YOKAI.JP

崇徳天皇

すとくてんのう

崇徳天皇

崇徳天皇

この子の魂が、あなたの言葉に応える

基本説明

崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安末期の第七十五代天皇であり、保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流され、無念のうちに没したのち、日本でもっとも強大な怨霊・大天狗となったと畏れられる人物である。菅原道真・平将門と並ぶ「日本三大怨霊」のなかでも、しばしば最強と語られる。

鳥羽(とば)天皇の子として生まれたが、実は祖父白河法皇の子だという「叔父子(おじご)」の噂につきまとわれ、鳥羽院に疎まれた。三歳で即位するも院政の権を握れぬまま二十三歳で譲位を強いられ、保元元年(一一五六)、弟の後白河天皇との対立が保元の乱として武力衝突に至る。源為義・平忠正らを擁した崇徳方は、平清盛・源義朝を擁する後白河方に夜襲で敗れ、崇徳は讃岐へ配流され、長寛二年(一一六四)、帰京を許されぬまま生を終えた。

配流地での写経が朝廷に拒まれたことに激怒し、舌を噛み切って血で呪詛を書し、爪も髪も切らずに天狗と化したという伝説が、崇徳を妖怪・怨霊たらしめた。死後、世が乱れるたびにその祟りと恐れられ、朝廷は改謚や社の造営によって鎮魂に努めた。上田秋成『雨月物語』の名高い怪異譚にも、その怨霊が描かれている。

民話・伝承

崇徳を怨霊たらしめた核心の物語は、鎌倉期の軍記『保元物語』が伝える血書の呪詛である。讃岐に流された崇徳は、罪障の消滅と後生の安楽を願って五部大乗経(ごぶだいじょうきょう)を自らの手で写し、都の寺に納めてほしいと送った。だが後白河院はそこに呪詛が込められていることを疑い、経を突き返した。これに激怒した崇徳は舌を噛み切り、流れる血で「日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇(きみ)を取って民とし、民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書きつけ、以後は爪も髪も切らず、夜叉のごとき相となって生きながら天狗と化したと伝わる。大魔縁とは、人の心を惑わす魔の一類を指す仏教の語である。

崇徳の死後、世に異変が続くと、それは崇徳院の祟りとされた。安元三年(一一七七)には京を焼く大火や延暦寺の強訴が相次ぎ、やがて平氏の滅亡と源氏の台頭、摂関家の凋落を招いた治承・寿永の乱へとつながる動乱が、崇徳の怒りに帰された。朝廷は鎮魂を急ぎ、安元三年には流刑地の名にちなむ「讃岐院」の称を「崇徳院」と改め、保元の乱で死んだ藤原頼長にも官位を追贈した。元暦元年(一一八四)には乱の古戦場に社(のちの粟田宮)が営まれた。

崇徳の怨霊は、文学のなかでもっとも鮮やかに描かれた。上田秋成の『雨月物語』巻頭の「白峯(しらみね)」は、歌僧西行(さいぎょう)が讃岐の白峯陵に崇徳の霊を弔いに訪れると、怒れる崇徳院が現れて対話する物語である。西行が執心を捨てるよう諭すのに対し、崇徳は易姓革命の理を説いて己の反逆を正当化し、すでに天狗・魔王と化して世の乱れを操っていることを明かす。ここで崇徳は、長い鼻の天狗ではなく金色の鳶(とび)の姿で語られる。『太平記』や保元物語の系譜のなかで、崇徳はやがて天狗界・魔界を統べる日本一の大天狗とみなされていった。

崇徳の鎮魂は、近代に入っても続いた。慶応のころに発願され、明治元年(一八六八)、讃岐に眠るその神霊を京へ迎えて祀ったのが白峯神宮である。新たな世が始まる明治維新の前夜に、なお崇徳の祟りを恐れて鎮めたこの一事は、その怨霊がいかに長く畏れられたかを物語る。なお、崇徳を菅原道真・平将門と束ねて「日本三大怨霊」と呼ぶ枠組みは、怨霊研究の山田雄司が日本史上最大の怨霊と評するように、江戸期の読本や歌舞伎を通じて広まった近世の整理である。百人一首に「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」の歌を残した洗練の歌人が、王権を呪う大魔王として語られる――崇徳院の二面は、御霊信仰の極北というべき姿である。

妖怪カード2

崇徳天皇 を様々な画風のカードで

カード一覧

関連する妖怪

伝承の上で深く結びつく妖怪たち。

徹底解説

この版では、一人の廃帝がいかにして日本史上最大とまで称される大天狗・大魔縁へ転じたか――史実と『保元物語』以来の伝説の境を見極めながら徹底して追う。

まず史実を押さえる。崇徳の不遇は、鳥羽院に「叔父子」と疎まれ、院政の権を持てぬまま譲位させられた政治的疎外にあった。近衛天皇の早世後、実子重仁親王ではなく弟後白河が立てられたことが保元の乱(一一五六)の引き金となる。乱に敗れた崇徳の側では源為義・平忠正らが約四百年ぶりの公的死刑に処され、崇徳自身は讃岐へ流された。ここまでは記録に基づく史実である。

怪異はその先、伝説の層で生まれる。舌を噛み血で「大魔縁とならん」と書したという呪詛も、爪髪を伸ばして天狗と化したという姿も、同時代の記録ではなく鎌倉期の『保元物語』が伝える物語である。だがこの伝説は強い説得力をもって広まり、安元年間以降に都を襲った大火・強訴・動乱、ひいては平氏滅亡に至る治承寿永の乱までが、崇徳の祟りとして読み解かれていった。事件そのものは史実、それを崇徳の怨念に帰す解釈は御霊信仰――この二つは截然と分けて見る必要がある。

崇徳の天狗像を決定づけたのが文学である。『太平記』巻二十七「雲景未来記」は、崇徳を天狗・魔縁の群れを統べる魔王として描き、近世には上田秋成の『雨月物語』「白峯」が、西行と対峙する崇徳の怨霊を、長鼻の天狗ではなく金色の鳶として鮮烈に造形した。崇徳が「日本一の大天狗」「日本史上最大の怨霊」と語られる像は、こうした文学の累積の上に立っている。

注目すべきは、その鎮魂が近代にまで及んだことである。明治元年(一八六八)、明治政府は讃岐に眠る崇徳の神霊を京へ迎え、白峯神宮に祀った。新たな御代の出発にあたって七百年前の廃帝の祟りをなお恐れたこの事実は、崇徳怨霊の畏怖がいかに根深かったかを物語る。百人一首に名歌を残した歌人と、王権を呪う大魔王。この落差こそが、崇徳院を御霊信仰の極点に押し上げたのである。

妖怪設定

この区画は物語を楽しむための当サイト独自の設定です。史実・考証ではありません。

妖怪タイプ
伝統妖怪
カテゴリ
霊・亡霊
レアリティ
名妖
性格
洗練の歌人にして剛烈。無念と怨念は深いが、表に激することなく静かに、なお執念深い。
相性
不当に貶められた人、執念を内に秘める人、和歌と古典を愛する人
能力・特技
天狗界・魔界を統べる大天狗の魔威血書の呪詛による王権への祟り金色の鳶として化現世の動乱を裏で操るとされる和歌に通じた廃帝の霊力
弱点
  • 改謚・追贈など丁重な鎮魂で祟りが和らぐ
  • 白峯神宮への遷座で鎮められた
  • 怨霊相と歌人としての本来の姿は別物
生息地
讃岐国 白峯陵(現在の香川県坂出市), 白峯神宮(京都), 粟田宮, 山林の天狗界

🔮妖怪相性診断

讃岐配流の怨霊・崇徳天皇についてさらに詳しい情報や診断結果については、こちらをご覧ください。

出典・参考文献

4
  1. 保元物語(作者未詳)((保元の乱の軍記物語), 13世紀頃) [古典文献]保元の乱を描く軍記。崇徳の写経奉納拒否・舌を噛み血書・大魔縁化の呪詛伝説の典拠。
  2. 雨月物語上田秋成((安永5年・読本), 1776) [古典文献]巻頭「白峯」で西行が崇徳の怨霊と対話。金色の鳶として描く崇徳怨霊像の文学的頂点。
  3. 白峯神宮(崇徳天皇鎮魂社)(京都市上京区, 1868) [社寺縁起]明治元年、讃岐から崇徳の神霊を京へ迎えて祀った社。明治維新前夜の鎮魂。
  4. 怨霊とは何か(日本三大怨霊の研究)山田雄司(中公新書ほか, 2014) [研究書] 参考資料道真・将門・崇徳を三大怨霊とする枠組が江戸期の通俗成立であることを整理。

このタイプの妖怪に興味がある?

妖怪診断で、あなたの性格に最も近い妖怪を発見しましょう

妖怪診断を始める

神社で今日の守護妖怪に出会う

おみくじを引くと、今日あなたを見守る妖怪が現れます。