悪路神の火
あくろじんのひ
伊勢の雨夜怪火・悪路神の火
江戸期の記録に基づく像。雨夜に低空を漂い、提灯火の列のように行き来する。人を惑わすよりも、接近者に病患をもたらす存在として恐れられ、対処は地に伏してやり過ごすことに尽きる。地域の呼称は一定せず、伊勢国の怪火類型の一つとして位置付けられる。実体は不詳で、音も少なく、近寄るほど熱気や臭気などの感覚的記述も乏しいのが特徴。
日本の妖怪大百科
あくろじんのひ
伊勢の雨夜怪火・悪路神の火
江戸期の記録に基づく像。雨夜に低空を漂い、提灯火の列のように行き来する。人を惑わすよりも、接近者に病患をもたらす存在として恐れられ、対処は地に伏してやり過ごすことに尽きる。地域の呼称は一定せず、伊勢国の怪火類型の一つとして位置付けられる。実体は不詳で、音も少なく、近寄るほど熱気や臭気などの感覚的記述も乏しいのが特徴。
おうまがとき
百魅の生ずる黄昏・逢魔時
この伝承像は、安永8年(1779)刊の鳥山石燕『今昔画図続百鬼』「逢魔時」を中心に組み立てる。逢魔時は一体の妖怪ではなく、妖怪たちが現れ始める時間の条件である。そのため、人格を与えて人を襲わせるのではなく、明るさが失われ、見慣れた景色と人の正体が急に不確かになる黄昏そのものとして扱う。 石燕の説明は短いが、定義、怪異、禁忌を一続きにする。「黄昏をいふ。百魅の生ずる時なり」とまず時刻を定め、その結果として「世俗小児を外にいだす事を禁む」と記す。夕暮れだから子どもを帰すという生活上の戒めと、百魅が生ずるという怪異の説明が、互いを補強する構造である。ただし、これは石燕が18世紀後半に記録した「世俗」の説明であり、古代から全国の家庭で同じ禁制が守られたとまでは言えない。 絵の下半には、人影のない家並みと寺院らしい塔が静まり、左端の大きな太陽が沈みかけている。上半では雲のような塊の中から、角のある顔、獣めいた顔、人とも鬼とも決められない顔が次々とのぞく。百魅は百体を数え上げた名簿ではなく、名も姿も定まらない多くの怪異の総称として見える。石燕は一体の怪物を中央へ置かず、空と町の境全体を妖怪の出現場面へ変えた。 詞書の後半は「王莽時」という異表記を持ち出す。林羅山が石燕以前に記した説では、昼が前漢、夜が後漢、両者の間の黄昏が王莽の新朝に当たる。石燕は、前漢を奪った王莽の王朝が短期間で終わり後漢へ移ったことを昼夜の境へ重ね、この旧説を語り直した。王莽その人が妖怪として出るわけではなく、「おうまがとき」という音を中国史上の王朝の境目で解く知的な見立てである。辞書が大禍時・大魔時・逢魔時・王莽時を併記することも、この語が災い、魔との遭遇、歴史的な間という複数の連想をまとってきたことを示す。 逢魔時の怖さは、暗闇そのものより、まだ見えるのに正しく見分けられない点にある。完全な夜なら灯火を用意するが、夕暮れには昼の感覚が残り、知人だと思った影がよそ者かもしれない。柳田國男「かはたれ時」は、衣服の輪郭から相手を判別しにくかった時代、人々は足音を聞き、声を掛け合うまで相手を確定できなかったのではないかと考えた。「誰そ彼」「彼は誰」という言葉は、この不確かさをそのまま問いの形にする。 柳田が「妖怪談義」で並べた各地の例では、声が人と異類の境界を測る。佐賀では一度の「モシ」では狐を疑い、沖縄では三度呼ばれるまで返事をしない。加賀のガメ、能登の河獺、美濃と土佐の狸は、人に化けても土地の言い方を正しく発音できず、応答のずれから正体を見破られるという。ただし廣田龍平が注意するように、柳田は個々の例の出典を明示しておらず、すべてが同じ逢魔時習俗だったと断定はできない。ここでは薄暮とよそ者を結ぶ柳田の比較的解釈として位置づける。 この時刻に現代時計の固定値はない。江戸期の不定時法でも夜明けと日暮れが昼夜の区切りとなり、その位置は季節によって変化した。夏と冬、北と南、山間と平地では、薄明が訪れる時刻も長さも異なる。暮れ六つや酉の刻を現代の18時または17~19時へ置き換える表は目安にすぎず、逢魔時の本体は時計の数字ではなく、日中の視認性と社会の安心がほどけ始める短い移行にある。 したがって、この逢魔時を倒すことはできない。日暮れ前に帰る、連れと声を掛け合う、灯火で相手を確かめるという行動は、時間を消す魔法ではなく、不確かさを小さくする生活の知恵である。太陽が沈み、完全な夜になれば百魅の世界は続いても、「昼夜の間」としての逢魔時は終わる。石燕の百魅、柳田のよそ者、現代作品の魔物出現時刻を結ぶ核は、境目では見えるものの分類が揺らぐという一点にある。
おちばなきしい
本所七不思議の落葉なき椎
落葉を見せぬ椎の古木という事象そのものが怪異として恐れ敬われた記録的存在。擬人的な意志よりも、土地の気配や樹霊の働きとして理解され、他の七不思議(置行堀、足洗邸など)と同列に、因由を明かさぬ不可思議として語られる。『耳嚢』や地誌・奇談類書に名が挙がるが、怪異の直接的な害は伝えられず、人を脅かすより気味悪さで人を遠ざける類型に属する。樹木信仰や屋敷内の鎮守木の観念とも親和的で、掃除に落葉が要らぬほどという誇張表現が怪を強調する。実在木の比定は諸説あり、確証は不詳。
きじむなー
ガジュマルの精霊·キジムナー
南西諸島の樹精系譜と「ガジュマル文化」。 基本説明では呼称の地域差と食物嗜好に触れたが、 徹底解説ではキジムナーが立脚する「南西諸島におけるガジュマル文化」 の深層を掘り下げる。 ガジュマル (Ficus microcarpa) は熱帯·亜熱帯気候に生育するクワ科イチジク属の常緑高木で、 多数の気根 (アール) を垂らして独特の樹形を作る。 樹齢数百年を超える古木は神宿る木として畏怖され、 沖縄各地の御嶽 (うたき) では信仰対象として保護されてきた。 キジムナーはこのガジュマル古木と分かちがたく結ばれており、 御嶽の樹を伐ると村に災厄が及ぶという信仰と一体化している。 奄美ケンムンとの比較民俗学。 同じく赤色·樹宿·漁業·相撲好きの特徴を持つ奄美大島のケンムンとは、 民俗学者の間で比較研究の対象となってきた。 両者の差異: - ケンムンは河童の同類とされ「水の怪」 寄り、 キジムナーは樹精として「自然霊」 寄り - ケンムンは相撲を好むが、 キジムナーは漁業協力が中心 - ケンムンは雌雄·夫婦の伝承が多いが、 キジムナーは個体単位が基本 両者を「南西諸島の樹精」 という上位概念で括れば、 沖縄·奄美の島嶼民俗が単一の文化圏として浮かび上がる。 これは民族移動史·言語史 (琉球諸語·奄美方言) とも対応する重要な分布である。 「魚の目玉」 と霊魂観。 キジムナーが魚の左目 (一説に両目) のみを食すという独特の食習は、 単なる怪奇趣味ではない。 古代日本·琉球の霊魂観では「目」 は魂の宿る部位の一つとされ、 動物の目を食すことは魂を取り込む行為と解釈された。 キジムナーは魚体ではなく魂を吸う精霊だという解釈が成立し、 残された魚は「魂の抜けた身」 として珍重される地域民俗が生まれた。 これは縄文期からの汎日本的な「目=霊」 観念の琉球的変奏である。 「友になり、 喧嘩で終わる」 物語型の構造。 キジムナーと人間の関係譚は「漁業協力で大漁→人間の小さな失敗 (約束破り·ガジュマル損傷·屁)→決裂→終生の祟り」 という定型を辿る。 この物語型は単なる勧善懲悪ではない。 樹精との「取引関係」 を通じて、 自然との節度ある共生を村落の倫理として伝える機能を持つ。 「ガジュマルを伐るな」 「魚を独り占めするな」 「異界の存在には礼を尽くせ」 といった生活倫理が、 物語の形で次世代へ伝承される構造である。 柳田國男·伊波普猷以来の沖縄研究と妖怪。 島袋源七『山原の土俗』(1929 年) は柳田國男·伊波普猷以来の沖縄民俗研究の系譜に連なる重要文献で、 山原 (やんばる) 地方の口承を体系的に採録した。 戦前の沖縄民俗学は本土学界からも注目され、 キジムナーは「日本本土には無い特有の精霊」 として、 日本妖怪学の比較研究上重要な位置を占めてきた。 戦後は崎原恒新を含む地元研究者が継承し、 現在の村上健司編『日本妖怪大事典』 (角川書店、 2005 年) 等の総覧書にも一項目として収録されている。 現代観光·ポップカルチャーでの再生。 戦後沖縄の村おこし運動 (1970-90 年代) でキジムナー·ブナガヤは地域 identity の象徴として再構築された。 大宜味村喜如嘉の「ぶながやの里」、 沖縄テレビ放送のマスコット「ゆ〜たん」、 1989 年公開の映画『ウンタマギルー』 (高嶺剛監督、 キジムナーが登場)、 毎年開催の「キジムナーフェスタ」 等、 観光·メディアの両面で現代まで持続している点は、 多くの本土妖怪が文献内の存在となった中で例外的である。 沖縄の自然観·樹木観·共生倫理を体現する精霊として、 21 世紀の今日も生きている。
ころぽっくる
蕗の下の小人·コロポックル
「フキの葉の下の人」 という生態論的視座。 基本説明ではアイヌ語語源に触れたが、 徹底解説ではコロポックル伝承が北海道·樺太の生態系と結ばれている事実を掘り下げる。 北海道の大型ラワンブキ (Petasites japonicus var. giganteus) は葉柄が成人の身長を超え、 葉そのものが直径 1.5 メートルを超えることがある。 この巨大フキを傘や屋根に転用する習俗は北方狩猟採集民全般に見られ、 アイヌ自身も雨除け·物干し·容器として日常的に用いた。 「フキの下に住む小人」 のイメージは、 この実用植物との生活的近接が生んだ象徴である。 沈黙交易という普遍的儀礼。 コロポックル伝承の核となる「夜中に獲物を置いて去る、 互いに姿を見せない」 という沈黙交易 (silent trade) は、 アイヌ独自のものではない。 ヘロドトス『歴史』 にもカルタゴ人とリビア人の沈黙交易が記録され、 アフリカ·東南アジア·北極圏の諸民族でも同型の慣行が確認される。 文化人類学的には「言語や敵対関係を越えて物品を交換するための儀礼的距離化」 と整理される。 コロポックル伝承はこの普遍的習慣を物語化したものとも読め、 単なる「想像上の小人族」 ではなく具体的な交易史を映している可能性がある。 坪井·渡瀬の先住民論とその否定。 明治 20 年代の人類学において、 渡瀬庄三郎の竪穴遺構コロボックル説 (1886)·坪井正五郎のコロポックル人種論はアイヌ研究全体を巻き込む大論争となった。 当時の学界は「日本石器時代人はアイヌの祖先」 とする主流 (シーボルト系) と「コロポックルが先住、 アイヌが侵入者」 とする坪井系に二分された。 『コロボックル風俗考』 の風俗画報連載 (1895-1896)は学術論争を一般読者に広め、 教科書·小説·絵画に大量の「コロポックル像」 を生み出した。 戦後考古学の発展で「縄文人 → アイヌ系譜」 が確定し、 坪井説は否定されたが、 学術論争が国民的想像力を形成した稀有な事例である。 瀬川拓郎の視点転換 ── 「異郷のアイヌ」 説。 瀬川拓郎『コロポックルとはだれか』 (新典社、 2008)の革新は、 「先住民か否か」 という二元論を退け、 「北千島アイヌの中世実態」 という具体的歴史と接続させた点にある。 彼は次の論点を挙げる: - 沈黙交易は北千島アイヌが実際に行っていた - 竪穴住居は北千島アイヌが中世まで実用した - 土器使用·陶土採取広域移動も北千島アイヌの考古学的事実 - 北千島でのみコロポックル伝承が無い (自分達の事は物語化しない) 伝説を「想像」 ではなく「異なる集団のアイヌに対する具体的記憶」 として読み直すこの視点は、 アイヌ内部の地域差·歴史的多様性を顕在化させ、 単一集団としての「アイヌ」 像を解体する民族誌的成果でもある。 別離譚と「醜貌」 のモチーフ。 アイヌの好奇心ある若者がコロポックル女性の手を掴み小屋に引き入れた、 それを恥じたコロポックル一族が北方へ去った ── という別離譚は、 「異族との接触·誤った介入·関係喪失」 という普遍的物語型に属する。 ギリシャ神話のエコー、 日本本土の鶴の恩返し·豊玉姫の見るな譚 (『古事記』 海宮訪問譚) と構造的に類縁する。 「見てはならぬものを見た」 ことによる別離は、 異族間の境界保持·距離尊重という民俗倫理の物語化である。 現代児童文学とアイヌ表象の倫理。 戦後の佐藤さとる『コロボックル物語』 シリーズ (1959-) は、 アイヌ伝承から離れた独自の創作世界としてコロポックル像を再構築し、 世代を超えた日本児童文学の古典となった。 一方、 21 世紀の現在は、 アイヌ文化を借用するメインストリーム作品に対するアイヌ自身の発言権を尊重する流れが強まっている。 コロポックル像の流通史は、 学術論争·文学創作·商品命名 (じゃがポックル等)·アイヌ文化の表象倫理という多層的問題を含む。 単純に「可愛い小人キャラ」 として消費するのではなく、 その背後にある先住民史と研究史を踏まえる必要がある。
しんきろう
蜃の吐く楼閣・蜃気楼
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』に拠る系譜では、蜃=大蛤が海辺で気を吐き、その気が空に満ちて楼台・宮闕の像をなすと解される。図像は海上に城郭や楼門が反転・伸長して漂う様を描き、しばしば蜃そのもの、あるいは龍と併記される作例も見られる。江戸後期には摺物・浮世絵の画題として反復され、見物の話柄となった。伝承は特定の地名に固定せず、越中などの海岸や干潟での目撃談が語られるに留まる。妖怪としては実体を持たず、現れては消え、人を惑わすが害は少ない存在と位置付けられる。
じおうせんび
雨夜の泉縄手に灯る地黄煎売りの怨火
地黄煎火は、近世の怪火譚のなかでも「誰が・どこで・なぜ」が具体的に語られる珍しい例である。被害者は無名の怪物ではなく、地黄煎という実在の甘味を売り歩いた行商人であり、現場は東海道水口宿に近い泉縄手の膝頭松という、人が場所を特定できる大木である。怪火の発生条件も「雨の夜」と限定され、湿気の多い夜に見える鬼火・狐火の体験が、街道での殺人事件の記憶と結びついて一つの怪に固まったと考えられる。火が金への執着の象徴である点は、近世都市の貨幣経済が生んだ怨念譚の系譜に連なり、同じ甲賀郡水口の地に根ざす土地の怪として、片輪車や甲賀三郎とともに語り継ぐ価値がある。
ちょうちんび
田畦に浮かぶ怪火・提灯火
各地に伝わる提灯大の鬼火の総称的呼称。狐火・狸火と混称される地域があり、名の由来は「化け物が提灯を灯す」との解釈に基づく。雨夜や川堤、墓域に出没し、一定の高さを漂行するという。近づくと消える、打てば分かれる、群れて行進するなどの報告は時代や土地で差がある。民俗学的には怪死や祟りの兆し、路傍での禁忌の指標として語られ、追跡や打擲を戒める教訓譚の要となる。近世の随筆・怪談類に散見され、固有名(小右衛門火など)を得て地域の記憶に留まった。自然発火説や動物の仕業説が併存し、正体は定まらない。
つるべび
樹上に下る怪火・釣瓶火
江戸期の怪談と石燕の図像に基づく釣瓶火の伝統的解釈。木霊・樹の精に由来する怪火として各地で語られ、青白い火珠が枝先からぶら下がり、井戸の釣瓶のように上下して旅人を惑わす。火勢は見かけほど強くなく、衣や草木に燃え移らないとされる。近世の怪異記には京都西院周辺の火の怪が引例され、近代以降の妖怪事典では釣瓶落とし類似の怪火、あるいは別種として整理される。目撃は月のない晩や霧の立つ夜に多いとされ、近づくとふっと遠のき、離れるとまた寄る。顔の影が浮かぶことがあり、人魂との混同も生じたが、地付きの怪火として伝えられる。
てんぐつぶて
投擲者見えぬ礫・天狗礫
天狗礫は実体の定まらない怪異として語られ、原因は天狗、または狐狸や神意の発露など多義的に解釈されてきた。特徴は、投擲者が見えないのに四方から石が飛ぶ、感触や音は確かでも石が見当たらない、痕が残らない、一定の時刻に反復する、といった点にある。加賀・金沢・江戸など都市部から社頭近辺まで広く事例が記録され、見物人の増加や役人の見回りを契機に鎮静する例も報告される。道徳的文脈では素行の戒め、不作や病をもたらす兆しとされ、古記録では雷と結び付けて天神の落とす石と見る記述もある。民俗学上は飛礫の神事や強訴・印地との観念的連関が指摘され、超自然の意思表示として理解されてきた。
にんめんじゅ
人面花の異木・人面樹
江戸期の博物図譜的記事を基盤とし、石燕の画意を踏まえた像。山谷に叢生する樹で、枝先に人面に似た花をつける。花は人語を解さず、呼びかけや物音に応じて笑みを浮かべるとされる。笑いが重なれば花弁は力を失い、やがて萎れて落ちる。日本では異国奇談として受容され、在地の地名や逸話の具体性は伴わない。花の表情は老若さまざまで、風に揺れて歯を見せ笑う姿がしばしば図像化される。実体は不詳で、植物の精か、希代の異木として記録的に扱われ、恐怖よりも稀観として語られた。
はかのひ
五輪塔の燐火・墓の火
石燕図像に拠る墓所の怪火像。荒れた墓域、茂る藪、梵字の欠けた五輪塔という取り合わせは、無縁・無供養の場に宿る火の観念を象徴する。近世説話では、人の血脂や墓土から立つ燐火として説明されつつも、読経や塔の修補で消える事例が語られ、宗教的実践と自然現象観の交錯が見られる。火は人影を追うように漂うが、触れればふっと遠ざかると伝えられる。害意は稀で、道案内のように前を照らすこともあると噂される。
ばしょうのせい
大葉に宿る化女・芭蕉精
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』に見える芭蕉精のイメージに基づく整理。芭蕉は大葉を繁らせ、風雨に鳴る音や影が怪を呼ぶと解され、老熟した株に気が宿るという観念が背景にある。美女に化し僧俗の心を撹乱し、草木と成仏の可否を問い、応対次第で姿を消す。琉球の蕉園での遭遇譚や、刃を帯びると避け得るという避怪法、信州の「斬ると翌朝は芭蕉が傷ついていた」型の変化譚を含む。直接の加害性は一定せず、驚愕・惑乱をもって戒めとする例が多い。舞台は寺院の庭、蕉園、屋敷の庭先など。
ふらりび
無縁仏の炎鳥・ふらり火
江戸の絵巻に拠る図像を基準に、炎に包まれた鳥形の怪火として整理する。実体よりも現象としての性格が強く、目撃は薄暮から夜半にかけて報告される。特定の害を加える確証的記録は少なく、近寄ると消え、遠ざかると現れるといった怪火譚の共通性をもつ。富山の「ぶらり火」など、人の怨念や無縁仏の霊火と解される語りが随伴するが、地域により解釈は揺れがある。図像上の鳥面は吉凶二義的で、霊魂の変相を示す記号的表現とみられる。
ほうこう
老樹に宿る人面犬・彭侯
江戸時代、日本の学者・絵師が中国説話を摂取し、木霊観の枠で整理した彭侯像。外見は人の顔を備えた犬形として図られ、寄る辺は古樟などの老樹。山中での声の反響は木の霊の働きと解され、山彦図像の一部に犬形が現れる背景として彭侯の記載が参照された。近世の博物誌は中国書からの引用を明示し、在地伝承の上に異国の条を重ねて解説するにとどまるため、具体的な地域的怪異談は乏しい。日本側の記述は、木魅=木霊の同義語的理解のもとで「木の精」として扱い、伐木禁忌や老樹信仰の文脈に接続される。形態・性情は史料ごとに細部の差はあるが、老樹から血を流して顕れる点、人面犬形である点は共通要素として踏襲された。創作色の強い脚色を排し、中国原典の条と和漢博物誌の受容関係を示すのが、この版の特徴である。
みのび
琵琶湖雨夜の蓑光・蓑火
琵琶湖起源の記録を典型とし、雨夜に蓑・傘・衣に微光が点在してまとわる怪火の総称的相。熱を持たず、払う動作に応じて増光・増数するが、衣を外す、火を灯す、時間経過などで自然消散する。各地の呼称や解釈は異なり、水死者の霊と見る地域もあれば、動物の仕業や自然発光と見なす伝もある。荒事を起こすよりも目惑い・気味悪さを与える性質が語られ、単独者のみが知覚する例も多い。
やまびこ
山中で声を返す・山彦
山彦は山中の音を返す現象の人格化で、木霊や山の神の眷属として解される。呼びかけに同じ言葉を重ねて返すのは、山域の境界を示す応答と考えられ、無闇な叫声は山の気を乱すとして戒めとなった。近世の図像では犬や猿に似た小獣の姿で描かれ、『百怪図巻』『画図百鬼夜行』の像は『和漢三才図会』に載る玃(やまこ)や、木中に住むとされた彭侯の影響が指摘される。地域によっては鳥声(呼子鳥)や響く岩(山彦岩)など、媒介が異なる伝承もあり、現象・霊・怪物像が重層的に混在するのが特徴である。
ゆきおんな
雪国の夜の白霊・雪女
「白霊」としての雪女は、吹雪の夜にふと行く手へ立つ、足跡を残さぬ白い人影として語られる。近づく前にまず空気が冷え、吐く息が白く凍り、やがて雪明かりのなかに裳裾の長い女がぼうと浮かぶ。この「来る前に寒さが知らせる」感覚こそ、各地の遭遇譚に共通する核である。顔だけが透けるように白く、瞳は底光りし、声をかけても応えぬか、低く名を問うてくる。問いに答えれば精を吸われ、答えねば見逃されるという禁忌の型が多い。 小泉八雲が『怪談』に記した巳之吉とお雪の物語は、この白霊像を最も鮮明に伝える。吹雪の小屋で老樵の茂作を凍て殺した雪女は、若い巳之吉には「今見たことを誰にも言うな」と命じて去る。のち巳之吉は旅の女お雪と契り、子をなして睦まじく暮らすが、ある雪の夜、灯下で繕い物をする妻の白い横顔に、かつての雪女の面影を重ねて口を滑らせる。お雪は正体を明かし、子らへの情ゆえに殺さぬと言い置いて、白い霧となり煙出しから消える。禁忌の言葉ひとつで結ばれた縁が解ける。別離の哀しみと、人を恋う異界の女という主題が、ここに結晶する。 図像では、背の高い白衣の女を淡彩で描くのが通例で、輪郭をことさら強く取らず、雪と見分かぬほどに白く溶かす表現が好まれた。足元を曖昧に霞ませ、影を落とさずに描くことで「この世のものならぬ」気配を出す。歌い踊る妖というより、音もなく立ち、音もなく消える静の怪。それが「白霊」としての雪女の本領である。
ゆきじじい
吹雪の山の老体・雪爺
吹雪の帳が下りるとき、雪爺は白装束の老体で現れ、遠間から呼びかけて人の方向感覚を奪う。雪にまつわる怪異譚の系譜に属し、雪女・雪入道と機能が重なるが、老形である点が特徴。姿ははっきりせず、近づくほど霞み、声のみが背後から響くと語られる。民俗的には雪害の戒めとして機能する象徴的存在と解される。
ゆきじょろう
月から降りた雪の姫・雪女郎
雪女郎は、山形という日本有数の豪雪地が育んだ、独自色の濃い雪女である。全国の雪女が旅人を凍え死なせる冷酷な怪として語られるのに対し、山形の雪女郎には人の情けに福で報いる「報恩型」の説話が色濃く残る。小国地方では、その正体を月の世界から雪とともに降りた姫とし、帰る術を失って雪明かりの夜に現れると伝える——これは東アジアの月信仰と雪女が結びついた珍しい型である。昔話では、宿を乞う白衣の女を冷たく拒んだ家は没落し、温かく迎えた家には金の塊という福が残される。雪女郎の体は人の温もりに触れて溶け、その溶けた跡に恵みを置いていく。さらに最上地方では、子を抱かせようとする産女系の雪女や、牛を連れた雪女も語られ、雪女郎は単一の像に収まらない。凍てつく冬の恐ろしさと、それでも雪を慈しまねば生きられぬ雪国の情緒とが、この一柱ならぬ一体の雪女に重ね描かれている。
ゆめのせいれい
寝所に夢運ぶ・夢のせいれい
絵画資料における「夢のせいれい」という名は伝聞的で、特定の図像への比定は定まっていない。杖を突き手招く姿の老体として描かれるとされる点から、夢を導く象徴的存在と理解される。文字形の似合から草の精霊や樹木の妖の誤読に通じる説もあるが断定はできない。ここでは夢を媒介し吉凶の兆しを告げる自然霊として整理し、占いや験担ぎにおける夢の位置づけと結び付けて解釈する。過度な人格化や固有名の伝承は避け、夢そのものの力に宿る霊格として位置づける。
1 - 23 / 23 件の妖怪を表示中