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白峰 日本最大の怨霊、白峰に眠る ── 崇徳上皇と相模坊

崇徳·大魔縁·白峰の天狗。三大怨霊の筆頭

日本最大の怨霊、
白峰に眠る ── 崇徳上皇と相模坊

白峰 · しらみね

別称: 白峯 / 白峯寺 / 相模坊 / 崇徳天皇陵
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香川県坂出市、五色台の一峰·白峰に、一つの陵がある。崇徳天皇陵 ── かつて帝位にあった一人の上皇が、流刑の地で果て、葬られた場所である。そしてこの白峰は、日本三大怨霊の「筆頭」、すなわち最強の怨霊が眠る地として知られてきた。

菅原道真は学者であり、平将門は武将であった。だが崇徳上皇は、天皇その人である。位の頂点にあった者が、なぜ日本でもっとも恐れられた大魔縁·大天狗となったのか。本稿は、白峰に眠る崇徳の物語をたどる。

帝、
讃岐に流される

崇徳天皇は、鳥羽上皇の皇子として生まれ、わずか五歳で即位した。だが父·鳥羽との不和は深く、やがて譲位を強いられる。鳥羽の死をきっかけに、皇位継承と摂関家の対立がからみあい、ついに武力衝突へと至った ── 保元元年(一一五六)の保元の乱である。崇徳上皇は後白河天皇方に敗れた

敗者となった崇徳に下された処分は、苛烈なものだった。崇徳は讃岐国(現·香川県)へ配流された。天皇·上皇の配流は、およそ四百年ぶりの出来事であった。かつて宮廷の頂点にあった帝が、海を渡って西国の地へ流される ── それは前例なき転落であった。

保元の乱は、王家と摂関家の対立が武力に転じた、日本史の転換点でもあった。崇徳上皇と左大臣·藤原頼長の側に対し、後白河天皇·関白藤原忠通の側 ── そして双方の陣営に、源氏と平氏の武士が分かれて加わった。父と子、兄と弟が敵味方に裂かれて戦ったこの乱を境に、政の実権は貴族から武士の手へと移りはじめる。崇徳の敗北と配流は、古い時代の終わりを告げる事件でもあった。

血で書いた呪い

讃岐での崇徳には、一つの名高い伝説がある。崇徳は配流先で五部大乗経を写経し、せめてこれを都の寺に納めたいと朝廷に差し出した。だが後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、受け取りを拒んだという。

返された写経を前に、崇徳の絶望は怒りへと変わる。激怒した上皇は舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書きつけたと『保元物語』は伝える。帝位を奪われた者が、国そのものを呪い、秩序の転覆を誓ったのである。ただし、この血書経の逸話は崇徳の崩御から年を経てはじめて語られたもので、実物を見た者はなく、後世の脚色である可能性も指摘されている。伝説の真偽はともあれ、人々が崇徳の無念をそれほど深いものと感じていたことは確かである。

都を遠く離れた讃岐で、崇徳がどのような日々を送ったかは、その多くが伝説に包まれている。ひたすら写経に明け暮れたとも、わずかな供の者とともに寂しく暮らしたとも語られる。かつて万乗の位にあった帝が、ふたたび都の土を踏むことなく、八年あまりの歳月を西国の地で過ごした ── その深い孤独と無念こそが、のちの壮大な怨霊伝説を育む土壌となった。

長寛二年(一一六四)、崇徳は讃岐で崩御し、白峰に葬られた

大天狗となった帝 ── 白峰相模坊

崇徳の死後、都には不穏な出来事が続いた。保元の乱ののち、平治の乱、平氏の専横、源平の争乱と、世はとめどなく乱れていく。人々はこれを、崇徳の呪いの成就と見た。帝位を追われた崇徳の怨霊は、もはや並の亡霊ではない ── 天狗の王、大魔縁として畏れられるようになる。

白峰相模坊

しらみねさがみぼう

白峰相模坊は、讃岐国の白峰に座す大天狗であり、八大天狗の一に数えられる。室町期の謡曲『鞍馬天狗』に「四州には白峰の相模坊」と唱えられる。その最大の特徴は、保元の乱に敗れて讃岐に流され崩じた崇徳上皇の白峯陵を護る天狗とされる点にある。 その名の由来には二説がある。一つは『保元物語』に登場し崇徳に味方した僧相模阿闍梨勝尊にちなむとする説、いま一つは相模国の大山から来た大行者が崇徳の霊を護る鎮守となったとする説で、後者は大山伯耆坊の「移座」伝と対をなす。日本三大怨霊にして「日本一の大天狗」とも呼ばれた崇徳と、その陵を護る天狗――両者の物語は分かちがたく結びついている。

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その崇徳の霊と分かちがたく結びつくのが、白峰相模坊である。讃岐白峰に住むとされる大天狗で、日本を代表する天狗の一に数えられる。崇徳院の陵を守り、あるいはその配下として、白峰の山に君臨すると語られてきた。帝が大天狗となり、天狗がそれに従う ── 白峰は、人の世の秩序が裏返った、もう一つの宮廷のような様相を帯びていく。

西行、
白峰に霊を見る

この崇徳の怨霊を、文学の頂点で描いたのが、上田秋成の『雨月物語』(安永五年·一七七六刊)の一篇「白峯」である。

物語はこう進む。歌僧·西行が讃岐の白峰陵を訪れ、読経して歌を手向けると、崇徳院の亡霊が返歌で応じる。やがて西行と院のあいだに激しい論争が起こり、院は怨念をあらわにして、平氏の滅亡を予言する大風とともに、その異形の姿を現す。このとき、院の配下の天狗「相模」が現れる── 白峰相模坊である。崇徳を頂く魔界の宮廷が、まざまざと立ち上がる場面であった。秋成は、史実の怨霊伝説を、文学の極北へと昇華させたのである。

三大怨霊の筆頭

崇徳上皇は、菅原道真·平将門とならぶ「日本三大怨霊」の筆頭、すなわち最強の怨霊とされる。学者·道真の祟りも、武将·将門の祟りも恐ろしい。だが帝位そのものにあった崇徳の怨念は、国家の根幹を揺るがすものとして、別格の畏怖を集めた。保元の乱から始まる武士の時代の到来そのものを、崇徳の呪いの結果と見る向きさえあった。

この最強の怨霊を、朝廷はついに鎮めにかかる。明治元年(一八六八)、明治天皇は勅使を讃岐に遣わし、京都に白峯神宮を創建して崇徳の霊を都へ迎えた。崩御から七百年をへて、ようやく崇徳は京へ帰ったのである。怨霊を否定せず、神として手厚く祀り、その力を鎮める ── 道真や将門と同じく、崇徳もまた御霊信仰の枠組みのなかで祀られた。だが筆頭の怨霊の帰京に、明治の新政府がみずから動いたという事実は、その霊力がいかに重く受けとめられていたかを物語る。

白峰は、
今も

白峰には、今も崇徳天皇陵が静かに眠る。四国八十八ヶ所の一つ·白峯寺がその近くに建ち、参る人の姿が絶えない。瀬戸内の穏やかな海を見おろすこの峰が、日本最大の怨霊を抱く地であることを、訪れる多くの人は知らない。陵のかたわらには四国霊場の札所·白峯寺があり、巡礼の鈴の音が今も山に響く。崇徳を祀る頓証寺殿も陵に寄り添うように建ち、流された帝の魂を、この地は八百年以上にわたって守りつづけてきた。

帝でありながら流人として死に、怨霊となって国を呪い、大天狗の王として畏れられ、七百年をへて神として京へ迎えられた ── 崇徳上皇の生涯は、日本人が「祟り」と「鎮め」をどう考えてきたかの、究極の一例である。香川県全体の妖怪文化については、香川県の妖怪事典も併せて読まれたい。

白峰の妖怪一覧2

白峰ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

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    天狗

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    てんぐ

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    この版は、特定の霊山の一座ではなく、「天狗とは何か」を図像と類型の歴史から徹底して解きほぐす総論である。各座の個別伝承は、それぞれの大天狗の頁に譲る。 天狗の姿は一様ではない。第一の類型は鼻高天狗――赤ら顔に高い鼻、山伏の兜巾と鈴懸をまとい、羽団扇を手に一本歯の高下駄を履く。第二は烏天狗で、鴉のくちばしと翼をもち、剣や金剛杖を執る。第三は木の葉天狗・木っ端天狗と呼ばれる下位の天狗で、力弱く数多い眷属とされる。これらは固定した分類というより、時代と地域による天狗像の幅を映している。 図像は時代とともに変遷した。平安期の天狗はまず鳶(とび)のごとき鳥として観念され、烏天狗の像はその名残をとどめる。長い鼻が際立つのは鎌倉末以降で、『是害房絵巻』には、人に化けていた天狗が鳥の姿へ戻る際に鼻が伸びる場面が描かれる。鼻高の起源については、伎楽面の高鼻の治道(じどう)面に由来するとし、烏天狗を迦楼羅(かるら)面に結ぶ学説があり、長い鼻を鳥の嘴の図像的な遺存とみる見方もあるが、いずれも定説とまでは言いがたい。『日本書紀』で鼻長七咫(しちあた)と描かれる猿田彦神と重ねられ、祭礼の猿田彦役に天狗面を用いる風も生まれた。 天狗の両義性は、仏教の天狗道の観念に根ざす。仏道を学ぶゆえに地獄には堕ちず、邪法を扱うゆえに極楽にも行けない中間の境涯――そこに堕ちるのは慢心した僧とされた。『天狗草紙』はこの観念を七大寺の僧への風刺として描くが、ただし「高慢な僧だけが天狗になる」という単純化には知切光歳も行き過ぎと釘を刺している。魔でありながら、調伏されれば護法に転じ、修験者が『天狗経』を誦せば諸国の天狗を招いて願を叶えるとされた――この護法と魔の振幅こそ天狗の核である。 「八大天狗」という括りの確かな中世典拠は、室町期の謡曲『鞍馬天狗』の詞章にある。大天狗が従える諸国の天狗を「筑紫には彦山の豊前坊、四州には白峰の相模坊、大山の伯耆坊、飯綱の三郎……大峰の前鬼が一党、葛城高間」と地理順に唱え上げるくだりがそれで、八大天狗が江戸の創作ではなく中世の信仰と芸能に根を張っていたことを示す。もっともその構成は資料により揺れ、石鎚山法起坊を加える異伝もあるなど、固定した名簿ではない。

  • 白峰相模坊

    白峰相模坊

    伝説

    しらみねさがみぼう

    崇徳の陵を護る天狗・白峰相模坊

    山野の怪白峯·白峯寺(現·香川県坂出市) ── 崇徳院霊を守護する讃岐三天狗

    白峰相模坊は、八大天狗のなかでもっとも一人の人物――崇徳上皇――と固く結びついた天狗である。その像は、崇徳怨霊の物語を抜きには成り立たない。 崇徳上皇は、保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐へ流され、帰京を許されぬまま長寛二年(一一六四)に崩じた。配流地で五部大乗経を写して都へ送るも呪詛を疑われて突き返され、激怒して血書の誓いを立て、生きながら大天狗・大魔縁と化したと伝わる。源頼朝が「日本一の大天狗」と呼んだこの崇徳の白峯陵を、相模坊は護持する。白峯寺は四国八十八ヶ所第八十一番札所、白峯陵は四国唯一の天皇陵であり、その傍らには崇徳院の霊を祀る頓証寺殿が建つ。 相模坊を不朽にしたのは文学である。その原拠は、西行に仮託された鎌倉中期の『撰集抄』「新院御墓白峰之事」で、西行が白峯の崇徳院墓を弔う説話を載せる。これを劇化した謡曲『松山天狗』は崇徳院をシテ、西行をワキとし、崇徳に随う天狗として相模坊を描く。さらに上田秋成の『雨月物語』「白峯」は、西行が白峯陵に崇徳の霊を弔い、怒れる崇徳院と対話する物語で、相模坊はこの撰集抄以来の系譜を貫く存在となった。怨霊と、それに寄り添う天狗――崇徳と相模坊の関係は、御霊信仰と天狗信仰の交わる稀有な一点である。 相模坊の出自には二説がある。『保元物語』で崇徳に味方した相模阿闍梨勝尊にちなむとする説と、相模国大山から移ってきた天狗とする説である。後者は、大山の相模坊が崇徳を慕って讃岐へ移り、空席の相模大山に伯耆坊が入ったとする知切光歳の整理した移座伝と一対をなす。いずれにせよ白峰相模坊は、八大天狗の西の果てに座し、日本三大怨霊の一・崇徳の魂を護りつづける天狗として、讃岐の白峰に伝えられている。

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