福島県は、南北に走る奥羽山脈と阿武隈高地という二本の山並みによって、東から浜通り・中通り・会津の三地域に截然と分かたれる[1]。太平洋の波が洗う浜通り、阿武隈川が盆地を縫って北流する中通り、越後や下野の山に閉ざされた会津 ── この三つの世界はそれぞれに気候も歴史も信仰も異なり、生まれた怪異の貌もまた違う。海の妖は浜通りに、鬼の伝説は中通りの平野に、赤面の大鬼は会津の社に棲んだ。
その頂点に立つのが、中通りの北、二本松の安達ヶ原に伝わる黒塚の鬼婆である。妊婦を手にかけ生肝を抉ったという業の鬼婆は、平安の和歌に詠まれ、室町の能舞台にのぼり、近世には浄瑠璃や歌舞伎に脚色されて全国に広まり、今も阿武隈川のほとりの寺に岩屋を残す。本稿はこの鬼婆を背骨に据え、会津の朱の盤、陸奥の山野に化けたムジナ、川に潜むメドチ、そして浜通りの海に出る船幽霊まで、福島の三地域に散らばる怪を一筋の物語に束ねてゆく。
安達ヶ原の鬼婆 ── 一首の和歌から始まった怪異
福島の妖怪を語るとき、まず立ち戻るべきは一首の和歌である。三十六歌仙の一人、平兼盛が詠んだ「陸奥の安達が原の黒塚に鬼籠もれりといふはまことか」[2]── 寛弘年間(1005年頃)に成立した『拾遺和歌集』巻九・雑下に収められたこの歌が、安達ヶ原の鬼婆譚の最も古い文献的痕跡とされる。
ただしここで史実と伝説は慎重に分けておかねばならない。兼盛のこの一首は、もともとは血の匂いのする怪談ではなく、機知に富んだ戯れの歌であった。歌に添えられた詞書をめぐる古来の解釈によれば、これは娘が多いと評判の陸奥の歌人・源重之の姉妹たちを、はるかな辺境の「黒塚に籠もる鬼」になぞらえてみせた言葉遊びだったとされる[3]。つまり平安中期の時点で、「安達ヶ原」と「黒塚」と「鬼」を結ぶ言葉の連想はすでに都の歌人のあいだに共有されていたが、妊婦を手にかけ人を喰らう鬼婆という血なまぐさい物語までが、この和歌に込められていたわけではない。怪異の核となる凄惨な筋立ては、この一首の歌枕としての名声の周囲に、後世の語り手たちの想像が幾重にも巻きついて、長い時間をかけて結晶していったものなのである。歌枕がやがて伝説を生むという、地名と物語の関係の好例がここにある。

黒塚
平安期に平兼盛『拾遺和歌集』 (1006)に「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼籠れりと聞くはまことか」と詠まれて知名度が確立した、陸奥国安達ヶ原 (現·福島県二本松市) の鬼婆伝承。旅人を泊めては夜半に襲って肝を喰らう山中の老婆という妖怪型を最も典型的に体現する。中世室町期に観世小次郎が能『黒塚 (安達原)』として劇化し、江戸期に近松半二らが浄瑠璃·歌舞伎『奥州安達原』 (1762 年初演)として大成、現代まで上演されつづける日本鬼婆譚の代表である。主要伝承地は観世寺 (福島県二本松市安達ヶ原、727 年神亀 4 年開基) で、境内の黒塚は鬼婆の埋葬塚と伝わる。鬼婆の正体「岩手」が娘の肝を求めた末に実の娘を殺してしまう悲劇譚が後世に付加され、単純な怪物譚から人間悲劇に深化した。
詳しく見るその語りの定型はこうだ。京の貴人の屋敷に仕える乳母が、生まれつき口のきけぬ姫を救うには妊婦の胎児の生肝が要るという託宣を信じ、まだ幼い我が子を屋敷に残して旅に出る。乳母は遠く陸奥の安達ヶ原までさすらい、阿武隈川を見おろす岩屋に住みついて、幾年も孕み女が通りかかるのをひたすら待ちつづけた。やがて長い歳月の果てに、若い夫婦が一夜の宿を乞う。妻は臨月であった。産気づいた妻のために夫が薬を求めて外へ出た隙に、乳母は刃をふるい、妻を手にかけて腹を裂き、目当ての胎児の肝を抉り取る。だが息絶えた女の遺品のなかに、乳母はかつて己が幼い我が子の首にかけてやった守り袋を見いだす。手にかけたのは、生き別れて成長した我が娘だったのだ ── この惨い因果を悟った瞬間、乳母は悲嘆のあまり正気を失い、そのまま安達ヶ原を通る旅人を喰らう鬼婆と化したという。母の愛が転じて最悪の業となるこの構造こそ、黒塚の鬼婆譚を単なる怪談以上の悲劇にしている。
ここに登場するのが紀州の僧、東光坊祐慶である。奈良時代、神亀の頃と伝わる時期[4]、諸国を巡る祐慶は日暮れの安達ヶ原で岩屋に宿を求める。家主の老女は親切に火を焚いてくれるが、薪を採りに行くあいだ閨を覗くなと言い置いて去る。禁を破って奥を覗いた祐慶が見たのは、累々と積み上がった人骨の山であった。恐怖に駆られて逃げ出す祐慶を、正体を露わにした鬼婆が猛然と追う。万事休すと見えたとき、祐慶は笈のなかから本尊の如意輪観音を取り出して一心に経を誦した。すると観音が空中に現れ、白羽の矢を放って鬼婆を射倒したという。祐慶は鬼婆の亡骸を阿武隈川のほとりに葬り、その塚が今日まで残る黒塚だと伝える[5]。
この伝説の優れたところは、物語が抽象的な怪談に終わらず、「歩いて辿れる」具体として土地に固着している点にある。阿武隈川は福島県南部に発して中通りの盆地を北流し、宮城の岩沼で太平洋に注ぐ大河で、二本松付近ではその東岸に鬼婆ゆかりの奇岩怪石が集まっている[6]。鬼婆が刃を研いだ岩を構成する笠石や蛇石、出刃包丁を洗ったと伝える血の池(出刃洗いの池)、夜ごと泣き声がしたという夜泣き石 ── そして観世寺(真言宗豊山派)の境内には、祐慶を救った如意輪観音を本尊として祀り、老杉の根方に鬼婆を埋めたと伝える黒塚が今も残る[5]。一帯は松尾芭蕉も訪ねた「おくのほそ道の風景地」として国の名勝に指定され、2022年の地震では岩屋を成す巨岩の一部が崩れたことが報じられた[7]。観音像は数十年に一度だけ開帳される秘仏として伝えられ、平安の和歌に詠まれた怪が一千年の時を越えてなお参詣を集めている[4]。一首の機知の和歌から始まった連想が、寺の縁起・能・浄瑠璃・歌舞伎・観光へと幾重にも増殖した、稀有な怪異の生態系がここにある。
能『黒塚』── 鬼婆が芸能になるとき
口承の鬼婆は、室町期に至って能の舞台へと昇華する。五番目物の『黒塚』── 観世流ではこれを『安達原』と呼ぶ[8]。安達ヶ原を訪れた山伏の一行が、糸繰る老女の庵に宿を借りる。老女は閨を見るなと言い置いて薪を採りに去るが、従者が禁を破って覗くと、そこには腐臭を放つ屍の山。正体を知られた老女は鬼女と化して山伏に襲いかかり、祈り伏せられて鬼籬のなかへ姿を消す。
注目すべきは、能が乳母の哀切な前史 ── 我が子を殺める悲劇 ── をあえて削ぎ落とし、「閨を覗くな」という禁忌の侵犯と、それによって露わになる鬼の本性という一点に劇を凝縮した点である。兼盛の和歌で「籠もる鬼」と詠まれた安達ヶ原の鬼が、ここでは舞台の上で実際に「籠もる」場(鬼籬)を得て、見てはならぬものを見る恐怖の劇に結晶した。後シテの般若の面には、ただ恐ろしいだけでなく、糸を繰りながらわが身の老いと孤独を嘆く女の悲しみが残されているとされ、人を喰らう鬼にもなお人間の情念が宿る点が、この曲を能の女鬼ものの代表に押し上げている[8]。平安の言葉遊びが、中世の身体的な舞台芸術へと転生したのである。

浄瑠璃『奥州安達原』── 前九年の役と綯い交ぜに
近世に入ると、鬼婆譚はさらに大きな歴史劇のなかへ編み込まれてゆく。宝暦12年(1762)、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃『奥州安達原』── 近松半二・竹田三郎兵衛らの合作になる五段の時代物がそれである[9]。物語は平安中期、奥州を舞台にした前九年の役で滅んだ安倍貞任・宗任の兄弟が、ひそかに再挙を図るという歴史の筋立てに、安達ヶ原の鬼女伝説を綯い交ぜにする。今日もっとも名高いのは三段目の切「袖萩祭文の段」── 通称「安達三」で、安倍貞任との恋ゆえに父に勘当され、盲目の瞽女となって雪の中をさすらう袖萩が、幼い娘お君を連れて父の御殿の門前にたどりつき、三味線をかき鳴らしながら許しを乞う祭文を語る、義太夫節屈指の難曲である[9]。物語の鬼女は安倍一族の遺臣・岩手(いわて)とされ、安達ヶ原の鬼婆譚と歴史悲劇とが一人の女のうちで重ね合わされている。やがてこの浄瑠璃は歌舞伎にも移されて全国の舞台にかかり、二本松の安達ヶ原ふるさと村など今日の観光と相俟って、鬼の伝説が地域文化として継承されつづけている[4]。安達ヶ原の鬼婆は、こうして歌・能・浄瑠璃・歌舞伎という日本芸能の主要な器をひととおり巡り、そのつど新しい貌を得てきた稀有な怪異なのである。
会津の赤面 ── 朱の盤という大鬼
中通りの鬼婆が業と悲劇の怪なら、会津の山に閉ざされた盆地が育てたのは、もっと即物的に恐ろしい怪である。会津の社に出るという赤面の大鬼、朱の盤がそれだ。

朱の盆
江戸期の説話集『諸国百物語』『老媼茶話』に記録のある怪異。表記は「首の番」「朱の盤」などで読みはいずれも「しゅのばん」とされる。赤い顔をした僧形の怪として現れ、人に恐ろしい相貌を示し魂を奪うと畏れられた。舌長姥と共に現れる話型や、二度驚かす再度の怪の型で語られ、遭遇者は気絶・衰弱・死に至ると伝えられる。
詳しく見る会津という地はそもそも、越後・下野・出羽の山々に四方を囲まれた盆地で、古来ひとつのまとまった文化圏をなしてきた。中世には葦名氏が黒川城に拠って一帯を治め、天正18年(1590)に入部した蒲生氏郷が城下を「若松」と改めて七層の天守を整え、城は鶴ヶ城と称された[10]。都からも、阿武隈川流域の中通りからも山一重を隔てて閉ざされたこの盆地が、独自の怪談文化を醸成する温床となった。
その怪の文献の流れは存外に古く、かつ会津の地名に固く結びついている。現存最古の記録は、延宝5年(1677)刊の怪談集『諸国百物語』にさかのぼる。その巻之一「会津須波の宮首番と云ふばけ物の事」[11]── ここでは怪は「首番(くびのばん)」と表記され、会津の諏訪の宮(現在の諏方神社)に出る化け物として語られている。話の筋はこうだ。会津の諏訪の宮に朱の盤という恐ろしい化け物が出ると聞いた若侍、山田角之進が、肝試しに夜の社へ出向く。道で出会った別の若侍に「この社に出るという朱の盤とはどのようなものか」と問うと、相手はゆっくり振り返り、額に角を生やし、皿のように見開いた目、針のように逆立つ髪、耳まで裂けた口を備えた燃えるように真っ赤な顔を突きつけて「朱の盤とはこのようなものか」と迫った ── という、出会い頭に人を脅かす定型の怪である。話によっては、肝をつぶして家へ逃げ帰った角之進を出迎えた妻や下女までもが、振り向けばあの赤面に変じていた、と恐怖を二重三重に畳みかける。

この怪は会津の地名に固く結びついたまま、表記を変えながら文献を渡り歩いた。会津を舞台とする随筆『老媼茶話』(寛保2年・1742)はこれを「朱の盤」の名で記し[12]、赤い顔をした六尺(およそ一・八メートル)に及ぶ坊主姿として描く。そして安永8年(1779)、鳥山石燕が『今昔画図続百鬼』に「朱の盆」の名で絵姿を与えた[13]。ここで近世妖怪史の機微として押さえておきたいのは、石燕はこの怪をみずから創作したのではなく、会津に先行して伝わっていた怪談を絵画として固定したという点である。「首番」から「朱の盤」、さらに「朱の盆」へと表記は揺れつづけたが、会津・諏方神社という土地の核だけは一世紀を越えて一貫して保たれた。特定の社の名を背負ったまま怪談集から妖怪画集へと移し替えられていったこの軌跡は、地名に根ざした近世妖怪の典型的な伝播のかたちを示している。
後年、泉鏡花は戯曲『天守物語』に「朱の盤坊(しゅのばんぼう)」を登場させ、十文字ヶ原に棲む妖怪として翻案した。会津の一社に縛りつけられていた赤面の大鬼は、近代文学の幻想空間のなかでまた別の生を得たのである。安達ヶ原の鬼婆が業の悲劇を背負う内面の怪であるのに対し、朱の盤はひたすら「振り向いた顔の恐ろしさ」そのものを見せつける外面の怪 ── 同じ福島の鬼でも、中通りと会津では怪の質がまるで異なっている。
陸奥の獣と川の主 ── ムジナとメドチ
鬼の大怪が平野と社に棲む一方、福島の山野と水辺には、もっと身近で、それゆえに油断ならない怪が満ちていた。人を化かすムジナと、川に潜む河童である。この二つは、福島を含む令制国・陸奥の広がりのなかで読むと、その古層が見えてくる。
ムジナは本来アナグマやタヌキを指す語で、地方や時代によってはこれらを判然と区別せず、化かす獣としてまとめて呼んだ。キツネ・タヌキと並び、人を化かす獣の代表として日本各地に語られてきた。地域によって性格づけはさまざまで、群馬ではキツネやタヌキが化かすのに対しムジナは自身が姿を変えて現れるといい、山形ではタヌキは悪戯にとどまりキツネは人を殺さないが、ムジナは人を化かして殺すとまで言い伝えられた[14]。福島各地の夜道でも、ムジナは提灯の灯や見知らぬ人影に化け、声をかけて旅人の方角を惑わせる者として恐れられた。
注目すべきは、化けるムジナの最も古い記録が、まさに陸奥国を舞台にしている点である。『日本書紀』推古天皇三十五年(627)の条に「春二月、陸奥国に狢有り、人となりて歌う」[15]とある ── 陸奥の狢が人の姿になって歌った、というこの簡潔な一文は、ムジナが人に化けるという観念がすでに七世紀の日本に存在したことを示す、妖怪史の最初期の証言とされる。狐狸の変化譚が文献に豊富に現れるのは中世以降であることを思えば、それよりはるか以前、正史たる六国史の一書に「化ける獣」が現れ、しかもその舞台がほかならぬ陸奥であったことの意味は大きい。福島の地が南端を担った陸奥は、化け獣の伝承の最古の現場として国家の正史に刻まれていたのである。福島各地の山道で旅人を化かすムジナの語りは、この千数百年前の記憶の遠い末裔に連なっている。

水辺の主、メドチ(メドツ)は、河童を指す東北北部の方言名である。ここでは史実をきちんと留保しておきたい。メドチという呼称の濃い分布域は、本来は陸奥北部 ── 南部地方や津軽 ── であって、福島県固有の名ではない。福島の河童をまさにこの名で呼んだと断定できる確かな資料には乏しく、この点を曖昧にして「福島の妖怪」と言い切るのは慎むべきである。それでもメドチをこの事典に並べて置くのは、福島がかつて広大な令制国・陸奥の南端を構成し、その水霊への畏れの系譜を北の地と分かちあっていたからにほかならない。メドチ/メドツという語は、水神・蛇神・龍蛇神といった「水の主」を意味する古語「蛟(みづち)」が訛ったものとする説があり[16]、能登のミヅシ、蝦夷・北海道のミンツチと並んで、列島各地に散らばる「ミズチ系」の名の一族をなす。河童の姿は、顔は猿に似て体は黒く、時に少女に化けて人を水底へ誘い込むとも語られる。名は河童でも、その正体は古い水神の零落した姿だという見方である。福島においても、会津の只見川や猪苗代の湖、中通りを北流する阿武隈川の淵や堰には、名こそ違え同類の水の主への畏れが確かに息づいていた。陸奥という広域の枠で水辺の怪を見渡せば、福島の川底に潜む者は、北のメドチと地続きの想像力が生んだ同じ一族なのである。
浜通りの海 ── 船幽霊と柄杓の禁忌
三地域の最後、太平洋に面した浜通りへ目を転じよう。阿武隈高地の東、波打ち際まで山が迫るこの細長い沿岸は、古来漁業の地であり、相馬の松川浦から、いわきの小名浜・四倉まで、海難で命を落とした者の記憶が濃く堆積している。そこに出るのが船幽霊である。

船幽霊
船幽霊(ふなゆうれい)は、水難で命を落とした者の霊が海上に現れる怪異である。船や亡霊、怪火、海坊主のような影など、その姿は地域や伝承によりさまざまに語られる。多くは時化の夜や霧のかかった晩に現れ、ひしゃくで船内へ海水を注ぎ込んで沈めようとする、あるいは進路を惑わせて座礁させるとされる。底を抜いたひしゃくを渡す、握り飯や灰を投げる、睨み据えるなど、地域ごとに異なる対処法が伝えられる。亡者船・ボウコ・アヤカシなどの呼称もある。鳥山石燕も『今昔画図続百鬼』に船幽霊を描いている。
詳しく見る船幽霊は、水難で他界した者の成れの果てと信じられた海上の怪で、特定の一地ではなく日本全国の沿岸に広く伝わる。霧の夜や時化のあと、海上にぼんやりと船影や人影が現れ、こちらの船に近づいて柄杓を貸せと求める。請われるまま柄杓を渡せば、亡霊はその柄杓で海水をすくっては船に汲み入れ、ついには船を沈めて乗員を道連れにしてしまう ── これが全国に共通する定型である。多くは盆の頃、すなわち海難の供養が意識される時季に現れるとも語られ、東北の漁村には盆のあいだ ── とりわけ八月十六日以降 ── は出漁を控える風が長く残った[17]。
福島県沿岸の伝承で際立つのは、その柄杓の呼び方である。ここでは亡霊が船上の人に「いなだ貸せ」と声をかけるとされる[18]。「いなだ」とは船で水を汲むのに使う柄杓のことで、福島ではこの怪自体を「イナダカセ」の異名で呼ぶこともあった。全国共通の船幽霊が、浜通りの漁師の言葉で土着化したその痕跡が、この方言の名に残っている。

そして難を逃れる作法もまた、土地に固有の知恵として伝わる。請われるまま無防備に柄杓を渡してはならない。あらかじめ底を抜いた柄杓を用意しておいて渡せば、亡霊がいくら海水をすくっても船には一滴も溜まらず、船幽霊は害をなせずに去る[18]。あるいは握り飯を海に投げ入れて死者の霊を鎮める、灰を撒く、香花や供物を手向けるといった作法も各地に伝わった[17]。これらは単なる怖い話ではなく、荒い太平洋を相手に生きてきた者たちが、海で命を落とした仲間への手向けと、自らが災いを避けるための心得を、物語の形に畳み込んで世代を越えて伝えた実用の知でもあった。浜通りの船幽霊は、安達ヶ原の鬼婆が陸の業を一身に背負うのとちょうど対をなすように、阿武隈高地の東で荒海に呑まれていった無数の死者の無念を背負っている。
三つの地域、
一つの陸奥
こうして福島の怪を一巡すると、三地域の地理がそのまま怪異の地図になっていることがわかる。中通りの平野には、和歌から能・浄瑠璃へと洗練されていった黒塚の鬼婆。会津の閉ざされた盆地には、社の名とともに文献を渡り歩いた朱の盤。山野には正史にまで遡る化けムジナ、水底には北のメドチと地続きの水の主、そして浜通りの海には、柄杓の禁忌を伴う船幽霊。
これらを束ねるのは、福島がかつて陸奥という巨大な令制国の南端を担っていたという事実である。都から見れば「みちのく」── 道の奥の異郷であり、その遠さこそが、平兼盛に「鬼籠もれり」と詠ませ、化け狢の歌を正史に書き留めさせた。安達ヶ原の岩屋から浜通りの波打ち際まで、福島の妖怪は、都の眼差しが届かぬ奥地という地政の記憶を、それぞれの土地の貌で今に伝えている。



