紀伊半島の南端、黒潮の洗う岩礁と、本州でもっとも深いと言われる紀伊山地の襞のなかに、和歌山県──かつての紀伊国は横たわる。この地の妖怪を語るとき、まず見据えねばならないのは、ここが日本屈指の二大霊場を抱えた土地だという事実である。ひとつは熊野三山、いまひとつは高野山。死者の往く他界でありながら蘇りの浄土でもある熊野と、空海が真言密教の根本道場として開いた高野。聖なるものが極限まで濃く凝った土地には、その裏返しとして異形もまた濃く生まれる。
紀伊の怪を貫く糸は二本ある。一本は「霊場へ向かう道」である。蟻の熊野詣と呼ばれた巡礼の列が踏みしめた熊野古道、その夜道に送り雀が鳴き、果無の山に一本だたらが片足の跡を刻み、山中の女が「火を貸して」と提灯に近づく。もう一本は「蛇身に変じる情念」である。裏切られた女が大蛇となって鐘ごと男を焼く道成寺の物語は、信仰の道のただなかで人の情が怪へ転じる瞬間を、これ以上ないほど鮮烈に描き出した。神々の地と、そこへ通う者の業──この二つが紀伊の妖怪を育てた。

熊野権現
熊野権現(くまのごんげん)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に祀られる神々の総称であり、日本古来の自然崇拝(神道)と仏教が高度に融合した神仏習合の象徴的存在です。「権現」とは、仏や菩薩が日本の衆生を救うために、仮(権)に日本の神の姿をとって現れた(現)という意味を持ちます。熊野は古来より峻険な山々と深い森、海に囲まれた霊地であり、巨石や滝、大河に対する畏怖を根底とした原初的な山岳信仰が息づいていました。そこに仏教の浄土思想や修験道の修行体系が結びつくことで、熊野権現は「現世の救済」と「来世の極楽往生」の両方を約束する強大な信仰の対象へと発展しました。平安時代後期から鎌倉時代にかけては、歴代の上皇による熊野御幸が頻繁に行われ、やがて「蟻の熊野詣」と称されるほど、身分や男女、さらには浄不浄を問わずあらゆる人々を惹きつける日本最大の霊場となりました。
詳しく見る熊野──神々の地と八咫烏
和歌山の妖怪文化の根は、熊野三山にある。熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社、この三社を核とする熊野信仰は、紀伊の険しい山と深い森、そして滝や巨石への原初的な畏怖の上に、仏教の浄土思想と修験道の修行体系が幾重にも積み重なって生まれた[1]。熊野権現とは、その三山に祀られる神々の総称であり、「権現」の名は、仏や菩薩が衆生を救うため仮に日本の神の姿をとって現れたという本地垂迹の思想を端的に示している。
熊野が特異なのは、その圧倒的な包摂性にある。多くの寺社が女人禁制を敷き、穢れを忌避した時代に、熊野権現は貴族から庶民まで、男女を問わず、病者をも一切の差別なく受け入れた。「誰一人として見捨てない」というこの救済の姿勢が、平安後期から鎌倉にかけての熊野御幸を生む。宇多上皇に始まり、白河・鳥羽・後白河ら歴代の上皇法皇が、およそ三百七十年のあいだに百回を超えて都から熊野へ通った[2]。やがてその巡礼熱は身分を越えて広がり、列をなして険路を歩む様は「蟻の熊野詣」と称されるほどの熱狂となった。
険しい山道を歩くこと自体が、一度擬似的な死を迎え、霊地で滅罪と浄化を経て新たな生命を得て蘇るという、壮大な再生の儀礼であった。熊野は浄土であると同時に、死者の霊の向かう黄泉の他界でもある──この生と死の境界という性格こそが、熊野権現信仰の根幹をなす[1]。

神武天皇を大和橿原へ導いたと伝わる三本足の霊鳥、八咫烏が熊野の使いとして崇められるのも、この地が異界との結節点であったことと無縁ではない。
熊野信仰を全国へ運んだのは、先達として人々を導いた修験者(山伏)と、熊野比丘尼と呼ばれた女性宗教者たちであった。彼女らは地獄と極楽を描いた熊野観心十界曼荼羅を手に全国を巡り、文字の読めない庶民へ絵解きによって熊野の死生観を植えつけた。聖地そのものよりも、聖地へ向かう「道」と、道を歩く者の心象──ここに、紀伊の妖怪を読み解く最初の鍵がある。
熊野御幸の巡礼者が都から最初にたどり着いた聖地が、熊野本宮大社であった[2]。かつて社殿は熊野川・音無川・岩田川の合流する中州、大斎原(おおゆのはら)に鎮座していたが、明治二十二年(一八八九)の大水害で多くの社殿を流失し、現在地へ遷座した。水と山に挟まれたこの立地そのものが、生者の世界と他界とを隔てる境界の地形であった。八咫烏が三本足で描かれるのは、天・地・人を表すとも、熊野権現の使者として太陽を運ぶ霊鳥だからとも言われ、現代では熊野の象徴として広く知られる。
紀伊の妖怪が「道を歩く者」の不安から生まれるという構図は、この熊野信仰の地理から必然的に導かれる。誰もが歩いた巡礼路、その峠と滝と淵の一つひとつに、歩く者の畏れが形を結んだ。次節以降に見る怪のほとんどが、霊場へ通じる山道・川辺・峠に現れるのは、決して偶然ではない。
蛇になった女──道成寺と焼かれた鐘
その「道」のただなかで、人の情念が怪へと転じた最も名高い物語が、日高川のほとりの古刹、道成寺に伝わる安珍清姫伝説である。道成寺はこの出来事を延長六年(九二八)のこととし、十一世紀の『大日本国法華験記』に記録され、『今昔物語集』にも採られたと整理する[3]。
奥州白河から熊野本宮を目指す若い僧、安珍が、紀伊の真砂(現在の田辺市)に一夜の宿を借りる。宿の娘、のちに清姫と呼ばれる女は、安珍を一目見て恋に落ちた。安珍は参詣の帰路に再び立ち寄ると偽って女のもとを去り、約束を違えて逃げる。裏切られたと知った女の追跡は、人間の走りから異類の変化へと移ってゆく。日高川では渡し守が舟を出さず、女は怒りのまま川へ身を投じ、蛇体となって水を渡った[3]。

清姫
清姫は、紀伊国道成寺に伝わる安珍清姫伝説の蛇女である。熊野参詣の僧安珍に恋し、約束を破られたと思い定めると、日高川を越えて追い、蛇身となって道成寺の鐘に隠れた安珍を焼き殺す。道成寺はこの物語を延長6年(928)の出来事と伝え、11世紀の『法華験記』に記録され、のちに能・人形浄瑠璃・歌舞伎の「道成寺物」へ広がったと説明する。古い説話では女の名が固定されず、後代の寺社縁起・絵解き・舞台芸能を通じて「清姫」として定着した。妖怪としての清姫は、蛇神そのものではなく、人間の恋慕が嫉妬と執心に焼かれて蛇身へ変わる境界的存在であり、般若や橋姫と同じく、女の怨念が顔・身体・火を得て現れる代表的な鬼女である。
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道成寺へ逃げ込んだ安珍は、僧たちによって梵鐘の中に隠される。だが蛇となった清姫は鐘に幾重にも巻きつき、その身の炎熱で鐘もろとも安珍を焼き尽くした。重要なのは、清姫がはじめから怪物ではなかった点である。破られた約束、恋慕、羞恥、嫉妬、宗教者への不信が一気に重なって、ひとりの人間の女が蛇へ転じる。八岐大蛇のような原初の大蛇怪とは異なり、清姫は般若面が表す「怒りと哀しみの同居」に近い存在なのだ[4]。
そして物語のもう一方の主役が、焼かれた鐘そのものである。

道成寺鐘
道成寺縁起で知られる大梵鐘。僧・安珍が鐘内に隠れたところ、恋慕が怨念へ転じ蛇体となった女が巻き付き、炎熱で鐘を焼いたと語られる。伝承には、鐘が湯と化して僧を呑む能楽的描写と、消火され鐘が残存した縁起説が併存する。鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』で「道成寺鐘」としてこの異説を図示した。
詳しく見る道成寺鐘の伝承は、諸本で大きく揺れる。『道成寺縁起』では、女が蛇身となって鐘に巻きつき火を吐き、長く燃えたのちに水で消火して鐘を除けたとする。一方、能『道成寺』では「鐘は即ち湯となつて」山伏を呑むと語り、鐘が熱で融け去る描写が強調される[4]。鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』に「道成寺鐘」を図示し、「鐘とけて湯となる」と記しながら、当時その鐘が他寺に納められていた事実をも併記した。怪異がいかに伝承の過程で変奏されてゆくかを、この鐘ほどよく示す器物はない。
この物語が紀伊国に固有なのは、それが熊野参詣という具体的な信仰の道のうえに据えられている点にある。安珍は奥州白河から熊野本宮を目指す参詣僧であり、清姫の宿は熊野古道沿いの真砂にあった。つまり安珍清姫伝説は、前節で見た「蟻の熊野詣」の巡礼路を舞台装置として成立している。聖地へ向かう清浄な道だからこそ、そこで破られた約束と裏切られた情念が、いっそう深い罪と怪へ転じる──道成寺の物語は、熊野信仰の地理を抜きには生まれえなかった。日高川町には、いまも安珍が渡ったと伝わる渡し場の跡や、清姫の墓と伝えられる塚が点在し、物語が土地に深く根を下ろしていることを示している。
道成寺の物語は、寺社縁起としてのみならず、絵解きと芸能によって幾度も再演された。道成寺では今日も僧が絵巻を繰りながら物語を語る「絵とき説法」が続けられ、来訪者は安珍清姫の悲恋を肉声で聴く。能『道成寺』では、女人禁制の鐘供養の場に白拍子が現れ、舞いながら鐘へ近づき、ついに鐘の中へ飛び込む。やがて鐘の内から蛇体の鬼女が現れ、僧たちの祈祷で鎮められる──過去の悲恋が、舞台上の「いまの怪異」として再起動するのである。鐘の中へ役者が消える「鐘入り」は、能の演目のなかでも屈指の難曲として知られる[4]。近世にはこれが人形浄瑠璃・歌舞伎・舞踊へ展開し、「娘道成寺」をはじめとする道成寺物の巨大な系譜をつくった[5]。清姫はもはや「嫉妬深い女」の教訓譚にとどまらず、寺院の由緒、熊野参詣路、鐘供養、舞台芸能、蛇信仰をつなぐ強靭な結節点となっている。
高野と紀伊の深山──天狗・一本だたら・送り雀
熊野が南の海へ開く霊場なら、北の山中に屹立するのが高野山である。弘仁七年(八一六)、空海(弘法大師)が朝廷の許しを得て、標高およそ千メートルの峰々に囲まれた盆地を真言密教の根本道場として開いた[6]。深山に籠もって法力を練るこの土地の性格は、おのずと山の主たる天狗の領分と重なってゆく。

天狗
天狗は、日本の山岳に棲むとされる妖怪にして神格的存在であり、修験道の山伏と分かちがたく結びついてきた山の主である。その姿には大きく二つの系統がある。ひとつは赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる。古くは鳶(とび)のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていった。 天狗は仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じる――この両義性が天狗の本質である。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の絵巻にも風刺として描かれた。一方、山岳信仰のなかでは山の守護者・武芸と法力の達人として畏敬され、修行者を試し、あるいは導く存在とされた。京都の鞍馬山や愛宕山をはじめ、諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すと伝えられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げている。
詳しく見る天狗は山伏と分かちがたく結びついた山の主であり、仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じるという両義性をその本質とする。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びついた。永仁四年(一二九六)頃の『天狗草紙』は、南都北嶺の名だたる寺の驕れる僧たちを天狗に擬えて風刺しており、天狗が「仏道の慢心の象徴」として中世に観念されたことをよく示している。諸国の霊山にはそれぞれ大天狗が座すと信じられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げる。修験の聖地である高野もまた、そうした天狗の棲む山として畏れられた。人が忽然と消える天狗攫い(神隠し)、伐られる大木の音が響くのに翌朝には何もない天狗倒し、山中にこだまする天狗笑い──山の不可解は、ことごとく天狗の仕業として語られたのである。
高野山が天狗の領分と重なるのには理由がある。空海は唐の長安・青龍寺で恵果に密教を学び、帰朝後、衆生済度の根本道場として人里離れた深山を求めた。標高千メートル級の峰に囲まれたこの隔絶の地は、まさしく俗世と隔たった修行の場であり、同時に山の霊威が最も濃く凝る空間でもある[6]。法力を練る行者と、その法力を試し、あるいは妨げる天狗とは、同じ深山の論理から生まれた対の存在なのだ。高野の山中で行者が経験する不可解な現象──道に迷う、声が聞こえる、物が消える──は、修行の試練であると同時に、天狗の領域に踏み込んだ証でもあった。
深山の怪は天狗だけではない。和歌山と奈良の境をなす果無山脈には、皿のような一つ目に一本足の山霊が棲むと伝えられた。

一本だたら
一本だたらは、皿のような一つ目と一本足の姿をとるとされる山の怪で、紀伊の熊野から大峰山脈一帯にかけて広く語られる。和歌山と奈良の境をなす果無山脈では、十二月二十日の「果ての二十日」にのみ現れるとされ、姿を見た者はなく、雪上に幅一尺ほどの大きな単跡を残すのみだという。「果無」の名も、この時期に人通りが無くなることに由来するとの説が伝わる。一本足で飛ぶように走り、叫べばその声で木の葉がばたばたと散るともいい、出会えば病を得るとして山入りを厳しく忌んだ。奈良の伯母ヶ峰では電柱に目鼻をつけたような姿で、雪の日に宙返りしながら片足の跡を残すが、人には危害を加えないとされ、高知の「タテクリカエシ」と同一視する説もある。広島・厳島でも一本足の怪が語られるが姿は不詳とされ、地方ごとに性質や呼称、危害の有無の差が大きい。名の「だたら」は製鉄のたたら師に通じるとされ、一つ目の鍛冶神が零落した姿とみる近代の解釈も知られるが、これはあくまで一説である。
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一本だたらは、十二月二十日の「果ての二十日」にのみ現れるとされ、姿を見た者はなく、雪上に幅一尺ほどの単跡を残すのみだという。一本足で飛ぶように走り、叫べばその声で木の葉がばたばたと散るともいい、出会えば病を得るとして山入りを厳しく忌んだ。「果無」の名すら、この時期に人通りが絶えることに由来するという説が伝わる[7]。その核には、奈良の伯母ヶ峰の猪笹王の物語がある。背に熊笹の生えた巨大な猪が狩人に撃ち倒され、亡霊が一本足の鬼と化して峰越えの旅人を襲った。これを丹誠上人が封じ、年に一度この日だけ解放を許したため、果ての二十日が峰の厄日となったと語られる[8]。別話では、美女に化けた一本足が現れ、天野の猟師が撃つも弾を手で受けて投げ返したが、丹生都比売神社の神の教えにより二発が命中し、女は「果ての二十日に通る者だけは命を取らせてほしい」と願ったとも伝える[8]。名の「だたら」を製鉄のたたら師に通わせ、片足で鞴を踏み片目で炉火を見続けた職能者の姿の零落と見る近代の解釈もあるが、これはあくまで一説にすぎない[9]。
興味深いのは、一本だたらが今なお語り継がれる生きた伝承だという点である。和歌山県西牟婁郡では、河童の一種「ゴーライ」が山に入って化したカシャンボを一本だたらと呼ぶ例もあり[8]、二〇〇四年春には白浜町富田で一本足の足跡が見つかって「富田のがしゃんぼ」として話題になった[8]。果無という地名の重い響きと、年に一度の厄日という禁忌が、この山霊を紀伊の山岳信仰のなかへ深く織り込んでいる。
そして、霊場へ向かう夜道には、もうひとつ忘れがたい怪がいる。
那智三峯のひとつ、標高七四九メートルの妙法山にある妙法山阿弥陀寺の周辺で語られた送り雀は、夜の山道で「チチチチ」と鳴きながら人の後を追う怪鳥である。妙法山は古来、死者の霊が最後に登る山として信仰され、亡者の鐘を撞きに登る習わしが伝わる、熊野でも屈指の他界に近い霊地であった。この鳴き声の後には狼、もしくは送り狼が現れる前兆とされ、声を聞いた者は転ばぬよう足元に注意を払って歩いたという。道で転倒すれば、すぐさまそれらに襲われると恐れられたからである。鳴き声を実在の鳥アオジになぞらえて「蒿雀」とも呼ぶが、夜間に飛ぶことからアオジとの同一視を疑う説も併存し、奈良では夜雀と同一視される例もある[10]。死者の登る霊山の麓、巡礼の夜道だからこそ、こうした「人を送る」怪が育ったのだ。
同じ夜道に現れて、より直接に命を狙うのが肉吸いである。提灯を手に山道を行く者へ、十八、九の美しい女に化けて「火を貸して」と近づき、提灯を奪って暗闇に紛れ、人に食らいつく。和歌山の果無山脈や三重の熊野の山中に伝わる怪だ。民俗学の巨人にして紀伊田辺に拠った南方熊楠は、その『紀州俗伝』に肉吸いの記録を残した。明治二十六年(一八九三)に郵便脚夫が夜道で遭い、火縄を打ちつけて退散させた話、また果無山脈で猟師の源造が「源造、火を貸せ」と呼びかけられたとき、一匹の狼が袖を引いて危機を知らせた話などである[11]。十津川近傍では、猟師が若い女に化けたものを怪しみ、仏名を刻んだ弾で撃つと白骨の怪となったという。江戸の黄表紙『百鬼夜講化物語』には屋内で男の精気を吸う姿も描かれ、山中の怪異と近世都市の艶めいた表現の二相が併存する。火種や火縄を携える戒めは、この紀伊の山深さがそのまま結晶した、生きるための知恵であった。
紀伊の最奥、和歌山県でただ一つの飛び地の村として知られる東牟婁郡北山村には、地形そのものに刻まれた狐の伝承がある。タメハチ狐は、男「タメハチ」に憑いたとされる狐で、滝の絶壁を渡りきる妖力を示したと語られ、断崖に残る筋状の跡をその証とする。もっとも、北山村には絶壁を渡り競べたのは蛇と修験者(イカヅチ坊主)で、修験者は落ち蛇が渡りきったため跡が残ったとする伝えもあり、語り手や家筋によって主体が狐にも蛇にも修験者にも入れ替わる[12]。実在の人物や年代は不詳で、地形伝承と憑き物観が結びついた逸話として読むのがよい。同じ崖の筋を「狐の妖力」「蛇の執念」「修験者の挑戦と失敗」のいずれとも語りうるところに、口承の本質がよく表れている。深山の崖一筋にすら幾通りもの物語を見出すこの土地の想像力こそ、修験の山々に分け入った人々が育てた、紀伊ならではの語りの厚みなのである。
海と里の怪──牛鬼
霊場へ通う山の道に対して、紀伊にはもうひとつ、黒潮の洗う海の顔がある。その海辺と淵に現れるのが牛鬼である。

牛鬼
牛鬼(うしおに)は、主に西日本の海岸や淵、山間部に現れるとされる、日本妖怪の中でも屈指の獰猛さと霊格を持つ存在である。姿は「牛の頭に鬼の胴」あるいは「蜘蛛の胴体に牛の首」など多様な異形として描かれる。古くは平安時代の『枕草子』において「おそろしきもの」として名指しされており、古来より人々に深く畏怖されてきた。その本質は、無差別に人を喰らい毒気を撒き散らす「残忍な悪鬼・疫病神」としての顔と、祭礼において神輿を先導し悪魔祓いを行う「強力な守護神」としての顔という、極端な両義性(善悪の二面性)を併せ持つ点にある。文献上の怪異から、地域の民俗信仰・芸能の対象へと変遷を遂げた、民俗学的に極めて重要な妖怪である。
詳しく見る牛鬼は西日本の海岸や淵に現れる屈指の凶悪な怪で、牛の頭に鬼の胴、あるいは蜘蛛の胴に牛の首など、多様な異形に描かれる。平安の『枕草子』に「おそろしきもの」として名指しされるほど古くから畏怖された存在だ。

和歌山では各地の淵や滝に牛鬼が語られ、その性質は土地ごとに少しずつ異なる。西牟婁郡の牛鬼淵は底が海に通じるとされ、淵の水が濁ると「牛鬼がいる」と恐れられ、夕暮れに現れて、見ただけで人を病ませ、あるいは狂わせるという。すさみ町の琴の滝の牛鬼は人の影を嘗め、影を嘗められた者はほどなく死ぬという。串本町の笹の平の牛鬼は化けるのを得意とし、美しい鳥に姿を変えて人を惑わすが、これを見た者は病みついて二度と起き上がれないと伝えられた。猫のような胴に一丈(約三メートル)ほどの尾を持ち、手鞠のように体が柔らかいので歩いても足音がしないとも語られる[13]。淵・滝・海という水の境界に現れ、影や視線を介して命を奪うこの怪は、紀伊の海辺の人々が抱いた水難と風土病の恐怖を、そのまま異形に凝らせたものであった。
紀伊の牛鬼で興味深いのは、それに対抗する呪文が残されていることである。出会ったとき「石は流れる、木の葉は沈む、牛は嘶く、馬は吼える」と、ことごとく逆さまの言葉を唱えれば命が助かるという。これは、牛鬼という存在の理を反転の言葉で攪乱しようとする、海辺の民の切実な防御の知恵であった[13]。無差別に人を喰らう害悪の怪でありながら、ひとたび祀り上げられれば祭礼で神輿を先導し悪霊を祓う守護神に転じる──牛鬼のこの両義性は、荒ぶる恐ろしいものほど強力な守護神になるという、日本の御霊信仰のメカニズムをそのまま体現している。
四鬼の反逆──太平記の鬼と和歌の力
最後に、紀伊の鬼譚のなかでも異色の、国家への反逆をめぐる物語に触れておきたい。『太平記』巻十六「日本朝敵事」に名の見える、藤原千方に従った四体の鬼である。

藤原千方の四鬼
『太平記』巻十六に名が見える、藤原千方に従った四体の鬼。金鬼は兵具を通さぬ堅躯、風鬼は烈風を起こし、水鬼は洪水を起こし、隠形鬼は姿気配を隠して奇襲するという。千方は四鬼を率いて朝廷に背いたが、討伐に赴いた紀朝雄の和歌により四鬼は退散し、千方は滅ぼされたと語られる。地方伝承では火鬼・土鬼を数える異説もある。
詳しく見る藤原千方の四鬼は、それぞれが超常の力を備えていた。金鬼はどんな武器も弾き返す堅い体を持ち、風鬼は烈風を起こして敵を吹き飛ばし、水鬼はいかなる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせ、隠形鬼は気配を消して奇襲をかける。この四鬼を率いて、千方は朝廷に背いた。彼の力の及ぶ伊勢・伊賀には、朝廷に従う者がいなかったという[14]。
そこで朝廷は紀朝雄に勅命を下す。朝雄が「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるべき」という一首の和歌を詠んで鬼たちの中に投げ入れると、四鬼は天罰を恐れて四方へ散ってしまった。四鬼を失った千方は次第に勢いを失い、やがて朝雄に討たれたと語られる[14]。武力ではなく一首の和歌が鬼を退散させるこの結末は、言葉の霊力、すなわち言霊への信仰を色濃くにじませている。
四鬼の伝承地は伊勢・伊賀を中心とするが、紀伊との縁も浅くない。三重県南牟婁郡御浜町尾呂志には「四鬼の窟」の伝説が伝わり[14]、これは熊野の山域にほど近い。のちに坂上田村麻呂の鬼退治伝説とも接続して、熊野一帯にこの鬼たちの影が落とされた。金・風・水・隠形を基本としつつ、地方によっては火鬼・土鬼を数える異説も生まれている。
紀朝雄の和歌「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるべき」は、この国に天皇の威の及ばぬ地などなく、ゆえに鬼の棲み処もまたありえない、と詠う。鬼を退けたのが剣ではなく一首の歌であったという結末は、言葉そのものに霊力が宿るとした言霊信仰の系譜に連なる。和歌こそが秩序を回復する力であるという発想は、和歌の名を負う和歌山の地で語られるにふさわしい逆説でもある。紀伊国が、熊野・高野という聖の極致を抱える一方で、国家に抗う鬼の影をもその辺境に宿していたことを、この物語は静かに語っている。
熊野へ向かう蟻の列、その夜道に鳴く雀、果無の雪に残る片足の跡、日高川を渡る蛇身の女、海の淵に潜む牛鬼、そして和歌一首に散る鬼たち──和歌山の妖怪は、二大霊場へ通う「道」と、その道で人の情が怪へ転じる「変化」の、二本の糸で編まれている。聖が極まる土地にこそ、異形は最も濃く生まれるのである。




