崇徳天皇
すとくてんのう
讃岐配流の怨霊・崇徳天皇
この版では、一人の廃帝がいかにして日本史上最大とまで称される大天狗・大魔縁へ転じたか――史実と『保元物語』以来の伝説の境を見極めながら徹底して追う。 まず史実を押さえる。崇徳の不遇は、鳥羽院に「叔父子」と疎まれ、院政の権を持てぬまま譲位させられた政治的疎外にあった。近衛天皇の早世後、実子重仁親王ではなく弟後白河が立てられたことが保元の乱(一一五六)の引き金となる。乱に敗れた崇徳の側では源為義・平忠正らが約四百年ぶりの公的死刑に処され、崇徳自身は讃岐へ流された。ここまでは記録に基づく史実である。 怪異はその先、伝説の層で生まれる。舌を噛み血で「大魔縁とならん」と書したという呪詛も、爪髪を伸ばして天狗と化したという姿も、同時代の記録ではなく鎌倉期の『保元物語』が伝える物語である。だがこの伝説は強い説得力をもって広まり、安元年間以降に都を襲った大火・強訴・動乱、ひいては平氏滅亡に至る治承寿永の乱までが、崇徳の祟りとして読み解かれていった。事件そのものは史実、それを崇徳の怨念に帰す解釈は御霊信仰――この二つは截然と分けて見る必要がある。 崇徳の天狗像を決定づけたのが文学である。『太平記』巻二十七「雲景未来記」は、崇徳を天狗・魔縁の群れを統べる魔王として描き、近世には上田秋成の『雨月物語』「白峯」が、西行と対峙する崇徳の怨霊を、長鼻の天狗ではなく金色の鳶として鮮烈に造形した。崇徳が「日本一の大天狗」「日本史上最大の怨霊」と語られる像は、こうした文学の累積の上に立っている。 注目すべきは、その鎮魂が近代にまで及んだことである。明治元年(一八六八)、明治政府は讃岐に眠る崇徳の神霊を京へ迎え、白峯神宮に祀った。新たな御代の出発にあたって七百年前の廃帝の祟りをなお恐れたこの事実は、崇徳怨霊の畏怖がいかに根深かったかを物語る。百人一首に名歌を残した歌人と、王権を呪う大魔王。この落差こそが、崇徳院を御霊信仰の極点に押し上げたのである。