神奈川県、相模平野の西にそびえる大山(おおやま)。標高1252メートル、丹沢山地の東端に立つこの山は、富士に似た秀麗な三角形の山容で知られる。
別名を「雨降山(あふりやま)」という。その名のとおり、雨を降らせる霊山として、古来、農民たちの篤い信仰を集めてきた。そして頂には巨岩の神が鎮まり、山には大天狗·大山伯耆坊(おおやまほうきぼう)が住まうと伝えられる。雨と岩と天狗 ── 相模の名峰に重なる信仰を、本稿はたどる。
相模の名峰、
大山
海からの湿った風が、相模平野をへてこの山にぶつかると、しばしば山頂に雲がかかり、雨を降らせる。「雨降山」の名は、この山がいかに雨と深く結びついてきたかを物語っている。水を恵む山であり、平野のどこからも仰ぐことのできる目印の山 ── 大山は、相模に生きる人々にとって、暮らしの中心にある霊峰であった。相模の人々は、富士山とこの大山を一対のものとしてとらえ、両山をあわせて参る「両詣り(りょうまいり)」を尊んだ。富士に登った者は大山にも詣でねば片参りになる、とまでいわれたという。
雨降りの神
大山の山頂には、巨大な岩石を御神体とする大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)の本社が鎮座する。主祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)で、江戸時代までは「石尊(せきそん)大権現」と呼ばれていた[1]。山そのもの、そして頂の巨岩を神とあおぐ、古い磐座(いわくら)信仰の姿がここにある。頂の巨岩を「石尊」と呼んで神とあおぐこの信仰は、文字や社殿が整う以前の、きわめて古い山岳信仰のかたちを今に伝えている。岩そのものに神が宿るという感覚は、日本人の自然信仰の最も根源的な層に属するものである。
阿夫利神社は雨乞いの神としても知られ、農民たちの信仰を集めた。中腹にある二重滝(ふたえのたき)は雨乞いの滝とされ、その聖なる水が、雨を願う儀式に用いられた[1]。日照りが続くと、村々から代表が大山に登り、二重滝の水を竹筒に汲んで持ち帰って田にそそぎ、雨を願ったという。山の水を里へ運ぶこの営みは、大山が相模の農の、まさに水源として仰がれていたことを示している。日照りに苦しむ農民にとって、大山に祈ることは、まさに生死にかかわる切実な営みであった。雨を司る神への信仰が、この山の根幹をなしている。
大山詣りの賑わい
大山の信仰を語るうえで欠かせないのが、江戸時代に大流行した「大山詣り(おおやままいり)」である。
宝暦年間(1751〜1764年)ごろから、庶民による信仰登山が「大山講(おおやまこう)」として組織化され、江戸を中心に爆発的な人気を博した。参拝者が木製の太刀を奉納する「納め太刀」の風習も、元禄年間ごろから始まったとされる[1]。江戸から大山へは「大山道(おおやまみち)」と呼ばれる街道がいくつも延び、参詣の人々が行き交った。夏の山開きの時期には、白装束に身を包んだ大山講の一行が、「懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら滝に打たれて身を清め、頂を目指した。納め太刀の風習は、源頼朝が刀を奉納したという由緒にちなむとされ、人々は願いを込めた木太刀を納め、代わりに先人の納めた太刀を持ち帰ったという。
講をつくって仲間と連れ立ち、大山に登って身を清め、帰りには江ノ島などにも足をのばす ── 大山詣りは、信仰と行楽をかねた、江戸庶民の一大レジャーであった。「大山詣り」は落語の演目にもなり、当時の賑わいぶりを今に伝えている。
天狗の棲む霊山
雨を恵み、巨岩を祀る大山は、同時に、天狗の棲む山でもあった。

天狗
天狗は、日本の山岳に棲むとされる妖怪にして神格的存在であり、修験道の山伏と分かちがたく結びついてきた山の主である。その姿には大きく二つの系統がある。ひとつは赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる。古くは鳶(とび)のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていった。 天狗は仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じる――この両義性が天狗の本質である。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の絵巻にも風刺として描かれた。一方、山岳信仰のなかでは山の守護者・武芸と法力の達人として畏敬され、修行者を試し、あるいは導く存在とされた。京都の鞍馬山や愛宕山をはじめ、諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すと伝えられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げている。
詳しく見る修験道の行場として開かれた大山には、深山の霊気のなか、超人的な力をもつ天狗が住むと信じられてきた。険しい峰と、巨岩を御神体とする磐座信仰、そして雨を呼ぶ神秘 ── そのすべてが、人ならぬ天狗の存在を、人々に確信させたのである。相模の大山は、京の愛宕山や鞍馬山と同じく、天狗信仰の一大霊地として知られていた。天狗とは、山の持つ目に見えぬ力が形をとった存在である。雨を呼び、巨岩に宿り、人を寄せつけぬ深山の霊気をたたえた大山が、天狗の住み処と見なされたのは、ごく自然なことであった。
大天狗·伯耆坊
大山に君臨する天狗の主が、大天狗·大山伯耆坊である。

大山伯耆坊
大山伯耆坊は、相模国の大山(おおやま、別名雨降山)に座す大天狗であり、八大天狗の一に数えられる。室町期の謡曲『鞍馬天狗』にも「大山の伯耆坊」として名が見える。 その座す大山は、古代の正史にさかのぼる霊山である。『延喜式』神名帳(九二七)は、山上の阿夫利神社を相模国の式内社として載せ、大山の神格が古代に国家的な公認を受けていたことを示す。伯耆坊の名には、天狗界の座をめぐる移座の伝えがまとう。もと相模大山には相模坊という大天狗がいたが、讃岐に配流された崇徳上皇の霊を慰めるため白峰へ移った。空席となった相模大山の座に、伯耆国(鳥取)の大山(だいせん)から伯耆坊が後任として入った――この対構造を、天狗研究の知切光歳が整理して示した。ゆえに大山伯耆坊と白峰相模坊は、つねに対で語られる。
詳しく見る大山伯耆坊は、日本を代表する天狗を挙げる「八天狗(はちてんぐ)」の一つに数えられる大天狗である[1]。その名の「伯耆」が示すとおり、もとは伯耆国(ほうきのくに、現在の鳥取県)の大山(だいせん)にいた天狗であったと伝わる。言い伝えによれば、相模の大山にいた先代の天狗·相模坊(さがみぼう)が、讃岐に流された崇徳上皇(すとくじょうこう)のもとへと去ったのち、空席となったこの山に、伯耆坊が移り住んだのだという。崇徳上皇と相模坊の物語は、上皇の眠る白峰に詳しい。先代の相模坊は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、ついには日本最大の怨霊と化したと伝わる崇徳上皇に仕えるため、はるばる四国へと渡ったという。主を失った相模の大山に、遠く伯耆国から伯耆坊が招かれ、新たな山の主となったのである。天狗たちが山から山へと移り住むというこの伝承は、各地の天狗信仰が、一つの大きな世界としてつながっていたことを示している。
信仰の今
雨を降らせ、巨岩を祀り、天狗を抱く大山。その信仰は、今日もなお、相模の地に息づいている。
現在では、中腹までケーブルカーが通じ、大山阿夫利神社や大山寺へは、多くの参拝者·観光客が訪れる。山頂からは、相模湾や、晴れた日には遠く房総半島までを一望できる。大山のふもとは清らかな水に恵まれ、参拝者をもてなす豆腐料理でも知られる。かつて講の人々が精進料理として食した大山豆腐は、今も相模の名物として受け継がれている。雨乞いの霊山として農民が祈り、江戸の庶民が講を組んで登り、天狗が住むと恐れられた相模の名峰は、その豊かな信仰の記憶とともに、いまも丹沢の東に静かにそびえている。神奈川の妖怪と伝承の全体像は神奈川県の妖怪事典も参照されたい。
