら天狗と山姥が座す。そしてその中ほど、武家の都・鎌倉とその海辺は、舞首・溝出・明石様といった怨念の亡霊を生み、丹沢の山里と横浜の在地には後追い小僧・箕借り婆が暮らしの節目を律してきた。

海の龍は恋と調伏によって善神へ転じ、山の天狗は信仰と行楽の山を治め、武家の都の亡霊は死と弔いの記憶を語り、里の怪は暦と物忌みを守らせる。同じ「龍」でも江ノ島と箱根で改心の道筋が違い、同じ「怨霊」でも舞首と溝出で戒めの主題が異なる ── この多彩さは、海・山・都という性格の異なる霊域が一県のうちに凝縮されていることの裏返しにほかならない。神奈川とは、それぞれの土地にふさわしい怪異を同時に育て続けてきた、稀有な妖怪の交差点なのである。相模湾の波音と大山の風音のあいだに、龍と天狗と亡霊たちの声は、今もかすかに響いている。

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神奈川県の妖怪一覧13

神奈川県ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

この県の伝承地

山・神社・淵など、神奈川県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

  • 九頭竜

    九頭竜

    神格

    くずりゅう

    戸隠の九頭龍大神

    神霊・神格戸隠・越前九頭竜川・箱根芦ノ湖 (水神九頭龍大神)

    戸隠山の九頭龍大神は、調伏を経て善神化した水神として祀られる。中世記録に見える「学門」による調伏善龍化譚が核で、のち九頭龍権現として雨乞いの本尊となり、社人・修験の法礼に組み込まれた。供物に梨を好むと伝え、歯痛平癒の霊験や縁結びの信仰も近世以降に広まる。神像・蛇体・龍体の表象は伝承期によって異なり、岩戸・湧水・渓谷と結びつく。地域の水源守護・農耕安定の象徴であり、荒ぶる要素は鎮魂と祭祀によって和らげられるという理解が定着した。越前方面の黒龍・白龍の伝承と混交せずとも、水神としての機能は共通し、雨・川の増減と民生に関わる。

  • 龍神

    龍神

    神格

    りゅうじん

    嵐を鎮める水神・龍神

    神霊・神格全国の水神信仰を基層とし、江ノ島・貴船・戸隠・箱根・三輪山など各地に固有の龍神縁起が根づく

    「嵐を鎮める水神」としての龍神は、海と空の境で天候を握る存在として、漁師と船乗り、そして稲を作る里人に最も切実に祈られてきた。その力は両刃である。時に慈雨を恵んで田を潤し、時に大波と暴風を起こして船を砕く。だからこそ人は、荒ぶる面を鎮め、恵みの面を引き出そうと、さまざまな作法で龍神に向き合った。 海の龍神が手にする最大の神宝は、潮の満ち干をあやつる潮満珠・潮干珠である。山幸彦は海神からこの二玉を授かり、満珠で兄を溺れさせ、干珠で助けて服従させた。潮を自在にするこの力こそ、海を統べる龍神の本質を示す。沿岸の社では時化の鎮まりと豊漁を、内陸では雨を願い、旱には黒馬を献じ、淵には供物を沈めて機嫌をうかがった。芦ノ湖や各地の池に伝わる人身御供の縁起は、荒ぶる龍を高僧が調伏して守護神へ転じさせる筋立てを共有し、恐れと敬いが表裏であったことを物語る。 龍宮の主としての顔も、この水神性と地続きである。海の彼方、水底にある龍神の宮は富と時間の異界であり、そこを訪れた者は宝を得るか、玉手箱のように戻れぬ歳月を負う。龍神は単なる怪物ではなく、水という生死の資源そのものを体現する神格であり、嵐を鎮めるとは、すなわち人と自然のあいだに辛うじて結ばれた約束を守らせることでもあった。

  • 山姥

    山姥

    伝説

    やまんば

    深山の老婆・山姥

    山野の怪日本各地の山中譚 (足柄山ほか)

    白髪の老婆だが、山での生活で鍛えられた強靭な体を持つ。金太郎を育てた伝説で知られる、山の母のような存在。その皺に刻まれた人生経験は何物にも代えがたい宝物であり、迷える者に的確な助言を与える。厳しく見えても、その奥にある深い愛情を感じることができる。

  • 大山伯耆坊

    大山伯耆坊

    伝説

    おおやまほうきぼう

    移座の大天狗・大山伯耆坊

    山野の怪相模大山·大山阿夫利神社(現·神奈川県伊勢原市) ── 日本八天狗

    大山伯耆坊の核心は、「移座」という天狗界の座の継承譚にある。だがその座す大山は、移座伝に頼らずとも古代に確立した霊山であった。 『延喜式』神名帳(九二七)は阿夫利神社を相模国の式内社に列ね、大山の神格が古代国家に公認されていたことを示す。仏教側の大山寺縁起絵巻は、鷲にさらわれ奈良で育った良弁が大山寺を開き不動明王を安置したと描く(相模版。伯耆国大山寺の縁起とは別物)。そして近世、官撰地誌『新編相模国風土記稿』(一八四一)は、夏山の登拝期と諸国からの参詣の賑わいを伝える。先導師に導かれ滝に身を清めてから登る参詣の作法、各地の大山講――こうした信仰の厚みが、後任の天狗である伯耆坊に、庶民を見守る守護者の性格を与えた。 移座の伝えは、この霊山の歴史の上に重なる。天狗研究の知切光歳の整理によれば、相模大山にはもともと相模坊という大天狗がいた。だが保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐へ流された崇徳上皇が崩御すると、相模坊はその無念の霊を慰め護るため、讃岐の白峰へと移った(=白峰相模坊)。空席となった相模大山の座を継いだのが、伯耆国の大山(だいせん)から移ってきた伯耆坊である。「相模坊が西へ、伯耆坊が東へ」というこの対称の移座は、古典籍に明文の典拠を欠く知切由来の整理であり、史実というより、天狗界の座が固定された個体ではなく山と縁によって継がれてゆくという観念を映した伝承として読むべきである。室町の謡曲『鞍馬天狗』に「大山の伯耆坊」と唱えられ、『天狗経』の四十八天狗に連なるその座は、この独特の縁起とともに、八大天狗の一として記憶されつづけている。

  • 天狗

    天狗

    伝説

    てんぐ

    天狗とは何か――類型と図像の総論

    山野の怪愛宕山(京都)・鞍馬山(京都)・比良山(近江/滋賀)・飯縄山(長野)・大山(神奈川)・英彦山(福岡)・白峰(香川)・大峰山(奈良)・比叡山(近江/滋賀)・高野山(和歌山) ─ 諸国の霊山に座す大天狗

    この版は、特定の霊山の一座ではなく、「天狗とは何か」を図像と類型の歴史から徹底して解きほぐす総論である。各座の個別伝承は、それぞれの大天狗の頁に譲る。 天狗の姿は一様ではない。第一の類型は鼻高天狗――赤ら顔に高い鼻、山伏の兜巾と鈴懸をまとい、羽団扇を手に一本歯の高下駄を履く。第二は烏天狗で、鴉のくちばしと翼をもち、剣や金剛杖を執る。第三は木の葉天狗・木っ端天狗と呼ばれる下位の天狗で、力弱く数多い眷属とされる。これらは固定した分類というより、時代と地域による天狗像の幅を映している。 図像は時代とともに変遷した。平安期の天狗はまず鳶(とび)のごとき鳥として観念され、烏天狗の像はその名残をとどめる。長い鼻が際立つのは鎌倉末以降で、『是害房絵巻』には、人に化けていた天狗が鳥の姿へ戻る際に鼻が伸びる場面が描かれる。鼻高の起源については、伎楽面の高鼻の治道(じどう)面に由来するとし、烏天狗を迦楼羅(かるら)面に結ぶ学説があり、長い鼻を鳥の嘴の図像的な遺存とみる見方もあるが、いずれも定説とまでは言いがたい。『日本書紀』で鼻長七咫(しちあた)と描かれる猿田彦神と重ねられ、祭礼の猿田彦役に天狗面を用いる風も生まれた。 天狗の両義性は、仏教の天狗道の観念に根ざす。仏道を学ぶゆえに地獄には堕ちず、邪法を扱うゆえに極楽にも行けない中間の境涯――そこに堕ちるのは慢心した僧とされた。『天狗草紙』はこの観念を七大寺の僧への風刺として描くが、ただし「高慢な僧だけが天狗になる」という単純化には知切光歳も行き過ぎと釘を刺している。魔でありながら、調伏されれば護法に転じ、修験者が『天狗経』を誦せば諸国の天狗を招いて願を叶えるとされた――この護法と魔の振幅こそ天狗の核である。 「八大天狗」という括りの確かな中世典拠は、室町期の謡曲『鞍馬天狗』の詞章にある。大天狗が従える諸国の天狗を「筑紫には彦山の豊前坊、四州には白峰の相模坊、大山の伯耆坊、飯綱の三郎……大峰の前鬼が一党、葛城高間」と地理順に唱え上げるくだりがそれで、八大天狗が江戸の創作ではなく中世の信仰と芸能に根を張っていたことを示す。もっともその構成は資料により揺れ、石鎚山法起坊を加える異伝もあるなど、固定した名簿ではない。

  • 弁財天

    弁財天

    伝説

    べんざいてん

    古代インド由来·中世日本変容の女神·弁財天

    神霊・神格日本三大弁天 ── 江島神社 (神奈川) / 宝厳寺竹生島 (滋賀) / 厳島神社 (広島)。単一総本社なし

    サラスヴァティーから弁財天へ ── 二千年の文化変容。基本説明では弁才天の主要鎮座地と俗信に触れたが、徹底解説では古代インドのサラスヴァティーから現代日本の弁財天までの二千年を超える文化変容を掘り下げる。 サラスヴァティーは『リグ·ヴェーダ』 (前 1500-1200 年頃) に登場するインド最古の女神の一つで、川の流れ·音楽·学芸·言語·詩歌を司った。仏教受容後は『金光明経』『法華経』等で守護尊化、中国·朝鮮·日本に伝播した。日本では (1) 古代·律令制仏教期 (7-9 世紀) は経典内の守護尊、 (2) 中世·鎌倉期は宇賀神との習合で宇賀弁才天が成立、 (3) 近世·江戸期は七福神化·財福神化、 (4) 近代·明治期は神仏分離で多くが市杵島姫命 (イチキシマヒメ) に祭神変更、 (5) 現代は俗信·観光·サブカルチャー素材として変遷した。二千年を超えて姿·属性·呼称·表記を変化させながら継承される、古代神格の文化変容の代表事例である。 宇賀神 ── 出自不明の人頭蛇身神。鎌倉時代以降に弁才天と習合した宇賀神は、「人の頭·蛇の身体·蜷局を巻いた姿」で表される異形神格で、学術的にも出自不明の謎多き存在である。「宇賀」の語源は古事記·日本書紀の穀物神·宇迦之御魂神 (うかのみたま) との関連が指摘されるが、蛇形像の起源は中国の伏羲·女媧 (人頭蛇身の創世神格) の影響·インドのナーガ (蛇神) の影響·日本古来の三輪山·諏訪等の蛇神信仰の融合等、諸説が交差する。「日本独自の出自不明の蛇神」が「インド由来の仏教女神」と融合した宇賀弁才天は、中世日本宗教文化の混交·創造性·呪術性の象徴的事例である。 二臂像 vs 八臂像 ── 図像学の二系統。 弁才天像には大きく二系統がある。 (1) 二臂像: 琵琶を抱いて演奏する優雅な天女姿。サラスヴァティー本来の音楽女神性を継承する系統で、日本では平安期以降の伝統像。 (2) 八臂像: 武装した戦闘女神姿で、剣·宝珠·弓·矢·斧·鉾·輪宝·宝棒等の八つの武器·法具を持つ。『金光明経』 (5-6 世紀中国訳) に記される姿で、鎮護国家の守護尊として強調された系統。八臂像は弁才天の「優雅な学芸女神」イメージと一線を画す勇猛な戦闘神性を体現し、これに鎌倉期の宇賀神蛇形が加わって、弁才天は「優雅·勇猛·呪術·財福」を統合する極めて複層的な神格に発展した。 蛇神化の民俗論 ── 水神·財神·豊穣神の重層。弁才天 (宇賀弁才天) の蛇神化は、日本古来の蛇神信仰 (三輪山·諏訪·宇佐·熊野等) と密接に絡まり合う民俗現象である。古代日本では蛇は「水神 (川·池·海辺の祠)·財神 (脱皮·無限増殖)·豊穣神 (穀物·土地)·治癒神 (薬·禁忌)」の四属性を統合する神格として崇敬されてきた。弁才天が宇賀神と習合して蛇神性を獲得した結果、水辺の祠·財布の中の蛇·脱皮の御守·治癒祈願等、古代蛇神信仰の全層が「弁財天信仰」として継承された。 21 世紀の現在も「銭洗いの霊水·財布の蛇·縁切り」等の現代俗信は、古代蛇神·中世弁才天·近世財福神·現代観光が複層する民俗文化の生きた継承を示す。 カップル参拝禁忌 ── 嫉妬神という現代俗信。弁才天 (特に江島神社·厳島神社等の主要霊場) では「美女女神ゆえカップルで参拝すると嫉妬されて別れる」という現代俗信が広く流布する。これは古代インドの強烈な女神性 (サラスヴァティーは Brahma の妻として描かれる場合もあり、嫉妬·激情を持つ)·中世日本の蛇神性 (蛇は嫉妬·執着の象徴とされた)·女人禁制等の修験的禁忌が現代に変奏された現象である。単純な迷信を超え、古代から現代までの複層的宗教史·民俗史·心理史を凝縮する興味深い現象として、 21 世紀の民俗学·心理学·観光学の研究対象となっている。同時に「縁切り神社」 (京都·安井金比羅宮等) との接続も指摘され、弁才天の禁忌神性が現代の縁切り祈願文化と結びつく文化的継承を示す。 七福神信仰と江戸庶民文化。江戸期の七福神信仰 (恵比寿·大黒·毘沙門·弁財·福禄寿·寿老人·布袋) における唯一の女神として、弁財天は江戸庶民文化の中心的神格の一つとなった。正月の七福神巡り·宝船絵の枕下·初詣·商売繁盛祈願等、江戸の庶民生活に深く浸透した。これは中世の宇賀弁才天信仰 (密教·呪術·貴族文化) から、近世の七福神信仰 (庶民·商業·都市文化) への展開を体現する文化史的事件である。古代インドの学芸女神 → 中世日本の密教神格 → 近世日本の庶民財福神 → 現代の観光·サブカル素材という、二千年を超える長大な文化変容の重要な節目として近世弁財天信仰は位置づけられる。 21 世紀の弁財天 ── 観光·サブカル·縁切り文化。 21 世紀現在、弁財天は日本三大弁天·全国の弁天社·七福神巡り等の観光資源として継承されている。同時にサブカルチャー作品、例えばゲーム『大神』『女神転生』·漫画『ぬらりひょんの孫』等で繰り返し再造形され、古代インドの女神性·中世日本の蛇神性·近世日本の財福神性·現代日本の縁切り神性が交差する複層的アイコンとなっている。古代インドのサラスヴァティーから現代日本の弁財天まで二千年を超える文化変容を、単一の神格が体現し続ける稀有な事例として、妖怪学·民俗学·宗教史·比較神話学の重要素材であり続けている。

  • 坂田金時

    坂田金時

    名妖

    さかたのきんとき

    足柄山の怪力童子・坂田金時

    人妖・半人半妖相模国足柄山・金時山 (現·神奈川県南足柄市・箱根町周辺) / 大江山鬼退治伝承

    この版本では、坂田金時を「足柄山の力を都へ持ち帰る武者」として読む。金時は最初から整った武士として現れるのではない。金太郎としての彼は、山姥に育てられ、熊や獣と親しみ、鉞を担ぐ怪力童子である。この幼年像には、人間社会の外で育った子の異様さが残っている。 頼光に見いだされる場面は、金時の力の向きが変わる瞬間である。山で自然に発揮されていた怪力は、主君に仕える武者の能力へ変換される。これは、野生の力を文明化する物語でもある。金時は山の異界を捨てるのではなく、その力を持ったまま頼光四天王に入る。だから彼は、都の武士団の中で特別な身体を持つ。 酒呑童子退治における金時は、山の力で山の鬼へ向かう人物である。大江山の鬼は都の外に籠もる怪異であり、金時もまた足柄山の異界から来た力を持つ。両者は同じ山の力を別々の側へ振り分けた存在と見られる。鬼が人間社会を脅かす異界の力なら、金時はその力を人間側へ回収した武者である。 金太郎像の明るさは、後世の受容で大きく強調された。五月人形や子どもの歌において、金太郎は健康、剛健、成長の象徴となる。しかし、その健康な童子像だけを見ると、山姥、獣、怪力という妖怪的な要素が薄れる。この版本では、明るい民俗キャラクターの奥に、山で育った異能児の輪郭を残して読む。 坂田金時は妖怪ではないが、妖怪譚における「人間側の異能」を代表する。完全な人間社会の内側から鬼へ向かうのではなく、山の怪異に近い場所で育った力をもって鬼へ向かう。そのため彼は、頼光四天王の中でも、都と山、子どもと武者、英雄と異形の境目に立つ存在なのである。 金時の怪力は、ただ強いというだけではなく、どこから来た力なのかが問われる。足柄山で獣と育ったから強いのか、山姥の血や養育によって異界の力を得たのか、伝承は明確に答えない。その曖昧さが、金時を人間と妖怪の境目に置く。 頼光に召し出されることは、金時にとって社会化である。山では自由な怪力童子だった彼が、主君を持ち、名を持ち、四天王の一員になる。異界の力は、名前と役割を与えられることで武家の力へ変わる。ここに、金太郎から坂田金時への大きな変身がある。 この版本では、端午の節句の明るさも軽く見ない。子どもの成長を願う家々が金太郎像を飾るとき、山の怪力は祝福に変わる。妖怪的な力が、怖がられるのではなく、子どもを守り育てる象徴になる。金時は、異界の力が家庭の願いへ柔らかく変換された稀有な例でもある。 金時の物語は、異界の力を排除するのではなく、育て直す物語でもある。山姥のもとで育った力は、都へ来ても消えない。むしろ頼光のもとで役割を得ることで、鬼退治に必要な力へ変わる。ここに、妖怪的なものを味方へ引き入れる面白さがある。 この柔らかな転換が、金時を今も親しい英雄にしている。

  • 赤マント

    赤マント

    名妖

    あかまんと

    便所で色を問う赤マント・青マント

    霊・亡霊日本各地(記録地:豊科町・東京都・尼崎市・藤沢市)

    学校の便所で「赤いマントか青いマントか」「何色の紙がほしいか」と問い、答えた色を血、顔色、衣類などの結末へ変える色選択型の怪談。問い手はマント姿の男とされることもあれば、お化け、姿のない声として語られることもあり、白や黄色、断りの言葉で助かる異文もある。1939年の東京で流行した「赤マントの男」の都市流言とは名称と赤色を共有するが、直接の系譜は確認されていない。

  • 舞首

    舞首

    名妖

    まいくび

    真鶴海の三首咬み合い・舞首

    霊・亡霊真鶴·三ツ石/巴ヶ淵(現·神奈川県真鶴町) ── 『絵本百物語』三武士の首

    『絵本百物語』に拠る真鶴の海の怨霊像を基調とした標準的解釈。討たれた武士の首級がなお怨みを離れず、互いを噛み合い火を吐く怪異として語られる。由来は祭礼時の口論からの斬合、あるいは博打の罪科による死罪とする二系統が併記されるが、いずれも首が自律して舞い、海上に渦や怪火を生じさせ、地名伝承と結び付く点を共有する。絵画資料では三首が連なり舞う図様が見られ、後代の黄表紙や読本にも類似の意匠が描かれた。地域の海淵・磯場での怪異譚として位置づけられ、首級への畏れ、戦乱・私闘の祟り、そして水辺の危険を戒める機能を持つと解される。

  • 後追い小僧

    後追い小僧

    珍しい

    あとおいこぞう

    丹沢山中の後追い小僧

    山野の怪丹沢山地東部(現·神奈川県) ── 山中で無言で後をつける子供の山霊

    丹沢東部の山中に現れる子どもの姿の山霊像を、民俗資料に即して整理したバージョン。基本的に無害で、人の後を静かに追うのみであるが、場合によっては前に立ち、分岐で正しい道へ誘う先導役となる。姿は粗末なむしろや絣、毛皮をまとい、山林の陰影に紛れて振り返れば消える。出現は日中の午後が多いとされ、夜分には小さな火を手にしていると語られる。繰り返し遭遇した者は、亡くした子を思い、握り飯や芋、菓子、干し柿などを岩や切り株の上に供える習俗が記録される。里へ下るにつれ自然と姿を消すという説、夜は呼びかけると退くという説が併存し、いずれも人に祟る性格は見られない。山と死者の観念の重なりが背景にあり、山域の境界的性格を象徴する存在として位置づけられる。

  • 溝出

    溝出

    珍しい

    みぞいだし

    鎌倉由比ヶ浜の歌う白骨・溝出

    霊・亡霊由比ヶ浜·鎌倉(現·神奈川県) ── 『絵本百物語』遺体を粗末にした祟り

    竹原春泉挿画の『絵本百物語』に見える溝出の像を基調とする。遺体遺棄に対する譴責として、白骨が自律し歌い踊る描写が象徴的で、死者の扱いを誤れば怪異が起こるという民俗的規範を視覚化する。物の怪というより、無供養の死者が現世に徴を示す「怨霊譚」の範疇に近い。舞い歌う所作は滑稽の体裁を取りつつも教訓性が強く、聞き手に弔いの実践を促す。地名・人名(由比ヶ浜、戸根の八郎、北条時行など)が具体的で、軍記物の記憶を踏まえた説話構成となっている。寺僧が白骨を葬ることで怪が鎮まる筋立ては、供養による鎮魂という寺院の社会的役割を示す典型である。

  • 箕借り婆

    箕借り婆

    珍しい

    みかりばば

    事八日の一つ目老婆・箕借り婆

    山野の怪神奈川県横浜·川崎(+千葉) ── 一つ目の老婆、事八日の関東伝承

    箕借り婆の伝承に即した像を整理した版。一つ目の老女として事八日に現れ、家々の仕事や外出を慎ませる機能を帯びる。箕や人の目を「借りる」行為は、編目の多い器物や多数の目を持つ象徴への忌避と結びつき、門口に籠・ざるを出す、目籠を竿に付けて棟に立てるなどの対策が生まれた。横浜港北の例では、落ち穂まで求める欲張り性が強調され、火をくわえる描写が火災忌避の教訓として機能する。千葉南部の「ミカリ(身変わり)」と呼ばれる物忌みや家籠もりの習俗は、祭事前の非日常を保つ規範を妖怪譚に読み替えたものと理解される。こうした語りは地域差を伴いつつも、冬から春にかけての節の変わり目における家内安全・火難避け・労働忌避の規範を伝える枠組みとして共有されている。創作的要素を排し、関東の実見記事・民俗記録に見られる要点のみを採用する。

  • 明石様

    明石様

    珍しい

    あかしさま

    保土ケ谷の殿様霊・明石様

    霊・亡霊横浜市保土ケ谷区(現·神奈川県) ── 乱心した殿様の霊、子供のしつけ譚

    保土ケ谷区に伝わる明石様の代表的語りを整理した版本。江戸後期頃の乱心した殿様が人斬りを望み、猟師の娘を斬って猟師に討たれたという経緯が核となる。以降、名指しで恐れられ、夜の外出を戒める口碑として広まった。姿形や衣装、出没の刻限など具体描写は一定せず、語り手によって「出る」「連れてゆく」など効果のみが強調される。地域の生活規範に密着した脅し話型の怪異で、家々でのしつけや共同体の安全意識を支える実践的機能を担った点が特徴である。実在人物・地名の特定には慎重さが求められ、固有名「明石御前」との併記が見られるが、詳細な系譜は不詳である。

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