香川県かがわ
四国・香川県に伝わる妖怪 10 体。その土地に根ざした物語と伝承地を辿ります。
この県の伝承地
山・神社・淵など、香川県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

神格 金毘羅
こんぴら
ガンジス鰐由来の海上守護神·金毘羅
神霊・神格金刀比羅宮 (現·香川県仲多度郡琴平町字川西 892·象頭山中腹·総本宮·讃岐) / 全国の金刀比羅神社·金比羅神社·琴平神社·事比羅宮 (約 600 社)金毘羅 (こんぴら) の原語はサンスクリット Kumbhīra (クンビーラ)、 古代インド·ガンジス川に棲む鰐 (わに) を神格化した水神である。 ヒンドゥー教ではガンジス川の女神ガンガー (Gaṅgā) のヴァーハナ (乗り物) で、 これが仏教に取り入れられて薬師如来十二神将の筆頭·宮毘羅大将 (くびら·宮比羅) となった。 日本では平安·中世以降に蛇身として描かれることが多い。 中世の本地垂迹説により、 象頭山 (ぞうずさん) 松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と、 在地神·大物主神 (大国主神の和魂、 海上·農業の神) が習合し、 「象頭山金毘羅大権現」 として一体化した。 本地仏には不動明王·千手観音·十一面観音など諸説併存する。 信仰の三層構造 (鰐=蛇身の水神 → 仏教護法善神 → 神道神社祭神) は習合系神格の典型例として日本宗教史上重要な位置を占める。 総本宮·金刀比羅宮の所在地は香川県仲多度郡琴平町字川西 892 番地 1、 鎮座地は象頭山 (琴平山、 標高 524m) 中腹である。 本宮は標高 251m、 奥社 (厳魂神社·いづたまじんじゃ) は標高 421m に位置する。 参道の石段は本宮まで 785 段·奥社まで 1368 段 ── 日本屈指の長石段参道で、 江戸期から駕籠 (籠かき)·杖の伝統がある。 主祭神は大物主命、 相殿に崇徳天皇。 創建については複数の社伝が並立し、 ① 大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祀ったとする説、 ② 大宝年間 (701-704) 大宝元年に旗が舞い降りたとする伝承、 ③ 修験道の祖·役小角 (えんのおづの、 634-701) が象頭山に登り護法善神金毘羅の神験を得たという開山縁起、 ④ 延喜式神名帳に讃岐国官社として登載とする説など複数あり、 上古不詳の社。 学術的にいずれかを確定するのは不能で、 中世以降の信仰の集積として位置付けるのが妥当。 崇徳天皇 (1119-1164、 第 75 代天皇·在位 1123-1141) の配祀は御霊信仰の典型例である。 保元元年 (1156) 保元の乱に敗れ讃岐国へ配流された崇徳上皇は、 配流中に金毘羅大権現を深く崇敬し、 境内の「古籠所 (こもりしょ)」 に参籠、 近隣の「御所之尾」 を行宮とした (長寛元年 1163 頃)。 長寛二年 (1164) 讃岐で崩御、 京都に帰還することなく終わる。 その翌年の永万元年 (1165) に金毘羅大権現の相殿に合祀された ── これは神仏分離 (1868) より約 700 年前の出来事で、 怨霊鎮魂の御霊信仰の典型例である。 崇徳天皇は菅原道真·平将門と並ぶ日本三大怨霊の一柱で、 金毘羅信仰における崇徳合祀は中世御霊信仰の重要事例として宗教史上注目される。 明治神仏分離による改称は信仰史で最大の転機である。 明治元年 (1868) 3 月の神仏分離令発布で、 第 19 代金光院別当·琴陵宥常 (ことおか ひろつね、 1840-1892) が、 神仏混淆の「象頭山金毘羅大権現」 を「琴平山金刀比羅宮」 に改称、 神道神社化を断行した。 主祭神を大物主神に確定し (「金毘羅権現は大物主と同体」 とする論理)、 相殿に崇徳天皇。 明治元年 9 月 13 日に勅祭神社に列格、 明治 4 年 (1871)「事比羅宮」 へ一時改表記、 明治 22 年 (1889)「金刀比羅宮」 に復称して現在に至る。 仏教系称号「金毘羅大権現」 は廃止されたが、 庶民の間では「こんぴらさん」 の愛称が温存され、 信仰の中身は連続している。 江戸期の流行神化は海上守護神としての大躍進である。 クンビーラの水神性と大物主神の海上信仰が結合し、 江戸期には「海上守護·航海安全の絶大神」 となった。 商船·廻船·漁師·船員の信仰を集め、 各船は「金毘羅船」 と呼ばれた金毘羅参詣船を仕立てた。 江戸期庶民の参拝熱は「お伊勢参り」 に次ぐ全国第二位の規模で、 各地で金毘羅講が結成され、 講員が積み立て金で代表を派遣する代参制度が機能した。 参道奉納が爆発的に増えた結果、 元々直線だった参道を曲げて配置せざるを得なくなったほどの参詣狂躁を生んだ。 「金毘羅船々 (こんぴらふねふね)」 民謡は元禄期 (1688-1704) 頃から金毘羅参道唄として歌われ、 幕末から明治初期にかけて全国に大流行した。 「こんぴら船々 追手 (おいて) に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」 の歌詞 ── 「追手」 は追風 (おいて)、 「シュラシュシュシュ」 は帆を受けて船が滑走する擬音。 1 番のみで「一度まわれば」 で冒頭に戻る循環構造を持つ「騒ぎ唄·お座敷唄」 の代表で、 発祥は大阪港 (金毘羅参詣船の起点) とも伝わる。 現代でも香川県の代表的民謡として継承され、 観光宣伝の枢軸を成す。 金毘羅犬 (こんぴらいぬ) は江戸代参文化の稀有な民俗である。 自分が金毘羅参りに行けない者が飼い犬を代参させた江戸後期の民俗で、 犬の首には「金毘羅参り」 と記した袋が下げられ、 中には飼い主名の木札·初穂料·道中の食費が入れられた。 犬は街道筋の旅人から旅人へ託され、 沿道の人々が世話をして琴平まで届けた。 金毘羅犬の出身地は江戸以北に限定されており、 これは埼玉県秩父の三峰神社 (狼=お犬信仰) の布教圏との関連が指摘される独自の民俗パターン。 江戸期の「里犬 (路地·堂宇に住み着く半野生の地域犬)」 文化がこの稀有な習俗を可能にした背景にある。 同じ習俗はお伊勢参りでも記録される (「おかげ犬」) が、 金毘羅犬は江戸以北限定という地理的偏りを持つ点が特異である。 「こんぴら」 の音写経路はサンスクリット Kumbhīra (ガンジス鰐の水神) → 漢訳仏典で「金毘羅」「宮毘羅」「金比羅」「倶毘羅」 と音写 → 中国経由で日本に到来 → 日本語訓み「こんぴら」 として庶民語化。 現在の正式表記は「金刀比羅 (ことひら)」 だが、 これは明治改称時の「琴平」←「こんぴら」←「金毘羅」 という音と当て字の往復で生まれた表記で、 神社名は「ことひら」、 信仰名は「こんぴら」 と読み分けるのが慣例。 現代も「こんぴらさん」 として親しまれ、 海上自衛隊·商船·漁業·海運業者の参詣が続き、 香川県·四国観光資源の頂点を成す讃岐の象徴神格である。

伝説 天狗
てんぐ
天狗とは何か――類型と図像の総論
山野の怪愛宕山(京都)・鞍馬山(京都)・比良山(滋賀)・飯縄山(長野)・大山(神奈川)・英彦山(福岡)・白峰(香川)・大峰山(奈良)・比叡山(滋賀)・高野山(和歌山) ─ 諸国の霊山に座す大天狗この版は、特定の霊山の一座ではなく、「天狗とは何か」を図像と類型の歴史から徹底して解きほぐす総論である。各座の個別伝承は、それぞれの大天狗の頁に譲る。 天狗の姿は一様ではない。第一の類型は鼻高天狗――赤ら顔に高い鼻、山伏の兜巾と鈴懸をまとい、羽団扇を手に一本歯の高下駄を履く。第二は烏天狗で、鴉のくちばしと翼をもち、剣や金剛杖を執る。第三は木の葉天狗・木っ端天狗と呼ばれる下位の天狗で、力弱く数多い眷属とされる。これらは固定した分類というより、時代と地域による天狗像の幅を映している。 図像は時代とともに変遷した。平安期の天狗はまず鳶(とび)のごとき鳥として観念され、烏天狗の像はその名残をとどめる。長い鼻が際立つのは鎌倉末以降で、『是害房絵巻』には、人に化けていた天狗が鳥の姿へ戻る際に鼻が伸びる場面が描かれる。鼻高の起源については、伎楽面の高鼻の治道(じどう)面に由来するとし、烏天狗を迦楼羅(かるら)面に結ぶ学説があり、長い鼻を鳥の嘴の図像的な遺存とみる見方もあるが、いずれも定説とまでは言いがたい。『日本書紀』で鼻長七咫(しちあた)と描かれる猿田彦神と重ねられ、祭礼の猿田彦役に天狗面を用いる風も生まれた。 天狗の両義性は、仏教の天狗道の観念に根ざす。仏道を学ぶゆえに地獄には堕ちず、邪法を扱うゆえに極楽にも行けない中間の境涯――そこに堕ちるのは慢心した僧とされた。『天狗草紙』はこの観念を七大寺の僧への風刺として描くが、ただし「高慢な僧だけが天狗になる」という単純化には知切光歳も行き過ぎと釘を刺している。魔でありながら、調伏されれば護法に転じ、修験者が『天狗経』を誦せば諸国の天狗を招いて願を叶えるとされた――この護法と魔の振幅こそ天狗の核である。 「八大天狗」という括りの確かな中世典拠は、室町期の謡曲『鞍馬天狗』の詞章にある。大天狗が従える諸国の天狗を「筑紫には彦山の豊前坊、四州には白峰の相模坊、大山の伯耆坊、飯綱の三郎……大峰の前鬼が一党、葛城高間」と地理順に唱え上げるくだりがそれで、八大天狗が江戸の創作ではなく中世の信仰と芸能に根を張っていたことを示す。もっともその構成は資料により揺れ、石鎚山法起坊を加える異伝もあるなど、固定した名簿ではない。

伝説 白峰相模坊
しらみねさがみぼう
崇徳の陵を護る天狗・白峰相模坊
山野の怪讃岐国・白峰(香川県坂出市)白峰相模坊は、八大天狗のなかでもっとも一人の人物――崇徳上皇――と固く結びついた天狗である。その像は、崇徳怨霊の物語を抜きには成り立たない。 崇徳上皇は、保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐へ流され、帰京を許されぬまま長寛二年(一一六四)に崩じた。配流地で五部大乗経を写して都へ送るも呪詛を疑われて突き返され、激怒して血書の誓いを立て、生きながら大天狗・大魔縁と化したと伝わる。源頼朝が「日本一の大天狗」と呼んだこの崇徳の白峯陵を、相模坊は護持する。白峯寺は四国八十八ヶ所第八十一番札所、白峯陵は四国唯一の天皇陵であり、その傍らには崇徳院の霊を祀る頓証寺殿が建つ。 相模坊を不朽にしたのは文学である。その原拠は、西行に仮託された鎌倉中期の『撰集抄』「新院御墓白峰之事」で、西行が白峯の崇徳院墓を弔う説話を載せる。これを劇化した謡曲『松山天狗』は崇徳院をシテ、西行をワキとし、崇徳に随う天狗として相模坊を描く。さらに上田秋成の『雨月物語』「白峯」は、西行が白峯陵に崇徳の霊を弔い、怒れる崇徳院と対話する物語で、相模坊はこの撰集抄以来の系譜を貫く存在となった。怨霊と、それに寄り添う天狗――崇徳と相模坊の関係は、御霊信仰と天狗信仰の交わる稀有な一点である。 相模坊の出自には二説がある。『保元物語』で崇徳に味方した相模阿闍梨勝尊にちなむとする説と、相模国大山から移ってきた天狗とする説である。後者は、大山の相模坊が崇徳を慕って讃岐へ移り、空席の相模大山に伯耆坊が入ったとする知切光歳の整理した移座伝と一対をなす。いずれにせよ白峰相模坊は、八大天狗の西の果てに座し、日本三大怨霊の一・崇徳の魂を護りつづける天狗として、讃岐の白峰に伝えられている。

名妖 崇徳天皇
すとくてんのう
讃岐配流の怨霊・崇徳天皇
霊・亡霊香川県坂出市・京都府京都市 (配流没所・鎮魂社)この版では、一人の廃帝がいかにして日本史上最大とまで称される大天狗・大魔縁へ転じたか――史実と『保元物語』以来の伝説の境を見極めながら徹底して追う。 まず史実を押さえる。崇徳の不遇は、鳥羽院に「叔父子」と疎まれ、院政の権を持てぬまま譲位させられた政治的疎外にあった。近衛天皇の早世後、実子重仁親王ではなく弟後白河が立てられたことが保元の乱(一一五六)の引き金となる。乱に敗れた崇徳の側では源為義・平忠正らが約四百年ぶりの公的死刑に処され、崇徳自身は讃岐へ流された。ここまでは記録に基づく史実である。 怪異はその先、伝説の層で生まれる。舌を噛み血で「大魔縁とならん」と書したという呪詛も、爪髪を伸ばして天狗と化したという姿も、同時代の記録ではなく鎌倉期の『保元物語』が伝える物語である。だがこの伝説は強い説得力をもって広まり、安元年間以降に都を襲った大火・強訴・動乱、ひいては平氏滅亡に至る治承寿永の乱までが、崇徳の祟りとして読み解かれていった。事件そのものは史実、それを崇徳の怨念に帰す解釈は御霊信仰――この二つは截然と分けて見る必要がある。 崇徳の天狗像を決定づけたのが文学である。『太平記』巻二十七「雲景未来記」は、崇徳を天狗・魔縁の群れを統べる魔王として描き、近世には上田秋成の『雨月物語』「白峯」が、西行と対峙する崇徳の怨霊を、長鼻の天狗ではなく金色の鳶として鮮烈に造形した。崇徳が「日本一の大天狗」「日本史上最大の怨霊」と語られる像は、こうした文学の累積の上に立っている。 注目すべきは、その鎮魂が近代にまで及んだことである。明治元年(一八六八)、明治政府は讃岐に眠る崇徳の神霊を京へ迎え、白峯神宮に祀った。新たな御代の出発にあたって七百年前の廃帝の祟りをなお恐れたこの事実は、崇徳怨霊の畏怖がいかに根深かったかを物語る。百人一首に名歌を残した歌人と、王権を呪う大魔王。この落差こそが、崇徳院を御霊信仰の極点に押し上げたのである。

稀少 青坊主
あおぼうず
山野の一つ目法師・青坊主
総称・汎称各地 (西国・中部・東北を含む広域)江戸の絵巻や各地の採訪資料に見える像を基調とする青坊主像。外見は青味を帯びた僧形、または一つ目の法師として示されることがあり、実体は動物の変化、山の神の権現、あるいは素性不詳の怪異として語られる。子どもの外出を戒める民俗的機能や、山野・空家での怪異譚、禁忌提示の口承を担う。特定の固有名や起源は定まらず、地域により出現条件・言行が異なる。石燕図は説明を欠くため、諸本の「目一つ坊」や未熟の僧を寓意する説が併記されてきたが、いずれも確説ではない。現代以前の口承に即し、具体像は「青い法師」「大坊主」「小坊主」など複数の呼称で並存する。

珍しい 讃岐平家蟹
さぬきへいけがに
八島浦の平家怨・讃岐平家蟹
住居・器物香川県高松市 (旧讃岐国・八島浦・平家蟹)讃岐の浜に打ち上がる人面文様の蟹を、平家の怨霊と見る民間観念に基づく像。史料でも各地名との結び付けが示され、讃岐は八島合戦の記憶によって特に名が立つ。妖怪としては人を直接害するより、見た者に合戦の因縁を想起させ畏れを促す存在として語られる。供養や慰霊と結び付いて語られる点が特徴で、他所の呼称との差異は名のみとされる。

珍しい 七人同行
しちにんどうぎょう
讃岐四辻の七人列・七人同行
霊・亡霊香川県全域 (旧讃岐国・七人同行・四辻怪)四国に分布する七人列の亡霊譚を束ねた像。核心は「七人が一列で無言で進む」「四辻・夜道・雨の夕刻に現れる」「遭遇は凶事の兆し」という三点で、地域によって名称や出現時刻、装束が異なる。讃岐では姿は人並みだが、通常は不可視で、牛の股から覗くと感得できるという呪的視点が付随する。丑三つ時の四辻に限定して現れる型は「七人童子」と呼ばれ、通行が絶えた特定の辻が語り継がれる。雨中に蓑笠で現れる「七人同志」は、処刑者の霊と結びつけられ、遭遇後の気鬱を祓う民間の対処として箕で扇ぐ所作が伝わる。徳島の首切れ馬に随う七人童子は、供養の地蔵建立により影を潜めたとされ、災厄が供養で鎮められるという地域信仰の枠組みを示す。同類の七人ミサキとの混称もあるが、土地ごとの名称差と機能(疫・祟り・遭遇忌避)の範囲を踏まえ、七人同行は「列行する七霊」という外形的特徴で識別される。

珍しい 赤足
あかあし
路傍に絡む赤い足・赤足
総称・汎称香川県塩飽諸島・福岡県・青森県八戸 (各地の山道怪)各地の記録に見える赤足像を踏まえ、姿を見せる地域では赤い足のみが路傍から突き出し、驚きと足どりの乱れを誘う。姿を見せない地域では、乾いた綿や蜘蛛の巣のような感触が脛にまとわり、歩幅が縮み疲れが増す。害は致命的ではないが、転倒や道迷いの原因となると畏れられた。赤手児との対関係は資料上の指摘に留まり、同一視は断定されない。遭遇は辻、山道、藪際など人影の疎い場所が多く、夕暮れから夜半にかけて語られることが多い。祓い方としては深呼吸して足をととのえ、腰を下ろして草履の緒を締め直す、路傍の草を払うなど実践的な対処が伝えられる地域もあるが、詳細は地方差があり不詳とされる。

珍しい 釣瓶火
つるべび
樹上に下る怪火・釣瓶火
自然現象・自然霊京都府西院・四国・九州 (樹上から下る怪火)江戸期の怪談と石燕の図像に基づく釣瓶火の伝統的解釈。木霊・樹の精に由来する怪火として各地で語られ、青白い火珠が枝先からぶら下がり、井戸の釣瓶のように上下して旅人を惑わす。火勢は見かけほど強くなく、衣や草木に燃え移らないとされる。近世の怪異記には京都西院周辺の火の怪が引例され、近代以降の妖怪事典では釣瓶落とし類似の怪火、あるいは別種として整理される。目撃は月のない晩や霧の立つ夜に多いとされ、近づくとふっと遠のき、離れるとまた寄る。顔の影が浮かぶことがあり、人魂との混同も生じたが、地付きの怪火として伝えられる。

珍しい 提灯火
ちょうちんび
田畦に浮かぶ怪火・提灯火
自然現象・自然霊四国・大和・近江 (田畦や墓所の鬼火譚)各地に伝わる提灯大の鬼火の総称的呼称。狐火・狸火と混称される地域があり、名の由来は「化け物が提灯を灯す」との解釈に基づく。雨夜や川堤、墓域に出没し、一定の高さを漂行するという。近づくと消える、打てば分かれる、群れて行進するなどの報告は時代や土地で差がある。民俗学的には怪死や祟りの兆し、路傍での禁忌の指標として語られ、追跡や打擲を戒める教訓譚の要となる。近世の随筆・怪談類に散見され、固有名(小右衛門火など)を得て地域の記憶に留まった。自然発火説や動物の仕業説が併存し、正体は定まらない。