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広島県 海の弁天、山の物怪屋敷。広島県の妖怪事典

稲生物怪録・厳島の弁財天・備後の蘇民将来

海の弁天、
山の物怪屋敷。
広島県の妖怪事典

広島県 · ひろしま

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広島県は、瀬戸内の穏やかな海と中国山地の深い谷とを、一つの県のうちに抱えこんでいる。古代の令制では西を安芸国、東を備後国と分かち、その地理の二重性が、そのまま妖怪文化の二重性となって今に残った。海の側には平清盛が現在につながる社殿を造営した厳島神社が浮かび、市杵島姫を弁財天と習合させた水の女神信仰が深く根を張る。山の側には霧深い三次盆地があり、寛延二年(一七四九)の夏、ひとりの少年が三十日にわたる物怪の攻めに耐えぬいたという、日本怪談史屈指の記録『稲生物怪録』を生んだ。

そして備後は、疫病除けの根源神話が立つ土地である。鎌倉末の『釈日本紀』が引く『備後国風土記』逸文の蘇民将来説話 ── 武塔神(のちのスサノオ)が一夜の宿の恩に報い、茅の輪を付けた者を疫病から救うという物語は、まさにこの備後の地を舞台とする。全国の夏越の祓で今もくぐられる茅の輪は、ここから始まった。海の弁天、山の物怪屋敷、そして疫神の起源譚。広島の妖怪は、この三つの結び目の上に立っている。本稿では、安芸と備後という二つの旧国の境を行き来しながら、この地ならではの異界の地図を辿っていく。

三次の物怪屋敷 ── 『稲生物怪録』と山本五郎左衛門

広島県の妖怪を語るとき、まず立ち戻るべきは三次(みよし)である。中国山地に抱かれた三次盆地は、江の川・馬洗川・西城川が合流する霧の里であり、その地名は今や一篇の怪談と分かちがたく結びついている。盆地特有の朝霧は「霧の海」と呼ばれ、秋の冷えこんだ朝には街全体が乳白の靄に沈む。物の輪郭が溶ける土地で異界の物語が育ったことには、どこか必然めいたものを感じさせる。

寛延二年(一七四九)、備後三次に実在した稲生正令(のちの稲生武太夫、幼名・平太郎)は、十六歳の年に異様な体験をする。比熊山(ひぐまやま)での肝試しがきっかけとなり、七月の一日から晦日まで、平太郎の屋敷は連夜さまざまな物怪に襲われた[1]。天井いっぱいに広がる巨大な女の顔、畳を裏からめくり上げる無数の手、得体の知れぬ音と形 ── それらは三十日にわたって少年を脅かし続けた。だが平太郎は、どれほど凄まじい怪に見舞われても、ついに一度も屋敷を逃げ出さなかった。少年がただ恐れに耐えるだけでなく、夜ごとの怪を半ば見慣れていくその淡々とした胆力こそ、この物語が長く愛されてきた核心である。

物怪の頭領・山本五郎左衛門。『稲生物怪録』で、三十日間屋敷を襲う怪異に耐え抜いた平太郎の前に晦日の夜に現れ、自らの敗北を認めて妖怪づちを授けたとされる。敵役でありながら武士の気高さを漂わせる怪談史屈指の魔王。
物怪の頭領・山本五郎左衛門。『稲生物怪録』で、三十日間屋敷を襲う怪異に耐え抜いた平太郎の前に晦日の夜に現れ、自らの敗北を認めて妖怪づちを授けたとされる。敵役でありながら武士の気高さを漂わせる怪談史屈指の魔王。

山本五郎左衛門

やまもとごろうざえもん

江戸中期の怪異譚『稲生物怪録』に登場する、妖怪どもを率いる頭領格。寛延2年(1749)、備後国三次の少年稲生平太郎(のちの稲生武太夫)のもとに三十日にわたり怪を仕掛け、最後に四十歳ほどの武士の姿で現れて名乗る。自らを天狗や狐狸の類ではないと述べ、魔王の座を賭けた試みの一環として平太郎の胆力を試したという。諸本で「山ン本五郎左衛門」など名表記に揺れがあり、その正体は定まらない。

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晦日の夜、四十歳ほどの武士の姿をした者が現れ、自らを山本五郎左衛門と名乗る。彼は天狗や狐狸の類ではなく、魔王の座をめぐって神野悪五郎(じんのあくごろう)と競っているのだと明かす。胆力ある若者百人を脅かし、より多く屈服させた者が魔王の地位を得るという賭けの最中、平太郎を試したものの、ついに動じさせられなかったため賭けに敗れた ── そう語って少年の勇気を讃え、立ち去ったと伝わる。諸本によって名表記は「山ン本五郎左衛門」などと揺れ、その正体は最後まで定まらない。妖怪を率いる頭領格でありながら、敗北を潔く認めて去るこの魔王の造形には、敵役でありながら一種の武士道的な気高さがあり、後世の創作者を惹きつけてやまない理由となっている。

ここで史実と伝承の層は慎重に分けて読む必要がある。初期の記録にも、三次・寛延二年・十六歳という核は確かに備わっていた[1]。一方で、魔王が去り際に木槌(妖怪づち)を平太郎に手渡し「悪五郎に襲われたら槌を打て、助けに来る」と告げるという有名な挿話は、物語が伝承されるなかで増補された層に属するとされる。つまり、平太郎の実在と事件年は確度の高い事実であり、賭けの細部や木槌の授与は後世に膨らんだ語りである。怪談を読むうえで、この二つの層を取り違えないことが肝要だ。

この物語は近世を通じて写本・絵巻として爆発的に広まり、版によって細部を変えながら各地に伝わった。絵巻では、夜ごと屋敷を襲う怪が一場面ずつ克明に描かれ、見る者を物語の三十日間へ引きこんでいく。国学者・平田篤胤も文化年間にこれを翻刻・考証し、合理を重んじる立場からこの怪異記録を真剣に世へ伝えた[3]。神霊の実在を論じた篤胤にとって、平太郎の体験は単なる奇談ではなく、目に見えぬ世界の確かな証言だったのである。学者や文人がこぞって取り組んだことが、一地方の奇談を全国的な古典へと押し上げた。明治以降も泉鏡花や稲垣足穂ら多くの作家がこの物語に魅せられ、近年では漫画・アニメ・ゲームの題材として山本五郎左衛門の名がふたたび広く知られるに至っている。江戸の少年が体験した三十日は、二百七十余年を経てなお新しい語り手を得続けているのだ。

そして二〇一九年四月、三次の地に湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)が開館した。妖怪研究者・湯本豪一が長年私財を投じて収集した約五千点の資料を核とする、日本初の妖怪をテーマとした公立博物館である。『稲生物怪録』の絵巻をはじめ、瓦版・玩具・絵画など膨大なコレクションが、怪談の舞台そのものに集約された。物語の生まれた土地に妖怪の博物館が建つ ── 三次は、物語と地名と展示とがこれほど深く重なり合う、全国でも稀有な場所となった。怪異の記憶を観光資源として未来へ手渡すこの試みは、現代における妖怪文化のひとつの理想形といえる。

厳島の弁天と安芸の大蛇

海へ目を転じれば、安芸国の象徴はやはり厳島(宮島)である。島そのものを神体とみなす古い信仰を背景に、推古朝の創建を伝え、平安末に平清盛が現在につながる壮麗な社殿を海上に造営した。引き潮には砂浜にそびえ、満ち潮には海に浮かぶ大鳥居 ── 海と陸の境界に立つこの社の祭神は、宗像三女神の一柱・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)である。海上交通を守るこの水の女神は、神仏習合のなかで、仏教の水と財福と芸能を司る女神・弁財天と一体視されていった。

弁財天

べんざいてん

弁才天 (ベンザイテン·弁財天) は古代インドのヒンドゥー教女神サラスヴァティー (Sarasvatī) を起源とする仏教守護神で、 日本では中世以降に独自の発展を遂げた神格である。 サンスクリット名「サラスヴァティー」 が漢訳経典で「弁才天·辨財天」 と訳された。 原型のサラスヴァティーは音楽·学芸·言語·川の女神で、 仏教受容後は法華経·金光明経等で守護尊化された。 日本では鎌倉時代以降、 日本古来の人頭蛇身の宇賀神 (うがじん) と習合して宇賀弁才天 (うがべんざいてん) という独自の神格が成立、 これが本来「弁才天」 から「弁財天」 へと呼称が変化する財福神化の決定的契機となった。 日本三大弁天 (神奈川県·江島神社·滋賀県·竹生島宝厳寺·広島県·厳島神社) を中心に、 銭洗弁財天宇賀福神社 (神奈川県鎌倉市)·天河大弁財天社 (奈良県天川村) 等の主要鎮座地を持つ。 江戸期には七福神唯一の女神として広く崇敬され、 現代では蛇神化·財福神化·カップル参拝禁忌等の俗信も含めて妖怪学·民俗学の重要素材となっている。

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弁財天は、もとはインドの河の女神サラスヴァティーに遡る尊格である。水の流れる音を音楽と弁舌の象徴とみなす発想から、知恵・芸能・財福を授ける女神となり、仏教とともに日本へ渡った。それが市杵島姫と結ばれたとき、宮島は江島(相模)・竹生島(近江)と並ぶ日本三弁天の一に数えられるまでになった[5]。いずれも水に囲まれた島であることは偶然ではない。弁財天は水辺にこそ祀られる女神であり、海の宮・厳島はその信仰の頂点に立つ聖地だったのである。

平清盛が厳島を篤く崇敬したことは、この社の格を一気に高めた。清盛は装飾経の最高峰とされる平家納経を奉納し、一門の繁栄を市杵島姫=弁財天に祈った。武家が海上の女神に一族の運命を託したこの史実は、弁財天が単なる学芸の神にとどまらず、権力と財福を左右する強大な神格として畏れ敬われていたことを示している。

明治の神仏分離は、この習合した信仰に大きな転機をもたらす。弁財天像は厳島神社から切り離され、古くから社殿の修理造営を担ってきた大願寺へと移された。今この秘仏が一般に開帳されるのは、毎年六月十七日の厳島弁財天大祭の、わずか一日のみである[5]。海に鳥居を立て、水の女神・市杵島姫を祀り、その背後に蛇身ともされる財福神・弁財天を重ねる ── 厳島は、水をめぐる信仰がいく重にも折り畳まれた稀有な聖地であり、神と仏のあわいに生まれた女神の記憶が、今も島のいたるところに息づいている。

水の神格は、山の神話とも深く響き合う。安芸国北部の山あい、安芸高田や北広島町を中心とする芸北一帯では、神楽が今なお人々の暮らしに息づいている。秋祭りの夜、地域の神社や舞殿では夜を徹して神楽が舞われ、世代を超えて受け継がれてきた。なかでもひときわ人気の演目が「八岐大蛇」である。

芸北神楽で舞われる八岐大蛇。安芸高田など芸北地方に息づく神楽の代表演目。神話の怪物である大蛇が、火花を散らして神楽の舞台を埋め尽くし、たたら製鉄の歴史を背景に荒ぶる川の猛威とそれを退治する闘いの記憶を今に伝える。
芸北神楽で舞われる八岐大蛇。安芸高田など芸北地方に息づく神楽の代表演目。神話の怪物である大蛇が、火花を散らして神楽の舞台を埋め尽くし、たたら製鉄の歴史を背景に荒ぶる川の猛威とそれを退治する闘いの記憶を今に伝える。

八岐大蛇

やまたのおろち

ヤマタノオロチ(八岐大蛇)は、 『古事記』上巻 (和銅 5 年・712) および 『日本書紀』第一巻第八段 (養老 4 年・720) に伝わる、出雲国の斐伊川 (古名肥河) 上流に棲んだとされる巨大な蛇神である。須佐之男命に退治される神話の中核モンスターとして知られるが、単なる悪鬼ではなく、 (a) 出雲の地の霊 (ヲロチ = 峰の精霊)、 (b) 治水・洪水神話の暗喩、 (c) 古代鉱物資源 (砂鉄・たたら) の神格化、 (d) 在地信仰のヤマト政権編入の象徴、 (e) 三種の神器の起源神格 ── を併せ持つ多層的存在として読まれている。古事記は形態を「彼の目は赤加賀智 (= ホオズキ) の如くして、身一つに八頭八尾を有り。亦其の身に蘿 (こけ) と檜・椙生ひ、其の長さは谿八谷・峡八尾に度りて、其の腹を見れば悉く常に血爛れり」と描写し、谷 8 つ・峰 8 つに渡る山系規模の蛇身として示す。須佐之男は八塩折之酒を満たした八つの酒船と八重垣の罠でオロチを酔わせて十拳剣で斬殺し、中央の尾から都牟刈大刀 (= 草薙剣・天叢雲剣) を得る ── これが三種の神器の武の象徴となり、皇統に継承された。退治後の須佐之男は櫛名田比売 (クシナダヒメ) と結婚し、出雲の須賀の地に宮を建て、日本最古の和歌とされる「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」を詠む。 雲南市内には約 50 か所のヤマタノオロチ伝承地が記録され、八本杉・天が淵・八雲塚・尾留大明神旧社地等が点在、 石見神楽の演目「大蛇」 として現代に至るまで上演され続けている。

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八岐大蛇の神話そのものは出雲・斐伊川を本拠とする。八つの頭と八つの尾を持ち、八つの谷と八つの峰にわたる巨大な蛇神が、毎年娘を一人ずつ呑んできた ── 高天原を追われた素戔嗚尊が老夫婦の足名椎・手名椎から事情を聞き、八塩折の毒酒で大蛇を酔わせて斬り、その尾から天叢雲剣(草薙剣)を得て、最後の娘・櫛名田姫を救って結ばれる。この出雲神話を、隣接する中国山地の神楽文化はひときわ豪壮な舞へと結晶させた。芸北神楽では、六頭から八頭もの大蛇が胴をうねらせて舞台を埋め、火花を散らし、ついには観客席をも巻き込む大蛇となって演じきる[6]

なぜ中国山地でこの演目がかくも愛されたのか。背景には、この地が古来たたら製鉄の一大拠点であったことがある。山を削り、川に砂鉄を流して採取するたたらは、しばしば川を濁らせ氾濫を招いた。荒れ狂う川を、川を荒らす蛇神になぞらえ、それを鉄の剣で退治する物語に、製鉄民が自らの営みと自然との闘いを重ね見たとしても不思議はない。大蛇の尾から鉄の剣が生まれるという神話の構図そのものが、砂鉄から鉄を得るたたらの記憶を映しているのだ。神話は出雲のものでも、その上演に注がれる熱は、まぎれもなく広島の山里のものである。

予言する件と備後の疫神 ── 蘇民将来の起源

東の備後へ移ると、妖怪の相は一変する。ここは「病」と「予言」の土地である。瀬戸内に開けた福山平野と、それを囲む内陸の盆地。人と物の往来が盛んなこの地では、外からやってくる災い ── 疫病と凶事 ── をいかに予知し、いかに退けるかが、人々の切実な関心であり続けた。

不安な時代に現れる予言獣・件。人の顔と牛の体を持ち、生まれてすぐに豊凶や疫病を予言して死ぬとされる。中国地方に起源を持つともされ、江戸期の天保の大飢饉から近代の戦争期に至るまで、社会の不安を映す鏡として語り継がれた。
不安な時代に現れる予言獣・件。人の顔と牛の体を持ち、生まれてすぐに豊凶や疫病を予言して死ぬとされる。中国地方に起源を持つともされ、江戸期の天保の大飢饉から近代の戦争期に至るまで、社会の不安を映す鏡として語り継がれた。

くだん

件は江戸後期に広く流布した半人半牛の予言獣。人の顔に牛の躯を備え、出現しては世情や豊凶を告げ、ほどなく死ぬとされる。天保年間の瓦版や版本に記載が見られ、出現地や容貌は諸説がある。絵像を掲げると厄除け・家内繁盛に効験ありとする触書もあるが、地域や史料により語り口は異なる。語句「件の如し」との直接関係は俗説とされる。

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件(くだん)は、人の顔に牛の身を備え、生まれて間もなく豊凶や疫病、戦乱を予言し、数日のうちに死ぬという予言獣である。その名と姿は江戸後期、天保年間の瓦版や版本を通じて広く流布した。出現地や容貌には諸説があるが、件の出自を中国地方に求める見方は根強い。研究者・笹方政紀は「件」の系譜学において、その誕生・伝播・消滅を体系的に論じ、件という観念がいかに生まれ広がったかを跡づけた。牛の出産が農家にとって日常的に身近であった土地柄、牛から異形の子が生まれ未来を告げるという発想が育つ素地は、確かにこの地にあった。

件が現れるのは、決まって世情が不安な時代である[8]。天保年間の出現記録は、ちょうど天保の大飢饉が最大規模に達した時期と重なっている。飢饉や疫病、戦災の影が差すたびに、人々は件の出現譚を語り直し、その絵姿を護符として掲げた。近代に入っても、コレラの流行期や戦時下に件の噂は形を変えて蘇り、第二次大戦の頃には「件が戦争の終わりを予言した」という風説までもが各地に流れた。件の絵を貼れば厄を除け家内が繁盛するという触書も流布した。「件の如し」という証文の常套句との直接の結びつきは俗説とされるが、不安の時代に未来を告げる獣を希う心性そのものは、時代を超えて繰り返し蘇ってきた。予言獣・件は、近世から近代へと続く民衆の不安を映す鏡だったといえる。

予言の獣が「来たるべき災い」を告げるなら、その災いを「退ける」術もまた、この備後に最古の形で根を張っている。それが疫病神と蘇民将来の物語である。

疫病を祓う蘇民将来の茅の輪。『備後国風土記』逸文が備後国の出来事として伝える神話。一夜の宿を貸した恩に報い、武塔神(疫病神・スサノオ)が茅の輪を目印として厄災から免れさせたという、全国の茅の輪くぐりの起源譚。
疫病を祓う蘇民将来の茅の輪。『備後国風土記』逸文が備後国の出来事として伝える神話。一夜の宿を貸した恩に報い、武塔神(疫病神・スサノオ)が茅の輪を目印として厄災から免れさせたという、全国の茅の輪くぐりの起源譚。

疫病神

やくびょうがみ

疫病神(やくびょうがみ)は、人々に流行病や災厄をもたらすと畏れられた神/鬼の総称である。平安期以降、中国伝来の疫鬼観が受容され、貴族社会の怨霊・御霊(ごりょう)観と、民間に根づく病魔への畏怖とが結びついて形づくられた。姿は通常は目に見えぬ存在とされるが、まれに人の前に現れるときは、老人・老婆や見知らぬ旅人など人間のかたちを取って戸口を訪れると語られる。注目すべきは、疫病神が単純な悪役ではない点である。牛頭天王(ごずてんのう)のように、疫病をもたらす力をもつがゆえに、その力を祀り上げて逆に疫病から守る存在へと反転する両義的な神格が少なくない。人々はこの神を力で滅ぼそうとはせず、もてなし、なだめ、境(さかい)の外へ丁重に「送り出す」ことで難を逃れようとした。疫神送り・鎮花祭(はなしずめのまつり)・茅(ち)の輪くぐり・夏越(なごし)の祓(はらえ)など、共同体が総出で疫神の侵入を防ぎ送り返す多彩な民俗が、いまも各地に伝わる。疫病という不可視の脅威に神という名と人格を与え、交渉と儀礼の相手に仕立てるところに、この信仰の本質がある。

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鎌倉末の『釈日本紀』が引く『備後国風土記』逸文は、こう伝える。北の海にいた武塔神(むとうしん)が南海の神の娘へ求婚に向かう道中、日が暮れて将来兄弟に宿を乞うた。富める弟・巨旦将来はこれを拒んだが、貧しい兄・蘇民将来は粟飯を炊いて手厚くもてなした。年を経て、武塔神は八柱の子を率いて再来し、蘇民の娘の腰に茅の輪を付けさせると、それ以外の者をことごとく滅ぼす。そして「われは速須佐雄能神(スサノオ)なり、後の世に疫病あらば、蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付けよ、さらば免れん」と告げた[9]

この一篇こそ、全国の神社で六月晦日の夏越の祓に行われる茅の輪くぐりの起源譚である。疫病神を辻で迎え撃ち、茅の輪と「蘇民将来子孫」の護符で家門を守るという民俗は、ここ備後を発祥として日本中へ広がっていった。注目すべきは、この物語の構造そのものである。疫神は問答無用の悪ではなく、もてなしの礼を知る者と知らぬ者とを見分け、前者を救い後者を罰する。疫病とは無差別の災厄でありながら、人の徳によって免れうるものだ ── という古代の倫理観が、ここには刻まれている。

武塔神は中世に至って牛頭天王と習合し、さらにスサノオと一体視されて祇園信仰の中核を担うようになる。京都の祇園社(八坂神社)をはじめ全国へ広がった牛頭天王・スサノオの疫病除け信仰は、その源流の一つをこの備後の説話に持つのである。福山をはじめ備後各地に素盞嗚神社が連なり、夏祭りに茅の輪が立ち並ぶのは、この古層の記憶が今も生きている証にほかならない。件が災いを予言し、蘇民将来の茅の輪が災いを祓う ── 備後は、疫病をめぐる恐れと希望の両極を、ともに日本最古級の形で抱えこんだ土地なのだ。

山と淵の怪 ── 牛鬼・一本だたら・小豆洗い

高位の神格や予言獣の陰で、広島の山と川には、もっと土着的で、暮らしのすぐ隣にある怪たちが棲んでいる。彼らは大きな物語を背負わぬぶん、かえって人々の日常の恐れ ── 暗い淵、夜更けの川音、人気のない山道 ── に密着している。

牛鬼(うしおに)は、牛の頭に鬼の胴、あるいは蜘蛛の胴に牛の首ともいわれる、西日本屈指の凶猛な怪である。古くは平安の『枕草子』が「おそろしきもの」の例として名を挙げており、その畏怖は千年を超える。牛鬼は海岸に現れて毒気を吐き人を襲う一方、山間の淵にもしばしば棲むとされ、海と山の両界にまたがる存在である。県内各地の民話を集めた記録には、人を化かす牛鬼や、滝の淵に潜んで人の影を喰らう牛鬼の話が伝えられている[12]。海の県でありながら、その牛鬼が山深い淵にも出没するところに、海と山を一身に抱える広島という土地の性格が、はっきりと刻印されている。

一本だたらは、皿のような一つ目と一本足の姿をとる山の怪である。その名と最もよく結びつくのは紀伊の熊野・果無山脈で、十二月二十日の「果ての二十日」にのみ現れ、雪の上に幅一尺ほどの単跡を残すのみで、姿を見た者はないという[13]。山の神や道祖神が一本足の姿をとるという古い信仰につらなる存在であり、その「だたら」という名には、たたら製鉄に従事し炎を見続けて片目を、踏鞴を踏み続けて片足を病んだとされる職能者の面影を読みとる説もある[14]。正直に言えば、一本だたらは本来紀州の怪であり、広島に固有の伝承とまでは言いがたい。だが砂鉄とたたらの一大拠点であった中国山地に、片足の山霊の信仰が分布の手を伸ばしていたとしても、決して不思議ではない ── そう留保を付したうえで、製鉄の山の記憶を分かちあう妖怪として、この地の物語にここに数えておきたい。

小豆洗いは、夜更けの谷川で「小豆とごうか、人とって食おうか」とつぶやきながら、ざくざくと小豆を研ぐ音を立てる怪である。姿を見せることはまれで、人を直接襲うというより、闇のなかから聞こえてくる不気味な水音そのものが、その正体に近い。この妖怪は全国に広く分布するが、呼び名は地域によってさまざまに変わり、広島県の世羅郡では「小豆とぎ」と呼ばれてきた[15]。同じ怪が、岩手では「小豆あげ」、長野では「小豆ごしゃごしゃ」と、土地ごとに音を写しとった名で語られる。名の違いそのものが、各地の人々が同じ夜の川音にそれぞれ耳を澄ませてきた証である。山深い谷に沿って暮らした人々が、夜の闇のなかで川のせせらぎに人ならぬ気配を聴き取った ── 小豆洗いは、姿なき音だけの怪でありながら、中国山地の谷の暗さと水の音とが生んだ、ささやかで、それゆえに忘れがたい妖怪である。直接の害をなさぬこの怪が今なお語り継がれるのは、人が闇と静寂のなかで何を恐れてきたかを、何より雄弁に物語っているからだろう。

海と山の結び目で

広島の妖怪を貫くのは、海と山という二つの地理が一つの県に同居する、その緊張である。瀬戸内の海には弁財天と市杵島姫の水の信仰が結晶し、中国山地の谷には牛鬼や小豆洗い、一本だたらといった山と水の土着の怪が息づく。そして両者の交わる盆地・三次に、三十日にわたる物怪屋敷の記録が立ち、東の備後には、件の予言と蘇民将来の茅の輪という、災厄をめぐる古代以来の二つの装置が据えられている。

隣接する地と比べてみても、広島の妖怪文化の特異さは際立つ。西の島根は出雲神話の本拠として神々の物語を抱え、東の岡山は桃太郎の鬼退治譚で知られる。そのあわいにあって広島は、神話でも英雄譚でもなく、実在した少年の体験記録(『稲生物怪録』)と、疫病除けの根源神話(蘇民将来)という、二つの極めて具体的な「文書」を核に据えている点で異彩を放つ。記録と神話、個人の体験と共同体の祈り ── 性格の異なる二つの古典が一つの県に並び立つことは、けっして当たり前のことではない。

予言する獣と、災いを祓う茅の輪。海の女神と、山の物怪。恐れと祈り。広島県の妖怪事典は、この土地が地理の二重性のなかで育てあげた、奥行きある異界の地図である。安芸の大鳥居から備後の素盞嗚神社まで、中国山地の霧の谷から瀬戸内の入江まで、その結び目をひとつずつ辿り歩くとき、妖怪たちはなお生きて、この地が積み重ねてきた記憶を、今も静かに語り続けている。

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広島県の妖怪一覧11

広島県ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

この県の伝承地

山・神社・淵など、広島県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

  • 市杵島姫命

    市杵島姫命

    神格

    いちきしまひめのみこと

    海上を守る斎き島の女神·市杵島姫命

    神霊・神格厳島神社 (現·広島県廿日市市宮島町) / 宗像大社 (現·福岡県宗像市)

    市杵島姫命の神格は「斎き島の姫」 ── 神を斎き祀る島そのものに宿る女神という点に核心がある。 宗像 (玄界灘) では大陸との海上交通を、 安芸 (瀬戸内) では内海の航路を守護し、 「海北道中」 の神勅が示すように、 国家と海をつなぐ境界守護の女神として位置づけられる。 弁才天との習合により水·財·芸能·美·智慧の徳が重層し、 厳島神社の海上社殿·朱の大鳥居という荘厳な舞台装置がその神格を象徴する。 干満する潮に社殿が浮かび、 また陸続きとなる景観そのものが、 海と陸·神域と俗界の境を司る女神の表現である。 宗像三女神としての姉妹神 (田心姫·湍津姫)、 習合相手の弁才天、 同じ海·福徳の神である恵比寿と神格上の縁が深い。

  • 八岐大蛇

    八岐大蛇

    神格

    やまたのおろち

    出雲斐伊川の蛇神・八岐大蛇

    神霊・神格出雲国斐伊川流域 (現·島根県雲南市・出雲市)

    「ヲロチ」という古語 ── 蛇単体ではなく「峰の精霊」。 本項冒頭で多層性に触れたが、ここでは「オロチ」という日本語そのものの古語的意味に踏み込む。「オロチ (遠呂智・大蛇)」の語源には「ヲ (峰・尾) + ロ (接尾) + チ (霊威ある存在を表す古語)」とする説がある (古語辞書系の通説、学術的確証は要追跡)。つまり「ヲロチ」は本来「峰の霊」「峯の主」を意味し、単なる蛇ではなく、山・水・地の精霊として位置づけられる。 『古事記』 の形態描写「身に蘿と檜・椙生ひ、谿八谷・峡八尾に度る」 ── 谷 8 つ峰 8 つに渡る山系規模、苔と檜・杉を背に生やす ── は、ヤマタノオロチが古木の樹海そのもの、山系一帯の地霊であることを示唆する。これは縄文時代からの蛇神信仰の系譜に連なる ── 縄文土器の蛇形装飾 (中部・関東出土)、弥生期の銅鐸文様にも蛇紋がある。 『古事記』崇神天皇段 に明記される 大物主神 (三輪山、大神神社) は蛇身の神として倭迹迹日百襲姫命と「美麗壮夫」から「小蛇」への変身譚で語られ、ヤマタノオロチと並ぶ古代日本の蛇神二大表象を成す。各地の「大蛇 (オロチ)」系伝承 ── 諏訪の甲賀三郎、越後の弥彦の大蛇、阿蘇の健磐龍命の大蛇退治等 ── は、ヤマタノオロチ型の竜退治譚として日本各地に展開しており、ヤマタノオロチはその総代表に位置する。 砂鉄製鉄神話説の細部 ── 「腹は血で爛れる」の解読。 本項冒頭で諸説の一つとして触れた製鉄民集団征服説をより深く論じる。奥出雲は古代から砂鉄の宝庫で、たたら製鉄の本拠地として知られる。製鉄技術は「鉄穴流し (かんなながし)」という工程で、山を切り崩して土砂を水路に流し、砂鉄と他の土砂を分離する。この工程で川底が赤い土と鉄分で染まる現象が観察される ── 『古事記』のオロチ形態描写「其の腹を見れば悉く常に血爛れり」 は、この赤く染まった川底の神話化として読める。さらに製鉄炉の赤い火、たたら職人集団の独立的社会、製鉄民の渡来系移住の歴史等が、「斐伊川流域の鉄集団 = オロチ」「中央権力 (スサノオ) による征服」という構造の神話化を成立させたとされる。 草薙剣がオロチの尾から出現するという記述は、製鉄民が産出した良質の刀剣を中央権力が獲得したという史実の象徴化として読めるため、この説の説得力を強化する。 ミツカン水の文化センター『水の文化』 54 号 が在地推進派の論として整理し、荒神谷博物館館長藤岡大拙、たたら研究の角田徳幸 (島根県立古代出雲歴史博物館) 等が論述している。谷川健一 (民俗学者、 1921-2013) は『青銅の神の足跡』(集英社、 1979) 等で金属神信仰を体系的に論じ、鉱物資源神話の文脈にオロチを置く論調の射程を準備した (具体的箇所の典拠は要追跡)。 「八」の聖数論と物理的描写の境界。「八岐 (やまた)」「八頭八尾」「八谷八尾」「八塩折之酒」「八佐受岐」「八つの酒船」「八雲立つ」 ── ヤマタノオロチ譚は徹底的に「八」を反復する。これは物理的に 8 という数字に厳密に縛られているのか、古代日本語で「多数を表す聖数」として用いられているのかは古代神話学の論点である。上田正昭等は「八は多数を意味する聖数」説を採るとされ、単純な 8 とは限らないと読む立場がある (具体的論文の典拠は要追跡)。一方で、須我神社の和歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」は明確に「八重垣」を物理的に立てる ── ここでは「八」は構造的・儀礼的な「重ね」の表現として機能する。つまり「八」はオロチ神話において (a) 多数を象徴する聖数として、 (b) 構造的反復 (八重・八岐・八頭等) を成立させる組成原理として、二重に働いていると整理できる。この聖数操作は『日本書紀』第一巻第八段 (= オロチ譚) の章番号自体にも反映している可能性があるが、これは編纂者意図の解読として推測の域にある。 出雲在地信仰のヤマト政権編入 ── 神話の政治構造。ヤマタノオロチ退治は単なる勧善懲悪譚ではなく、 出雲在地信仰がヤマト政権の神話体系に組み込まれた象徴的事例として読まれる。出雲を象徴する蛇神 (= 在地神格) を、高天原系の須佐之男が征服 (斬殺) し、その尾から皇統三種の神器が出る ── これは出雲の宝物が皇統に編入された政治的構造の神話化である。オロチ譚と並んで、大国主神 (オロチ退治の血脈から生まれる) の 国譲り神話 が同じ構造を持つ ── 大国主が「国を譲った」結果、出雲は中央の支配下に入る。つまりヤマト政権の起源神話の核心部には、「出雲という強力な在地勢力をいかに編入したか」という政治的問題系があり、ヤマタノオロチ退治はその第一段階 (征服)、国譲りは第二段階 (合意) として配置されている。 出雲国造家 は須佐之男の流れを汲むとされ大国主の祭祀を担い、オロチ退治はその国造家の祖神話的起源の一節となるため、「征服神話」でありながら出雲側の祭祀的記憶としても継承された ── ここに在地と中央の二重の継承装置がある。ヤマトタケル神話・国譲り神話と並んで、ヤマタノオロチ退治を読むことで、日本古代神話の編成原理が立ち上がる。 石見神楽『大蛇』の現代的継承 ── 神楽が観光になる。 石見神楽の演目『大蛇』 は、ヤマタノオロチ神話が現代まで地域文化として生き続けていることを示す代表事例である。島根県西部・石見地方の郷土神楽は本来神社の祭礼に奉納する神事だったが、戦後は観光資源化が進み、各地の神楽団が定期公演を行うようになった。演目『大蛇』は石見神楽の中でも最も派手で人気の高い演目で、通常は最終演目として上演される。明治期に舞手・神官の植田菊市が考案した提灯式の蛇胴 ── 石州和紙と竹のみで構成し、軽量で自在に伸縮する ── が現在の様式の基礎を作り、通常 4 頭、大舞台では 8 頭以上が登場する大スケール演出が可能になった。須佐之男と大蛇の戦いを激しい立ち回りで再現し、観客は神楽の中で 1300 年前の神話を体感する。並行して 出雲神楽(出雲地方の社家神楽)、 安芸十二神祇神楽(広島県)、 備中神楽(岡山県備中地方) でも「大蛇」は定番演目で、山陰山陽地域に広く分布する地方神楽の中で八岐大蛇退治は最も人気の高い演目枠を占めている ── これは古代神話が現代に至るまで身体的・視覚的に継承される稀有な事例である。

  • 牛鬼

    牛鬼

    伝説

    うしおに

    牛頭蜘蛛体の海鬼・牛鬼

    動物変化四国・中国地方沿岸〜武蔵 (瀬戸内海を中心)

    江戸時代の妖怪絵巻などに描かれ、現代の妖怪図鑑でも最もポピュラーな「蜘蛛の胴体に牛の首を持つ海鬼」としての解釈版である。このバージョンにおける牛鬼は、海や淵といった「暗く深い水底」への根源的な恐怖と、獲物を逃さない「執念深さ」が蜘蛛の網のイメージと結びついて視覚化されている。 民俗学的な視点から見ると、古来日本において「牛」は農耕や治水と深く結びついた神聖な動物であり、水神の使い、あるいは水神そのもの(例:牛頭天王)として信仰されていた。淵に潜む牛鬼とは、かつて人々が崇め畏れた「自然の猛威(水神)」が、信仰の形骸化とともに妖怪へと零落(れいらく)した姿であるという解釈が有力である。 影を嘗められただけで呪い殺されるという絶対的な致死性や、濡女を囮に使って心理的な隙を突く狡猾さは、単なる知能の低い猛獣の域を逸脱しており、かつて神であった頃の理不尽な神威を色濃く残している。首を切り落とされてもなお怨念で動き続けるほどの強大な生命力を持つため、並の人間では到底太刀打ちできない。この圧倒的な暴威を鎮めるためには、千手観音などのより高位の仏法に縋るか、あるいは逆に牛鬼自身を神輿の先導(神の眷属)として丁重に祭礼に組み込み、その「荒御魂(あらみたま)」を都市の防衛システムとして利用するほかなかったのである。

  • 恵比寿

    恵比寿

    伝説

    えびす

    七福神唯一の日本固有神格·商売繁盛の恵比寿様

    神霊・神格西宮神社 (現·兵庫県西宮市) ── 全国えびす神社の総本社、蛭子神·事代主神 / 厳島神社 (現·広島県廿日市市宮島町、七浦七恵比須)

    「えびす」 という古代日本の海洋·異界信仰。 基本説明では恵比寿の二大起源説に触れたが、 徹底解説では「えびす」 という古代日本固有の海洋·異界信仰の深層を掘り下げる。 「えびす」 と「えみし (蝦夷)」 が同語源である事実は、 古代日本人が「彼方·異界·境界」 から来訪する存在を「えびす」 と総称し、 そこに豊穣·福·吉祥を見出した独特の宗教感覚を示す。 「来訪神 (マレビト)」 信仰として折口信夫が体系化した古代日本の信仰類型の代表例で、 沖縄のニライカナイ信仰·東北のなまはげ·秋田の生剥·南西諸島の来訪神等と並ぶ、 古代日本広域の異界·豊穣信仰の中核を成す。 恵比寿は単なる七福神メンバーを超えた、 古代日本人の海と異界への根源的宗教感覚を体現する神格である。 蛭子神話 ── 不具·流刑·再生の物語型。 『古事記』『日本書紀』 に伝わる蛭子神話 (不具の子が葦船で流されて異郷で豊穣神として再生する物語) は、 古代日本における「不具·境界·再生」 の物語型の代表例である。 ギリシャ神話のヘパイストス (足が不具の鍛冶神)·北欧のロキ·インドのガネーシャ等、 世界各地の神話で「不具の神」 が豊穣·智·創造の力を持つ事例が確認され、 古代人類の「常人と異なる体·異界·神秘的力」 への根源的想像力を示す。 蛭子が西宮に流れ着いて漁民の崇敬を集め恵比寿となる過程は、 「異界·境界·再生」 という普遍的宗教モチーフが日本固有の海洋·漁業文化と結びついて独自に発達した結果である。 事代主神話 ── 国譲り神話における恵比寿の起源。 事代主神は大国主神の長子で、 国譲り神話で建御雷神との交渉を父神に代わって担った重要な神格である。 美保関で釣りをしていた事代主が高天原からの使者の到来を聞き、 父神に承諾を進言した経緯は、 古代日本における中央 (天津神) と地方 (国津神) の政治的統合の宗教的表現である。 釣りをする神格という具体的イメージが、 後の恵比寿像の鯛·釣竿の造形に直接的に流入した。 国譲り神話の重要登場神が江戸期七福神の中心格に再造形される過程は、 古代神話と中世·近世庶民信仰の連続的継承を示す好個の事例である。 二大起源説の共存 ── 蛭子系と事代主系。 蛭子神由来 (西宮神社系) と事代主神由来 (美保神社系) という二大起源説が並存し、 完全に統一されないまま継承された事実は、 日本宗教文化の柔軟性·多元性を示す。 現代の恵比寿信仰では地域·個人·神社によって優位な起源説が異なり、 西日本では蛭子系 (西宮神社·今宮戎)、 山陰では事代主系 (美保神社) が中心となる。 江戸期の七福神信仰は「えびす様」 という共通呼称で両系統を統合し、 庶民は両系統を厳密に区別せず「商売繁盛·福を呼ぶ神」 として親しんだ。 日本宗教の「厳密な教義より民俗的実用性·多元的共存」 という特質を体現する好例である。 鯛·釣竿·笑顔 ── 中世·近世の象徴学。 現代の恵比寿像 (鯛·釣竿·笑顔·折烏帽子·狩衣) は中世·近世日本に確立した独自の意匠の集約である。 (1) 鯛は古代日本の漁業·商業·吉祥·赤色の象徴で、 高級魚として贈答·祭礼に用いられた。 (2) 釣竿は古代の漁業·神事·事代主神話の象徴。 (3) 笑顔 (えびす顔) は中世以降の福神像に共通する温和さの表現で、 古代インドのマハーカーラ (大黒) の憤怒尊から江戸期の温和神への変容と並ぶ、 日本中世·近世の神格意匠の独自展開である。 (4) 折烏帽子·狩衣は神道·武家の伝統衣装で、 「日本固有の福神」 という恵比寿の独自性を視覚的に強調する造形である。 十日戎 ── 江戸期庶民信仰の祭礼文化。 関西の十日戎 (1 月 9-11 日) は江戸期に確立した恵比寿信仰の代表的祭礼で、 大阪今宮戎·西宮神社·京都ゑびす神社等で大規模に斎行される。 「商売繁盛で笹もってこい」 の囃子歌は江戸期から継承される祭礼歌で、 福笹·吉兆·熊手等の縁起物授与は商家·飲食店·個人参拝客の集合的繁栄祈願を支える。 関東では「べったら市」「二十日えびす」 が同類祭礼として継承され、 全国の商業·飲食業界の年中行事の核心を成す。 江戸期庶民の集合的商業繁盛祈願·新年の祝祭·都市祭礼文化の代表事例として、 現代まで連続する稀有な民俗実践である。 21 世紀の恵比寿 ── 都市文化と現代繁栄祈願。 21 世紀現在、 恵比寿は日本の商業·飲食·漁業·航海·新規事業祈願の主神として広く親しまれる。 「恵比寿顔」「えびす様」「えべっさん」 等の親しみを込めた呼称は日常会話に定着し、 飲食店·商家·企業の神棚に恵比寿像を置く習慣も継承される。 東京都渋谷区·恵比寿駅周辺の地名 (恵比寿) は明治期のヱビスビール工場由来で、 現代の都市文化·飲食街·商業地区の象徴的地名として全国的に知名度を持つ。 サブカルチャー作品 (ゲーム『女神転生』·『大神』·漫画『鬼滅の刃』 等) でも繰り返し再造形され、 古代の海洋·異界信仰が現代日本のポップアイコンに変容した代表事例である。 七福神中の唯一の日本固有神格として、 古代から現代までの日本人の繁栄祈願·商売繁盛信仰の精神的支柱を担う。

  • 弁財天

    弁財天

    伝説

    べんざいてん

    古代インド由来·中世日本変容の女神·弁財天

    神霊・神格日本三大弁天 ── 江島神社 (神奈川) / 宝厳寺竹生島 (滋賀) / 厳島神社 (広島)。単一総本社なし

    サラスヴァティーから弁財天へ ── 二千年の文化変容。 基本説明では弁才天の主要鎮座地と俗信に触れたが、 徹底解説では古代インドのサラスヴァティーから現代日本の弁財天までの二千年を超える文化変容を掘り下げる。 サラスヴァティーは『リグ·ヴェーダ』 (前 1500-1200 年頃) に登場するインド最古の女神の一つで、 川の流れ·音楽·学芸·言語·詩歌を司った。 仏教受容後は『金光明経』 『法華経』 等で守護尊化、 中国·朝鮮·日本に伝播した。 日本では (1) 古代·律令制仏教期 (7-9 世紀) は経典内の守護尊、 (2) 中世·鎌倉期は宇賀神との習合で宇賀弁才天が成立、 (3) 近世·江戸期は七福神化·財福神化、 (4) 近代·明治期は神仏分離で多くが市杵島姫命 (イチキシマヒメ) に祭神変更、 (5) 現代は俗信·観光·サブカルチャー素材として変遷した。 二千年を超えて姿·属性·呼称·表記を変化させながら継承される、 古代神格の文化変容の代表事例である。 宇賀神 ── 出自不明の人頭蛇身神。 鎌倉時代以降に弁才天と習合した宇賀神は、 「人の頭·蛇の身体·蜷局を巻いた姿」 で表される異形神格で、 学術的にも出自不明の謎多き存在である。 「宇賀」 の語源は古事記·日本書紀の穀物神·宇迦之御魂神 (うかのみたま) との関連が指摘されるが、 蛇形像の起源は中国の伏羲·女媧 (人頭蛇身の創世神格) の影響·インドのナーガ (蛇神) の影響·日本古来の三輪山·諏訪等の蛇神信仰の融合等、 諸説が交差する。 「日本独自の出自不明の蛇神」 が「インド由来の仏教女神」 と融合した宇賀弁才天は、 中世日本宗教文化の混交·創造性·呪術性の象徴的事例である。 二臂像 vs 八臂像 ── 図像学の二系統。 弁才天像には大きく二系統がある。 (1) 二臂像: 琵琶を抱いて演奏する優雅な天女姿。 サラスヴァティー本来の音楽女神性を継承する系統で、 日本では平安期以降の伝統像。 (2) 八臂像: 武装した戦闘女神姿で、 剣·宝珠·弓·矢·斧·鉾·輪宝·宝棒等の八つの武器·法具を持つ。 『金光明経』 (5-6 世紀中国訳) に記される姿で、 鎮護国家の守護尊として強調された系統。 八臂像は弁才天の「優雅な学芸女神」 イメージと一線を画す勇猛な戦闘神性を体現し、 これに鎌倉期の宇賀神蛇形が加わって、 弁才天は「優雅·勇猛·呪術·財福」 を統合する極めて複層的な神格に発展した。 蛇神化の民俗論 ── 水神·財神·豊穣神の重層。 弁才天 (宇賀弁才天) の蛇神化は、 日本古来の蛇神信仰 (三輪山·諏訪·宇佐·熊野等) と密接に絡まり合う民俗現象である。 古代日本では蛇は「水神 (川·池·海辺の祠)·財神 (脱皮·無限増殖)·豊穣神 (穀物·土地)·治癒神 (薬·禁忌)」 の四属性を統合する神格として崇敬されてきた。 弁才天が宇賀神と習合して蛇神性を獲得した結果、 水辺の祠·財布の中の蛇·脱皮の御守·治癒祈願等、 古代蛇神信仰の全層が「弁財天信仰」 として継承された。 21 世紀の現在も「銭洗いの霊水·財布の蛇·縁切り」 等の現代俗信は、 古代蛇神·中世弁才天·近世財福神·現代観光が複層する民俗文化の生きた継承を示す。 カップル参拝禁忌 ── 嫉妬神という現代俗信。 弁才天 (特に江島神社·厳島神社等の主要霊場) では「美女女神ゆえカップルで参拝すると嫉妬されて別れる」 という現代俗信が広く流布する。 これは古代インドの強烈な女神性 (サラスヴァティーは Brahma の妻として描かれる場合もあり、 嫉妬·激情を持つ)·中世日本の蛇神性 (蛇は嫉妬·執着の象徴とされた)·女人禁制等の修験的禁忌が現代に変奏された現象である。 単純な迷信を超え、 古代から現代までの複層的宗教史·民俗史·心理史を凝縮する興味深い現象として、 21 世紀の民俗学·心理学·観光学の研究対象となっている。 同時に「縁切り神社」 (京都·安井金比羅宮等) との接続も指摘され、 弁才天の禁忌神性が現代の縁切り祈願文化と結びつく文化的継承を示す。 七福神信仰と江戸庶民文化。 江戸期の七福神信仰 (恵比寿·大黒·毘沙門·弁財·福禄寿·寿老人·布袋) における唯一の女神として、 弁財天は江戸庶民文化の中心的神格の一つとなった。 正月の七福神巡り·宝船絵の枕下·初詣·商売繁盛祈願等、 江戸の庶民生活に深く浸透した。 これは中世の宇賀弁才天信仰 (密教·呪術·貴族文化) から、 近世の七福神信仰 (庶民·商業·都市文化) への展開を体現する文化史的事件である。 古代インドの学芸女神 → 中世日本の密教神格 → 近世日本の庶民財福神 → 現代の観光·サブカル素材という、 二千年を超える長大な文化変容の重要な節目として近世弁財天信仰は位置づけられる。 21 世紀の弁財天 ── 観光·サブカル·縁切り文化。 21 世紀現在、 弁財天は日本三大弁天·全国の弁天社·七福神巡り等の観光資源として継承されている。 同時にサブカルチャー作品、 例えばゲーム『大神』 『女神転生』·漫画『ぬらりひょんの孫』 等で繰り返し再造形され、 古代インドの女神性·中世日本の蛇神性·近世日本の財福神性·現代日本の縁切り神性が交差する複層的アイコンとなっている。 古代インドのサラスヴァティーから現代日本の弁財天まで二千年を超える文化変容を、 単一の神格が体現し続ける稀有な事例として、 妖怪学·民俗学·宗教史·比較神話学の重要素材であり続けている。

  • 一本だたら

    一本だたら

    名妖

    いっぽんだたら

    果ての二十日の山霊・一本だたら

    山野の怪紀伊熊野・大峰の一本足山霊。果無山脈(和歌山・奈良)と伯母ヶ峰(奈良)の猪笹王伝承が核、高知タテクリカエシ・広島厳島にも類話

    紀伊・熊野から奈良にかけての記録に基づく一本だたら像。姿は一つ目一本足と語られるが、実見例は少なく、降雪後に残る大きな単跡が出現の証とされる地域が多い。最も著名な特徴は十二月二十日の出現で、この「果ての二十日」は山の神や道の禁忌と重なり、山入りを慎む日として機能した。鍛冶との連関では、たたら吹きが片足で踏鞴を踏み、片目で炉を見る所作から隻脚・隻眼の姿になったと民俗学的に説明されることがある。また、伯母ヶ峰の系統では猪笹王という鬼神と同一視され、かつて峰を脅かしたが僧に封じられ、年に一度だけ解かれるという語りがある。熊野・厳島などでは「姿は見えず足跡のみ」とされ、恐れつつも直接の加害は限定的と語られる例もある。各地の一本足譚(雪入道・雪坊など)と習合・混同が見られるが、本項は熊野・奈良筋の要素を骨格とし、忌日と単跡、鍛冶起源説という三点を中核に据える。

  • 疫病神

    疫病神

    名妖

    やくびょうがみ

    辻越え病を運ぶ・疫病神

    神霊・神格疫神の全国信仰。蘇民将来縁起は『備後国風土記』逸文(広島)、京畿(京都・奈良)の防疫祭祀、江戸(東京)の証文話など各地に伝承

    宮廷儀礼と民間信仰の双方で意識された疫病神の古層的像。普段は不可視で、季節の変わり目や花の散る頃に勢いを得るとされ、里の境・辻・河岸を通って入り、家々の不浄や怠りを契機として病いを広める。絵画史料では鬼形・異形が群れて行く姿が描写され、説話では旅の老人や老婆として戸口に立ち、施しや応対の作法の乱れを嫌うと語られる。対策は境の祭、祓、供饗、護符掲示、人形送りなどの共同作法にあり、特定の期日に粥や供物を設けて遠ざける風が行われた。個別の姿形や名を固定せず、土地の作法と年中行事に即して現れるため、地域差が大きいが、いずれも「境を整え、穢れを祓う」実践と結びついて語り継がれる。

  • 件

    名妖

    くだん

    天保丹後の予言獣・件

    人妖・半人半妖丹後倉橋山・越中立山ほか (人面牛身の予言獣)

    江戸後期、瓦版・版本を通じて流布した件像。人面牛身で、出現ののち予言を述べ、まもなく絶命するとされる。天保期の瓦版には丹後出現譚が見え、豊凶や厄除の効験が強調され、件の図像を掲げることが推奨された例もある。一方、越中国立山の「くたべ」は1820年代以降の記録に現れ、女面や老人面、鋭い爪、胴体に目が描かれるなど像容に幅がある。両者は予言・疫病除けの効用を語られる点で通底し、災厄期に流布が増す傾向が指摘される。証文末尾の定型句「件の如し」と怪物「件」を同一由来とする俗説は、語の歴史(中世以前の用例)から否定的に見られる。民俗的には、出現・告知・短命・図像護符化という定型が核であり、具体の地名・年代や効験の内容は史料により異同が大きい。

  • 三鬼大権現

    三鬼大権現

    名妖

    さんきだいごんげん

    弥山を守る日本唯一の鬼神·三鬼大権現

    鬼・巨怪弥山 (現·広島県廿日市市宮島町、宮島·三鬼堂) / 大聖院

    三鬼大権現の核心は、 本来畏怖の対象である鬼を「魔を払う守護神」 へと転じた逆転の神格にある。 追帳·時眉·魔羅の三鬼神がそれぞれ福徳·智慧·降伏を担い、 大日如来·虚空蔵菩薩·不動明王を本地仏とする三身一体の構造は、 真言密教の本地垂迹思想と山岳·天狗信仰の融合を示す。 大小の天狗を眷属とする点は、 弥山を天狗の霊山とする民間伝承 (福島正則の天狗退治譚) と直結する。 空海開基·消えずの霊火·須弥山に擬えられた奇岩群という弥山の聖性そのものを体現し、 海上の厳島神社 (市杵島姫命·弁財天) と山上の三鬼大権現が、 宮島という一島の海と山の二極をなす守護神として対をなす。

  • 小豆洗い

    小豆洗い

    名妖

    あずきあらい

    谷川夜更けの小豆洗い

    霊・亡霊夜の川辺の音の怪、全国分布。関東(茨城・東京檜原村・埼玉)・甲信越(山梨・長野・新潟)・中国地方(広島・山口・岡山・鳥取)を中心に、大分の唄など各地に伝承

    谷川や樋の水音にまぎれ、夜半に小豆を洗い続ける在来像に基づく小豆洗い。音で人を誘い、覗く心を試す存在として語られる。数に強く、器量の加減や粒の多少を即断するという近世資料の特徴を踏まえ、過度な害はなすまいが、水際の禁忌を守らせる役どころを担うと理解されてきた。

  • 山本五郎左衛門

    山本五郎左衛門

    珍しい

    やまもとごろうざえもん

    稲生物怪録の魔王・山ン本

    山野の怪備後国三次(広島県三次市)・稲生物怪録

    本版は寛延二年の三次怪異を核とする記録伝を基盤とする。頭領は三十日の怪異の締めくくりに武士姿で名乗り、神野悪五郎との賭けに言及する。自ら天狗や狐狸に非ずと述べる一方、絵画資料では三眼の烏天狗風に表される例があり、表象と本文との間に乖離が見られる。諸写本により名は「山本五郎左衛門」「山ン本五郎左衛門」「山本太郎左衛門」と揺れ、別伝では別の授与品(木槌、あるいは祈祷法の巻)を渡す。三次周辺には勇者試し型の類話が複数伝存し、一定期間の怪異、当主の不動心、頭領の出現と賞詞、去る際の証拠品という配列が共通する。具体の正体や出自は定まらず、魔王格としての統率者像のみが強調される。近世随筆や絵巻の伝本差を踏まえ、固有名や細部は本ごとの異同として扱われるべき存在である。

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