金毘羅·厳魂彦命·金毘羅坊·崇徳院。ガンジスの鰐神から大魔縁まで

海の神と山の天狗が一座に集う。象頭山·金刀比羅宮の妖怪事典

金刀比羅宮·ことひらぐう
地図で見る

讃岐平野の南、丸亀から琴平へと続く街道のゆくてに、ひとつの山が横たわっている。象頭山(ぞうずさん)。その名のとおり、街道から望むと山容がまさしく象の頭の形に見え、 目にあたる中腹に金刀比羅宮の社殿が抱かれている。歌川広重の錦絵「讃岐象頭山遠望」も、ちょうど象の目の位置に宮を描いた。標高五二四メートルの琴平山(別名·象頭山)、その中腹二五一メートルに本宮、さらに上方四二一メートルの山上に奥社が鎮まる。本宮まで石段七八五段、奥社まで一三六八段 ── 日本屈指の長石段参道として知られる「こんぴらさん」である。

この一座には、本来まったく別の系統に属する三つの霊異が、不思議な調和をなして同居している。海を渡ってきた渡来の神、山に化身した修験者の天狗、そして海の彼方に流された廃帝の怨霊。 金毘羅という海上守護神を主神に戴きながら、その奥には 厳魂彦命金毘羅坊 という天狗信仰が脈打ち、相殿には 崇徳院 の御霊が祀られる。海の信仰と山の天狗信仰と御霊信仰が、一つの霊山に幾重にも折り重なる ── これが象頭山·金刀比羅宮という聖地の比類なき重層性である。

讃岐(香川県)全体の霊異の見取り図は 香川県の妖怪事典 に譲り、本稿では象頭山という一座に絞って、その三層の妖異を奥まで辿る。

海を渡ってきた神 ── ガンジスの鰐から讃岐の海神へ

「こんぴら」の音をたどると、はるばるガンジス川にゆきつく。 金毘羅(こんぴら)の原語はサンスクリットの Kumbhīra(クンビーラ)、古代インドのガンジス川に棲む鰐(わに)を神格化した水神である。ヒンドゥー教では川の女神ガンガーの乗り物(ヴァーハナ)とされ、仏教に取り込まれて薬師如来を守る十二神将の筆頭·宮毘羅大将(くびら)となった。漢訳仏典では「金毘羅」「宮毘羅」「金比羅」「倶毘羅」などと音写され、中国を経て日本に渡来する。日本では平安·中世以降、しばしば蛇身の姿で描かれた。鰐から蛇へ、水神から護法善神へ ── 一柱の神格が、信仰の地層を越えてかたちを変えてゆく。

金毘羅

こんぴら

サンスクリット Kumbhīra (クンビーラ、 ガンジス川の鰐神·水神) を起源とし、 仏教では薬師如来十二神将筆頭の宮毘羅大将、 日本では大物主神 (大国主神の和魂) と習合した三層構造の神格。 中世末期に象頭山 (ぞうずさん·琴平山) 松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と在地神·大物主神が習合し「象頭山金毘羅大権現」 として一体化、 海上守護神·航海安全神として広く崇敬された。 総本宮·金刀比羅宮 (香川県仲多度郡琴平町、 象頭山標高 524m 中腹·本宮 251m·奥社 421m·本宮まで石段 785 段·奥社まで 1368 段)は主祭神·大物主命、 相殿に崇徳天皇 (1119-1164、 第 75 代天皇、 1156 保元の乱で讃岐配流·1164 讃岐崩御·1165 永万元年合祀の御霊鎮魂)を併祀。 江戸期に「お伊勢参り」 に次ぐ全国第二位の参詣ブームを形成、 「金毘羅船々追手に帆かけて」 民謡や金毘羅犬 (江戸期に飼い犬を代参させた稀有な民俗、 出身地は江戸以北限定)等の独特な文化を生んだ。 明治神仏分離 (1868) で金毘羅大権現は廃止され「金刀比羅宮」 に改称、 主祭神を大物主神に確定、 仏教系称号は剥奪された。 海上守護·航海安全·商船·漁師·船員の絶大な信仰を集める讃岐の象徴神格。

詳しく見る

その渡来神が讃岐の地神と結ばれたのが、象頭山であった。中世の本地垂迹のもとで、 松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と、在地の大物主神(大国主神の和魂で、海と農の神)が習合し、「象頭山金毘羅大権現」として一体化した。本地仏には不動明王·千手観音·十一面観音など諸説が併存する。ガンジスの鰐(水神)、仏教の護法善神、神道の神 ── この三層構造をそなえた神格は、日本宗教史における習合の典型例として、いまも研究者の注目を集める。

象頭山の縁起もまた一筋縄ではいかない。 大物主命がこの山に行宮を営んだ跡を祀ったとする説、大宝元年(七〇一)に旗が舞い降りたとする伝承、修験道の祖·役小角(えんのおづの)が象頭山に登り護法善神·金毘羅の神験を得たという開山縁起など、複数の起源譚が重なり合う上古不詳の社である。役小角の名がここに現れることが、後に語る天狗信仰への伏線となる。

#

こんぴら参りとこんぴら狗

江戸期に入ると、金毘羅はクンビーラ譲りの水神性と大物主神の海上信仰とを兼ねた「海上守護·航海安全の絶大神」へと飛躍した。商船·廻船·漁師·船員の信仰を集め、各船が仕立てた参詣船は「金毘羅船」と呼ばれた。 江戸庶民の参拝熱は「お伊勢参り」に次ぐ全国第二位の規模に達し、各地で金毘羅講が結ばれ、講員の積立金で代表を送り出す代参制度が機能した。奉納が爆発的に増えた結果、もとは直線だった参道を曲げて配置せざるを得なくなったほどである。

こんぴら船々 ── 追手に帆かけて ── シュラシュシュシュ ── まわれば四国は讃州那珂の郡 ── 象頭山·金毘羅大権現 ── 一度まわれば

「金毘羅船々(こんぴらふねふね)」は元禄期(一六八八〜一七〇四)頃から金毘羅参道唄として歌われ、幕末から明治初期に全国へ大流行した騒ぎ唄である。「追手」は追風、「シュラシュシュシュ」は帆を受けて船が滑走する擬音で、「一度まわれば」で冒頭に戻る循環構造をもつ。発祥は金毘羅参詣船の起点·大阪港とも伝わる。

この参詣熱が生んだ稀有な民俗が「こんぴら狗(いぬ)」である。 自分が参りに行けない者が飼い犬を代参させた江戸後期の習俗で、犬の首には「金毘羅参り」と記した袋が下げられ、中には飼い主の名と住所を記した木札·初穂料·道中の食費が納められた。犬は街道筋の旅人から旅人へと託され、沿道の人々が世話をしながら琴平まで送り届けた。江戸から金毘羅までおよそ一三〇〇キロ、四十日ほどの旅程である。社に着くと神職が袋から初穂料と願文を取り出し、代わりに神札を納めて犬を江戸へ帰した。半野生の地域犬(里犬)文化と、犬を旅させてもよいという当時の感覚が、この優しい習俗を支えていた。

#

神仏分離という断層

近代、この習合神格は一度引き裂かれる。 明治元年(一八六八)の神仏分離令を受け、第十九代金光院別当·琴陵宥常(ことおかひろつね)は、神仏混淆の「象頭山金毘羅大権現」を「琴平山金刀比羅宮」と改め、神道神社化を断行した。主祭神を大物主神に確定し(「金毘羅権現は大物主と同体」とする論理による)、相殿に崇徳天皇を据えた。明治四年(一八七一)に「事比羅宮」へ一時改表記、明治二十二年(一八八九)に「金刀比羅宮」へ復称して今日に至る。社名は「ことひら」、信仰の名は「こんぴら」 ── この読み分けの慣例そのものが、鰐神から神社祭神までの長い往復を物語っている。

山に化身した修験者 ── 天狗となった奥社の神

本宮からさらに一三六八段、峻険な石段を登りつめた山上に、奥社·厳魂神社(いづたまじんじゃ)が鎮まる。その祭神 厳魂彦命(いづたまひこのみこと) の正体は、神話の神ではない。戦国末から江戸初期に金毘羅信仰を中興した、実在の修験者·金剛坊宥盛(こんごうぼうゆうせい)である。

金光院第四代院主であった宥盛は、和漢の神仏の学を早くから修め、高野山で修行を積んだ学僧でもあり、神仏習合と修験道の体系のもとで金毘羅大権現の祭祀を整備し、信仰中興の祖と仰がれた。その宥盛が、 慶長十一年(一六〇六)に自らの像を造って本殿の脇に祀らせ、慶長十八年(一六一三)、臨終に際して「死して永く当山を守護せん」と誓い、 天狗となって忽然と姿を消したと伝えられる。実在の高僧が死後に天狗·護法神となり、山の守護神へ昇華する ── 日本の神格生成史でも稀な経路を、この奥社の神はたどっている。

明治の神仏分離を経て、護法神·金剛坊宥盛は神道神格「厳魂彦命」として再定義され、奥社は「厳魂神社」と称された。 奥社の背後にそびえる断崖「威徳巖(いとくのいわ)」は、宥盛が参籠した旧跡と伝えられ、崇徳上皇もここで参籠したとの伝承もある。断崖の上方には、いまも天狗と烏天狗の彫物が刻まれている。社頭では天狗·烏天狗を意匠した「天狗御守」が授与され、宥盛が天狗と化した伝承を今に伝えている。

#

象頭山の大天狗·金毘羅坊と讃岐三大天狗

この天狗信仰の総帥として名指されるのが 金毘羅坊(こんぴらぼう) である。 江戸期の百科事典『和漢三才図会』(寺島良安·一七一二)は、象頭山の項に「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と明記し、この山の天狗をこの名で呼んだ。天狗は中世以降、霊山に座す護法善神·眷属神として各地の山岳信仰に組み込まれた存在で、象頭山では金毘羅大権現の威光を体現する使いとされ、その筆頭がこの金毘羅坊と観念された。先に触れた役小角の開山縁起や、松尾寺·金光院を中心とする修験集団の活動が、その天狗信仰の母胎であった。

金毘羅信仰を全国へ広めた先達(せんだつ·修験者)は、白衣をまとい背に天狗面を負って諸国を巡り、参詣者もまた天狗面を身につけて山に登った。象頭山と天狗の結びつきは、こうして庶民の参詣文化に深く根を張った。 この金毘羅坊(奥社の金剛坊と同一視される)は、白峯山の相模坊·屋島寺の中将坊と並んで「讃岐三大天狗」の一に数えられる。三者はいずれも瀬戸内·讃岐の霊山に座す大天狗であり、讃岐の山岳信仰の厚みを物語る。

天狗とは、そもそも何か。 赤ら顔に高い鼻、山伏の装束に羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗と、鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗という二系統を軸に、仏法を妨げる魔でありながら調伏されれば仏法を護る護法神に転じる ── この両義性こそ天狗の本質である。 愛宕山太郎坊·比良山次郎坊·鞍馬山僧正坊らを束ねる「八大天狗」の枠組みは、室町期の謡曲『鞍馬天狗』に既にその名が列ねられ、讃岐の相模坊もその一に数えられる。象頭山の金毘羅坊·金剛坊は、この全国的な天狗信仰の系譜のなかに讃岐独自の枝を伸ばしたものといえる。海上守護の金毘羅信仰と修験の天狗信仰が一山に重層する ── 海の神と山の天狗が同じ霊山に同居する点に、この地の信仰のかけがえのない独自性がある。

海に流された廃帝 ── 相殿に祀られた大魔縁

象頭山の三層目は、海の彼方から流れ着いた怨霊である。金刀比羅宮の本宮には、主祭神·大物主神の相殿に 崇徳天皇 が祀られている。菅原道真·平将門と並んで「日本三大怨霊」に数えられ、しばしばその最強と語られる人物である。

崇徳は鳥羽天皇の子として生まれたが、実は祖父白河法皇の子だという「叔父子(おじご)」の噂につきまとわれて鳥羽院に疎まれ、三歳で即位するも院政の権を握れぬまま二十三歳で譲位を強いられた。 保元元年(一一五六)、弟の後白河天皇との対立が保元の乱として武力衝突に至り、源為義·平忠正らを擁した崇徳方は、平清盛·源義朝を擁する後白河方に夜襲で敗れる。崇徳はこうして讃岐へ配流された。

讃岐における崇徳と金毘羅の縁は深い。 配流中の崇徳上皇は金毘羅大権現を深く崇敬し、境内の「古籠所(こもりしょ)」に参籠、近隣の「御所之尾」を行宮としたと伝わる(長寛元年·一一六三頃)。長寛二年(一一六四)、帰京を許されぬまま讃岐で崩御。その翌年の永万元年(一一六五)、崇徳の御霊は金毘羅大権現の相殿に合祀された ── これは明治の神仏分離より約七百年も前、御霊信仰による怨霊鎮魂の典型例である。坂出の白峯陵に眠る崇徳が、生前に祈りを捧げた象頭山に神として祀られるという、海と山を結ぶ鎮魂の構図がここにある。

崇徳を怨霊たらしめた核心の物語は、軍記『保元物語』が伝える血書の呪詛である。 配流地で写した五部大乗経を都の寺に納めるよう願ったが後白河院に突き返され、激怒した崇徳は舌を噛み切り、流れる血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と書きつけ、以後は爪も髪も切らず、生きながら天狗と化したと伝わる。大魔縁とは人の心を惑わす魔の一類を指す仏教語である。死後に世が乱れるたびその祟りとされ、 『太平記』の系譜のなかで、崇徳はやがて天狗界·魔界を統べる日本一の大天狗とみなされていった

その怨霊を最も鮮やかに描いたのが文学である。 上田秋成『雨月物語』巻頭の「白峯(しらみね)」は、歌僧西行が讃岐の白峯陵に崇徳の霊を弔いに訪れると、怒れる崇徳院が金色の鳶(とび)の姿で現れて対話する物語である。執心を捨てよと諭す西行に対し、崇徳は易姓革命の理を説いて反逆を正当化し、すでに天狗·魔王として世の乱れを操っていることを明かす。鎮魂は近代まで続き、 明治元年(一八六八)、讃岐に眠る崇徳の神霊を京へ迎えて祀ったのが白峯神宮である。新たな世が始まる明治維新の前夜になお祟りを恐れて鎮めたこの一事は、 怨霊研究の山田雄司が日本史上最大の怨霊と評するその畏怖の長さを物語る。

ここで見過ごせないのは、崇徳もまた「天狗と化した」と語られることである。修験者·金剛坊宥盛が天狗となって奥社の神になり、廃帝·崇徳院が大天狗となって相殿に鎮まる ── 象頭山では、天狗という両義の存在が、護法神としても怨霊としても一座に重なり合っている。

一座に折り重なる三層の霊異

象頭山·金刀比羅宮は、起源を異にする三つの信仰が一つの霊山に折り重なった、稀有な聖地である。ガンジス川の鰐神に発し大物主神と習合した海上守護神·金毘羅。天狗と化した実在の修験者を祀る奥社の厳魂彦命と、その総帥たる象頭山の大天狗·金毘羅坊。そして讃岐に流され大魔縁·大天狗となって相殿に祀られた崇徳院。海を渡ってきた神、山に化身した天狗、海に流された廃帝の怨霊 ── 由来も系統もまったく違う霊異が、象の頭の形をした一座のなかで、互いに排斥することなく共存している。

七八五段、そして一三六八段の石段を登る参詣者は、知らずしてこの三層を踏みしめている。本宮で海の神に手を合わせ、奥社で天狗の守りを受け、相殿に廃帝の御霊を拝む。海上守護·航海安全の祈りと、山岳修験·天狗信仰の畏れと、怨霊鎮魂の祈念とが、一つの石段の上で出会う場所。これが「こんぴらさん」という名で全国に親しまれてきた、讃岐·象頭山の比類なき妖異の風景である。讃岐全体に渦巻く霊異の全容は 香川県の妖怪事典 を参照されたい。

金刀比羅宮の妖怪一覧5

金刀比羅宮ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

  • 金毘羅

    金毘羅

    神格

    こんぴら

    ガンジス鰐由来の海上守護神·金毘羅

    神霊・神格金刀比羅宮 (現·香川県仲多度郡琴平町、象頭山) ── 金刀比羅の総本宮

    金毘羅 (こんぴら) の原語はサンスクリット Kumbhīra (クンビーラ)、 古代インド·ガンジス川に棲む鰐 (わに) を神格化した水神である。 ヒンドゥー教ではガンジス川の女神ガンガー (Gaṅgā) のヴァーハナ (乗り物) で、 これが仏教に取り入れられて薬師如来十二神将の筆頭·宮毘羅大将 (くびら·宮比羅) となった。 日本では平安·中世以降に蛇身として描かれることが多い。 中世の本地垂迹説により、 象頭山 (ぞうずさん) 松尾寺の鎮守として祀られていた宮毘羅大将と、 在地神·大物主神 (大国主神の和魂、 海上·農業の神) が習合し、 「象頭山金毘羅大権現」 として一体化した。 本地仏には不動明王·千手観音·十一面観音など諸説併存する。 信仰の三層構造 (鰐=蛇身の水神 → 仏教護法善神 → 神道神社祭神) は習合系神格の典型例として日本宗教史上重要な位置を占める。 総本宮·金刀比羅宮の所在地は香川県仲多度郡琴平町字川西 892 番地 1、 鎮座地は象頭山 (琴平山、 標高 524m) 中腹である。 本宮は標高 251m、 奥社 (厳魂神社·いづたまじんじゃ) は標高 421m に位置する。 参道の石段は本宮まで 785 段·奥社まで 1368 段 ── 日本屈指の長石段参道で、 江戸期から駕籠 (籠かき)·杖の伝統がある。 主祭神は大物主命、 相殿に崇徳天皇。 創建については複数の社伝が並立し、 ① 大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祀ったとする説、 ② 大宝年間 (701-704) 大宝元年に旗が舞い降りたとする伝承、 ③ 修験道の祖·役小角 (えんのおづの、 634-701) が象頭山に登り護法善神金毘羅の神験を得たという開山縁起、 ④ 延喜式神名帳に讃岐国官社として登載とする説など複数あり、 上古不詳の社。 学術的にいずれかを確定するのは不能で、 中世以降の信仰の集積として位置付けるのが妥当。 崇徳天皇 (1119-1164、 第 75 代天皇·在位 1123-1141) の配祀は御霊信仰の典型例である。 保元元年 (1156) 保元の乱に敗れ讃岐国へ配流された崇徳上皇は、 配流中に金毘羅大権現を深く崇敬し、 境内の「古籠所 (こもりしょ)」 に参籠、 近隣の「御所之尾」 を行宮とした (長寛元年 1163 頃)。 長寛二年 (1164) 讃岐で崩御、 京都に帰還することなく終わる。 その翌年の永万元年 (1165) に金毘羅大権現の相殿に合祀された ── これは神仏分離 (1868) より約 700 年前の出来事で、 怨霊鎮魂の御霊信仰の典型例である。 崇徳天皇は菅原道真·平将門と並ぶ日本三大怨霊の一柱で、 金毘羅信仰における崇徳合祀は中世御霊信仰の重要事例として宗教史上注目される。 明治神仏分離による改称は信仰史で最大の転機である。 明治元年 (1868) 3 月の神仏分離令発布で、 第 19 代金光院別当·琴陵宥常 (ことおか ひろつね、 1840-1892) が、 神仏混淆の「象頭山金毘羅大権現」 を「琴平山金刀比羅宮」 に改称、 神道神社化を断行した。 主祭神を大物主神に確定し (「金毘羅権現は大物主と同体」 とする論理)、 相殿に崇徳天皇。 明治元年 9 月 13 日に勅祭神社に列格、 明治 4 年 (1871)「事比羅宮」 へ一時改表記、 明治 22 年 (1889)「金刀比羅宮」 に復称して現在に至る。 仏教系称号「金毘羅大権現」 は廃止されたが、 庶民の間では「こんぴらさん」 の愛称が温存され、 信仰の中身は連続している。 江戸期の流行神化は海上守護神としての大躍進である。 クンビーラの水神性と大物主神の海上信仰が結合し、 江戸期には「海上守護·航海安全の絶大神」 となった。 商船·廻船·漁師·船員の信仰を集め、 各船は「金毘羅船」 と呼ばれた金毘羅参詣船を仕立てた。 江戸期庶民の参拝熱は「お伊勢参り」 に次ぐ全国第二位の規模で、 各地で金毘羅講が結成され、 講員が積み立て金で代表を派遣する代参制度が機能した。 参道奉納が爆発的に増えた結果、 元々直線だった参道を曲げて配置せざるを得なくなったほどの参詣狂躁を生んだ。 「金毘羅船々 (こんぴらふねふね)」 民謡は元禄期 (1688-1704) 頃から金毘羅参道唄として歌われ、 幕末から明治初期にかけて全国に大流行した。 「こんぴら船々 追手 (おいて) に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」 の歌詞 ── 「追手」 は追風 (おいて)、 「シュラシュシュシュ」 は帆を受けて船が滑走する擬音。 1 番のみで「一度まわれば」 で冒頭に戻る循環構造を持つ「騒ぎ唄·お座敷唄」 の代表で、 発祥は大阪港 (金毘羅参詣船の起点) とも伝わる。 現代でも香川県の代表的民謡として継承され、 観光宣伝の枢軸を成す。 金毘羅犬 (こんぴらいぬ) は江戸代参文化の稀有な民俗である。 自分が金毘羅参りに行けない者が飼い犬を代参させた江戸後期の民俗で、 犬の首には「金毘羅参り」 と記した袋が下げられ、 中には飼い主名の木札·初穂料·道中の食費が入れられた。 犬は街道筋の旅人から旅人へ託され、 沿道の人々が世話をして琴平まで届けた。 金毘羅犬の出身地は江戸以北に限定されており、 これは埼玉県秩父の三峰神社 (狼=お犬信仰) の布教圏との関連が指摘される独自の民俗パターン。 江戸期の「里犬 (路地·堂宇に住み着く半野生の地域犬)」 文化がこの稀有な習俗を可能にした背景にある。 同じ習俗はお伊勢参りでも記録される (「おかげ犬」) が、 金毘羅犬は江戸以北限定という地理的偏りを持つ点が特異である。 「こんぴら」 の音写経路はサンスクリット Kumbhīra (ガンジス鰐の水神) → 漢訳仏典で「金毘羅」「宮毘羅」「金比羅」「倶毘羅」 と音写 → 中国経由で日本に到来 → 日本語訓み「こんぴら」 として庶民語化。 現在の正式表記は「金刀比羅 (ことひら)」 だが、 これは明治改称時の「琴平」←「こんぴら」←「金毘羅」 という音と当て字の往復で生まれた表記で、 神社名は「ことひら」、 信仰名は「こんぴら」 と読み分けるのが慣例。 現代も「こんぴらさん」 として親しまれ、 海上自衛隊·商船·漁業·海運業者の参詣が続き、 香川県·四国観光資源の頂点を成す讃岐の象徴神格である。

  • 厳魂彦命

    厳魂彦命

    神格

    いづたまひこのみこと

    象頭山の守護神·厳魂彦命

    神霊・神格象頭山·金刀比羅宮奥社厳魂神社 (現·香川県仲多度郡琴平町)

    厳魂彦命は、実在の高僧·金剛坊宥盛 (金光院第四代院主、 1613 年没) が死後に天狗·護法神となり、さらに明治の神仏分離を経て神道神格へと再定義された、三段階の昇華をたどる稀有な神格である。渡来の水神 (クンビーラ) を起源とする主祭神·金毘羅 (大物主神) が「海上守護」を司るのに対し、厳魂彦命は「山岳修験·天狗信仰」の系譜を体現する。一山のうちに海の神と山の天狗が同居する象頭山信仰の二重構造を、主祭神と奥社祭神という形で示している点に、この神格の宗教史的な重要性がある。奥社·厳魂神社は本宮から 1368 段·標高 421m の山上に鎮座し、金刀比羅宮に次ぐ霊地とされる。

  • 天狗

    天狗

    伝説

    てんぐ

    天狗とは何か――類型と図像の総論

    山野の怪愛宕山(京都)・鞍馬山(京都)・比良山(近江/滋賀)・飯縄山(長野)・大山(神奈川)・英彦山(福岡)・白峰(香川)・大峰山(奈良)・比叡山(近江/滋賀)・高野山(和歌山) ─ 諸国の霊山に座す大天狗

    この版は、特定の霊山の一座ではなく、「天狗とは何か」を図像と類型の歴史から徹底して解きほぐす総論である。各座の個別伝承は、それぞれの大天狗の頁に譲る。 天狗の姿は一様ではない。第一の類型は鼻高天狗――赤ら顔に高い鼻、山伏の兜巾と鈴懸をまとい、羽団扇を手に一本歯の高下駄を履く。第二は烏天狗で、鴉のくちばしと翼をもち、剣や金剛杖を執る。第三は木の葉天狗・木っ端天狗と呼ばれる下位の天狗で、力弱く数多い眷属とされる。これらは固定した分類というより、時代と地域による天狗像の幅を映している。 図像は時代とともに変遷した。平安期の天狗はまず鳶(とび)のごとき鳥として観念され、烏天狗の像はその名残をとどめる。長い鼻が際立つのは鎌倉末以降で、『是害房絵巻』には、人に化けていた天狗が鳥の姿へ戻る際に鼻が伸びる場面が描かれる。鼻高の起源については、伎楽面の高鼻の治道(じどう)面に由来するとし、烏天狗を迦楼羅(かるら)面に結ぶ学説があり、長い鼻を鳥の嘴の図像的な遺存とみる見方もあるが、いずれも定説とまでは言いがたい。『日本書紀』で鼻長七咫(しちあた)と描かれる猿田彦神と重ねられ、祭礼の猿田彦役に天狗面を用いる風も生まれた。 天狗の両義性は、仏教の天狗道の観念に根ざす。仏道を学ぶゆえに地獄には堕ちず、邪法を扱うゆえに極楽にも行けない中間の境涯――そこに堕ちるのは慢心した僧とされた。『天狗草紙』はこの観念を七大寺の僧への風刺として描くが、ただし「高慢な僧だけが天狗になる」という単純化には知切光歳も行き過ぎと釘を刺している。魔でありながら、調伏されれば護法に転じ、修験者が『天狗経』を誦せば諸国の天狗を招いて願を叶えるとされた――この護法と魔の振幅こそ天狗の核である。 「八大天狗」という括りの確かな中世典拠は、室町期の謡曲『鞍馬天狗』の詞章にある。大天狗が従える諸国の天狗を「筑紫には彦山の豊前坊、四州には白峰の相模坊、大山の伯耆坊、飯綱の三郎……大峰の前鬼が一党、葛城高間」と地理順に唱え上げるくだりがそれで、八大天狗が江戸の創作ではなく中世の信仰と芸能に根を張っていたことを示す。もっともその構成は資料により揺れ、石鎚山法起坊を加える異伝もあるなど、固定した名簿ではない。

  • 金毘羅坊

    金毘羅坊

    名妖

    こんぴらぼう

    象頭山の大天狗·金毘羅坊

    山野の怪象頭山·金刀比羅宮 (現·香川県仲多度郡琴平町) ── 金毘羅大権現の眷属·讃岐三大天狗の一

    金毘羅坊は、単なる山の妖怪ではなく、金毘羅大権現の神威を体現する護法善神 (眷属神) として理解されるべき大天狗である。『和漢三才図会』が「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記すように、象頭山という特定の霊山に固有の名を持つ点が、不特定の山に出没する一般の天狗と決定的に異なる。海上守護神·金毘羅と、山岳修験の天狗信仰 ── 海と山という相反する信仰圏が象頭山という一山で交わる、その結節点に立つのが金毘羅坊である。白峯相模坊·中将坊と並ぶ讃岐三大天狗として、瀬戸内の山岳信仰の頂点を占める。

  • 崇徳天皇

    崇徳天皇

    名妖

    すとくてんのう

    讃岐配流の怨霊・崇徳天皇

    霊・亡霊白峯陵·讃岐(現·香川県坂出市) ── 保元の乱で配流·憤死、日本三大怨霊

    この版では、一人の廃帝がいかにして日本史上最大とまで称される大天狗・大魔縁へ転じたか――史実と『保元物語』以来の伝説の境を見極めながら徹底して追う。 まず史実を押さえる。崇徳の不遇は、鳥羽院に「叔父子」と疎まれ、院政の権を持てぬまま譲位させられた政治的疎外にあった。近衛天皇の早世後、実子重仁親王ではなく弟後白河が立てられたことが保元の乱(一一五六)の引き金となる。乱に敗れた崇徳の側では源為義・平忠正らが約四百年ぶりの公的死刑に処され、崇徳自身は讃岐へ流された。ここまでは記録に基づく史実である。 怪異はその先、伝説の層で生まれる。舌を噛み血で「大魔縁とならん」と書したという呪詛も、爪髪を伸ばして天狗と化したという姿も、同時代の記録ではなく鎌倉期の『保元物語』が伝える物語である。だがこの伝説は強い説得力をもって広まり、安元年間以降に都を襲った大火・強訴・動乱、ひいては平氏滅亡に至る治承寿永の乱までが、崇徳の祟りとして読み解かれていった。事件そのものは史実、それを崇徳の怨念に帰す解釈は御霊信仰――この二つは截然と分けて見る必要がある。 崇徳の天狗像を決定づけたのが文学である。『太平記』巻二十七「雲景未来記」は、崇徳を天狗・魔縁の群れを統べる魔王として描き、近世には上田秋成の『雨月物語』「白峯」が、西行と対峙する崇徳の怨霊を、長鼻の天狗ではなく金色の鳶として鮮烈に造形した。崇徳が「日本一の大天狗」「日本史上最大の怨霊」と語られる像は、こうした文学の累積の上に立っている。 注目すべきは、その鎮魂が近代にまで及んだことである。明治元年(一八六八)、明治政府は讃岐に眠る崇徳の神霊を京へ迎え、白峯神宮に祀った。新たな御代の出発にあたって七百年前の廃帝の祟りをなお恐れたこの事実は、崇徳怨霊の畏怖がいかに根深かったかを物語る。百人一首に名歌を残した歌人と、王権を呪う大魔王。この落差こそが、崇徳院を御霊信仰の極点に押し上げたのである。

続けて読む ── 他の地域へ