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鳥取県 妖怪の聖地・境港から。鳥取県の妖怪事典

海坊主・小豆洗い・七尋女房。日本海と大山が育てた怪と、水木しげるの故郷

妖怪の聖地・境港から。
鳥取県の妖怪事典

鳥取県 · とっとり

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鳥取県は、日本でもっとも妖怪と縁の深い土地のひとつである。理由は二重になっている。ひとつは古い。日本海に面した長い砂浜と、雲をまとう伯耆富士・大山、そして『古事記』に名を刻む因幡の白兎 ── この地は神話と海の怪異が層をなして堆積してきた山陰の一角である。もうひとつは新しい。境港市で育った漫画家・水木しげるが、戦後の日本に妖怪という文化そのものを甦らせた。だから鳥取の妖怪を語ることは、千年前の海神への畏れと、二十世紀の一人の絵師の記憶とを、同じ一本の線で結ぶことになる。

旧国でいえば、東の因幡国と西の伯耆国からなる。因幡には白兎神話と県都・鳥取、伯耆には大山と境港が属し、その風土の違いが、この地に伝わる怪の性格をも分けている。本稿は、海の巨怪・海坊主、川辺で小豆をとぐ音の怪・小豆洗い、伯耆の巨女・七尋女房という三体を軸に、なぜこの土地でこれらの怪が語られ、なぜ境港が「妖怪の聖地」と呼ばれるに至ったかを辿る。

神話の地 ── 因幡の白兎と山陰の古層

鳥取の妖異を語る前に、まずこの地が神話の舞台であることを確認しておきたい。『古事記』(和銅5年〔712〕成立)上巻に記される「稲羽の素菟」、すなわち因幡の白兎の説話は、現在の鳥取市白兎海岸を舞台とする。隠岐から因幡へ渡ろうとした兎が和邇(わに)を欺いて皮を剥がれ、傷に苦しむところを大穴牟遅神(おおなむぢのかみ、のちの大国主)が蒲の穂で癒し、八上比売との縁を予言される ── この物語の兎が、白兎神社の祭神・白兔神である。

この説話には、見落とされがちな対比の構図が織り込まれている。大穴牟遅神には八十神(やそがみ)と呼ばれる多くの兄たちがおり、彼らは因幡の八上比売に求婚しようと旅をしていた。傷ついた兎に出会った八十神は「海水で身を洗い、風に吹かれて干せばよい」と偽りの治療法を教え、兎の傷はかえって悪化する。遅れて荷物を担いで通りかかった大穴牟遅神だけが「真水で身を洗い、蒲の穂の上に転がれ」と正しく教えた ── この優しさゆえに、兎は「八上比売を娶るのはあなただ」と予言する。つまり白兎の挿話は、得体の知れぬ傷ついた異形が人(神)の本性を試す物語でもあり、のちに国造りの大神・縁結びの神となる大国主の最初の試練として語られている。鳥取の地が、出雲神話の壮大な序章の舞台に選ばれていたことの意味は重い。

ここで重要なのは、因幡の白兎が「妖怪」ではなく「神」として祀られている点だ。鳥取の怪異文化の最古層は、得体の知れぬものを神格として扱う神話の文法のなかにある。境内に続く道沿いには、兎が傷口を洗ったと伝わる御身洗池(みたらしいけ)が今も残り、季節を問わず水位が一定であることから不減不増の池と呼ばれる。神話の細部が地形に固着し、歩いて辿れる場所として残っている ── これは山陰の古い信仰地に共通する特徴で、隣接する出雲が『出雲国風土記』(天平5年〔733〕成立)に地名起源説話を満載するのと同じ感覚に連なる。神と怪との境界が薄い土地。それが鳥取の妖怪文化の土壌である。

白兎海岸と淤岐ノ島。『古事記』に記される因幡の白兎の舞台は、地形が神話の細部を今に留める。大国主が傷ついた兎を蒲の穂で癒したというこの治癒の物語には、異形の存在を敵としてではなく、迎え癒す鳥取の古い信仰の水脈が流れている。
白兎海岸と淤岐ノ島。『古事記』に記される因幡の白兎の舞台は、地形が神話の細部を今に留める。大国主が傷ついた兎を蒲の穂で癒したというこの治癒の物語には、異形の存在を敵としてではなく、迎え癒す鳥取の古い信仰の水脈が流れている。

白兎海岸は、鳥取市西部、国道9号沿いに弧を描く砂浜で、沖には兎が和邇を欺いて渡ったという淤岐ノ島(おきのしま)が今も浮かぶ。説話の地理がそのまま現存の景観として残っている点に、この神話の根の深さがある。白兎神社は近代に縁結びの神として広く知られるようになり、皮膚病や火傷に霊験ありとも伝えられてきたが、その淵源をたどれば、傷ついた兎を蒲の穂で癒したという治療譚に行き着く。得体の知れぬものを祓い退けるのではなく、傷を負った異形を癒し、その異形から祝福を受け取る ── 鳥取の信仰の根には、外から来る異なるものを敵としてではなく、迎え癒すまなざしが流れている。この姿勢こそ、のちに境港が「妖怪を町ぐるみで迎える」という現代の流儀に至る、最も古い水脈なのである。

日本海の巨怪 ── 海坊主

海坊主

うみぼうず

海坊主(うみぼうず)は、日本各地の沿岸部に伝わる海上の怪異で、とりわけ漁師の間で恐れられてきた。穏やかだった海面が突如盛り上がり、巨大な黒い影、あるいは禿げ頭の坊主の姿となって船の行く手に立ちはだかるとされる。全身が見えることは少なく、海上に頭や肩だけを突き出した姿で語られることが多い。夜の海や時化の最中に現れ、船を転覆させ、海底へ引きずり込むと信じられた。『和漢三才図会』(1712年)や『物類称呼』(1775年)など江戸期の文献にも、海上に立つ巨大な怪異の名がみえる。

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鳥取県は北を日本海に面し、漁業とともに生きてきた。冬の日本海は荒く、時化(しけ)に呑まれて還らぬ船は数知れない。その海への根源的な畏れが結んだ像が、海坊主である。穏やかだった海面が突如盛り上がり、巨大な黒い影、あるいは禿頭(とくとう)の坊主の姿となって船の行く手に立ちはだかる ── 全身が見えることは少なく、海上に頭や肩だけを突き出した姿で語られることが多い。

海坊主の伝承そのものは鳥取に限らず、『物類称呼』(安永4年〔1775〕)『和漢三才図会』(正徳2年〔1712〕頃)が記すように、全国の漁村に広く分布する。五島列島や愛媛・岡山・和歌山・宮城など各地に伝わり、鳥取をふくむ山陰一帯の浜にもその姿が語られた。正体については、溺死者の亡霊が変じたものとする説や、零落した竜神・海神が生贄を求める姿とする説が並び立つ。

注目すべきは話型の地域差である。船の行く手を阻んで網や櫂(かい)を折る怪力の主として語る土地がある一方、長崎の五島列島や愛知の知多郡では、海坊主が「柄杓(ひしゃく)を貸せ」と迫り、渡せば海水を汲み入れて船を沈めにかかるため、底を抜いた柄杓を渡して難を逃れたという話型が伝わる。海はただ脅かすのではなく、人と問答し、機転を試す相手として描かれた。鳥取の漁師にとって、海坊主は「海そのものの恐怖」を人格化した存在であり、日本海の暗い水平線の向こうに、いつもこの黒い頭がうずくまっていた。

荒れ狂う日本海に現れた海坊主。冬の日本海は時化に呑まれて還らぬ船が数知れず、その海への根源的な畏れが、巨大な黒い影となって船の行く手を阻む海坊主の伝承を生んだ。底を抜いた柄杓を渡して難を逃れたという話型は、自然の猛威を機転で乗り越えようとする民俗の知恵である。
荒れ狂う日本海に現れた海坊主。冬の日本海は時化に呑まれて還らぬ船が数知れず、その海への根源的な畏れが、巨大な黒い影となって船の行く手を阻む海坊主の伝承を生んだ。底を抜いた柄杓を渡して難を逃れたという話型は、自然の猛威を機転で乗り越えようとする民俗の知恵である。

地理的にこの怪を理解するなら、鳥取の海岸線の険しさを思い起こすべきだ。県西部の弓ヶ浜半島が描く長い弧を境に、東は岩礁の多い荒磯、西は美保湾の漁場が広がる。和船の時代、沖合の漁師にとって突然の時化と濃霧は死に直結し、視界を失った海上で「何かが立ちはだかった」という体験は、海坊主という像に容易に結晶した。冬季に日本海特有の重い鉛色の雲が垂れこめると、波頭そのものが黒い坊主の頭にも見える ── 自然現象と恐怖と信仰が分かちがたく溶け合う場所に、この怪は棲んでいた。なお鳥山石燕は海坊主そのものを描いていないが、海上に立つ盲僧姿の海座頭(うみざとう)を『画図百鬼夜行』に収めており、近世の妖怪画が海の怪異への畏れを繰り返し像に結んでいたことがわかる。

川辺の音 ── 小豆洗いと、
姿なき怪

小豆洗い

あずきあらい

小豆洗い(あずきあらい)は、夜更けの川辺や沢で「ショキショキ」「ザクザク」「シャリシャリ」と小豆をとぐような音を響かせる、音を本体とする妖怪である。関東(茨城・東京檜原村・埼玉)、甲信越(山梨・長野・新潟)、中国地方(広島・山口・岡山・鳥取)を中心に全国へ分布し、土地ごとに小豆とぎ・小豆さらさら・小豆ごしゃごしゃ・砂洗いなど多彩な異名で呼ばれる。多くの伝承で姿は現れず、近づくと音だけがぴたりとやみ、音に気を取られた者が足を滑らせて川や谷へ落ちるとされる。まれに目撃される姿は、背の低い目の大きな法師、小坊主、老婆、童などと一定せず、地域差が著しい。大分県では「小豆洗おか、人取って喰おか」と唄いながら小豆をとぐという、無邪気な所作と人取りの恐怖を一句に同居させた文句が伝わり、この唄こそ小豆洗いの性格をよく示す。実体の見えにくい音の怪である点に最大の特徴があり、視覚より聴覚に訴える怪異として、水辺の危険を子どもに戒める民俗的機能を強く帯びている。

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海が日本海の怪を生んだとすれば、内陸の谷川は別種の怪を育てた。小豆洗いは、夜更けの川辺や沢で「ショキショキ」「ザクザク」と小豆をとぐような音を響かせる、音を本体とする妖怪である。多くの伝承で姿は現れず、近づくと音だけがぴたりとやみ、音に気を取られた者が足を滑らせて川や谷へ落ちるとされる。

この怪は柳田國男『妖怪談義』(修道社、1956年)が「音の怪」の代表として論じたように、関東・甲信越とならんで中国地方 ── 広島・山口・岡山・鳥取 ── に濃く分布する。山がちで谷川の多い山陰の地形は、水音や竹の葉擦れを怪の気配へと聞きなす素地に満ちていた。文献上もっとも知られるのは『絵本百物語』(天保12年〔1841〕)巻第五「小豆あらい」で、山寺で小豆をとぐのが得意だった小僧が、同宿の悪僧に妬まれて谷川へ突き落とされ、以来その霊が夜ごと小豆をとぐ音を立てるようになったと語る。几帳面さの記憶が怪へ転じた、哀れな由来譚である。

小豆洗いには、しばしば「小豆とごうか、人とって食おうか、ショキショキ」という不気味な唄が伴って語られる。小豆をとぐ平凡な生活音と、人を喰らうという物騒な台詞が同じ調子で並ぶところに、この怪の独特の薄気味悪さがある。日常のなかにふと裂け目が生じ、そこから得体の知れぬものが顔を覗かせる ── 山陰の村人が夜の水辺で感じた不安は、この唄の落差に正確に写し取られている。

小豆洗いのもうひとつの顔は、合理化された自然への眼差しだ。民俗の現場では、音の正体をイタチ・タヌキ・カワウソなどの獣、あるいは小川の水音や竹の葉擦れといった自然現象に帰す解釈も併存してきた。怪と自然のあいだの曖昧な領域に、この怪は棲んでいる。視覚より聴覚に訴え、「夜の水辺には近づくな」という戒めを子どもに刻む ── 川の多い鳥取の村々で、小豆洗いの音は実用的な恐怖でもあった。鳥取は千代川・天神川・日野川という三本の大河が日本海へ注ぎ、その支流や谷沢は無数にある。水のかたわらに暮らす者にとって、夜の増水や足元の崩れは現実の死の危険であり、小豆洗いはその危険を子どもの記憶に刻む装置として機能した。同じ水辺の怪として、川童(かわっぱ)系の伝承も山陰に広く伝わる。

伯耆の巨女 ── 七尋女房と、
米をとぐ歌

七尋女房

ななひろにょうぼう

七尋女房は、島根県東部および隠岐諸島、鳥取県伯耆地方に伝わる巨大な女の妖怪。名の「尋」は長さの単位で、身の丈または首が七尋に及ぶとされる。山道や海辺に現れて笑いかけたり、石を投げる、洗濯の所作を見せるなどして人を惑わす。地域により容貌や振る舞いは異なり、美貌の物乞いとされる例から、黒い歯と乱れ髪の怪女として語られる例まで幅がある。

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三体目は、この地に固有の色がもっとも濃い怪である。七尋女房は、出雲(島根東部)・隠岐・そして鳥取県西部の伯耆国に伝わる巨大な女の妖怪だ。名の「尋(ひろ)」は両手を広げた長さの単位で、身の丈または首が七尋 ── およそ12.6メートルに及ぶとされる。山道や海辺に現れて笑いかけ、石を投げ、洗濯の所作を見せるなどして人を惑わす。

もっとも具体的な伝承は隠岐に残る。隠岐諸島中ノ島の海士町(あまちょう)では、織田信長の頃、馬に乗って山道を行く男に七尋女房が石を投げつけ、男が刀で斬りつけると、女房は顔に傷を負って石と化したと語られる。海士町日ノ津の山道に残る奇石・女房ヶ石(にょうぼうがいし)はその石化した姿といわれ、高さ6メートル・幅3メートルもあり、今も少しずつ大きくなっていると伝える。妖怪が地形そのものになる ── 因幡の御身洗池と同じく、伝承が土地に固着する山陰の語りの型がここにも生きている。

伯耆の伝えはさらに鳥取らしい。伯耆国赤碕町梅田(現・琴浦町)では、青白い顔に長い髪を垂らした七尋女が、悲しげな声で「小豆三升に米三合、御れい様には米がない」と歌いながら米を研いでいたという。ここで前章の小豆洗いと響き合う点に注意したい ── 米や小豆を研ぐという所作、夜の水辺、姿の見えにくさ。山陰では「研ぐ音の怪」という共通の文法のうえに、海坊主の巨大さと女の哀しみが重なり合って、七尋女房という独自の像を結んだのである。

この「御れい様には米がない」という嘆きの歌には、飢えと供養の記憶がにじむ。研いでも研いでも米が足りないという反復は、貧しさのなかで死んでいった者、十分な弔いを受けられなかった者の無念を思わせる。巨大な女が夜の水辺で米を研ぎ続ける姿は、滑稽でありながら底知れず哀しい ── 山陰の村が抱えた飢饉や水子の記憶が、巨女という誇張された像に託されたとも読める。地域により容貌は一定せず、美貌の物乞いから黒い歯と乱れ髪の怪女まで幅があるのも、複数の村が同じ名のもとに別々の怪を語り継いだ痕跡だ。一つの名のもとに、海と川と飢えの記憶が幾重にも折り畳まれている ── 七尋女房は、そうした山陰の語りの厚みそのものである。

大山 ── 伯耆富士という霊峰

鳥取の怪を語るには、もう一本の柱を立てねばならない。標高1729メートルの大山(だいせん)、別名・伯耆富士である。弥生時代から神宿る峰とされ、奈良時代の養老2年(718年)に金蓮上人がこの山に地蔵権現を祀って大山寺を開いて以来、山岳信仰・道教・密教を取り込んだ修験道の一大道場として栄えた。平安期以降に寺勢を増し、最盛期には西日本最大級の仏教勢力となり、多くの支院と僧兵を擁したと伝えられる。式内社・大神山神社は伯耆国二宮で、米子の里宮(本社)と大山中腹の奥宮からなり、奥宮へ続く約700メートルの自然石を敷いた石畳道は、参詣者の畏敬を今に伝える。

伯耆富士・大山と牛馬市。山岳信仰の修験場であった大山は、牛馬の守護祈願と深く結びつき、大山寺の門前では日本三大牛馬市の一つが盛大に開かれた。地蔵信仰と農耕生活が霊峰のふもとで一つになった、鳥取ならではの壮大な風景である。
伯耆富士・大山と牛馬市。山岳信仰の修験場であった大山は、牛馬の守護祈願と深く結びつき、大山寺の門前では日本三大牛馬市の一つが盛大に開かれた。地蔵信仰と農耕生活が霊峰のふもとで一つになった、鳥取ならではの壮大な風景である。

大山が他の霊山と異なるのは、信仰が「牛馬」と深く結びついた点である。平安期に基好上人が牛馬の守護を祈願して牛馬信仰を広め、人々は牛馬を引き連れて大山寺へ参詣するようになった。やがて寺の門前で牛馬の取引が盛んになり、大山寺境内前方の広大な草地・博労座(ばくろうざ)を会場として、福島県の白河・広島県の久井とならぶ日本三大牛馬市の一つ「大山牛馬市」が立った。享保11年(1726年)に組織や制度が整えられ、昭和12年(1937年)まで盛大な取引が続いたという。地蔵信仰と農耕の生活が一つの山で結ばれた、稀有な信仰のかたちである。

霊山は妖異の通り道でもある。修験の山には天狗の伝承が宿るのが常であり、ブナの原生林と急峻な北壁・崩落しやすい砂すべりの谷をもつ大山も例外ではない。修験者が分け入った深い山中は、人の理の及ばぬ領域として畏れられ、山を侮る者が道に迷い、あるいは天狗にさらわれるといった戒めの物語が、この峰の周囲に堆積した。山岳信仰の山では、登拝の作法を守らぬ者に異変が起こるという語りがしばしば伝わり、大山もまた、人が踏み込んでよい領域と踏み込んではならぬ領域とを峻別する聖と俗の境界の山であった。山を畏れ、山に分け入る者の心構えを問う物語が、こうして幾世代にもわたって語り継がれた。明治8年(1875年)の神仏分離・廃仏毀釈で大山寺は大きく衰え、地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮へと改められ、かつての伽藍は今は本堂とわずかな支院を残すのみだが、参道の石畳と老杉は、霊峰がいかに人の畏怖を集めてきたかを今に伝えている。日本海の海坊主、谷川の小豆洗い、そして山の天狗 ── 海と川と山、鳥取の三つの地形のそれぞれに、怪が割り当てられていたことになる。

妖怪の聖地・境港 ── 水木しげるという結節点

そして近現代。鳥取の妖怪文化を決定的に押し上げたのは、一人の漫画家である。

妖怪の聖地・境港の原風景。水木しげるの自伝的記憶にあるように、漁港の暗い夜に「のんのんばあ」が語り聞かせた妖怪の話こそが、現代の妖怪文化の出発点であった。口承の怪がひとりの絵師の血肉となり、やがて町全体を妖怪の聖地へと変えていった。
妖怪の聖地・境港の原風景。水木しげるの自伝的記憶にあるように、漁港の暗い夜に「のんのんばあ」が語り聞かせた妖怪の話こそが、現代の妖怪文化の出発点であった。口承の怪がひとりの絵師の血肉となり、やがて町全体を妖怪の聖地へと変えていった。

大正11年(1922年)、大阪で生まれた武良茂(むらしげる) ── のちの水木しげるは、まもなく父の仕事の都合で伯耆国の港町・境港に移り、ここで育った。水木の自伝的エッセイ『のんのんばあとオレ』(筑摩書房、1977年)によれば、家の手伝いに来ていた拝み屋の妻・景山ふさ ── 通称「のんのんばあ」が、地元に伝わる妖怪や化け物の話を数え切れぬほど知っており、少年は毎晩のように不思議な話を聞かされたという。「のんのん」とは山陰の言葉で神仏や祈りを指し、神仏に仕える者を親しんで呼ぶ名であった。日本海の港町に堆積した怪異の記憶 ── 海坊主も小豆洗いも、おそらくはその語りのなかにあった ── が、一人の子どもの血肉となった。

太平洋戦争で激戦地ラバウルに出征し、爆撃で左腕を失いながらも、復員後に紙芝居・貸本漫画の道に進む。貸本版『墓場鬼太郎』(1960年〜)を経て、1965年に『ゲゲゲの鬼太郎』が『週刊少年マガジン』に掲載されると、戦後の日本に空前の妖怪ブームが起こった。さらに水木は創作にとどまらず、村上健司らの研究とも交差しながら、全国に散らばる妖怪の伝承を蒐集し、『水木しげるの妖怪事典』(東京堂出版、1981年)などの著作で一体ずつに姿を与えていった。今日われわれが思い浮かべる小豆洗いの小坊主風の姿も、水木が「ショキショキ」の擬音とともに描いた像が決定づけたものである。文字でしか伝わらなかった音の怪に、彼は顔を与えた。

故郷・境港は、その縁を観光資源として育てた。1993年に開通した水木しげるロードは、境港駅から水木しげる記念館まで続く約800メートルの通りで、両側に178体もの妖怪ブロンズ像が並ぶ。鬼太郎・目玉おやじ・砂かけばばあ・子泣き爺 ── おなじみの妖怪たちが、駅前から「水木マンガの世界」「身近にひそむ妖怪」「家に棲む妖怪」など複数のテーマに沿って配置される。JR境線(米子〜境港、全16駅)は鬼太郎列車として全車両がラッピングされ、米子駅は「ねずみ男駅」、境港駅は「鬼太郎駅」という妖怪の別名をもつ。沿道には妖怪神社まで建つ。

道の終点に立つ水木しげる記念館は、2023年からの建て替えを経て2024年4月にリニューアル開館した。館は水木が蒐集した妖怪コレクションや『ゲゲゲの鬼太郎』の原画を保管・展示し、「境港と水木しげる」「戦争と水木しげる」「漫画家・水木しげる」「妖怪研究家・水木しげる」といったテーマで彼の生涯を辿る。収蔵品のデジタル化や、妖怪の言い伝え・文献記録の文化伝承データベース化にも取り組んでおり、口承から生まれた怪が、いまや学術的に保存される対象となっている。古代の白兎神話を祀る白兎神社から、現代の妖怪を祀る境港の妖怪神社まで ── 鳥取は千年をかけて、得体の知れぬものを迎え入れる流儀を一貫させてきた土地なのである。年間百万人を超える観光客が水木しげるロードを訪れた年もあり、かつて漁師が畏れ、子どもが寝物語に聞いた怪たちは、いまや町の経済と誇りを支える存在へと姿を変えた。畏怖から親しみへ、口承から保存へ ── この転回をひとつの港町で成し遂げたことが、境港を名実ともに「妖怪の聖地」たらしめている。

結び ── 海と山と、
一人の絵師

鳥取の妖怪は、地形に正直である。日本海の水平線には海坊主が、谷川の闇には小豆洗いが、伯耆の山道には七尋女房が立つ。そのいずれもが、自然への畏れと、そこで死んでいった者たちの記憶から立ち上がってきた。神話の地という古層、大山という霊峰、日本海という荒い海 ── これらの土壌のうえに、境港という一点で、水木しげるが現代の妖怪文化を結晶させた。

だから鳥取を歩くとき、白兎海岸の波音にも、谷川のせせらぎにも、耳を澄ましてみてほしい。そこには千年前から続く怪の気配と、それを愛して描き続けた一人の絵師の眼差しが、いまも重なって響いている。

詳しくは旧国別の因幡国伯耆国も併せて辿られたい。

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鳥取県の妖怪一覧3

鳥取県ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

この県の伝承地

山・神社・淵など、鳥取県内で妖怪が語られる具体的な伝承地。各地点の物語へ。

  • 海坊主

    海坊主

    伝説

    うみぼうず

    油貸せと囁く・海坊主

    水の怪中国・四国・九州沿岸 ── 五島列島・宇和島・長門向津具・備讃灘を中心に、山陰一帯の浜にも現れる

    海坊主は、航海中の人々が海の恐怖と不安を具現化した妖怪とされる。 その姿は一定せず、ただ黒い影のように現れることもあれば、巨大な僧形で海面から立ち上がることもある。 船に近づき「油を貸せ」と囁く話が有名で、油を渡すと炎を起こし船を沈めるとも言われる。 一方で、近年の伝承では「沈んだ船や網を集め、海底に積み上げている収集癖がある」「時折光る瓶やランタンを手にして現れる」などのバリエーションも語られている。 人を驚かせる存在でありながら、海の神秘を象徴する存在として畏敬の対象にもなっている。

  • 小豆洗い

    小豆洗い

    名妖

    あずきあらい

    谷川夜更けの小豆洗い

    霊・亡霊夜の川辺の音の怪、全国分布。関東(茨城・東京檜原村・埼玉)・甲信越(山梨・長野・新潟)・中国地方(広島・山口・岡山・鳥取)を中心に、大分の唄など各地に伝承

    谷川や樋の水音にまぎれ、夜半に小豆を洗い続ける在来像に基づく小豆洗い。音で人を誘い、覗く心を試す存在として語られる。数に強く、器量の加減や粒の多少を即断するという近世資料の特徴を踏まえ、過度な害はなすまいが、水際の禁忌を守らせる役どころを担うと理解されてきた。

  • 七尋女房

    七尋女房

    珍しい

    ななひろにょうぼう

    出雲隠岐の巨女・七尋女房

    人妖・半人半妖出雲(島根東部)・隠岐・伯耆に分布する巨女譚。隠岐海士町の女房ヶ石が最も具体、伯耆は旧伯耆国(現鳥取県)

    七尋女房は出雲・隠岐・伯耆に広く分布する巨女譚で、山道・河辺・浜辺など境の場に出没する。姿は場所により変化し、海士町では乱髪で嘲笑し石を投げる強面の怪、島根沿岸では黒い歯を見せる海風の女、安来では長衣を曳く美貌の乞食女、伯耆では青白い顔で穀を歌いながら研ぐ影女として語られる。共通するのは異様な長さ(身丈または首)と、笑い・所作・歌などの「しるし」によって人を引き寄せる点である。退散譚では刀傷と石化が結びつき、奇石・塚・古木など土地の目印が由来とされ、家宝の刀や馬具を伝える家筋の話も付随する。恐怖譚一辺倒ではなく、美貌・施しを乞う姿や、穀を研ぐ音と結びつく素朴な怖れが重なるのが特色で、境界の不安と対処(目を合わさぬ、声に応じぬ、夜道を避ける)を教える民俗教訓を内包する。近世奇談の長面妖女と類型的に比較されるが、七尋女房は主として山野・海辺の在地信仰景観と結びつく点に民俗的特徴がある。

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