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香川県 海と怨霊の国。香川県の妖怪事典

崇徳院・金毘羅・讃岐平家蟹。瀬戸内に渦巻く霊異の島

海と怨霊の国。
香川県の妖怪事典

香川県 · かがわ

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瀬戸内の凪いだ海と、なだらかな讃岐富士。香川県は四国の北東、全国でもっとも面積の小さい県でありながら、雨が少なく温暖で、古くから畿内と西国を結ぶ海の道の要に位置してきた。塩飽諸島の船乗りたちは瀬戸内航路を握り、丸亀の港からは金毘羅参りの旅人が陸へ上がった。その穏やかで開けた風景の底に、しかしこの国は、日本でも屈指の重い霊異をたたえている。

白峯の山陵に眠るのは、菅原道真・平将門と並んで日本三大怨霊の一に数えられる崇徳院。屋島の磯には源平合戦に滅んだ平家の亡魂が、こんぴらの長い参道には海を渡る船人の祈りが、そして五色台や遍路道には牛鬼や集団死霊の伝承が、いまも地名と寺社に貼りついて残る。讃岐の妖怪文化を貫く一本の軸は、海とそこへ流れ着いた者たちの記憶である。帝位を追われて流された天皇、合戦に敗れて海に沈んだ一門、海を越えてきた渡来の神 ── この地の霊異は、いずれも瀬戸内という水の回廊を背景に生まれた。本稿は、白峯の大怨霊から始め、こんぴらの海、屋島の平家、讃岐の里と遍路道へと、香川の妖怪を一体ずつ辿っていく。

白峯の大怨霊 ── 崇徳院と白峰相模坊

香川の霊異を語るとき、まず立ち戻らねばならないのが白峯(しらみね)である。坂出市の北、五色台の一峰として瀬戸内を見下ろす白峰の山中に、四国でただ一つの天皇陵 ── 白峯陵が築かれている。宮内庁が管理するこの陵に眠るのが、菅原道真・平将門と並んで日本三大怨霊に数えられる崇徳院、すなわち崇徳天皇である。穏やかな讃岐の山が、なぜ日本最大級の怨霊の地となったのか。その答えは、一人の天皇が背負わされた数奇な運命に集約される。

崇徳天皇

すとくてんのう

崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安末期の第七十五代天皇であり、保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流され、無念のうちに没したのち、日本でもっとも強大な怨霊・大天狗となったと畏れられる人物である。菅原道真・平将門と並ぶ「日本三大怨霊」のなかでも、しばしば最強と語られる。 鳥羽(とば)天皇の子として生まれたが、実は祖父白河法皇の子だという「叔父子(おじご)」の噂につきまとわれ、鳥羽院に疎まれた。三歳で即位するも院政の権を握れぬまま二十三歳で譲位を強いられ、保元元年(一一五六)、弟の後白河天皇との対立が保元の乱として武力衝突に至る。源為義・平忠正らを擁した崇徳方は、平清盛・源義朝を擁する後白河方に夜襲で敗れ、崇徳は讃岐へ配流され、長寛二年(一一六四)、帰京を許されぬまま生を終えた。 配流地での写経が朝廷に拒まれたことに激怒し、舌を噛み切って血で呪詛を書し、爪も髪も切らずに天狗と化したという伝説が、崇徳を妖怪・怨霊たらしめた。死後、世が乱れるたびにその祟りと恐れられ、朝廷は改謚や社の造営によって鎮魂に努めた。上田秋成『雨月物語』の名高い怪異譚にも、その怨霊が描かれている。

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崇徳は元永二年(一一一九)、鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、わずか五歳で即位した。だが祖父・白河法皇の院政、ついで父・鳥羽上皇の意向のもとで政治の実権からは遠ざけられ、やがて父に疎まれて退位を強いられる。皇位継承と摂関家内部の対立が積み重なり、保元元年(一一五六)、ついに武力衝突へと発展した ── これが保元の乱である。乱の経緯を伝える鎌倉期の軍記『保元物語』によれば、後白河天皇方に敗れた崇徳上皇は讃岐へ配流され、二度と都の土を踏むことなく、長寛二年(一一六四)に同地で崩じた。在位した天皇が配流された例は、奈良時代の淳仁天皇以来というきわめて重い処分であった。

怨霊伝説の核心は、その流刑地でのできごとにある。崇徳は罪障の消滅と後生の安楽を願って五部大乗経(ごぶだいじょうきょう)を三年かけて自らの手で写し、せめて都の寺に納めてほしいと送った。だが後白河院はそこに呪詛が込められていることを疑い、写経を突き返したという。深く絶望し激怒した崇徳は、舌を噛み切って流れる血で「日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇(きみ)を取って民とし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と書きつけ、以後は爪も髪も切らず、夜叉のごとき相となって、生きながら天狗と化したと伝わる。大魔縁とは、人の心を惑わす魔の一類を指す仏教の語である。

崇徳の死後、世に異変が続くと、それはことごとく崇徳院の祟りとされた。安元三年(一一七七)には京を焼く大火(太郎焼亡)や延暦寺の強訴、鹿ヶ谷の陰謀が相次ぎ、やがて平氏の滅亡と源氏の台頭、摂関家の凋落を招いた治承・寿永の乱へとつながる動乱が、崇徳の怒りに帰された。朝廷は鎮魂を急ぎ、流刑地の名にちなむ「讃岐院」の旧称を「崇徳院」と改め、保元の乱でともに敗れた藤原頼長にも官位を追贈した。元暦元年(一一八四)には、乱の古戦場である京都・春日河原に崇徳を祀る社(のちの粟田宮)が営まれている。崇徳が「祟る天皇」から「祀られる神」へと反転していく道筋は、平安京の御霊信仰そのものの構図であり、その怨念の烈しさゆえに、崇徳は三大怨霊の筆頭格として後世まで畏れられた。

そして讃岐の白峯には、この大怨霊を護持する天狗がいた。白峰相模坊(しらみねさがみぼう)である。崇徳の白峯陵を守り、随従する大天狗として観念され、全国に名を知られた八大天狗の一にも数えられる。その名は相模国からこの讃岐の地に飛来したことに由来するとも伝わるが、由来をめぐっては諸説があり確証はない。崇徳という最高位の怨霊と一体になることで、相模坊は単なる山の天狗を超えた、霊地の守護者という特別な位置を得た。

相模坊の姿は、文学のなかで鮮やかに結晶した。原拠をなすのは、西行に仮託された鎌倉中期の説話集『撰集抄』巻一「新院御墓白峰之事」で、諸国を行脚する西行が白峯の崇徳院墓を訪う説話を載せる。これを劇化したのが謡曲『松山天狗』で、崇徳院をシテ(主役)、歌僧西行をワキ(相手役)とし、崇徳に従う天狗として相模坊を登場させる。崇徳の御霊が西行の弔いによって慰められるという鎮魂の構図が、能の舞台のうえで完成されたのである。

怨霊と天狗の主題がもっとも鮮烈に描かれたのは、上田秋成の『雨月物語』巻頭の一篇「白峯」である。安永五年(一七七六)に成った江戸怪異読本の白眉で、諸国を巡る西行が白峯陵に崇徳の霊を弔いに訪れ、暗闇のなかから現れた崇徳院と歌問答を交わす。和歌で慰めようとする西行に対し、崇徳は王道と覇道をめぐって激しく論じ、保元の乱の遺恨を吐き、ついには魔界の主としての本性を露わにして、平氏の世も源氏の世も自らの呪いがもたらすものだと宣言する。山が鳴動し炎が燃え立つ凄絶な幕切れは、讃岐の山が「怨霊と天狗の聖地」として記憶される核となった。

白峯陵で西行の前に姿を現す崇徳院と相模坊。上田秋成『雨月物語』「白峯」が描く大怨霊の姿は、西行との歌問答を経て魔界の主としての本性を露わにする、文学における怨霊譚の最高峰である。
白峯陵で西行の前に姿を現す崇徳院と相模坊。上田秋成『雨月物語』「白峯」が描く大怨霊の姿は、西行との歌問答を経て魔界の主としての本性を露わにする、文学における怨霊譚の最高峰である。

相模坊はこうした白峰の天狗譚を『撰集抄』以来貫いて結ぶ、共通の登場者である。

なお、ここでの天狗は、日本各地に広がる山の妖怪としての天狗像と地続きでありながら、崇徳という具体的な怨霊と結びつくことで、讃岐独自の相貌を帯びている。「天狗とは何か」という総論的な像 ── 顔の赤い鼻高天狗、鳥のくちばしをもつ烏天狗、姿の見えない木の葉天狗といった類型 ── が全国に分布するなかで、白峯のそれは「帝王の怨念が天狗に転じる」という、いわば最高位の天狗譚として語られてきた。崇徳の怨霊を護る相模坊と、崇徳その人が化したとされる天狗とは、白峯において分かちがたく溶け合っているのである。

崇徳の鎮魂は明治に至ってもなお国家の関心事であった。慶応四年(一八六八)、明治天皇は即位に際してわざわざ勅使を讃岐へ遣わし、崇徳の御霊を京都へ迎えて白峯神宮を創建している。七百年の時を経てなお、ひとりの流された天皇の怨念を都へ呼び戻して慰めねばならなかったという事実こそ、崇徳が日本最大級の怨霊として畏れられ続けた何よりの証である。白峯陵のかたわらに建つ頓証寺(とんしょうじ)殿は、いまも崇徳の御霊を祀り、白峰相模坊の伝承とともに、讃岐の山に静かな霊気を漂わせている。

こんぴらの海 ── 渡来の海神・金毘羅

怨霊の山を下りて海へ向かうと、讃岐のもう一つの霊威に出会う。仲多度郡琴平町、象頭山(ぞうずさん)の中腹に鎮座する金刀比羅宮、通称「こんぴらさん」である。海上交通の守護神として全国に分社をもち、御本宮まで延々と続く石段でも知られるこの聖地の祭神こそ、はるかな海を越えてきた異形の神・金毘羅(こんぴら)である。怨霊が「流れ着いた者」なら、金毘羅は「海を渡ってきた神」── どちらも海の記憶から生まれた点で、讃岐の霊異は通底している。

金毘羅

こんぴら

サンスクリット Kumbhīra (クンビーラ、 ガンジス川の鰐神·水神) を起源とし、 仏教では薬師如来十二神将筆頭の宮毘羅大将、 日本では大物主神 (大国主神の和魂) と習合した三層構造の神格。 中世末期に象頭山 (ぞうずさん·琴平山) 松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と在地神·大物主神が習合し「象頭山金毘羅大権現」 として一体化、 海上守護神·航海安全神として広く崇敬された。 総本宮·金刀比羅宮 (香川県仲多度郡琴平町、 象頭山標高 524m 中腹·本宮 251m·奥社 421m·本宮まで石段 785 段·奥社まで 1368 段)は主祭神·大物主命、 相殿に崇徳天皇 (1119-1164、 第 75 代天皇、 1156 保元の乱で讃岐配流·1164 讃岐崩御·1165 永万元年合祀の御霊鎮魂)を併祀。 江戸期に「お伊勢参り」 に次ぐ全国第二位の参詣ブームを形成、 「金毘羅船々追手に帆かけて」 民謡や金毘羅犬 (江戸期に飼い犬を代参させた稀有な民俗、 出身地は江戸以北限定)等の独特な文化を生んだ。 明治神仏分離 (1868) で金毘羅大権現は廃止され「金刀比羅宮」 に改称、 主祭神を大物主神に確定、 仏教系称号は剥奪された。 海上守護·航海安全·商船·漁師·船員の絶大な信仰を集める讃岐の象徴神格。

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金毘羅の原語はサンスクリットのクンビーラ(Kumbhīra)、古代インドのガンジス川に棲む鰐(わに)を神格化した水神である。ヒンドゥー教ではガンジスの女神ガンガーの乗り物(ヴァーハナ)とされたこの鰐神が、仏教に取り入れられて薬師如来を守護する十二神将の筆頭・宮毘羅大将(くびらたいしょう)となり、日本では蛇身として描かれることも多くなった。中世の本地垂迹説のもとで、象頭山松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と、在地の海と農業の神・大物主神(大国主神の和魂)が習合し、「象頭山金毘羅大権現」として一体化する。本地仏には不動明王・千手観音・十一面観音など諸説が併存し、その出自の重層ぶり自体が、海を越え時代を越えて積み重なった信仰の厚みを物語っている。

総本宮・金刀比羅宮の鎮座地は象頭山(琴平山、標高五二四メートル)の中腹で、御本宮は標高二五一メートル、奥社の厳魂神社(いづたまじんじゃ)はさらに高い標高四二一メートルに位置する。参道の入口から御本宮まで七百八十五段、奥社まで合わせると千三百六十八段に及ぶ石段を踏みしめて登る参拝そのものが、海の神への祈りの形となっている。象の頭の形に似た山の中腹に海神を祀るという立地は、瀬戸内のどこからでも仰ぎ見えることを意味し、船を出す者にとって象頭山は航海の目印であり、こんぴらの加護はそのまま命綱だった。鰐に由来する水神が瀬戸内の海上守護へと姿を変えたのは、讃岐が古来、畿内と西国を結ぶ海の道の要衝だったからにほかならない。

近世には「こんぴら参り」が伊勢参りに次ぐ庶民の旅として大流行した。江戸や上方からの旅人は丸亀の港に船で上陸し、丸亀街道を歩いて琴平を目指した。各地の港町には「こんぴら船々」の俗謡が広まり、街道筋には灯籠や常夜灯が建てられた。なかでも知られるのが、参拝に行けない飼い主の代わりに犬が首に初穂料と「こんぴら参り」の木札を下げ、道中の旅人に世話されながら参詣を果たすという「こんぴら狗(いぬ)」の風習である。海の神への信仰が、讃岐を超えて全国の旅文化に深く根を下ろした証といえる。

長い石段を登る「こんぴら狗」。伊勢参りに次いで流行した江戸時代の金毘羅参りでは、飼い主の代わりに初穂料と木札を下げて参詣する犬が、道中の旅人に世話されながら海神の宮を目指した。
長い石段を登る「こんぴら狗」。伊勢参りに次いで流行した江戸時代の金毘羅参りでは、飼い主の代わりに初穂料と木札を下げて参詣する犬が、道中の旅人に世話されながら海神の宮を目指した。

渡来の鰐神が瀬戸内の風土のなかで土着し、海上守護の金毘羅大権現へと育った道筋は、讃岐の妖怪文化が「海とそこへ来たもの」を核にすることをよく示している。

屋島の平家 ── 怨霊が宿る讃岐平家蟹

讃岐の海に刻まれた、もう一つの大きな記憶が源平合戦である。高松市の北東に突き出た屋島(やしま)は、その名のとおり屋根のような台地状の半島で、瀬戸内を一望するこの要害は、平家最後の拠点の一つだった。崇徳院が保元の乱の敗者なら、屋島に滅んだ平家もまた、瀬戸内に沈んだ大きな敗者の群れである。

寿永二年(一一八三)に都を追われた平家は、讃岐の屋島に内裏を構えて再起を期した。だが元暦二年(一一八五)二月、源義経が暴風をおして摂津渡辺から瀬戸内を渡り、阿波の勝浦に上陸して、わずかな手勢で背後から屋島を急襲する。軍記『平家物語』が伝える屋島の戦いである。民家に火を放って大軍の来襲と見せかけた義経の奇襲に、平家は海上の船へと逃れた。このとき、平家方の船から美女が掲げた紅の扇の的を、義経の家臣・那須与一が荒れる波間の馬上から見事に射落とす ── あの名高い「扇の的」の場面は、この屋島合戦のものである。讃岐・阿波の在地武士が源氏に加勢して勢いがつくと、平家は屋島を捨てて西へ落ち、その翌月、壇ノ浦に一門もろとも滅び去った。

屋島の磯には、その合戦に滅んだ平家の亡魂が宿るとされる蟹がいる。讃岐平家蟹(さぬきへいけがに)である。

讃岐平家蟹

さぬきへいけがに

甲羅に人面のごとき文様を備える蟹で、讃岐の八島浦にゆかり深しとされる。俗説では、源義経に追討され滅んだ平家一門の怨霊が蟹に成り替わったものと語られ、「平家蟹」と総称される。実際には各地に同様の人面文様をもつ蟹が知られ、地元の名と結びつけられて伝承される。名称は土地呼称で、学術的分類とは異なる。

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寛政期の物産図譜『日本山海名物図会』には、八島浦(屋島浦)で滅んだ平家の怨霊が蟹となるという俗説が記され、讃岐ではこれを平家蟹と称すとある。同書は、播州尼崎では武文蟹(たけぶみがに)、豊後・長門では清経蟹(きよつねがに)、ほかに鬼蟹と呼ぶ類例も挙げており、いずれも俗説としながら、瀬戸内一帯に同型の伝承が広がっていたことを伝える。武文も清経も平家の武将の名であり、敗れた一門の個々の魂が蟹に転じたと信じられたのである。

この蟹が怨霊視されたのは、甲羅の表面に目・鼻・口を思わせる隆起の模様が現れ、それが怒りに歪んだ人の顔 ── 武者の憤怒の相 ── に見立てられたからである。現実のヘイケガニは甲幅わずか数センチの小さな蟹で、甲面の凹凸はあくまで筋肉の付着痕にすぎない。だが、屋島から壇ノ浦へと続く滅亡の海でとれるという事実と、人面を思わせる甲羅とが結びつき、敗者の怨念が宿るものとして畏れ敬われてきた。漁師たちはこの蟹を食わず、海へ戻したともいう。

怨霊が宿る讃岐平家蟹。『日本山海名物図会』にも記されたこの蟹は、甲羅の凹凸が武者の憤怒の相に見えることから、屋島や壇ノ浦で滅びた平家の亡魂が姿を変えたものとして畏れられた。
怨霊が宿る讃岐平家蟹。『日本山海名物図会』にも記されたこの蟹は、甲羅の凹凸が武者の憤怒の相に見えることから、屋島や壇ノ浦で滅びた平家の亡魂が姿を変えたものとして畏れられた。

地理と生物と歴史の記憶が一匹の小さな蟹に折り重なった、讃岐ならではの平家蟹の伝承である。

屋島はいまも源平合戦の古戦場として整備され、那須与一の扇の的にまつわる射落とした扇の流れ着いた地や、源氏が血染めの太刀を洗ったと伝える「血の池」など、合戦ゆかりの史跡が点在する。歴史の合戦譚と、それが生んだ妖異譚とが、同じ磯の上に分かちがたく重なって生きている ── これが屋島という地の特色である。敗者の魂が風景に溶け込み、蟹となり、語り草となって瀬戸内の海に残り続けているのだ。

平家蟹の人面のイメージは近代の文芸にも受け継がれ、劇作家の岡本綺堂は同名の戯曲『平家蟹』で、壇ノ浦に夫を失った女の怨念をこの蟹に重ねて描いた。屋島から壇ノ浦へと連なる敗亡の海が生んだ小さな怪は、近世の図譜から近代の舞台まで、敗者への哀惜と畏怖を映す器であり続けている。讃岐平家蟹とは、瀬戸内という海そのものが記憶する、敗れた者たちの顔なのである。

讃岐の里と遍路道 ── 牛鬼と七人同行

高位の怨霊や渡来の神とは別に、讃岐の里には人々の日々の恐れから生まれた妖怪が息づいている。山と海の境に現れる牛鬼と、辻や遍路道をさまよう集団死霊・七人同行である。崇徳院が「貴の霊異」なら、こちらは名もなき庶民の暮らしのなかで形をとった「俗の妖怪」といえる。

牛鬼(うしおに)は、牛の頭に鬼や蜘蛛の胴をもつとされる、西日本の海辺を代表する怪である。中世文学での記録は古く、鎌倉時代の軍記『太平記』巻第三十二には、源頼光の家臣・渡辺綱が大和国宇陀郡で「牛鬼」の腕を斬り落とし、後にそれが綱の伯母に化けて腕を取り返しに来るという説話が見える。これは羅生門の茨木童子の伝承とまったく同じ筋立てで、中世においては「牛鬼」と「鬼」がしばしば同一視され、互換可能な存在だったことを示している。一方、民間伝承では水辺の怪としての性格が強く、山陰から北九州の沿岸では、濡女や磯女と結託し、女から渡された赤子が石のように重くなって動けなくなった隙に、海中から牛鬼が現れて人を食らうという、恐ろしい連係の怪として恐れられた。

讃岐の牛鬼でとりわけ名高いのが、高松市西部の五色台、青峰の中腹にある根香寺(ねごろじ)の牛鬼退治譚である。天正の頃(十六世紀末)、この一帯に出没して里を荒らす牛鬼を、弓の名人・山田蔵人高清(やまだくらんどたかきよ)が三本の矢で射止め、その角を切り取って根香寺に奉納したと伝える。退治された牛鬼は、猿のような顔に虎のような胴、前足には膜があってムササビに似た姿だったとも語られる。四国八十八箇所第八十二番札所として知られるこの寺には、いまも牛鬼の角と伝わるものが残り、参道には牛鬼の像も立つ。海辺の怪としての牛鬼が、讃岐では五色台という具体的な山と寺、そして高清という名のある射手の武勇譚に結びついて語り継がれているのが特色である。怪を退治するのが英雄の刀ではなく弓であった点も、那須与一を生んだ弓の国・讃岐らしい。

もう一つ、讃岐の道に出るのが七人同行(しちにんどうぎょう)である。これは四国・中国地方に広く伝わる集団死霊「七人みさき」の、香川における呼び名である。横死した者たちの霊が七人ひと組で列をなして現れるとされ、その姿を見たり行き合ったりすると、わざわいを受けると恐れられた。

七人みさきは、遭遇すると高熱を出して死ぬが、一人が取り殺されると一霊が成仏し、死んだ者がその身代わりに加わるため、つねに七人の数を保ち続ける、という連鎖する呪いとして語られる。香川では、牛を連れて夜道を歩いていて牛が四辻で急に立ち止まり、不審に思って牛の股間から後ろを覗くと、七人が一列をなして音もなく通り過ぎていくのが見え、覗いたおかげで難を逃れたという話が伝わる。丑三つ時の四辻に出る「七人童子」、夕刻の雨のなかに蓑笠姿で現れる「七人同志」といった近縁の伝承もあり、遭遇すると気が滅入って病むため、家に入る前に箕(み)で扇いでもらって祓うという所作まで語られる。隣の徳島では、七人童子を連れた首切れ馬が麓の村まで下りてきたが、人々が地蔵を建てて鎮めたと伝える。

四国は弘法大師空海ゆかりの八十八箇所霊場をめぐる遍路の島である。長い遍路道には、力尽きて行き倒れた巡礼者を悼む無縁仏や墓標が点々と残り、横死者を手厚く弔おうとする心性がきわめて濃い。

四辻を通り過ぎる七人同行。四国・中国地方に伝わる集団死霊「七人みさき」の香川での呼称であり、直接見ると憑かれるため、牛の股の間から覗いて難を逃れたという民間伝承が残る。
四辻を通り過ぎる七人同行。四国・中国地方に伝わる集団死霊「七人みさき」の香川での呼称であり、直接見ると憑かれるため、牛の股の間から覗いて難を逃れたという民間伝承が残る。

七人同行のような集団死霊の伝承は、こうした遍路文化を土壌として、誰のものとも知れぬ無縁の死者への畏れと哀れみが形をとったものといえる。だからこそ、出会えば祟るとされながらも、地蔵を建て、箕で祓い、丁重に鎮めようとする所作がともなうのである。崇徳院という最高位の怨霊から、名もなき遍路の死霊まで ── 讃岐の妖怪は、海と道のうえで死んだ者たちの記憶を、いくえにも層をなして今に伝えている。

結び ── 海と怨霊の国

香川の妖怪をたどると、ひとつの主題が繰り返し立ち現れる。すなわち、流れ着いた者・滅びた者・海を越えてきた者の記憶である。帝位を追われて讃岐に流された崇徳院とそれを護る白峰相模坊、屋島に敗れて海に沈み蟹となった平家、ガンジスの鰐から瀬戸内の海神となった金毘羅、そして遍路道に積み重なる無縁の死者たち ── いずれも水の回廊である瀬戸内を背景に、この国独自の霊異として育った。

温暖で開けた讃岐の風景の底に、これほど重く深い怨霊と海神の文化が層をなしているのは、この地が古来、人と物と霊魂の往き来する海の十字路だったからにほかならない。白峯の山陵に手を合わせ、こんぴらの千段を越える石段を登り、屋島の磯で人面の蟹に出会い、遍路道の地蔵に祈る ── そのすべてが、海と怨霊の国・讃岐の記憶に静かに触れる旅となる。穏やかな瀬戸内の凪の下で、敗者と渡来神の物語は、いまも消えることなく息づいている。

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香川県の妖怪一覧10

香川県ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

この県の伝承地

山・神社・淵など、香川県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

  • 金毘羅

    金毘羅

    神格

    こんぴら

    ガンジス鰐由来の海上守護神·金毘羅

    神霊・神格金刀比羅宮 (現·香川県仲多度郡琴平町、象頭山) ── 金刀比羅の総本宮

    金毘羅 (こんぴら) の原語はサンスクリット Kumbhīra (クンビーラ)、 古代インド·ガンジス川に棲む鰐 (わに) を神格化した水神である。 ヒンドゥー教ではガンジス川の女神ガンガー (Gaṅgā) のヴァーハナ (乗り物) で、 これが仏教に取り入れられて薬師如来十二神将の筆頭·宮毘羅大将 (くびら·宮比羅) となった。 日本では平安·中世以降に蛇身として描かれることが多い。 中世の本地垂迹説により、 象頭山 (ぞうずさん) 松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と、 在地神·大物主神 (大国主神の和魂、 海上·農業の神) が習合し、 「象頭山金毘羅大権現」 として一体化した。 本地仏には不動明王·千手観音·十一面観音など諸説併存する。 信仰の三層構造 (鰐=蛇身の水神 → 仏教護法善神 → 神道神社祭神) は習合系神格の典型例として日本宗教史上重要な位置を占める。 総本宮·金刀比羅宮の所在地は香川県仲多度郡琴平町字川西 892 番地 1、 鎮座地は象頭山 (琴平山、 標高 524m) 中腹である。 本宮は標高 251m、 奥社 (厳魂神社·いづたまじんじゃ) は標高 421m に位置する。 参道の石段は本宮まで 785 段·奥社まで 1368 段 ── 日本屈指の長石段参道で、 江戸期から駕籠 (籠かき)·杖の伝統がある。 主祭神は大物主命、 相殿に崇徳天皇。 創建については複数の社伝が並立し、 ① 大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祀ったとする説、 ② 大宝年間 (701-704) 大宝元年に旗が舞い降りたとする伝承、 ③ 修験道の祖·役小角 (えんのおづの、 634-701) が象頭山に登り護法善神金毘羅の神験を得たという開山縁起、 ④ 延喜式神名帳に讃岐国官社として登載とする説など複数あり、 上古不詳の社。 学術的にいずれかを確定するのは不能で、 中世以降の信仰の集積として位置付けるのが妥当。 崇徳天皇 (1119-1164、 第 75 代天皇·在位 1123-1141) の配祀は御霊信仰の典型例である。 保元元年 (1156) 保元の乱に敗れ讃岐国へ配流された崇徳上皇は、 配流中に金毘羅大権現を深く崇敬し、 境内の「古籠所 (こもりしょ)」 に参籠、 近隣の「御所之尾」 を行宮とした (長寛元年 1163 頃)。 長寛二年 (1164) 讃岐で崩御、 京都に帰還することなく終わる。 その翌年の永万元年 (1165) に金毘羅大権現の相殿に合祀された ── これは神仏分離 (1868) より約 700 年前の出来事で、 怨霊鎮魂の御霊信仰の典型例である。 崇徳天皇は菅原道真·平将門と並ぶ日本三大怨霊の一柱で、 金毘羅信仰における崇徳合祀は中世御霊信仰の重要事例として宗教史上注目される。 明治神仏分離による改称は信仰史で最大の転機である。 明治元年 (1868) 3 月の神仏分離令発布で、 第 19 代金光院別当·琴陵宥常 (ことおか ひろつね、 1840-1892) が、 神仏混淆の「象頭山金毘羅大権現」 を「琴平山金刀比羅宮」 に改称、 神道神社化を断行した。 主祭神を大物主神に確定し (「金毘羅権現は大物主と同体」 とする論理)、 相殿に崇徳天皇。 明治元年 9 月 13 日に勅祭神社に列格、 明治 4 年 (1871)「事比羅宮」 へ一時改表記、 明治 22 年 (1889)「金刀比羅宮」 に復称して現在に至る。 仏教系称号「金毘羅大権現」 は廃止されたが、 庶民の間では「こんぴらさん」 の愛称が温存され、 信仰の中身は連続している。 江戸期の流行神化は海上守護神としての大躍進である。 クンビーラの水神性と大物主神の海上信仰が結合し、 江戸期には「海上守護·航海安全の絶大神」 となった。 商船·廻船·漁師·船員の信仰を集め、 各船は「金毘羅船」 と呼ばれた金毘羅参詣船を仕立てた。 江戸期庶民の参拝熱は「お伊勢参り」 に次ぐ全国第二位の規模で、 各地で金毘羅講が結成され、 講員が積み立て金で代表を派遣する代参制度が機能した。 参道奉納が爆発的に増えた結果、 元々直線だった参道を曲げて配置せざるを得なくなったほどの参詣狂躁を生んだ。 「金毘羅船々 (こんぴらふねふね)」 民謡は元禄期 (1688-1704) 頃から金毘羅参道唄として歌われ、 幕末から明治初期にかけて全国に大流行した。 「こんぴら船々 追手 (おいて) に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」 の歌詞 ── 「追手」 は追風 (おいて)、 「シュラシュシュシュ」 は帆を受けて船が滑走する擬音。 1 番のみで「一度まわれば」 で冒頭に戻る循環構造を持つ「騒ぎ唄·お座敷唄」 の代表で、 発祥は大阪港 (金毘羅参詣船の起点) とも伝わる。 現代でも香川県の代表的民謡として継承され、 観光宣伝の枢軸を成す。 金毘羅犬 (こんぴらいぬ) は江戸代参文化の稀有な民俗である。 自分が金毘羅参りに行けない者が飼い犬を代参させた江戸後期の民俗で、 犬の首には「金毘羅参り」 と記した袋が下げられ、 中には飼い主名の木札·初穂料·道中の食費が入れられた。 犬は街道筋の旅人から旅人へ託され、 沿道の人々が世話をして琴平まで届けた。 金毘羅犬の出身地は江戸以北に限定されており、 これは埼玉県秩父の三峰神社 (狼=お犬信仰) の布教圏との関連が指摘される独自の民俗パターン。 江戸期の「里犬 (路地·堂宇に住み着く半野生の地域犬)」 文化がこの稀有な習俗を可能にした背景にある。 同じ習俗はお伊勢参りでも記録される (「おかげ犬」) が、 金毘羅犬は江戸以北限定という地理的偏りを持つ点が特異である。 「こんぴら」 の音写経路はサンスクリット Kumbhīra (ガンジス鰐の水神) → 漢訳仏典で「金毘羅」「宮毘羅」「金比羅」「倶毘羅」 と音写 → 中国経由で日本に到来 → 日本語訓み「こんぴら」 として庶民語化。 現在の正式表記は「金刀比羅 (ことひら)」 だが、 これは明治改称時の「琴平」←「こんぴら」←「金毘羅」 という音と当て字の往復で生まれた表記で、 神社名は「ことひら」、 信仰名は「こんぴら」 と読み分けるのが慣例。 現代も「こんぴらさん」 として親しまれ、 海上自衛隊·商船·漁業·海運業者の参詣が続き、 香川県·四国観光資源の頂点を成す讃岐の象徴神格である。

  • 厳魂彦命

    厳魂彦命

    神格

    いづたまひこのみこと

    象頭山の守護神·厳魂彦命

    神霊・神格象頭山·金刀比羅宮奥社厳魂神社 (現·香川県仲多度郡琴平町)

    厳魂彦命は、実在の高僧·金剛坊宥盛 (金光院第四代院主、 1613 年没) が死後に天狗·護法神となり、さらに明治の神仏分離を経て神道神格へと再定義された、三段階の昇華をたどる稀有な神格である。渡来の水神 (クンビーラ) を起源とする主祭神·金毘羅 (大物主神) が「海上守護」を司るのに対し、厳魂彦命は「山岳修験·天狗信仰」の系譜を体現する。一山のうちに海の神と山の天狗が同居する象頭山信仰の二重構造を、主祭神と奥社祭神という形で示している点に、この神格の宗教史的な重要性がある。奥社·厳魂神社は本宮から 1368 段·標高 421m の山上に鎮座し、金刀比羅宮に次ぐ霊地とされる。

  • 怨霊

    怨霊

    伝説

    おんりょう

    御霊鎮めの怨霊

    霊・亡霊御霊信仰の全国概念。神泉苑御霊会(京都)を起点に道真(京都・福岡)・将門(東京)・崇徳院(香川)ら個別怨霊が各地に祀られる

    怨霊を御霊として祀り、祟りを鎮め福徳へ転ずると捉える枠組み。疫病や天災は怨みの発露と見做され、社殿の創建、神格の贈与、祭礼の恒例化などによって和解を図る。祟り神は、畏れと尊崇が重なる二面性を持ち、荒ぶる力は鎮魂の作法を通じ共同体の守護へ変容すると理解された。国家的儀礼から村落の供養まで階層的に実施され、改元・勅使の派遣、御霊会、放生会などが制度化。個人に対しては回向・写経・念仏・加持祈祷が施され、名誉回復や神階授与が霊の鬱念を解く手立てとされた。物語・縁起は、なぜ怨みが生じたかを説き、冤罪・非命・断絶といった原因に社会的な記憶の場を与える役割を担う。怨霊の力は無差別ではなく、因由に沿って兆しを示すとされ、夢告・神託・雷火・疫癘などの徴をもって意思表示を行うと信じられた。鎮魂は一度で終わらず、年次の祭礼や社頭の整備をもって継続され、忘却が再発を招くと警められた。

  • 牛鬼

    牛鬼

    伝説

    うしおに

    牛頭蜘蛛体の海鬼・牛鬼

    動物変化四国・中国地方沿岸〜武蔵 (瀬戸内海を中心)

    江戸時代の妖怪絵巻などに描かれ、現代の妖怪図鑑でも最もポピュラーな「蜘蛛の胴体に牛の首を持つ海鬼」としての解釈版である。このバージョンにおける牛鬼は、海や淵といった「暗く深い水底」への根源的な恐怖と、獲物を逃さない「執念深さ」が蜘蛛の網のイメージと結びついて視覚化されている。 民俗学的な視点から見ると、古来日本において「牛」は農耕や治水と深く結びついた神聖な動物であり、水神の使い、あるいは水神そのもの(例:牛頭天王)として信仰されていた。淵に潜む牛鬼とは、かつて人々が崇め畏れた「自然の猛威(水神)」が、信仰の形骸化とともに妖怪へと零落(れいらく)した姿であるという解釈が有力である。 影を嘗められただけで呪い殺されるという絶対的な致死性や、濡女を囮に使って心理的な隙を突く狡猾さは、単なる知能の低い猛獣の域を逸脱しており、かつて神であった頃の理不尽な神威を色濃く残している。首を切り落とされてもなお怨念で動き続けるほどの強大な生命力を持つため、並の人間では到底太刀打ちできない。この圧倒的な暴威を鎮めるためには、千手観音などのより高位の仏法に縋るか、あるいは逆に牛鬼自身を神輿の先導(神の眷属)として丁重に祭礼に組み込み、その「荒御魂(あらみたま)」を都市の防衛システムとして利用するほかなかったのである。

  • 天狗

    天狗

    伝説

    てんぐ

    天狗とは何か――類型と図像の総論

    山野の怪愛宕山(京都)・鞍馬山(京都)・比良山(近江/滋賀)・飯縄山(長野)・大山(神奈川)・英彦山(福岡)・白峰(香川)・大峰山(奈良)・比叡山(近江/滋賀)・高野山(和歌山) ─ 諸国の霊山に座す大天狗

    この版は、特定の霊山の一座ではなく、「天狗とは何か」を図像と類型の歴史から徹底して解きほぐす総論である。各座の個別伝承は、それぞれの大天狗の頁に譲る。 天狗の姿は一様ではない。第一の類型は鼻高天狗――赤ら顔に高い鼻、山伏の兜巾と鈴懸をまとい、羽団扇を手に一本歯の高下駄を履く。第二は烏天狗で、鴉のくちばしと翼をもち、剣や金剛杖を執る。第三は木の葉天狗・木っ端天狗と呼ばれる下位の天狗で、力弱く数多い眷属とされる。これらは固定した分類というより、時代と地域による天狗像の幅を映している。 図像は時代とともに変遷した。平安期の天狗はまず鳶(とび)のごとき鳥として観念され、烏天狗の像はその名残をとどめる。長い鼻が際立つのは鎌倉末以降で、『是害房絵巻』には、人に化けていた天狗が鳥の姿へ戻る際に鼻が伸びる場面が描かれる。鼻高の起源については、伎楽面の高鼻の治道(じどう)面に由来するとし、烏天狗を迦楼羅(かるら)面に結ぶ学説があり、長い鼻を鳥の嘴の図像的な遺存とみる見方もあるが、いずれも定説とまでは言いがたい。『日本書紀』で鼻長七咫(しちあた)と描かれる猿田彦神と重ねられ、祭礼の猿田彦役に天狗面を用いる風も生まれた。 天狗の両義性は、仏教の天狗道の観念に根ざす。仏道を学ぶゆえに地獄には堕ちず、邪法を扱うゆえに極楽にも行けない中間の境涯――そこに堕ちるのは慢心した僧とされた。『天狗草紙』はこの観念を七大寺の僧への風刺として描くが、ただし「高慢な僧だけが天狗になる」という単純化には知切光歳も行き過ぎと釘を刺している。魔でありながら、調伏されれば護法に転じ、修験者が『天狗経』を誦せば諸国の天狗を招いて願を叶えるとされた――この護法と魔の振幅こそ天狗の核である。 「八大天狗」という括りの確かな中世典拠は、室町期の謡曲『鞍馬天狗』の詞章にある。大天狗が従える諸国の天狗を「筑紫には彦山の豊前坊、四州には白峰の相模坊、大山の伯耆坊、飯綱の三郎……大峰の前鬼が一党、葛城高間」と地理順に唱え上げるくだりがそれで、八大天狗が江戸の創作ではなく中世の信仰と芸能に根を張っていたことを示す。もっともその構成は資料により揺れ、石鎚山法起坊を加える異伝もあるなど、固定した名簿ではない。

  • 白峰相模坊

    白峰相模坊

    伝説

    しらみねさがみぼう

    崇徳の陵を護る天狗・白峰相模坊

    山野の怪白峯·白峯寺(現·香川県坂出市) ── 崇徳院霊を守護する讃岐三天狗

    白峰相模坊は、八大天狗のなかでもっとも一人の人物――崇徳上皇――と固く結びついた天狗である。その像は、崇徳怨霊の物語を抜きには成り立たない。 崇徳上皇は、保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐へ流され、帰京を許されぬまま長寛二年(一一六四)に崩じた。配流地で五部大乗経を写して都へ送るも呪詛を疑われて突き返され、激怒して血書の誓いを立て、生きながら大天狗・大魔縁と化したと伝わる。源頼朝が「日本一の大天狗」と呼んだこの崇徳の白峯陵を、相模坊は護持する。白峯寺は四国八十八ヶ所第八十一番札所、白峯陵は四国唯一の天皇陵であり、その傍らには崇徳院の霊を祀る頓証寺殿が建つ。 相模坊を不朽にしたのは文学である。その原拠は、西行に仮託された鎌倉中期の『撰集抄』「新院御墓白峰之事」で、西行が白峯の崇徳院墓を弔う説話を載せる。これを劇化した謡曲『松山天狗』は崇徳院をシテ、西行をワキとし、崇徳に随う天狗として相模坊を描く。さらに上田秋成の『雨月物語』「白峯」は、西行が白峯陵に崇徳の霊を弔い、怒れる崇徳院と対話する物語で、相模坊はこの撰集抄以来の系譜を貫く存在となった。怨霊と、それに寄り添う天狗――崇徳と相模坊の関係は、御霊信仰と天狗信仰の交わる稀有な一点である。 相模坊の出自には二説がある。『保元物語』で崇徳に味方した相模阿闍梨勝尊にちなむとする説と、相模国大山から移ってきた天狗とする説である。後者は、大山の相模坊が崇徳を慕って讃岐へ移り、空席の相模大山に伯耆坊が入ったとする知切光歳の整理した移座伝と一対をなす。いずれにせよ白峰相模坊は、八大天狗の西の果てに座し、日本三大怨霊の一・崇徳の魂を護りつづける天狗として、讃岐の白峰に伝えられている。

  • 金毘羅坊

    金毘羅坊

    名妖

    こんぴらぼう

    象頭山の大天狗·金毘羅坊

    山野の怪象頭山·金刀比羅宮 (現·香川県仲多度郡琴平町) ── 金毘羅大権現の眷属·讃岐三大天狗の一

    金毘羅坊は、単なる山の妖怪ではなく、金毘羅大権現の神威を体現する護法善神 (眷属神) として理解されるべき大天狗である。『和漢三才図会』が「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記すように、象頭山という特定の霊山に固有の名を持つ点が、不特定の山に出没する一般の天狗と決定的に異なる。海上守護神·金毘羅と、山岳修験の天狗信仰 ── 海と山という相反する信仰圏が象頭山という一山で交わる、その結節点に立つのが金毘羅坊である。白峯相模坊·中将坊と並ぶ讃岐三大天狗として、瀬戸内の山岳信仰の頂点を占める。

  • 崇徳天皇

    崇徳天皇

    名妖

    すとくてんのう

    讃岐配流の怨霊・崇徳天皇

    霊・亡霊白峯陵·讃岐(現·香川県坂出市) ── 保元の乱で配流·憤死、日本三大怨霊

    この版では、一人の廃帝がいかにして日本史上最大とまで称される大天狗・大魔縁へ転じたか――史実と『保元物語』以来の伝説の境を見極めながら徹底して追う。 まず史実を押さえる。崇徳の不遇は、鳥羽院に「叔父子」と疎まれ、院政の権を持てぬまま譲位させられた政治的疎外にあった。近衛天皇の早世後、実子重仁親王ではなく弟後白河が立てられたことが保元の乱(一一五六)の引き金となる。乱に敗れた崇徳の側では源為義・平忠正らが約四百年ぶりの公的死刑に処され、崇徳自身は讃岐へ流された。ここまでは記録に基づく史実である。 怪異はその先、伝説の層で生まれる。舌を噛み血で「大魔縁とならん」と書したという呪詛も、爪髪を伸ばして天狗と化したという姿も、同時代の記録ではなく鎌倉期の『保元物語』が伝える物語である。だがこの伝説は強い説得力をもって広まり、安元年間以降に都を襲った大火・強訴・動乱、ひいては平氏滅亡に至る治承寿永の乱までが、崇徳の祟りとして読み解かれていった。事件そのものは史実、それを崇徳の怨念に帰す解釈は御霊信仰――この二つは截然と分けて見る必要がある。 崇徳の天狗像を決定づけたのが文学である。『太平記』巻二十七「雲景未来記」は、崇徳を天狗・魔縁の群れを統べる魔王として描き、近世には上田秋成の『雨月物語』「白峯」が、西行と対峙する崇徳の怨霊を、長鼻の天狗ではなく金色の鳶として鮮烈に造形した。崇徳が「日本一の大天狗」「日本史上最大の怨霊」と語られる像は、こうした文学の累積の上に立っている。 注目すべきは、その鎮魂が近代にまで及んだことである。明治元年(一八六八)、明治政府は讃岐に眠る崇徳の神霊を京へ迎え、白峯神宮に祀った。新たな御代の出発にあたって七百年前の廃帝の祟りをなお恐れたこの事実は、崇徳怨霊の畏怖がいかに根深かったかを物語る。百人一首に名歌を残した歌人と、王権を呪う大魔王。この落差こそが、崇徳院を御霊信仰の極点に押し上げたのである。

  • 讃岐平家蟹

    讃岐平家蟹

    珍しい

    さぬきへいけがに

    八島浦の平家怨・讃岐平家蟹

    住居・器物屋島古戦場(現·香川県高松市) ── 屋島の戦いで敗れた平家の怨霊が蟹に化す

    讃岐の浜に打ち上がる人面文様の蟹を、平家の怨霊と見る民間観念に基づく像。史料でも各地名との結び付けが示され、讃岐は八島合戦の記憶によって特に名が立つ。妖怪としては人を直接害するより、見た者に合戦の因縁を想起させ畏れを促す存在として語られる。供養や慰霊と結び付いて語られる点が特徴で、他所の呼称との差異は名のみとされる。

  • 七人同行

    七人同行

    珍しい

    しちにんどうぎょう

    讃岐四辻の七人列・七人同行

    霊・亡霊讃岐国(現·香川県) ── 一列に歩く7体の死霊集団、七人ミサキとは別系統

    四国に分布する七人列の亡霊譚を束ねた像。核心は「七人が一列で無言で進む」「四辻・夜道・雨の夕刻に現れる」「遭遇は凶事の兆し」という三点で、地域によって名称や出現時刻、装束が異なる。讃岐では姿は人並みだが、通常は不可視で、牛の股から覗くと感得できるという呪的視点が付随する。丑三つ時の四辻に限定して現れる型は「七人童子」と呼ばれ、通行が絶えた特定の辻が語り継がれる。雨中に蓑笠で現れる「七人同志」は、処刑者の霊と結びつけられ、遭遇後の気鬱を祓う民間の対処として箕で扇ぐ所作が伝わる。徳島の首切れ馬に随う七人童子は、供養の地蔵建立により影を潜めたとされ、災厄が供養で鎮められるという地域信仰の枠組みを示す。同類の七人ミサキとの混称もあるが、土地ごとの名称差と機能(疫・祟り・遭遇忌避)の範囲を踏まえ、七人同行は「列行する七霊」という外形的特徴で識別される。

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