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宇和島 鬼牛の駆ける海。宇和島・宇和海の妖怪事典

牛鬼・和霊・海坊主・猿猴。御霊と鬼牛が練り歩く南予の海辺

鬼牛の駆ける海。
宇和島・宇和海の妖怪事典

宇和島 · うわじま

別称: 宇和海
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宇和島 ── 愛媛県の南西部、いわゆる南予の中心であり、その目の前には豊後水道に開けた宇和海が広がる。海岸線は深く切れ込んだリアス式で、入江と半島が複雑に入り組み、温かい急潮と冷たい底入り潮が交互に流れ込むこの海は、古来より屈指の好漁場であった[1]。今もハマチや真珠の養殖筏が湾を埋め、愛媛は真珠生産で全国一を誇る。豊かな海の幸と、その海がいつ牙を剥くか知れぬ恐ろしさ ── 宇和海の妖怪は、まさにこの両面から生まれた。

この地の怪異を貫く軸は、海辺の漁村と御霊の祭である。中世には藤原純友が宇和海の島を拠点に海賊大将軍を称し[2]、近世には伊達家が宇和島藩の城下を築いた[3]。その城下では、家老の非業の死が御霊神を生み、その御霊を鎮める夏祭りに、首の長い巨大な鬼牛が練り歩く。海の巨怪も、川辺の河童も、すべては海と川に生きた南予の人々の暮らしと信仰のなかにある。本稿は宇和島・宇和海という一つの土地に絞り、その怪異を史料の辿れる範囲で読み解く。愛媛全体の妖怪文化は愛媛県の妖怪事典に譲り、ここでは南予の海辺だけを深く歩く。

宇和海の漁村と伊達の城下 ── 宇和島という土地

妖怪を読む前に、宇和島という土地の輪郭を描いておきたい。怪異はその土地の歴史と地理から生まれる。どんな海に面し、どんな人の営みが積み重なってきたかを知らずに、南予の怪は読めない。

宇和島は四国の南西の隅、九州との間に開けた豊後水道の内懐、宇和海に面する。沿岸は深く入り組んだリアス式海岸で、切り立った半島と深い湾が幾重にも連なる[1]。この複雑な地形こそが宇和海の豊かさの源だ。温暖な気候のもと、外海から差し込む温かい急潮と、湾の底を巡る栄養豊かな冷たい潮が交互に流れ込み、魚を育てる。古代・中世からイワシ漁などの漁業が盛んで、近代には真珠・ハマチ・マダイの養殖、いりこやじゃこ天といった水産加工が南予を支える基幹産業へと育った。

だが、この海は恵みと同時に死をもたらす。深い湾は逃げ場が乏しく、外海の時化はたちまち入江に押し寄せる。漁を生業とする海村にとって、海は生計の場であると同時に、いつ命を奪うか知れぬ場でもあった。宇和海の海坊主や、磯辺に現れる怪異の伝承は、この「海と隣り合わせの死」を抜きには語れない。

歴史を遡れば、宇和海は早くから人と船の往来の舞台であった。十世紀、伊予掾として赴任した藤原純友は、任期を終えても都に帰らず、宇和海最大の島・日振島を拠点に海賊衆を率いたと伝わる[2]。風待ち潮待ちに適し、北上する船を見張りやすいこの島から、純友は瀬戸内一帯を席巻し、関東の平将門と並んで「海賊大将軍」と称された。承平天慶の乱と呼ばれるこの反乱は天慶四年(九四一)に鎮圧されるが、宇和海が古来、海を行き交う者たちの要衝だった事実をこの一件はよく物語る。

時代は下って近世、この地に城下町を築いたのが伊達家である。慶長十九年(一六一四)、伊達政宗の長男秀宗が伊予宇和郡十万石を分知され、宇和島藩が立藩した[3]。政宗は秀宗に五十七騎と称される家臣団を付けて送り出し、その筆頭家老が、のちに宇和島最大の御霊となる山家清兵衛公頼であった。仙台から遠く西国の海辺へ移った伊達の家臣団 ── その内部で起きた悲劇が、この土地の妖怪文化の核心へと我々を導く。

御霊と鬼牛の祭 ── 和霊と牛鬼

宇和島の妖怪文化の中心には、一つの祭がある。和霊大祭、通称うわじま牛鬼まつりだ。この祭で出会う二つの存在 ── 祀られる御霊と、町を練り歩く鬼牛 ── が、南予の怪異の精髄をなす。まずは祭そのものの起こりとなった、一人の家老の死から見ていきたい。

和霊

われい

和霊(われい)は、宇和島藩の家老山家清兵衛公頼(やまがせいべえきんより)の御霊(ごりょう)である。清兵衛は初代藩主伊達秀宗のもとで筆頭家老・総奉行として藩政改革に尽くしたが、これを妬む藩士の讒言により、元和6年(1620)、屋敷を襲われて子息らとともに惨殺された(和霊騒動)。その後、暗殺に関与した者が落雷や海難で次々と変死し、人々は清兵衛の祟りを恐れて、これを御霊として祀った。非業の死を遂げた者の怨念が祟りなす霊となり、やがて鎮め祀られて守護神へと転じる御霊信仰の、近世における典型例である。

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和霊とは、宇和島藩の家老山家清兵衛公頼の御霊である。清兵衛は初代藩主伊達秀宗のもとで筆頭家老・総奉行をつとめ、財政の苦しい新藩の藩政改革に尽くした。だが元和六年(一六二〇)六月二十九日の雨の夜、その屋敷が襲撃され、清兵衛は子息らとともに惨殺される[4]。背景には、大坂城の石垣普請の報告をめぐる桜田元親との対立と、その讒言があったと伝わる。政宗が大坂築城の費えを案じて付けた重臣が、藩内の政争のなかで非業の死を遂げたのだ。

事件はそれだけでは終わらなかった。清兵衛の死後、暗殺に関わったとされる者たちが落雷や海難で次々と変死し、宇和島には飢饉・台風・地震といった災異が相次いだ[5]。人々はこれを清兵衛の怨霊の祟りと畏れた。無実の重臣を闇に葬った負い目が、災いのたびに「あれは清兵衛の祟りだ」という語りを呼んだのだろう。やがて藩は霊を鎮めにかかる。承応二年(一六五三)、二代藩主の代に清兵衛の無実が認められて社が営まれ、享保十六年(一七三一)に現在の和霊神社が創建された[6]。怨霊は鎮められて「和霊さま」となり、漁業と産業を守る神へと転じる。その信仰は四国を越えて九州・中国地方まで広がり、昭和五十七年(一九八二)時点で全国に百五十九社の分社を数えたという[5]

非業の死を遂げた者の怨念が、祟りなす霊となり、鎮め祀られて守護神へと転じる ── 菅原道真や平将門と同じ、御霊信仰の論理がここにある。和霊は、その近世における最も整った典型例の一つだ。そして、この御霊を鎮める夏祭りの主役こそ、宇和島を代表するもう一つの怪異、牛鬼である。

牛鬼は、牛の頭に鬼の胴、あるいは蜘蛛の胴に牛の首という異形で語られる西日本屈指の凶妖だ。古くは平安期の『枕草子』が「おそろしきもの」として名を挙げ、各地で無差別に人を喰らい毒気を撒く疫病神として恐れられた。ところが宇和島では、この荒ぶる鬼が祭礼の主役へと劇的に転じている ── これこそ南予の牛鬼を語る上で最も重要な点だ。

和霊大祭は毎年七月二十二日から二十四日に営まれ、その町を練り歩くのが牛鬼の練物である[8]。全長五、六メートルにも及ぶこの山車は、鬼のような面に長い首を高々と伸ばし、赤い布やシュロで覆った牛の胴、剣にも似た尾を持つ。担ぎ手が長い首を激しく振り回しながら町々を巡り、悪疫や邪気を祓って歩く。祭の山場は二十四日夜の「走り込み」だ。海上を渡御した三基の神輿が、和霊神社前を流れる須賀川へ勢いよく駆け込み、提灯と歓声が夏の夜を埋める[9]。この鬼牛は宇和島だけのものではなく、南予各地の秋祭りにも登場する、地域全体の祭礼のシンボルとなっている。

ここで史実と伝承を分けておきたい。牛鬼の山車の由来として、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いた牛革張りの攻城具にさかのぼる、という説が地元で語られる。だがこれは伝承であって史実ではない[10]。実際には、祭礼の牛鬼が南予の神社祭礼に登場するようになったのは江戸中期、一七〇〇年代半ば以降と推定され、現存最古の確かな史料は天明四年(一七八四)の「牛鬼練物仕成諸入用人数面付帳」である[10]。荒ぶる悪鬼の名と造形が、いつしか祭礼の魔祓いの役を担うようになった ── その転換が起きたのは、案外新しい近世のことなのだ。

注目すべきは、この祭に二重の御霊信仰の論理が生きていることである。祭神の山家清兵衛は、非業の死を遂げた怨霊を祀り上げて守護神とした御霊だ。そして祭の主役の牛鬼は、人を喰らう凶悪な鬼を祭礼の場に取り込み、その威圧と呪力で邪気を祓う守り手へと変えたものだ。「荒ぶるものほど、一度祀り上げれば強い守護神になる」という同じ論理が、祭神と練物の双方に、二重に貫かれている。宇和島の夏は、その論理が町ぐるみで演じられる三日間なのである。

宇和海の巨怪 ── 海坊主

御霊と鬼牛の祭から、目を海そのものへ転じよう。宇和海に生きた漁師たちが何より恐れたのは、海面の底から立ち上がる名もなき巨怪 ── 海坊主であった。

海坊主

うみぼうず

海坊主(うみぼうず)は、日本各地の沿岸部に伝わる海上の怪異で、とりわけ漁師の間で恐れられてきた。穏やかだった海面が突如盛り上がり、巨大な黒い影、あるいは禿げ頭の坊主の姿となって船の行く手に立ちはだかるとされる。全身が見えることは少なく、海上に頭や肩だけを突き出した姿で語られることが多い。夜の海や時化の最中に現れ、船を転覆させ、海底へ引きずり込むと信じられた。『和漢三才図会』(1712年)や『物類称呼』(1775年)など江戸期の文献にも、海上に立つ巨大な怪異の名がみえる。

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海坊主は、穏やかだった海面が突如盛り上がり、黒い坊主頭の巨体となって船の行く手に立ちはだかるとされる海上の怪異だ。全身が見えることは稀で、海面に頭や肩だけを突き出した姿で語られる。夜の海や時化の最中に現れ、船を転覆させ、海底へ引きずり込むと信じられた。『和漢三才図会』(一七一二年)など江戸期の文献にも海上の巨怪の名がみえ、その伝承は五島列島から愛媛・岡山・鳥取・和歌山・宮城まで、全国の漁村に広く分布する。宇和海の漁師たちもまた、この巨怪を恐れた。

愛媛に伝わる海坊主は、「柄杓を貸せ」と迫る話型を持つ。海坊主が「水を飲みたい」と柄杓を求め、正直に渡すと、それで海水を汲み入れて船を沈めにかかる。逃れる手はただ一つ ── 底を抜いた柄杓を渡すことだ。汲んでも汲んでも水が落ちるので、海坊主は船を沈められない。人智で海の怪を出し抜くこの機転の話型は、対馬や九州など各地の海坊主譚と共通し、漁師の知恵が物語の核をなしている。一方で、宇和海をはさんだ越智郡の大島などには、河童のように漁師へ相撲を挑む海坊主の記録もあり、同じ名の怪が地域ごとに異なる顔を見せる。

海坊主は、輪郭の定まった一個の妖怪というより、「海そのものの底知れぬ恐怖」が人の形を借りて現れたものと言うべきだろう。正体を溺死者の亡霊とする説、生贄を求めて零落した竜神・海神とする説が語られてきたのも、その茫漠とした恐怖ゆえだ。穏やかだった海面が前触れもなく盛り上がるという描写は、突然の時化や高波という、宇和海の漁師が日常的に直面した死の危険そのものである。深く入り組んだリアス式の湾は、ひとたび時化れば逃げ場に乏しい。海坊主の伝承は、この豊かな漁場が同時に死と隣り合わせの場でもあったことの、民俗的な記録なのだ。なお鳥山石燕は海坊主そのものは描かなかったが、海上に立つ盲僧姿の海座頭を『画図百鬼夜行』に収めており、近世の妖怪画にも海への畏れが繰り返し像を結んでいる。

川辺の河童 ── 猿猴とオソ

海の怪から川辺へ。宇和島の妖怪を語って最後に欠かせないのが、南予の河童 ── 猿猴である。標準的な皿と甲羅の河童像とは少し違う、この地ならではの姿をした水の怪だ。

猿猴

えんこう

猿猴(えんこう)は、愛媛県南予をはじめ四国西部・中国地方西部で河童を指す方言名である。標準的な皿と甲羅の河童像とは異なり、その名のとおり全身が毛におおわれ、猿のような姿で語られるのが特徴で、敏捷に水辺を駆けると伝わる。愛媛では「エンコ」「エンコウ」のほか「オソ」とも呼ばれ、この呼称は水辺をすばやく泳ぐニホンカワウソ(オソ)の生態が河童像と重ね合わされたものと考えられている。川の深い淵に棲み、夜になると陸へ上がって人にいたずらをし、相撲を挑み、胡瓜を好み、子どもや馬を水へ引き込んで尻子玉を抜くといった、河童本来の性格をそのまま受け継ぐ。

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猿猴(えんこう)は、愛媛県南予をはじめ四国西部・中国地方西部で河童を指す方言名である。その名のとおり全身が毛におおわれ、猿のような姿で語られるのが特徴で、敏捷に水辺を駆けると伝わる[12]。愛媛では「エンコ」「エンコウ」のほか「オソ」とも呼ばれる。この「オソ」という呼称は、水辺をすばやく泳ぐニホンカワウソ(獺・オソ)の生態が河童像と重ね合わされたものと考えられている[13]。川の深い淵に棲み、夜になると陸へ上がって人にいたずらをし、相撲を挑み、胡瓜を好み、子どもや馬を水へ引き込んで尻子玉を抜くといった、河童本来の性格をそのまま受け継ぐ。

具体的な伝承の地が残っているのも南予の猿猴の魅力だ。宇和島市三間町の三間川には、川が大きく屈曲する元宗の麦臼渕(むぎうすぶち)に猿猴が棲んだという話が伝わる。子どもに相撲を挑み、胡瓜を盗み食いし、幼児を川へ引きずり込んで尻子玉を抜き、馬まで水中へ引き込んだといい、最後は満徳寺の僧に捕らえられて石臼につながれ、以後いたずらをやめて改心したと語られる[14]。河童が僧に捕らえられて詫び証文を入れる、あるいは改心するという筋立ては全国の河童譚に共通するが、それが宇和島の具体的な淵と寺の名を伴って語られるところに、この地の伝承の手触りがある。

南予の海辺へ目を移すと、猿猴は「オソ」の名で別の顔を見せる。佐田岬半島の三崎町串には、オソが海岸を渡ったとされる「オソゴエ(オソ越え)」の地名が残り、八幡浜市穴井では旧暦四月五日に「エンコウ祭」が河童祭の一種として営まれてきた[13]。河童が川だけでなく海辺にも現れ、地名や祭礼として暮らしに刻まれている ── これは、川と海が陸の暮らしと分かちがたく結びついた南予ならではの姿だ。

そして、これらの猿猴・オソ伝承の多くは、一九五〇年代頃まで南予の川に生きていたニホンカワウソの記憶と分かちがたく結びついている。すばやく泳ぎ、夜に陸へ上がり、ときに人里へ姿を見せた実在の獣が、河童という想像上の怪と重なり合い、淵の主としての猿猴像を育てた。今やニホンカワウソは絶滅したとされるが、その面影は猿猴という妖怪のなかに、あるいはオソという呼び名のなかに、確かに生き残っているのである。

結び ── 海と川のあわいに立つ南予の怪

非業の死から御霊神となった和霊、その御霊を鎮める夏祭りに首を振る牛鬼、宇和海の底から立ち上がる海坊主、川辺の淵に棲む猿猴 ── 宇和島・宇和海の妖怪は、いずれも海と川に生きた南予の漁村と、伊達の城下の歴史から生まれてきた。リアス式の豊かな海は恵みと死を同時にもたらし、城下の政争は怨霊を生み、その怨霊を鎮める祭が荒ぶる鬼牛を守り手に変えた。海と川と人の暮らしが交わるところに、これらの怪異は立っている。

そしてこれらは、過ぎ去った迷信ではない。和霊神社には今も「和霊さま」を慕う参拝が絶えず、宇和島の夏には牛鬼が町を練り歩き、須賀川へ神輿が駆け込む。三間の淵には河童の話が語り継がれ、佐田岬にはオソの地名が残る。宇和海の怪たちは、南予という土地の歴史と地理と暮らしを映しながら、姿を変えてなお、この海辺に息づいているのである。愛媛全体の妖怪文化のなかでの位置づけは、愛媛県の妖怪事典もあわせて読まれたい。

宇和島の妖怪一覧5

宇和島ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

  • 海坊主

    海坊主

    伝説

    うみぼうず

    油貸せと囁く・海坊主

    水の怪中国・四国・九州沿岸 ── 五島列島・宇和島・長門向津具・備讃灘を中心に、山陰一帯の浜にも現れる

    海坊主は、航海中の人々が海の恐怖と不安を具現化した妖怪とされる。 その姿は一定せず、ただ黒い影のように現れることもあれば、巨大な僧形で海面から立ち上がることもある。 船に近づき「油を貸せ」と囁く話が有名で、油を渡すと炎を起こし船を沈めるとも言われる。 一方で、近年の伝承では「沈んだ船や網を集め、海底に積み上げている収集癖がある」「時折光る瓶やランタンを手にして現れる」などのバリエーションも語られている。 人を驚かせる存在でありながら、海の神秘を象徴する存在として畏敬の対象にもなっている。

  • 牛鬼

    牛鬼

    伝説

    うしおに

    牛頭蜘蛛体の海鬼・牛鬼

    動物変化四国・中国地方沿岸〜武蔵 (瀬戸内海を中心)

    江戸時代の妖怪絵巻などに描かれ、現代の妖怪図鑑でも最もポピュラーな「蜘蛛の胴体に牛の首を持つ海鬼」としての解釈版である。このバージョンにおける牛鬼は、海や淵といった「暗く深い水底」への根源的な恐怖と、獲物を逃さない「執念深さ」が蜘蛛の網のイメージと結びついて視覚化されている。 民俗学的な視点から見ると、古来日本において「牛」は農耕や治水と深く結びついた神聖な動物であり、水神の使い、あるいは水神そのもの(例:牛頭天王)として信仰されていた。淵に潜む牛鬼とは、かつて人々が崇め畏れた「自然の猛威(水神)」が、信仰の形骸化とともに妖怪へと零落(れいらく)した姿であるという解釈が有力である。 影を嘗められただけで呪い殺されるという絶対的な致死性や、濡女を囮に使って心理的な隙を突く狡猾さは、単なる知能の低い猛獣の域を逸脱しており、かつて神であった頃の理不尽な神威を色濃く残している。首を切り落とされてもなお怨念で動き続けるほどの強大な生命力を持つため、並の人間では到底太刀打ちできない。この圧倒的な暴威を鎮めるためには、千手観音などのより高位の仏法に縋るか、あるいは逆に牛鬼自身を神輿の先導(神の眷属)として丁重に祭礼に組み込み、その「荒御魂(あらみたま)」を都市の防衛システムとして利用するほかなかったのである。

  • 和霊

    和霊

    名妖

    われい

    宇和島の御霊・山家清兵衛公頼

    霊・亡霊宇和島 (現·愛媛県宇和島市) / 和霊神社

    和霊は、怨霊が御霊へ、そして守護神へと転化する御霊信仰の力学を、近世宇和島の歴史のなかで体現する存在である。生前の山家清兵衛は藩政改革に身を捧げた家老であり、その非業の死(和霊騒動)と、関与者を襲った落雷・海難の連鎖が、人々に祟りの実感を与えた。畏怖から祀られた霊は、無実が公に認められたことで性格を反転させ、「和霊さま」として漁業・産業を守る神格を得た。和霊神社の和霊大祭で練り歩く牛鬼の群れは、この御霊を慰め鎮める祭礼装置であり、宇和島では妖怪(牛鬼)と御霊(和霊)とが祭りのなかで分かちがたく結びついている。

  • 猿猴

    猿猴

    稀少

    えんこう

    南予の毛むくじゃらの河童・猿猴

    水の怪南予 (現·愛媛県南西部) / 三間麦臼渕 (現·愛媛県宇和島市三間町) / 佐田岬半島

    猿猴は、河童という存在が地域ごとに姿と名を変えて語られたことを示す、南予の代表的な変種である。皿も甲羅も前面に出ず、毛におおわれた猿のような身体・敏捷な泳ぎ・川の深淵を栖とする点が強調され、その像はニホンカワウソ(オソ)という実在の獣の生態と重なって成り立っている。三間麦臼渕の伝承では相撲・胡瓜・尻子玉・馬引き込みといった河童譚の定型を備えつつ、満徳寺の僧に石臼でつながれて改心するという在地の結末を持つ。佐田岬半島の「オソゴエ」や八幡浜のエンコウ祭は、この水の怪が地名と年中行事のなかに今も息づいていることを伝える。

  • 針女

    針女

    稀少

    はりおなご

    宇和島夜道の鉤髪女・針女

    人妖・半人半妖宇和島地方 (現·愛媛県南予、旧城辺町桜岡周辺)

    宇和島夜道の鉤髪女として針女を見ると、この妖怪の怖さは「髪が武器になる」ことだけではない。最初に現れるのは美しい女の姿であり、相手を遠くから脅すのではなく、笑みを向けて関係を作る。夜道で知らない相手に笑いかけられたとき、人は挨拶として笑い返すかもしれない。針女はその小さな返答を合図にして、髪をほどき、鉤を出す。怪異は相手の反応を待ってから動き出すのである。 髪の先に鉤針状の鉤があるという造形は、針女の名をほとんど説明してしまうほど明快である。針は刺すものだが、ここでは髪の先で引っかけるものとして働く。切る刃ではなく、逃げる者を絡め取る鉤である。ざんばら髪は乱れや恐怖のしるしであると同時に、美しい女の髪が一瞬で捕獲具へ変わる反転でもある。髪は顔や装いの一部として見られていたのに、近づいた瞬間、相手の身体を捕らえる外部の手になる。 地名を細かく扱うと、針女は愛媛県南部、宇和島地方の夜道の妖怪として読める。水木しげるロードの公式解説は出現地を愛媛県宇和島地方とし、一般的な整理では旧城辺町桜岡の名も添えられる。ただし、針女は特定の祠や古戦場に固定された妖怪ではない。場所は「宇和島地方」という生活圏であり、場面は夜道である。したがって地図では宇和島地方を主軸に置き、細部は本文で説明するのがよい。確証の薄い一点へ無理に pin を刺すより、南予の道で遭遇する怪として置くほうが、この妖怪に合っている。 針女を語るとき、濡女子との重なりを避けて通ることはできない。濡女子もまた、人に笑いかけ、応じた相手へつきまとう女妖怪として知られる。村上健司は、針女の特徴が宇和島地方の濡女子と共通するため、水木しげるが濡女子の特徴を強調して「針女」とした可能性を述べている。この指摘は、針女の価値を下げるものではない。むしろ、妖怪がどのように名づけ直され、図鑑の中で視覚的に鋭くなるかを示す重要な例である。濡女子が笑いと執着の妖怪なら、針女はそこへ「鉤髪」という一撃で覚えられる形を与えられた妖怪だと言える。 近い妖怪と比べると、針女の位置が見えやすい。磯女は海辺で髪を使って人を襲う女妖怪として語られ、濡女は水辺や蛇身の異形と結びつく。口裂け女は問いかけと顔の反転で現代都市の恐怖を作る。お歯黒べったりは美しい装いから無貌と黒歯を見せる。針女はこれらの中間にいて、顔そのものを裂くのではなく、髪を変える。水辺の女怪ほど海の気配を強く持たず、都市怪談ほど近代的でもない。南予の夜道に、笑みと髪だけで立つ妖怪である。 このため、針女の描写では過剰な能力を加えないほうが強い。大量の血を吸う、魂を喰う、都市を飛び回るといった説明は、後世の創作としては可能でも、資料から直接支えられる核心ではない。確かな輪郭は、女の姿、笑み、鉤髪、男を引っかけて連れて行くこと、宇和島地方という場所である。小さな妖怪ほど、この輪郭を崩さずに置くと怖さが残る。針女は、夜道で親しみの表情を返した瞬間、その表情が自分を捕らえる合図だったと気づかせる、短く鋭い女性妖怪なのである。

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