福島県ふくしま
東北・福島県に伝わる妖怪 5 体。その土地に根ざした物語と伝承地を辿ります。

伝説 黒塚
くろづか
安達ヶ原の悲劇·黒塚の鬼婆
鬼・巨怪安達ヶ原 (現·福島県二本松市安達ヶ原 = 旧·陸奥国安達郡) / 観世寺 (現·福島県二本松市安達ヶ原、旅僧·東光坊祐慶開基 727 年頃) / 黒塚 (鬼婆の墓と伝わる塚、観世寺境内)安達ヶ原·黒塚の鬼婆譚の文学史上の出発点は、平兼盛 (?-991、三十六歌仙·光孝天皇皇孫·赤染衛門の父) の和歌「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼籠れりと聞くはまことか」 (『拾遺和歌集』巻第九雑下、1006 年成立、撰者·藤原公任) である。平兼盛は陸奥守として赴任した経験をもち、 この和歌は伝聞 (「鬼籠れりと聞く」) の形で詠まれている ── 平安中期の都人にとって「みちのく」 (陸奥) は異界·鬼が棲む辺境として観念されており、黒塚という具体地名と鬼の風聞が既に流布していたことを示す。ただし兼盛和歌の段階では具体的説話はまだ伴っていない。 具体的説話化は中世以降·観世寺 (二本松市安達ヶ原·真言宗豊山派) 縁起によると、神亀 4 年 (727 年) 頃、紀州熊野那智から陸奥行脚に出た旅僧·東光坊祐慶 (とうこうぼうゆうけい) が安達ヶ原を通過した際、日暮れて山中の岩屋小屋に一夜の宿を求めた。家主の老婆は「奥の間を覗いてはならぬ」と禁じて薪を取りに出かけた。祐慶が好奇心に駆られて覗くと、累々たる人骨の山があった。鬼婆と悟った祐慶が逃げ出すと、戻った老婆が鬼相を現して出刃を翳して追走、祐慶が必死に念じた携帯の如意輪観音像が空中に飛び上がって破魔の矢を放ち、鬼婆を退治した。祐慶はその地に観世寺を開基し、鬼婆を黒塚に埋葬したと伝わる。観世寺は現存し (福島県二本松市安達ヶ原 4-126)、境内に黒塚 (鬼婆の墓)·阿武隈川を臨む岩屋·宝物殿があり、年間多くの参詣者·観光客を集める。 中世·室町期に至り、この説話は能舞台で大成される。観世小次郎信光 (1450-1516、 観世座金春流の能作者) 作と伝わる能『黒塚 (安達原·あだちがはら)』は五番目物 (鬼物·切能) の代表曲で、 現代まで頻繁に上演される。 シテ (主役) は前場で「糸繰り女」として山中の岩屋に旅僧 (東光坊) を迎え入れ、「閨を覗くな」と禁じて薪取りに出る。 後場で旅僧が覗くと累々たる人骨があり、戻った女が鬼女と化して襲うが、観音菩薩の調伏で退治される。 「閨のタブー破り」と「観音菩薩による調伏」 という劇構造は、 能の鬼物の祖型を成し、 『紅葉狩』『鉄輪 (かなわ)』『道成寺』等の同系曲群に影響を与えた。 第二段階は江戸中期、 浄瑠璃·歌舞伎『奥州安達原』である。近松半二·竹田治蔵·三好松洛·八民平七·竹本三郎兵衛らの合作浄瑠璃『奥州安達原』 (1762 年 9 月、 大阪·竹本座初演) は全五段の人形浄瑠璃で、 翌 1763 年に歌舞伎化されて以来、 安達ヶ原·黒塚の鬼婆題材の決定版となった。 とくに三段目「袖萩祭文」 と四段目「一つ家 (黒塚)」 が現代まで頻繁に上演される。 ここで初めて鬼婆に「岩手」 (いわて) という人格名と悲劇的背景が与えられた。 岩手はかつて京都·公家の屋敷に乳母として仕えており、 主家·公卿の姫君の難病を治すには「妊婦の胎児の生き肝」が必要と医師に告げられて、 これを求めて陸奥へ下向、 安達ヶ原の岩屋に潜んで通行する妊婦を襲う鬼婆となった。 ある夜、 念願の妊婦旅人を出刃で襲って胎児を取り出した直後、 死した妊婦が肌身離さず持っていた守袋を発見し、 それが幼少時に生き別れた実の娘の遺品だと判明する。 自らの手で娘と孫を一度に殺した事実を悟った岩手は発狂し、 以後·安達ヶ原を通る旅人を見境なく襲い続ける純粋な鬼婆と化したという物語構造は、 単純な怪物譚を「母性·業·報い」 の人間悲劇に変質させ、 江戸庶民の涙を絞った。 浮世絵では月岡芳年『新形三十六怪撰』 (1889-1892) の「奥州安達がはらひとつ家の図」 が、 妊婦の胎児を取り出す鬼婆を生々しく描いて怪奇絵の頂点と評される。 葛飾北斎·歌川国芳らも同題材を残している。 近代では福島県二本松市が観光資源として黒塚·観世寺·安達ヶ原を体系的に整備し、 安達ヶ原ふるさと村 (1989 年開園)·黒塚ハイキングコース·観世寺宝物殿として公開、 年間多くの参詣·観光客を集める。 鬼婆型妖怪の代表として、 山姥 (やまんば、 山中に棲む鬼婆系の汎称) と並ぶ日本鬼婆譚の二大柱を成す ── 山姥は山岳信仰·山母神格に根を持つ汎日本的な存在で、 黒塚は陸奥の具体的な土地と人間悲劇に深く結びついた個別性の高い存在、 という対比で読まれる。 「タブー破り (見るな禁忌)」 + 「業の悲劇」 という叙事構造は他の鬼婆譚を質的に凌駕しており、 現代でも能·歌舞伎·浄瑠璃·絵本·漫画 (例: 諸星大二郎『妖怪ハンター』黒塚編) で繰り返し題材化される、 日本鬼婆譚の代表的存在である。

名妖 産女
うぶめ
赤子を抱く産死女・産女
霊・亡霊東北・関東・九州 (産死女の霊)産褥で亡くなった女の未練が、夜路や辻、川辺に姿を取るとされた像。近世の説話集や図会に見える描写では、腰より下が血に染み、赤子を抱いて人に子守を頼む。応じた者は、石や地蔵を抱かされていたと判明する型、代償として大力や財を授かる型、あるいは赤子に噛まれる災厄譚まで幅がある。地域差として、福島の「オボ」では布切れで注意を逸らす対処法、九州の「ウグメ」では夜明けに正体が露わになる話が知られる。江戸の知識人は中国記事に見える夜行の鳥的怪と対照し、産死者の気が妖となる理を論じた。寺社縁起では、抱き手が念仏や題目で救済し、子安・安産の信仰と結び付く。産女は恐れの対象であると同時に、子への思いを象徴する霊的存在として語られてきた。

名妖 船幽霊
ふなゆうれい
壇ノ浦の提子乞い・船幽霊
水の怪全国沿岸 (壇ノ浦・福島・銚子・隠岐・久慈・平戸等)壇ノ浦の合戦に沈んだ平家一門の落魄が、西海の潮目と霧の夜に船縁へ寄り、甲冑の水気を滴らせながら「ていご(提子)をくれ」と乞うて現れる船幽霊の異相。顔は白く、眼は塩に焼けて赤く、声はかすれているが言葉遣いは武家の礼を失わない。彼らは生前の軍陣の律を保ったまま、海上でも列を組み、先ぶれが声を掛け、続いて数多の手が船板に取りすがる。渡されたひしゃくが底付きなら、そのまま船中へ海水を汲み入れ、音もなく船を重く沈める。対して、古よりこの海を渡る者は椀やひしゃくの底を抜き、舷側に結び供えておく作法を守った。幽霊がそれを受け取れば、水は舟に留まらず零れ落ち、恨みの気のみが潮に散っていく。ときに僧が法会を修して弔えば、陣笠の影は潮霧へ溶け、甲冑の鎖は波の音に帰すという。彼らは無分別に人を沈めるのではなく、自らの没落を世に刻まんとする証左として、作法を知らぬ者、慢心して海を侮る者へと近づく。盆の十六日、彼岸や合戦の忌日には、とりわけ海が静まり返るほど足音は近く、篝火のような怪火が水面に並び、かつての船列を写す。灰、餅、香花、団子などの供物はその執心を和らげ、舳先に投じれば、白拍子の袖のような波が一度だけ返り、船を押し出す。睨み据えれば退くこともあるが、それは眼力ではなく、生者が死者を真正に見据えたとき、滞った気がほぐれるためだと古老はいう。山岡元隣が語るところの気の凝滞、その煤のような恨みが潮の流れに乗って形を得たものが本相であり、風が変わり、読経が響き、供物が沈めば、ほどけた気は海に散り失せる。ゆえにこの版の船幽霊は、恐れのみでなく、弔いによって静まる存在である。彼らの列に幼子の影も混じることがあり、そのときは声はさらに細く、「水を」とは言わず、ただ舷に指先をかけるのみという。甲冑の鈴の微かな触れ音が聞こえたなら、舵を立て直し、早鞆の瀬を斜に取り、口ずさむ念仏を風へ放て。西海の闇を漂う討ち死にの気は、作法と慈悲にのみ道を譲る。

稀少 青坊主
あおぼうず
山野の一つ目法師・青坊主
総称・汎称各地 (西国・中部・東北を含む広域)江戸の絵巻や各地の採訪資料に見える像を基調とする青坊主像。外見は青味を帯びた僧形、または一つ目の法師として示されることがあり、実体は動物の変化、山の神の権現、あるいは素性不詳の怪異として語られる。子どもの外出を戒める民俗的機能や、山野・空家での怪異譚、禁忌提示の口承を担う。特定の固有名や起源は定まらず、地域により出現条件・言行が異なる。石燕図は説明を欠くため、諸本の「目一つ坊」や未熟の僧を寓意する説が併記されてきたが、いずれも確説ではない。現代以前の口承に即し、具体像は「青い法師」「大坊主」「小坊主」など複数の呼称で並存する。

珍しい 朱の盆
しゅのばん
赤面の僧形怪・朱の盤
霊・亡霊越後・会津 (赤面僧形怪・二度驚かす譚)近世説話に見える朱の盤は、赤い顔の僧形として描写され、舌長姥と共犯的に現れる事例と、単独で相貌を示して再度現れ人心を損なう事例が代表的である。名称は「首の番」「朱の盤」等と揺れ、読みは「しゅのばん」が通例。古典挿絵や化物絵においては赤面・角・裂口・火気を帯びた姿などが記されるが、細部は資料により異なる。遭遇は主に夜間の社頭・荒野・あばら家で、被害は失神、長病、死去など心魂の損耗として語られる。地域は会津・越後など諸国に及ぶが固定的な土地神話ではなく、怪異譚の類型として流通したと考えられる。