
오이와
오이와는 남편의 배신으로 독살 당해 얼굴이 흉측하게 일그러진 채 죽음을 맞이하고, 무시무시한 원한을 품고 저주를 내리는 일본에서 가장 널리 알려진 괴담의 주인공이다. 하지만 이 모습은 거의 전적으로 연극적 창작에 의해 만들어진 것이다. 가부키 교겐 《도카이도 요츠야 괴담》(4세 쓰루야 난보쿠 작, 1825년 에도 나카무라좌 초연)에서, 3대 오노에 기쿠고로가 연기한 오이와는 반쪽 얼굴이 퉁퉁 붓고 문드러진 모습으로 머리를 빗으며 숨을 거두고, 판자에 못 박힌 시체가 되어 떠내려오며, 불타는 초롱에서 빠져나와 남편을 괴롭히는 등 일련의 명장면을 통해 원귀 오이와의 원형을 확립했다. 중요한 점은 그 배경에 있던 실존 인물이 이와는 정반대의 여성이었다고 전해진다는 것이다. 요츠야 사몬초에 저택을 두었던 고케닌 다미야 가문의 아내 오이와(다미야 이와)는 신앙심이 깊고 부부 금슬도 좋은 정숙한 아내였으며, 저택 내의 이나리 신을 정성껏 모셔 기울어가던 가문을 다시 일으켜 세운, 오히려 운수 대통의 상징인 여성이었다고 한다. 그녀를 모시는 오이와 이나리(다미야 이나리)는 원래 "집안을 번성하게 한 행운의 신"으로서 사람들의 참배를 받았다. 오이와라는 이름은 역사적 사실 속의 정숙한 아내와, 200년 후 난보쿠가 창조해낸 원귀 사이의 거대한 낙차 위에 서 있다.
자세히 보기江戸は、怪談を量産した都市である。十八世紀前半には人口百万を超え、当時の世界で最大級の都市となった江戸には、武家屋敷と長屋、堀と橋、芝居小屋と寄席、版元と古本屋が密集した。この稠密な人と紙と語りの集積こそが、怪異を次々に生み出す装置となった。京都の妖怪が宮廷の絵巻や御霊信仰のなかで語られたのに対し、江戸の怪異は歌舞伎の舞台、講談の高座、黄表紙の頁という大量流通のメディアで形を与えられ、増殖していった。
本記事の軸は一つ ── 出版と芝居が育てた都市怪談である。四谷の長屋から生まれたお岩は鶴屋南北の脚本で怨霊の頂点となり、皿屋敷のお菊は馬場文耕の講談台本で江戸版へ書き換えられ、豆腐小僧にいたっては黄表紙という娯楽本そのものから生まれた完全な商品キャラクターであった。火事と怨念、出版と芝居が結び合って怪異を生んだこの都市の姿を、江戸ゆかりの七体の妖怪で辿る。なお江戸全体を束ねる宏観は東京都の妖怪事典に譲り、ここでは「都市が怪談を作る仕組み」に焦点を絞る。
百万都市の闇 ── なぜ江戸は怪談を量産したのか
慶長8年(1603)に徳川家康が幕府を開いて以降、江戸は急速に膨張した。十八世紀前半には町方人口だけで五十万、武家を含めれば百万を超えたとされ、同時代のロンドンやパリと並ぶ巨大都市となった。人が集まれば闇も集まる。火事、疫病、刑場、貧窮、遊郭での死。江戸の日常はつねに死と隣り合わせであり、その死の記憶が無数の怪異譚を生んだ。
しかし江戸の怪談を特異なものにしたのは、死の多さそのものではなく、それを語り運ぶ仕組みの厚さである。寛文年間(1661-1673)に商業出版圏として独立した江戸では、板本・浮世絵・黄表紙が安価に大量流通し、芝居小屋では歌舞伎が、寄席では落語と講談が連日演じられた。怪異はこれらのメディアに乗って一夜のうちに市中へ広がり、語り直され、別の作者が脚色し、また広がる。江戸の都市怪談とは、この出版と芸能の循環装置が回し続けた集合的な創作物であった。
以下に見る怪異は、いずれもこの仕組みの産物である。歌舞伎が怨霊を作り(お岩)、講談が古い伝説を江戸版へ移植し(お菊)、火事の記憶が祟る器物を生み(振袖の怪)、黄表紙が無から愛嬌ある妖怪を発明し(豆腐小僧)、夜の市中の流言が新聞前夜のメディアで増幅され(髪切り)、明治の外国人作家が江戸の闇を英語へ翻訳した(むじな)。江戸の怪談は、つねに何らかの「媒体」を伴って立ち現れる。
祟り神となった坂東の英雄 ── 平将門
江戸という都市の地下には、一柱の怨霊が眠っている。承平・天慶の乱(935-940)で関東に独立勢力を築き、朝廷に反旗を翻して「新皇」を称した平将門である。藤原秀郷・平貞盛に討たれて京で梟首されたその首は、関東を慕って空を飛び帰ったと伝えられ、大手町の将門塚(千代田区)に祀られた。

다이라노 마사카도
다이라노 마사카도는 헤이안 중기에 반도(坂東) 일대를 호령한 간무 다이라씨의 무인으로, 조정에 반기를 들어 “신노(新皇)”를 자칭하다 토벌된 인물이다. 죽은 뒤 그 잘린 머리에 얽힌 괴이 때문에 일본에서 가장 두려워한 원령의 하나로 여겨졌고, 이윽고 간토의 수호신·어령신(御霊神)으로서 간다묘진 등에 모셔졌다. 조헤이·덴교 무렵, 마사카도는 일족 안의 사투에서 몸을 일으켜 덴교 2년(939)에는 히타치를 비롯한 간토 여러 지방의 국부를 쳐서 동국을 제압하고, 하치만 대보살의 신탁을 칭하며 스스로 신노라 일컬었다 . 그러나 이듬해 덴교 3년(940), 다이라노 사다모리와 후지와라노 히데사토(다와라 도타)의 토벌군에게 이마를 맞아 전사했다. 그 생애는 동시대의 군기 『쇼몬키』에 자세하다. 마사카도를 요괴·원령으로 만든 것은, 사실로서의 난 그 자체보다 후세에 전해진 머리의 전설이다. 도읍에서 효수된 머리가 썩지 않고 밤마다 외치며 동쪽으로 날아갔다는 이야기는 도쿄 오테마치의 마사카도 무덤(구비즈카)에 대한 두려움과 결합해, 옮기면 재앙을 부른다는 신앙을 오늘에 전한다. 한편 간다묘진에서는 에도의 총진수, 무운과 장사 번성의 신으로 두텁게 받들어져, 재앙과 수호라는 어령신의 두 얼굴을 함께 지닌다.
자세히 보기将門の特異さは、彼が単なる過去の英雄ではなく、江戸という都市の守護と祟りの両面を担い続けてきた点にある。徳川の世にあって将門は神田明神(千代田区外神田)の祭神として迎えられ、江戸の総鎮守の核に据えられた。京都が菅原道真や崇徳院の怨霊を神社に「鎮めて終わらせる」のに対し、江戸は将門を祭礼のなかで「祝い続ける」。二年に一度の神田祭で町々を巡行する神輿は、祟り神を都市の活力へと反転させる装置であった。この将門塚と神田明神信仰の詳細は東京都の妖怪事典に譲るが、江戸の怪異文化の起点に、都市そのものへ食い込んだ巨大な怨霊が居ることは押さえておきたい。将門こそ、江戸が「祟りを生かす都市」であることを最初に示した存在である。
芝居が生んだ怨霊 ── お岩と四谷怪談
江戸の都市怪談の頂点に立つのが、四谷の長屋から生まれたお岩である。だがここで史実と虚構を厳しく分けておく必要がある。

오이와
오이와는 남편의 배신으로 독살 당해 얼굴이 흉측하게 일그러진 채 죽음을 맞이하고, 무시무시한 원한을 품고 저주를 내리는 일본에서 가장 널리 알려진 괴담의 주인공이다. 하지만 이 모습은 거의 전적으로 연극적 창작에 의해 만들어진 것이다. 가부키 교겐 《도카이도 요츠야 괴담》(4세 쓰루야 난보쿠 작, 1825년 에도 나카무라좌 초연)에서, 3대 오노에 기쿠고로가 연기한 오이와는 반쪽 얼굴이 퉁퉁 붓고 문드러진 모습으로 머리를 빗으며 숨을 거두고, 판자에 못 박힌 시체가 되어 떠내려오며, 불타는 초롱에서 빠져나와 남편을 괴롭히는 등 일련의 명장면을 통해 원귀 오이와의 원형을 확립했다. 중요한 점은 그 배경에 있던 실존 인물이 이와는 정반대의 여성이었다고 전해진다는 것이다. 요츠야 사몬초에 저택을 두었던 고케닌 다미야 가문의 아내 오이와(다미야 이와)는 신앙심이 깊고 부부 금슬도 좋은 정숙한 아내였으며, 저택 내의 이나리 신을 정성껏 모셔 기울어가던 가문을 다시 일으켜 세운, 오히려 운수 대통의 상징인 여성이었다고 한다. 그녀를 모시는 오이와 이나리(다미야 이나리)는 원래 "집안을 번성하게 한 행운의 신"으로서 사람들의 참배를 받았다. 오이와라는 이름은 역사적 사실 속의 정숙한 아내와, 200년 후 난보쿠가 창조해낸 원귀 사이의 거대한 낙차 위에 서 있다.
자세히 보기実在のお岩は、江戸城警備にあたる御先手組同心・田宮又左衛門の娘で、養子に迎えた夫・伊右衛門を支えて傾いた家計を再興した貞淑な妻であったと伝わる。彼女が篤く信仰した屋敷神の稲荷は田宮稲荷(現在の於岩稲荷田宮神社、新宿区四谷)として残り、お岩自身は寛永13年(1636)に世を去ったとされる。すなわち歴史上のお岩は、怨霊とはまったく無縁の善良な女性であった。
この穏やかなお岩を凄惨な怨霊へ変えたのが、芝居である。彼女の没後およそ二百年を経た文政8年(1825)7月、四世鶴屋南北作『東海道四谷怪談』[1]が江戸の中村座で初演された。『仮名手本忠臣蔵』の外伝として組まれたこの脚本では、夫・民谷伊右衛門に毒を盛られて顔を醜く爛れさせたお岩が、惨殺のすえ怨霊となって伊右衛門を破滅へ追い込む。三代目尾上菊五郎がお岩・小仏小平・佐藤与茂七を早替りで演じ、戸板返しや提灯抜けといった大仕掛けの演出が観客を熱狂させた。実在の貞女が、芝居の力でまったく別の怨霊へと作り変えられたのである。
ここに江戸都市怪談の本質がある ── 怪異は「起きた」のではなく「作られた」。それも興行という商業的動機のもとで。芝居がもたらした評判は実在の田宮稲荷へも逆流し、於岩稲荷は四谷怪談の聖地として多くの参詣者を集めた。お岩の墓は巣鴨の妙行寺に営まれ、現在も四谷怪談を演じる役者が公演前に参拝する慣わしが続く。虚構の怨霊が、実在の信仰と現代の演劇儀礼までを巻き込んでいる。
講談が移植した怪 ── お菊と江戸の皿屋敷
お岩が芝居の産物なら、お菊は講談の産物である。皿を割った(あるいは紛失させられた)咎で手討ちにされ、井戸に身を投げ、夜ごと「一枚……二枚……」と皿を数える女の怨霊 ── この皿屋敷譚は全国に分布するが、なかでも有名なのが播州皿屋敷と番町皿屋敷である。
姫路を舞台とする播州皿屋敷が古くからの系統であるのに対し、江戸の番町皿屋敷を文芸として確立したのは、講釈師・馬場文耕であった。文耕は宝暦8年(1758)に『皿屋敷弁疑録』[2]を著し、舞台を江戸の牛込・番町に置いて、旗本・青山主膳の屋敷で女中お菊が悲劇に見舞われる物語として書き上げた。これが講談「番町皿屋敷」の土台となり、江戸の地名と武家社会を背景にした独自の皿屋敷が成立する。
ここで誠実に留保しておくべきことがある。文耕の語りには青山主膳を火付盗賊改とする設定が含まれるが、これは実在の人物の生没年と整合せず、史実というより講談として整えられた創作と理解されている。皿屋敷譚はもともと各地に伝わる古い型であり、文耕はそれを江戸という都市の文脈へ移植・脚色したのである。一つの怪異が土地ごとに語り直され、講談という語りのメディアによって江戸版が誕生する ── これもまた、都市が怪談を作り変える仕組みの一例である。なお番町皿屋敷は後に岡本綺堂が近代戯曲として書き直し、皿を数える怪から人間の悲恋劇へと再々解釈されていく。
火と都市の怪(その一) ── 振袖の怪と明暦の大火
百万都市・江戸の最大の敵は火であった。木造の長屋が密集し、冬の乾いた北西風が吹きつける江戸では、ひとたび出火すれば瞬く間に町を焼き尽くす。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が示すとおり、火事は江戸の日常そのものであり、その恐怖が祟る器物の怪を生んだ。
明暦3年(1657)正月、江戸の大半を焼き払い、十万人ともいわれる死者を出した明暦の大火[3]は、江戸時代最大の火災である。この大火には、後年振袖の怪として語られる凄絶な由来譚がまといついた。麻布の質屋の娘が、すれ違った美少年に一目惚れして恋煩いのすえに死ぬ。両親は娘を哀れみ、少年の衣と同じ模様の振袖を棺にかけた。やがて古着として売られたこの振袖は、翌年の同じ命日に別の娘の葬儀でまた寺へ納まり、さらに翌年もう一人の娘の葬儀で三たび同じ寺へ戻る。三人とも十七歳で同月同日に死んだという。
不吉を恐れた本郷・本妙寺の住職が供養のためこの振袖を火に投じたところ、折からの強風が炎の振袖を巻き上げ本堂へ燃え移り、やがて江戸市中を焼く大火となった ── これが「振袖火事」の名の由来とされる。ただしこの由来譚は、当時の火災記録には現れず、後世に語り継がれた伝説と考えられている。実際の出火原因は別にあるとみられるが、ここで重要なのは、江戸が未曾有の災厄をただの不運ではなく「祟る振袖」という怪異の物語へ昇華させた点である。恋に死んだ娘の怨念が器物に宿り、都市そのものを焼く ── 火事という都市の宿痾を、江戸人は怪談として引き受けた。
火と都市の怪(その二) ── 髪切りと夜の流言
火が大規模な災厄の怪を生んだのに対し、江戸の夜の街路は、ひそやかな身体の怪を生んだ。気づかぬうちに髪を切られているという怪異、髪切りである。
寛保年間(1741-1743)に編まれた怪談集『諸国里人談』[4]によれば、元禄初期に伊勢松坂と江戸の紺屋町(現・千代田区)で、夜道を歩く者が男女を問わず、知らぬ間に根元から髪を切り落とされる事件が相次いだという。被害者は髷の形はそのままに髪だけが抜け落ちており、いつ誰に切られたのかまったく気づかない。夜や厠のそばで不意に何かに触れられた、という証言だけが残った。
髪切りの正体については、中国の古典に倣って狐や狢の仕業とする説、髪結や鬘売が自らの商売のために仕組んだ自作自演とする説、髪切り虫という虫の所業とする説まで、さまざまに取り沙汰された。注目すべきは、確たる正体が突き止められぬまま、噂そのものが江戸市中を駆けめぐり増幅していった点である。十九世紀には歌川芳藤らによって髪切りの奇談[5]が刷物として売られ、流言が出版メディアと結びついて視覚化された。新聞以前の都市にあって、髪切りは口から口へ、そして刷物へと伝播する「都市伝説」の原型であった。原因不明の身体被害が匿名の怪へと象徴化される構造は、現代の都市伝説と寸分違わない。
出版が生んだ妖怪(その一) ── 黄表紙の道化、豆腐小僧
ここまでの怪異は、なお背後に実在の人物や災厄や流言を持っていた。だが江戸の出版文化は、ついに何の伝承基盤も持たない、純粋に商品として設計された妖怪を生み出す。それが豆腐小僧である。
豆腐小僧が初めて姿を見せるのは、安永年間(1772-1781)の黄表紙 ── 大人向けの絵入り娯楽本のなかである。恋川春町の『妖怪仕内評判記』[6](安永8年・1779頃)などに、「頭大ぶり」な子どもの妖怪として描かれた。編笠をかぶり、丸い盆に紅葉の型を押した豆腐を一丁載せて、雨のしとしと降る夕暮れの道端にぽつんと立っている。人のあとを付いて歩くことはあっても、特にひどい悪さはしない、愛嬌のある道化役であった。
豆腐小僧には、古い伝承も、祟りの由来も、初出文献以前の記録もない。あるのは黄表紙という娯楽メディア[7]のなかで作者が描き起こした造形だけである。妖怪研究者の京極夏彦は、この豆腐小僧を「キャラクター妖怪の元祖」と位置づける。すなわち、伝承から生まれた怪異ではなく、商業出版が消費のために発明したキャラクターの最初の例なのである。江戸後期、妖怪はもはや恐怖の対象であるだけでなく、双六や玩具絵、判じ物に登場する親しみある図像商品となっていた。豆腐小僧は、出版という仕組みそのものが妖怪を「生産」できるようになった時代の象徴である。後の水木しげるの妖怪キャラクター群、現代のゆるキャラ妖怪へと連なる系譜の、最初の一歩がここにある。
出版が生んだ妖怪(その二) ── 八雲が英語へ翻訳した江戸の闇、むじな
江戸の都市怪談は、明治に入って思いがけない媒体に乗って世界へ運ばれた。英語である。明治37年(1904)、ラフカディオ・ハーン ── 帰化名・小泉八雲 ── が刊行した怪談集『Kwaidan』[8]の一篇「むじな(Mujina)」が、それであった。

무지나
무지나는 주로 오소리를 가리키는 말로, 지역과 시대에 따라 너구리나 삵괭이(하쿠비신)와 혼용되기도 한다. 예로부터 사람을 속이는 짐승으로 전해지며, 밤길에서 길이나 강을 잘못 보이게 하고 음식이나 장소의 겉모습을 바꾸는 술수에 능하다고 한다. 『일본서기』에는 사람으로 변해 노래한 ‘후미’(오소리)에 대한 기록이 있으며, 에도 시대 이후로는 여우·너구리와 나란히 변술의 대표 격으로 회화와 설화에 자주 등장한다. 학술적 동정은 지역마다 흔들림이 있다.
자세히 보기物語の舞台は、赤坂と四谷のあいだ、外濠沿いの紀伊国坂(きのくにざか)である。ある夜、京橋の商人が坂を上っていくと、濠端でうずくまって泣く若い女がいた。案じて声をかけると、振り向いた女の顔には目も鼻も口もない ── つまりむじなが化けたのっぺらぼうであった。商人は仰天して逃げ、ようやく行き合った夜鳴き蕎麦の屋台にすがりつく。だが顛末を語る商人に、蕎麦屋がぬうっと顔を向けて「そのっぺらぼうは、こんな顔だったかい」と問う。蕎麦屋の顔もまた、のっぺらぼうであった ── 屋台の灯がふっと消え、商人は気を失う。
この「二度のオチ」で恐怖を畳みかける語りの構造は完成度が高く、夜鳴き蕎麦の屋台という江戸の都市風俗を舞台装置に取り込んでいる点で、まぎれもなく江戸都市怪談の系譜に連なる。八雲が妻・小泉セツらの口承から拾い上げたこの話は、本来は江戸の口承怪談であった。それが英語で書き直されたとき、「むじな」は日本のローカルな怪から、世界に通用するゴーストストーリーへと姿を変えた。江戸の闇が、出版という媒体を通じて国境を越えた瞬間である。
結び ── 都市が怪談を作る仕組み
江戸の妖怪を貫く一本の糸は、出版と芝居という媒体である。実在の貞女お岩は鶴屋南北の歌舞伎で怨霊となり、各地の皿屋敷は馬場文耕の講談で江戸版へ移植され、明暦の大火は祟る振袖の物語をまとい、夜の流言は刷物となって髪切りを増幅させ、黄表紙は伝承なき豆腐小僧を商品として発明し、江戸の口承怪談は小泉八雲の英語で世界へ運ばれた。そしてそのすべての地下には、都市そのものへ食い込んだ平将門という巨大な怨霊が横たわる。
京都が祟りを神社で鎮めて終わらせる都市だとすれば、江戸は祟りを芝居と版木と高座で広め、増やし、商品にし、ついには輸出する都市であった。百万都市の闇は、つねに何らかの媒体を伴って語られ、語られることによって増殖した。怪異が「起きる」のではなく「作られる」── この都市怪談の作法こそ、江戸が後世に遺した最大の発明である。江戸全体の妖怪文化の宏観は東京都の妖怪事典に譲るが、その核に「出版と芝居が育てた都市怪談」という独自の仕組みがあったことを、ここに記録しておきたい。

