紀伊山地のもっとも深い襞、標高八百メートルの盆地に、八葉の峰々に蓮華のごとく囲まれて高野山は開かれている。弘仁七年 (816年)、唐から真言密教を持ち帰った空海が嵯峨天皇よりこの地を賜り、根本道場を起こした[1]山上の宗教都市である。一山がまるごと寺院であり、千二百年のあいだ祈りだけが営まれてきたこの土地を語るとき、妖怪とは何かという問いは独特の屈折を帯びる。ここでは怪異が、仏法に敵対する魔としてではなく、むしろ聖地を守護する側へと反転していくからだ。
高野山の異界を貫く糸は二本ある。一本は「地主神」── 空海がこの山を開くより前から、ここを領していた神々である。山へ分け入る空海を白黒二匹の犬を連れた狩人が導き、その母神が山を譲り授けたという開創縁起は、外来の密教が在地の神を取り込んでいく過程そのものを物語る。いまひとつは「魔縁の守護者」── 慢心ゆえに天狗道へ堕ちながら、なお弘法大師の山を護ると誓った高僧たちの伝説である。神と魔、その両極が「弘法大師の山」という一点で結ばれるところに、高野山の怪異の核がある。
空海を導いた地主神 ── 狩場明神
高野山の物語は、一人の猟師との出会いから始まる。唐から帰朝した空海が真言密教の根本道場にふさわしい地を求めて大和から紀伊の山中をさまよっていたとき、白と黒、二匹の犬を連れた背の高い狩人が現れた。狩人は犬を放ち、空海を山深くへと導いていく ── これが 狩場明神 (かりばみょうじん) の縁起である。

狩場明神
狩場明神 (かりばみょうじん) は、高野御子大神 (たかのみこのおおかみ) の異名で、丹生都比売の子神とされる狩りの神である。高野山開創縁起において、唐から帰朝した空海の前に白黒二匹の犬を連れた猟師の姿で現れ、真言密教の根本道場にふさわしい地として空海を高野山へ導いたと伝わる。猟師は実は高野御子大神の化身で、二匹の神犬が空海を天野まで案内し、そこで母神丹生都比売が神領を授けたという。狩衣に弓矢を負い犬を従えた山の狩人の姿で表され、丹生都比売神社では第二殿の祭神「狩場明神」として丹生明神とともに祀られる。
詳しく見る狩場明神は 高野御子大神 (たかのみこのおおかみ)[2] の異名で、後に述べる丹生都比売の子神とされる。その正体は山の神であり、二匹の神犬を従えて聖地への道を示す霊獣であった。縁起の最古の典拠は十一〜十二世紀に成立した 『金剛峯寺建立修行縁起』[2] で、弘仁七年 (816年) ごろ大和国宇智郡から紀伊国境にかけて空海を導いた狩人を高野御子大神とする。同様の説話は平安後期の 『今昔物語集』[3] にも語り継がれ、白黒の犬が聖地への道を照らす霊獣として描かれている。
この説話の背後には、土地の歴史が透けて見える。丹生氏の伝える『丹生祝氏本系帳』では、丹生一族はもと狩猟を生業とし、神への供犠のために二匹の犬を伴った猟人であったとされ、その記憶が高野山開創譚に流れ込んだと考えられている[4]。すなわち狩場明神とは、外来の空海を迎え入れた在地の狩猟の神の人格化にほかならない。二匹の神犬はやがて「みちびきのご神犬」として人を幸福と良縁へ導く霊獣と信じられ、丹生都比売神社では今も白丸・黒丸と名づけられた紀州犬が飼われている[4]。空海ゆかりの丹生官省符神社 (九度山町) もこの神を祀り、高野山参詣の入口の鎮守となっている。
山を譲り授けた母神 ── 丹生都比売
狩場明神が空海を山へ導いたなら、その奥で空海を待ち受け、山そのものを譲り授けたのが母神 丹生都比売 (にうつひめ) である。狩人に導かれた空海は天野の地でこの女神と相見え、丹生都比売は高野山一帯の神領を空海に与えたと縁起は語る[2]。
丹生都比売は 紀伊国一宮[4] 丹生都比売神社の主祭神であり、空海の開創以前からこの山を領していた地主神である。神名の「丹生 (にう)」は朱砂すなわち辰砂 ── 硫化水銀を指す。その鮮烈な朱は古来魔除けの力を持つとされ、高野山周辺の水銀鉱脈を採掘した渡来系の丹生氏が奉じた水銀の神とする説と、紀ノ川水系の水源に鎮座することから水の神とする説がある[4]。いずれも、土地の富と生命を司る地母神的な性格を示している。
その来歴は古い。丹生都比売神への言及は 『播磨国風土記』[4] 逸文の「爾保都比売命」にさかのぼり、貞観元年 (859年) の『日本三代実録』に神階奉授の記録があり、延喜五年 (927年) 撰進の『延喜式』神名帳には名神大社として載る[4]。空海の登場よりはるか前から、この女神は朝廷の幣帛にあずかる古社の主だったのである。
ここに高野山開創縁起の核心が見える。外来の真言密教が、在地の神を退けて山を奪うのではなく、地主神みずからが土地を譲り、子神が道を導くという形をとったこと ── この縁起は、密教と土着信仰が衝突ではなく融合によって結ばれた稀有な記憶である。以後、高野山は丹生・高野の両明神を山内の鎮守 (天野社・御社) として篤く祀り続けた。丹生都比売神社は平成十六年 (2004年) に「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として世界文化遺産に登録されている[4]。
弘法大師の山に棲む天狗 ── 覚海坊と魔縁の守護
高野山にもう一柱、忘れてはならない異界の住人がいる。山の霊峰につきものの 天狗 (てんぐ) である。だが高野の天狗は、ただ山を荒らす魔ではない。仏法の山に棲む天狗は、その両義性 ── 仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば護法神に転じる ── を極端なまでに体現する。
そもそも天狗には大きく二つの系統がある。赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた 鼻高天狗[5]、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる[6]。古くは鳶のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていったのである。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の 『天狗草紙』[5] にも風刺として描かれた。この絵巻では南都北嶺の名だたる寺の驕れる僧たちが天狗に擬えられ、人に化けた天狗が正体を現すとき鼻が伸びるように描かれて、長鼻の像が形づくられていった。諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すとされ、その総数を 四十八天狗[6] に数える伝もある。天狗研究を集大成した 知切光歳[6] は、これら諸山の天狗を一つの体系として整理した。
天狗が山岳信仰のなかで山伏 ── 修験者と分かちがたく結びついてきたことも見落とせない。修行のために深山に分け入り、常人離れした法力と武芸を身につけた山伏の姿は、そのまま天狗の像と重なっていく。山に棲み、修行者を試し、あるいは導く存在としての天狗は、聖地の山を行場とする修験の文化が生んだ影でもあった。仏法の根本道場である高野山もまた、そうした山の力の宿る場であったことを、覚海坊の伝説は逆照射している。
検校覚海、
天狗となる
高野山の天狗を語るうえで欠かせないのが、覚海坊 (かくかいぼう) の伝説である。覚海 (1142〜1223年) は高野山に上って華王院を開き講学に努めた真言宗の僧で、建保五年 (1217年) には一山を統べる高野山検校に任じられた実在の高僧であった。
その覚海をめぐって、鎌倉中期に無住が編んだ仏教説話集 『沙石集』[7] は不思議な伝説を伝える。覚海は弘法大師より、自らが七たびの生まれ変わり (七生) を経てきた宿縁を教えられたという ── 蛤、犬、牛、馬、熊野の薪採り、奥之院の仕侍、そして高野山検校の覚海へと。そして没後、覚海は秘法を守る天狗となると告げられた[7]。
伝説によれば、貞応二年 (1223年) に世を去った覚海は、増福院の山門前に立つ杉の木から飛び立ち、壇上伽藍の中門の扉を翼として天に翔け上がり、天狗となって高野山を守護したという。この杉は今に「昇天の杉」と呼ばれて山内に残る。覚海はやがて高野山四大天狗の一人に数えられ、近代には谷崎潤一郎がこの伝説に取材して『覚海大徳の昇天』を著している。
ここに高野の天狗の本質がある。山を脅かす魔ではなく、慢心を超えて魔縁の身となりながら、なお弘法大師の秘法を守ると誓った守護者へと反転していくこと ── 聖地に密着した天狗だけが帯びうる、特異な性格である。室町期の謡曲 『鞍馬天狗』[8] が諸山の大天狗を列ねる枠組みのなかでも、高野の天狗は「弘法大師の山を守る」という一点で他山の大天狗と一線を画している。
女人禁制と奥之院 ── 結界がつくる異界
高野山の怪異を成り立たせているのは、一山を覆う結界の感覚である。空海はこの山を開くにあたり女人禁制を定め、その禁は明治五年 (1872年) に解かれるまで、およそ千年のあいだ守られた。山へ通じる七つの登り口 ── 高野七口 には、それぞれ女人堂が設けられ、女性はそこから先へ立ち入ることを許されなかった。現在は不動坂口の女人堂ただ一つが残っている。
この禁制は、ひとつの哀しい物語を山の麓に刻んだ。空海の母玉依御前は、讃岐の善通寺から子に会いに来たが、結界に阻まれて山に登れず、麓の慈尊院に迎えられた。空海は月に九度も山を下りて母のもとへ通ったと伝えられ、ゆえにこの地は「九度山 (くどやま)」と呼ばれるようになったという。慈尊院は女性も参詣できることから「女人高野」とも称される。
山上へ至る正式の参道 町石道 には、慈尊院から壇上伽藍まで一町 (約109メートル) ごとに百八十基、さらに伽藍から奥之院まで三十六基、あわせて二百十六基の五輪塔形の石柱 ── 町石が立てられ、参詣者を導いてきた。一歩ごとに数を減らしていく町石は、俗界から聖域へと近づく距離を可視化する結界の標である。
そして山の最奥、樹齢千年に及ぶ杉木立の闇に、奥之院の弘法大師御廟がある。空海は承和二年 (835年) にここで入定したと伝えられ、十世紀後期からは「弘法大師は今も生身のまま御廟で瞑想を続けている」とする入定信仰が広まった[1]。その信仰は今日まで途切れず、維那 (ゆいな) と呼ばれる僧が毎日朝六時と十時半の二度、御廟へ食事を運ぶ生身供 (しょうじんぐ) の儀が、千二百年近く一日も欠かさず続けられている。一の橋から御廟まで二キロの参道には、戦国の武将から庶民まで二十万基を超える墓碑が苔むして並ぶ ── 死者の眠るこの杉の闇こそ、生者の都とは隔たれた、もうひとつの結界の内である。
結界に囲い込まれた山であればこそ、ここに棲む神も天狗も、外の世界とは異なる相貌をもつ。境界の外から侵してくる魔ではなく、境界の内を守るために在る ── 高野山の異界は、この反転のうえに成り立っている。
紀伊の二大霊場のなかで
高野山の怪異は、より広い紀伊国の宗教地理のなかに置くとき、その輪郭がいっそう際立つ。紀伊半島には、死者の往く他界でありながら蘇りの浄土でもある熊野三山と、空海の開いた高野山という、性格を異にする二大霊場が並び立っていた。
熊野が、霊場へ通う巡礼の夜道に怪異を生み、裏切られた女が大蛇に変じる道成寺の情念を孕んだ「道の聖地」だとすれば、高野山は一山すべてが結界に囲われた「閉じた聖地」である。前者では人の情念が怪へ転じ、後者では神と高僧が守護者へと反転する。同じ紀伊の聖地でありながら、怪異の生まれ方そのものが対照をなしている。高野山を含む紀伊国全体の妖怪文化については、和歌山県の妖怪事典 でより広い視野から辿ることができる。
千二百年のあいだ祈りだけが営まれてきた山。その奥に棲むのは、空海を迎え入れた在地の神々と、慢心を超えて秘法を守ると誓った天狗たちであった。高野山の異界とは、聖なるものが極限まで濃く凝った場所にこそ生まれる、守護する怪異の系譜なのである。


