近江(おうみ)という国の名は、湖から生まれた。古代の人々は琵琶湖を「淡海(あふみ)」── 真水の海と呼び、都に近いこの湖を、遠江(とおとうみ)の浜名湖に対して「近(ちか)つ淡海」と名づけた[1]。やがて「近淡海」が「近江」へと縮まる。国の名そのものが、中央に横たわる巨大な湖の存在証明なのである。
近江国は東山道に属し、湖の東を東山道が、西を北陸道が貫き、平安期には東海道もここを通った。東国と西国を分かつ境であり、都へ入る者も都を出る者も、必ずこの水と道の国を踏む ── 近江は、日本列島の交通の臍(ほぞ)であった。この稿では、現代の滋賀県の妖怪事典が湖国全体の怪を見渡したのを承けて、もう一段だけ時を遡る。古代に都が置かれ、英雄が斃れ、最古の人魚が記された「淡海の都」── 令制国としての近江に、妖怪と怪異がどう根を張ったかをたどりたい。
淡海の都 ── 大津宮と壬申の乱の記憶

近江を語るとき、避けて通れないのが、ここがかつて日本の都であった事実だ。天智天皇六年(六六七年)、中大兄皇子は飛鳥から近江へ都を遷し、翌年、天智天皇として即位する[2]。白村江の敗戦(六六三年)で唐と新羅の脅威にさらされた朝廷が、湖に守られた要害の地を選んだのだといわれる。この近江大津宮で、全国規模では初の戸籍とされる庚午年籍(こうごねんじゃく)が編まれた。
だが都の命は短かった。六七一年に天智が崩じると、翌六七二年、天智の子・大友皇子と弟・大海人皇子のあいだで皇位を争う壬申の乱が起こる[3]。激戦の末に大海人皇子(のちの天武天皇)が勝ち、都は再び飛鳥へ戻った。近江大津宮は、わずか五年余で歴史から退場する。古代最大の内乱が決した地 ── その記憶が、近江の地層の最も古い層に刻まれている。妖怪や怨霊の物語が、のちにこの国でかくも濃く育つのは、ここが「都であったが都でなくなった土地」だったことと、けっして無縁ではないだろう。
その大津宮と畿内とをつなぐ咽喉(のど)が、瀬田の唐橋であった。琵琶湖から流れ出る川はただ一本、瀬田川しかない。湖の水がすべてここを通る以上、橋は天然の関門になる ──「唐橋を制する者は天下を制す」と称され、壬申の乱でも、橋をめぐる攻防が乱の帰趨を決した[4]。橋の架設は、大津宮遷都のころにさかのぼると伝わる。湖と道と都を一点で結ぶこの橋が、後世、龍と大百足の物語の舞台になるのは、地理の必然であった。
瀬田唐橋の龍と三上山の大百足 ── 道の妖怪

近江国を象徴する妖怪退治譚は、この瀬田唐橋から始まる。平安の武将・俵藤太(たわらとうだ)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が、橋に横たわる大蛇に道をふさがれた。ひるまず踏み越えると、大蛇は人の姿に転じ ── 瀬田川と琵琶湖を支配する龍王の化身であった。

大蜈蚣
大蜈蚣是巨大的蜈蚣妖。其甲壳坚硬,能弹开刀矢;身长可盘绕数重山岭,足如火焰般赤亮,毒牙据说连铠甲也能咬碎。它与作为水神的大蛇、龙族相互敌对,常出没湖沼与山野争斗。蜈蚣也被视为勇猛不退的象征,于武家与商人间被当作吉兆。然而各地记述差异甚多,真实形貌难以定论。
查看详情龍王は、近江富士とも呼ばれる三上山(みかみやま)を七巻き半する大百足に一族を喰われ、困り果てていた。秀郷は龍王の願いを容れ、二本まで弾かれた矢の三本目に唾をつけ、神仏の加護を得たその一矢で百足の眉間を射抜く。礼として龍宮へ招かれた秀郷は、尽きることのない米俵や巻絹を贈られた ── これが「俵藤太」の名の由来だとも伝わる[5]。武勇譚は『太平記』巻十五にも組みこまれているが[6]、興味深いことに、その『太平記』本では大百足の棲み処を三上山ではなく比良山とする。同じ近江の山でも、語り手によって舞台が湖の東から西へ動く ── このあたりの異伝の機微は、湖国全体を見渡す滋賀県の妖怪事典に詳しい。ここで確かめておきたいのは、橋の下の龍、湖を渡る矢、山に横たわる百足という、近江の地形そのものが物語を動かしているという一点である。道の妖怪は、道のかたちに従って生まれる。
その瀬田唐橋の東詰には、近江国一宮の建部大社(たけべたいしゃ)が鎮まる。祀られるのは古代最大の英雄神・倭建命(やまとたけるのみこと)── だが各地の荒ぶる神を平定したこの英雄ですら、近江の山の神には敗れた。

倭建命
倭建命(Yamato Takeru)是《古事记》《日本书纪》中最重要的古代日本英雄神格之一,被写成第12代景行天皇之子,也是一位带有浓重悲剧色彩的英雄。《古事记》称他为“倭建命”“小碓命(Ousu)”,《日本书纪》则写作“日本武尊”“小碓尊”“倭男具那(Yamatooguna)”等。因为杀死兄长大碓命,他遭父亲景行天皇忌惮,接连被派往西方的熊袭(南九州)、出云,以及东方的东国(东海、关东、东北)远征,一路平定当地土地神和豪族。征讨熊袭时,他女装潜入营中,杀死兄弟首领熊袭建;熊袭建临死前把“Yamato Takeru”这个名字献给他。后来,他从姑姑倭姬命(伊势神宫斋宫之祖)那里得到草薙剑,这把神剑传说出自八岐大蛇尾中。他凭此逃过骏河国烧津的野火围攻;在走水海上,妃子弟橘比卖为平息海神之怒投海而死;最后,他因近江伊吹山山神作祟而病重,在伊势国能褒野(今三重县龟山市)去世。死后化作白鸟飞去的“白鸟传说”,是古代日本英雄升天、转生故事中最有代表性的一个,并在三重县、爱知县、岐阜县、静冈县等地留下陵墓传承、白鸟神社、热田神宫(草薙剑传承地)等圣地。
查看详情『古事記』によれば、ヤマトタケルは伊吹山の神を素手で討とうと登り、道で出会った白い大猪(『日本書紀』では大蛇)を「神の使いだろう、帰りに殺す」と侮った[7]。怒った神は大氷雨(おおひさめ)を降らせて彼の正気を奪う。山を下りた英雄は、伊吹山南麓の醒井(さめがい、現·米原市)の「居醒(いさめ)の清水」でわずかに息を吹き返したと伝わるが、ついに病を得て、伊勢の能煩野(のぼの)で力尽きた。澄んだ湧水はいまも街道沿いに流れ、英雄の最期を近江の地に結びつけている。琵琶湖を見おろす伊吹の山は、英雄を殺すほどの荒神(あらがみ)の坐す山として、この国の北東にそびえていた。建部大社が彼を武運の神として祀るのは、敗れてなお神格を得た英雄への、近江の人々の敬意のかたちであろう。
湖底の最古の人魚と、
湖を掘った巨人 ── 水の妖怪

近江が「淡海の海」と呼ばれた水の国であることは、妖怪の系譜にもくっきりと刻まれている。日本最古の人魚の記録は、ほかでもない近江のものだ。

人鱼
人鱼(Ningyo)是栖息于海洋与河流中的半人半鱼妖怪,在日本的民俗传说中,它是一个兼具“不老长寿”与“灾厄预兆”这两种截然相反面貌的特异存在。与西方故事里美丽的“美人鱼(Mermaid)”不同,日本古文献中出现的人鱼大多被描绘成“长着像猴子一样的脸和鱼的身体”、“拥有尖锐的牙齿和犄角”等极其怪异的模样,一旦它们被冲上海岸,就被视为会发生战争或瘟疫等不祥之事的凶兆。但另一方面,民间又强烈地相信人鱼的肉具有“不老不死灵药”的功效,因为吃了人鱼肉而活了800年的“八百比丘尼”的传说,在日本全国各地广为流传。进入江户时代后,人鱼从令人敬畏的对象一转变成了“供人观赏的展品”或引发好奇心的“珍奇异兽”;工匠们将猴子的上半身与鱼的下半身巧妙地拼接在一起,大量制作出“人鱼木乃伊”,在国内外掀起了一股巨大的流通热潮。
查看详情『日本書紀』推古天皇二十七年(六一九年)の条に、近江国の蒲生河(がもうがわ)に「其の形(かたち)人の如し」というものが現れたと記される[8]。海ではなく、湖へ注ぐ淡水の川に現れたところが、いかにも近江らしい。同じ年、摂津国の堀江でも「児(わかご)の如し、魚にも非ず人にも非ず」というものが網にかかったと併記されるが、近江の蒲生河の例は、文献に裏づけられた人魚の最古例として知られる。もっとも当時「人魚」という語はまだ成立しておらず、後世の人々がこれを人魚と読みかえたものだ。明治の博物学者・南方熊楠は、この古例をオオサンショウウオの誤認だろうと推測している ── 怪異の記録は、しばしば、まだ名を持たぬ何かへの戸惑いから始まる。
水の妖怪は、湖の創成譚にまで遡る。近江には、琵琶湖そのものを掘ったという巨人の伝説が伝わる。

大太法师
大太法师是日本巨人传说中最有代表性的名字之一。人们把洼地、池沼、水井、土冢和山岳说成巨人身体留下的痕迹。以关东和中部为主,各地又有Daidarabō、Daidabocchi、Dairabocchi、Deedarabocchi等叫法,并写作“大太法师”“大多罗法师”等。“大太法师”并不指一位在全国各地都有相同经历和面貌的固定巨人。各地借巨人的动作解释眼前地貌,讲出了许多相似故事;名称相近,后来才被归到这一名称之下。 传说关心的不是巨人的脸或衣服,而是它经过后留下的痕迹:一步踩下,地面陷成池沼;双脚撑住地面,土就隆起;搬运的泥土或鞋上掉下的土,堆成丘陵和土冢。背山、挖土搬到别处、以杖触地、排泄,这些动作把相隔甚远的山、海、洼地和涌泉连到同一具巨大的身体上。不过,各地讲述的动作和随身物并不相同,对它的善恶、才智和待人态度,也没有全国一致的说法。 《常陆国风土记》和《播磨国风土记》也记下了古代故事:巨大的“上古之人”或“大人”以身体、脚印和排泄解释地形。这些故事和后世大太法师传说的构造很相近,但古代本文并没有“大太法师”这个名字。它们不能证明同一种妖怪从古至今未曾改变地流传下来,只是可供对照的材料,显示人们很早就会用巨人的身体来解释土地的形状。
查看详情ダイダラボッチは、山や湖をつくるほどの巨体を持つ国造りの巨人だ。富士山を盛り上げるために近江の土を掘り、その掘った跡が琵琶湖になったと語られる[9]。湖の輪郭と富士の山容が、一人の巨人の手仕事として一続きに想像されているのである。この伝説の縁から、昭和四十三年(一九六八年)に静岡の富士宮市と近江八幡市は夫婦都市の縁を結んだ。神話を都市交流に変えてしまうあたりに、伝説がいまも生きていることがうかがえる。掘った土が富士になり、その跡が湖になる ── 列島の地形を一つの物語で結ぶこの巨人は、近江が「水の国」であることの、最も雄大な説明になっている。
そして、夜の湖そのものが妖しい火をともす。彦根に伝わる蓑火(みのび)は、湖を渡る舟人の妖怪である。

蓑火
“蓑火”指梅雨季的夜晚,在琵琶湖上行舟时,雨具蓑衣上点点浮现如萤的怪火。据说不灼热也不会蔓延,脱下蓑衣便会消失;若用手去拍打,反而会增多,像星子闪烁一般。有人说是溺死者怨灵所化,近代也有视为某种气体自发光的解释,各地都有相似记载。
查看详情旧暦五月の雨の夜、琵琶湖の舟上で、蓑(みの)に蛍のような火の玉がいくつもまとわりつく。手で払えば払うほど数を増し、けれども熱くはなく、蓑を脱げば消えるという[10]。鳥山石燕も『今昔百鬼拾遺』にこれを描いた[11]。火でありながら水上にともるという矛盾を、そのまま静かな美しさに変えてしまうところが、湖国の怪らしい。水死者の魂が火になるという説もあれば、明治の井上円了は湖面から立つ燐(りん)やガスのなせるわざと説いた ── 怪異と科学のあわいで、蓑火はいまもほのかに光りつづけている。
三井寺の怨霊 ── 山門寺門の争いが生んだ鼠

都の記憶が古代の層なら、中世の近江に怪異を呼びこんだのは、寺と寺との争いである。大津の三井寺(園城寺)は天台寺門宗の総本山で、たびたび戦乱に焼かれては再興された「不死鳥の寺」として知られる。この寺の歴史に重なる怨霊譚が、頼豪(らいごう)と鉄鼠(てっそ)の物語だ。

赖豪
平安中期天台宗僧人赖豪,以修法灵验著称,相传为白河天皇祈子而成。据说他后来企望在园城寺设立戒坛,却因延历寺强烈反对而未果,心怀怨恨,绝食入定。死后怨灵化为鼠,啮毁经藏,被称作“铁鼠”的怪异,《平家物语》《太平记》中均有记载。这是历史事迹与怨灵传说叠加的典型案例。
查看详情頼豪は、白河天皇に皇子誕生を祈願し、百日の祈りの末にこれを成就させた三井寺の高僧だった。恩賞として三井寺に戒壇(かいだん ── 僧に戒を授ける場)を設けることを願ったが、これを嫌う比叡山延暦寺の強硬な反対で叶わず、憤死したと伝わる ──『平家物語』は、恨みのあまり怨霊と化した頼豪が、自ら祈り出した皇子を呪い殺したと語る[12]。承暦元年(一〇七七年)、皇子はわずか四歳で世を去ったという。
この怨念が、やがて鉄の牙を持つ鼠の群れへと姿を変える。

铁鼠
铁鼠是传说中由园城寺僧人赖豪的怨灵化作的巨鼠妖怪。故事以延历寺与园城寺的对立为背景,描绘其啮食经卷与佛像。名称源自鸟山石燕《画图百鬼夜行》,旧传多称“赖豪鼠”或“三井寺鼠”。它把怨灵故事与民间对鼠患的观念结合起来,在比叡山与大津一带的社寺留有安魂与镇祟的传承。
查看详情後世の物語では、頼豪の怨霊は八万四千の鉄鼠となって比叡山へ押し寄せ、経巻や仏像を食い荒らした[13]。江戸の妖怪画はこれを鉄鼠(てっそ)と名づけて結晶させ、三井寺には鼠の霊を祀る十八明神社(じゅうはちみょうじんしゃ)── 通称「ねずみの宮」が、いまも比叡山の方角をにらむように建っている。
怨霊が鼠に化けるという発想の背後には、近江の宗教史そのものがある。同じ天台でありながら、円珍(えんちん)門流の三井寺(寺門)と、円仁(えんにん)門流の延暦寺(山門)とは、座主の補任や戒壇の権をめぐって長く反目しあった ── これを「山門寺門の争い」と呼ぶ[14]。正暦四年(九九三年)には山門が寺門の坊舎を焼き、寺門の僧およそ一千人が山を下って三井寺に拠った。頼豪が望んで容れられなかった「戒壇」とは、まさにこの対立の核心であった。怪異は、ここでは空想の産物ではない。生々しい権力闘争の記憶が、鼠という小さな獣の姿を借りて語り直されたのである。
比良の天狗と、
地の底をめぐる三郎 ── 山と地下の妖怪
近江は道と湖の国であると同時に、湖を囲む山の国でもある。湖の西にそびえる比良山(ひらさん)には、大天狗が宿る。

比良山次郎坊
比良山次郎坊是在近江国比良山扎根的大天狗,在四十八天狗与八大天狗中,名列次于爱宕山太郎坊的次席(第二位)。他被画成鼻子高耸的大天狗,相传操纵山气与风,统领麾下的天狗。 他以耸立于琵琶湖西岸的比良山系为据,中世时这座山的天狗便以实名见于文献。庆政于延应元年(1239)所著《比良山古人灵托》,记下与比良山老天狗(古人)的问答,传达出比良自古就被视为天狗栖居的灵山。在以爱宕太郎坊为首的天狗界序列中,次郎坊身居次席,常与太郎坊成对而被提起。
查看详情比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)は、愛宕山の太郎坊に次ぐ大天狗とされる。注目すべきは、天狗が単なる人を化かす妖怪としてではなく、宗教を論じる存在として一次史料に現れることだ。鎌倉時代の僧・慶政(けいせい)が著した『比良山古人霊託(ひらさんこじんれいたく)』(一二三九年)には、ある女房に憑いた比良山の大天狗と慶政とが、仏法をめぐって長く問答するさまが記されている[15]。日本を代表する八天狗を数えるとき、その筆頭が愛宕の太郎坊、これに次ぐのが比良の次郎坊だとされた。琵琶湖を見おろす比良の高嶺は、それほどの大天狗が坐すにふさわしい山と仰がれたのである。
天狗という存在そのものについては、近江の比良に限らず、修験の山すべてにまたがる広がりを持つ。

天狗
天狗是据说栖身日本山岳的妖怪兼神格般的存在,是与修验道的山伏分不开的山中之主。它的形态大体有两路:一路是赤红脸、高鼻、身着山伏装束、手持羽团扇、脚踏独齿高木屐的鼻高天狗;另一路是有鸦喙与翅膀的乌天狗,其下还连着木叶天狗、木屑天狗这类下位的眷属。早先被想象成鸢一样的鸟,经过中世,渐渐定型为长鼻的山伏之相。 天狗既是妨碍佛法的魔,一旦被降伏又会转成护持佛法的护法神——这一两义性正是天狗的本质。“高傲的高僧堕落而成天狗”这一观念,与佛教所说的“天狗道”相连,在镰仓末的绘卷里也被当作讽刺来画。另一方面,在山岳信仰里它被敬畏为山的守护者、武艺与法力的高手,是试炼乃至引导修行者的存在。自京都的鞍马山、爱宕山起,诸国的灵山都被传说各有大天狗坐镇,近世的《天狗经》把它们的总数数到四十八。
查看详情験力、飛行、慢心、そして護法 ── 天狗は、聖と魔の両方を一身に背負う、修行の山の住人である。鼻高の山伏天狗、烏天狗、木の葉天狗と図像も多彩で、ときに人をたぶらかし、ときに仏法を守護する。比良山次郎坊は、その天狗類のなかでも、近江という土地に固有の名を与えられ、正統な大天狗として語り継がれた一例だといえる。
同じ近江の南東、甲賀の地からは、地の底をめぐる異形の英雄が生まれた。

甲贺三郎
甲贺三郎是中世传说故事集《神道集》中“诹访缘起之事”篇章里,一位经历地底游历并化身为蛇身的英雄主人公。故事中他被描述为近江国甲贺郡权贵的第三子,为了寻找妻子春日姬而进入信浓国蓼科山的洞穴,却因兄长的嫉妒而被困于地底。在经历了漫长的地下异界巡游后,他终于回到地面,但身体却变成了蛇或者龙的姿态,并最终与诹访上社的明神信仰联系在一起。相较于《古事记》中的建御名方神,甲贺三郎应被视为由中世诹访缘起所孕育出的另一体系——“武士历经蛇身最终成神”的典型故事模式。
查看详情中世の説話集『神道集』の「諏訪縁起」によれば、甲賀の領主の三男・甲賀三郎(こうがさぶろう)は、天狗にさらわれた妻・春日姫(かすがひめ)を救うべく、信濃の蓼科山(たてしなやま)の人穴へと分け入った[16]。だが地上へ引き上げる綱を兄に切られ、地の底に取り残されてしまう。地下には七十二もの国があったと語られ、三郎はそのひとつ維縵(いかん)国の王女と契りながらも、なお地上を恋いつづけた。長い帰路の末にようやく地上へ帰り着いたとき、その身はすでに蛇(龍)へと変じていた ── やがて人の姿を取り戻した三郎は、諏訪の明神になったと語られる。武士が地底をめぐり、蛇身を経て神へと昇る ── 甲賀の地は、こんな壮大な転生譚の出発点でもあった。地下を旅する英雄という発想が、湖と山にはさまれた近江の地から立ち上がっているのは、暗示的である。
灯火の妖怪と、
湖国を歩いた商人たち ── 近世の近江

油赤子
江户中期由鸟山石燕绘入《今昔画图续百鬼》。形如婴儿,传说会舔吸行灯里的灯油。其渊源多指近江国大津一带的俗信:有卖油者盗取地藏菩萨前的供油,死后化为怪火(见《诸国里人谈》《本朝故事因缘集》关于“偷油之火”的记载)。石燕承接怪火传说,将对油的执念拟形为婴儿之像。
查看详情近世に入ると、近江の妖怪は街道や町の暮らしのなかに溶けこんでいく。その代表が油赤子(あぶらあかご)だ。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(一七七九年)に描かれたこの妖怪は、赤子の姿で行灯(あんどん)の油を舐め取る[17]。石燕の図像の背後には、近江国大津の俗信がある ── 大津で地蔵の灯明油を夜ごと盗んで売っていた油売りが、死後に迷って怪火(油坊)と化したという話だ[18]。火の玉が家に入りこんで赤子の姿となり、油を舐め、また火に戻って飛び去る。「灯(あかり)」が怪を呼ぶという発想は、油という商品が貴重で、寺社の灯明や行灯の灯が暮らしの中心にあった時代の感覚から生まれている。
そして油という商品は、近江のもう一つの顔へとつながっていく。湖と東西の街道に恵まれた近江は、近世日本を代表する商人 ── 近江商人を生んだ土地であった。
八幡商人、日野商人、五個荘商人らは、天秤棒一本をかついで全国へ行商に出た。日野商人は売薬や醸造を得意とし、油もまた彼らの扱った重要な商品の一つであった[19]。「近江の千両天秤」という言葉は、天秤棒一本から千両の身代を築く気概と、富を得ても行商の初心を忘れぬ戒めを、同時に伝えている。妖怪の世界では油を盗む怪火が語られ、現実の世界では油を商う商人が街道を歩く ── 油という一つの品をめぐって、怪異と経済とが同じ近江の街道の上で交差していたのである。湖が交通の臍であったからこそ、ここでは物も人も怪も、同じ道の上を行き来した。
結び ── 湖と道が記憶を畳む国
近江国の妖怪をたどると、この国がいかに「境の国」であったかが見えてくる。東国と西国の境、水と陸の境、聖と魔の境 ── そのいずれもが、湖と道という近江の地理に根ざしている。瀬田唐橋に龍と大百足が立ちあがり、伊吹山に英雄を斃す荒神が坐し、蒲生河に最古の人魚が記され、巨人が湖を掘り、三井寺に怨霊の鼠が群れ、比良に大天狗が宿り、甲賀から地底をめぐる三郎が現れ、大津の街道に油の怪火がともる。
古代の都が置かれ、壬申の乱が決し、英雄が斃れた近江は、その後も都の神仏・軍記・怪談を湖と山で受けとめ、独自の怪異に編みなおしてきた。令制国としての近江がたたんだこれらの記憶は、いまも現代の滋賀県の妖怪事典へと地続きに流れこんでいる。淡海の都は、わずか五年で都であることをやめた。だが、都であった記憶も、英雄が敗れた記憶も、商人が街道を歩いた記憶も、この水の国はけっして手放さなかった。近江の妖怪とは、その畳まれた記憶が、湖面にほのかに灯した火なのである。
