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纪伊国 木の国と神々の辺境。紀伊国の妖怪

熊野権現・清姫・牛鬼。木の神の国と他界の入口に湧く怪

木の国と神々の辺境。
紀伊国の妖怪

纪伊国 · きい

别称: 紀州
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「木の国」と書いて、きのくに。これが紀伊国のいちばん古い名である。降る雨が多く森が深かったからとも、この地を治めた紀国造の名にちなむともいい、やがて好字二字の制で「紀伊」の字が当てられた[1]。木の神が棲む国──そう信じた古代人の感覚は、ただの語呂合わせではない。『日本書紀』は、素盞嗚命から木の種を託された五十猛命が、妹神の大屋都姫・都麻津姫とともに各地へ植樹し、最後にこの地を選んで鎮まったと伝える。三神を祀る伊太祁曽神社は、いまも紀伊国の総鎮守として木を司る[2]

紀伊国は、現在の和歌山県の全域と、三重県南部の熊野地方にまたがる令制国であった。律令制下では伊都・那賀・名草・海部・在田・日高・牟婁の七郡を置き、北部に紀国造、南の熊野に熊野国造という二つの古い首長がいた[1]。この「二つの古層」が紀伊を理解する鍵になる。北の紀ノ川流域は木と植樹神の国、南の牟婁・熊野は神々の上陸する辺境の他界──同じ令制国のなかに、性格の異なる二つの聖地が同居していたのである。

現在の県全体を束ねる事典は和歌山県の妖怪事典に譲り、この稿では令制国「紀伊」の古層、すなわち神武天皇の上陸する熊野、補陀洛の渡海僧が船出する那智の浜、上皇が百度通った参詣道、空海が開いた高野の山に分け入って、そこに棲む怪を読む。

熊野权现

kumano-gongen

熊野权现(Kumano Gongen)是供奉在熊野三山(熊野本宫大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)的神明总称,也是日本自古以来的自然崇拜(神道教)与佛教高度融合而成的“神佛习合”的象征性存在。“权现”一词的含义是:佛或菩萨为了拯救日本的众生,而“暂时(权)”化身为日本神明的姿态“显现(现)”。熊野自古以来便是一处被险峻群山、幽深森林与海洋所环绕的灵地,其根基深植于对巨石、瀑布、大河充满敬畏的原始山岳信仰。当佛教的净土思想与修验道的修行体系与其结合后,熊野权现便发展成为了一个既能保证“现世救济”又能承诺“来世极乐往生”的强大信仰对象。从平安时代后期到镰仓时代,历代上皇频繁进行“熊野御幸(巡游)”;到了后来,这里更成为了日本最大的灵场,无论身份高低、男女老幼,甚至不论是否处于“不洁”状态,所有人都被吸引至此,参拜者的队伍络绎不绝,甚至被形容为“蚂蚁的熊野参拜”。

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神々の上陸する辺境──神武東征と八咫烏

紀伊国の古代を語るとき、まず据えねばならないのは、ここが「神々の上陸する辺境」だったという神話的位相である。『古事記』『日本書紀』の伝える神武東征で、初代天皇となるイワレヒコ(神武)は、難波での敗北ののち海路を南へ迂回し、熊野の地に上陸する。だがそこで荒ぶる神の化身たる大熊が現れ、軍勢はことごとく気を失って倒れた[3]

倒れた一行を救ったのが、熊野の土豪である高倉下であった。彼は夢の告げに従って一振りの太刀を献じる。この太刀──布都御魂と称えられる神剣──を手にした途端、イワレヒコは目覚め、熊野の荒神は切り倒された。そして天照大神と高木神が遣わした三本足の霊鳥、八咫烏の導きによって、一行は熊野の険路を抜け、大和の宇陀へと至る[3]

この神話が紀伊国にとって決定的なのは、熊野が「天皇という秩序が、いったん死に瀕してから蘇る地」として刻まれた点にある。荒神に倒れ、神剣で覚醒し、霊鳥に導かれて他界の山を抜ける──熊野上陸の一段は、のちの熊野信仰が抱く「擬死再生」の原型をすでに含んでいる。八咫烏はこののち熊野三山の神使として定着し、参詣者を導く霊鳥となった。

熊野権現とは、本宮・新宮・那智の三山に祀られる神々の総称である。原初の山と滝と巨石への畏怖の上に、仏が衆生を救うため日本の神の姿で現れたとする本地垂迹の思想と、修験道の修行体系が幾重にも積み重なって、この複合神格は生まれた[4]。神武を倒し、また蘇らせた熊野の荒ぶる神威は、馴致されて権現となってもなお、その底に「人を一度死なせてから生かす」辺境の力を宿し続けた。県全体の信仰史は和歌山県の事典に譲るとして、ここでは熊野が令制国紀伊の南半を占める「他界の入口」であった、という古層を確認しておきたい。

南海の彼方へ──補陀洛渡海という捨身

熊野が他界の入口であるという感覚を、これ以上ないほど極端に押し進めたのが、那智の浜から行われた補陀洛渡海である。これは紀伊国の古層を象徴する、世界にも類のない信仰実践であった。

南の海の彼方には、観音菩薩の住まう補陀落浄土があるという。その浄土を目指して、僧が小船に乗り、二度と還らぬ航海へ漕ぎ出す。これが補陀洛渡海と呼ばれた捨身行である。記録に残る最古は貞観十年(八六八)の慶龍上人とされ、平安から江戸期にかけて行われた。全国で約五十六例が確認され、その半数近い二十八例が熊野那智から船出したという[5]

渡海の様は凄絶であった。全長わずか六メートルほどの船の甲板に小さな屋形を組み、渡海僧はわずかな食料と灯油だけを携えて中へ入る。屋形の扉は外から釘で打ちつけられ、僧はもはや出ることができない。船は伴船に曳かれて沖へ運ばれ、綱を切り離されて黒潮のなかへ消えていった[5]。海のかなたに理想郷があるという熊野の自然信仰が、仏教の浄土思想と結びつき、那智の浜でこの究極の行が定着したのである。

神武の擬死再生も、補陀洛の渡海も、根は同じ一つの地理感覚に発している。紀伊国の南端は、生者の世界が尽き、海と山の向こうに他界が始まる「果ての地」であった。この感覚こそが、次に見る数々の怪を育てた苗床である。

参詣の道に湧く怪──蟻の熊野詣と夜道の妖

他界の入口たる熊野へ、人々は列をなして通った。上皇(法皇)の熊野詣を熊野御幸といい、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の院政期を中心に、総計およそ百度を数えた[6]。やがてその巡礼熱は身分を越えて庶民へ広がり、絶え間なく続く参詣の列は「蟻の熊野詣」と称された。女性や身体に障りのある者など、他の寺社が忌避した人々にまで門戸を開いたことが、熊野信仰の最大の特色であった[6]

誰もが歩いた道──そこにこそ怪は湧く。紀伊の妖怪の多くが、聖地そのものより「聖地へ通じる夜道」に現れるのは、この参詣の地理から必然的に導かれる。歩く者の不安と疲れと畏れが、峠や淵や辻の闇に形を結んだ。

その代表が、死者の登る霊山の麓に鳴く三体の怪である。

那智三峯のひとつ、標高七四九メートルの妙法山にある阿弥陀寺の周辺で語られた送り雀は、夜の山道で「チチチチ」と鳴きながら人の後を追う怪鳥である。妙法山は古来、死者の霊が最後に登る山として信仰され、亡者の鐘を撞きに登る習わしが伝わる、熊野でも屈指の他界に近い霊地であった。この鳴き声の後には狼、もしくは送り狼が現れる前兆とされ、声を聞いた者は転ばぬよう足元に注意を払って歩いたという。道で転倒すれば、すぐさまそれらに襲われると恐れられたからである。鳴き声を実在の鳥アオジになぞらえて「蒿雀」とも呼ぶが、夜間に飛ぶことからアオジとの同一視を疑う説も併存する[7]。死者の登る霊山の麓、巡礼の夜道だからこそ、こうした「人を送る」怪が育った。

同じ夜道に現れて、より直接に命を狙うのが肉吸いである。提灯を手に山道を行く者へ、十八、九の美しい女に化けて「火を貸して」と近づき、提灯を奪って暗闇に紛れ、人に食らいつくという。紀伊田辺に拠った民俗学の巨人、南方熊楠は、その『紀州俗伝』に肉吸いの記録を残した。明治二十六年(一八九三)に郵便脚夫が夜道で遭い、火縄を打ちつけて退散させた話、また果無山脈で猟師の源造が「源造、火を貸せ」と呼びかけられたとき、一匹の狼が袖を引いて危機を知らせた話などである[8]。火種や火縄を携える戒めは、紀伊の山深さがそのまま結晶した、夜道を生きるための知恵であった。

そして、紀伊国でただ一つの飛び地として知られる牟婁郡北山(現在の北山村)には、地形そのものに刻まれた狐の伝承がある。タメハチ狐は、男「タメハチ」に憑いたとされる狐で、滝の絶壁を渡りきる妖力を示したと語られ、断崖に残る筋状の跡をその証とする。もっとも北山には、絶壁を渡り競べたのは蛇と修験者(イカヅチ坊主)で、修験者は落ち、蛇が渡りきったため跡が残ったとする伝えもあり、語り手や家筋によって主体が狐にも蛇にも修験者にも入れ替わる[9]。実在の人物や年代は不詳で、地形伝承と憑き物観が結びついた逸話として読むのがよい。深山の崖一筋にすら幾通りもの物語を見出すこの想像力こそ、参詣と修験の山々に分け入った紀伊の人々が育てた語りの厚みである。

蛇身に変ずる情念──道成寺の鐘

参詣の道の途上で、人の情念が怪へと転じた最も名高い物語が、日高川のほとりの古刹、道成寺に伝わる安珍清姫伝説である。道成寺はこれを延長六年(九二八)の出来事とし、十一世紀の『大日本国法華験記』に記され、『今昔物語集』にも採られたと整理する[10]

奥州白河から熊野本宮を目指す若い僧、安珍が、紀伊の真砂に一夜の宿を借りる。宿の娘、のちに清姫と呼ばれる女は安珍に恋い焦がれたが、僧は参詣の帰路に再び立ち寄ると偽って去り、約束を違えて逃げた。裏切られたと知った女の追跡は、人間の走りから異類の変化へと移ってゆく。日高川では渡し守が舟を出さず、女は怒りのまま川へ身を投じ、蛇体となって水を渡った[11]

清姬

きよひめ

清姬是流传于纪伊国道成寺的安珍清姬传说中的蛇女。她爱上了前往熊野参拜的僧人安珍,在认为对方违背承诺后,越过日高川追赶,化作蛇身,将躲藏在道成寺钟里的安珍烧死。道成寺将此故事传为延长6年(928年)发生的事件,被记录在11世纪的《法华验记》中,后来发展为能乐、人形净琉璃、歌舞伎的“道成寺物”。在早期的传说中,女子的名字并未固定,通过后代的寺社缘起、绘解(看图说书)和舞台演艺,才逐渐固定为“清姬”。作为妖怪的清姬,并非蛇神本身,而是人类的爱慕被嫉妒和执念燃烧,从而转化为蛇身的边界存在,与般若和桥姬一样,是女子的怨念获得面容、身体和火焰而显现的代表性鬼女。

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道成寺へ逃げ込んだ安珍は、僧たちによって梵鐘の中に隠される。だが蛇となった清姫は鐘に幾重にも巻きつき、その身の炎熱で鐘もろとも安珍を焼き尽くした。重要なのは、清姫がはじめから怪物ではなかった点である。破られた約束、恋慕、羞恥、嫉妬、宗教者への不信が一気に重なって、ひとりの人間の女が蛇へ転じる。原初の大蛇怪とは異なり、清姫は般若面が表す「怒りと哀しみの同居」に近い存在なのだ[12]

そして物語のもう一方の主役が、焼かれた鐘そのものである。

道成寺之钟

Dōjōji no Kane

出自《道成寺缘起》的大梵钟。相传僧人安珍躲入钟中,痴情化怨的女子化为蛇身缠绕其上,以灼热之火将钟焚灼。传承中并存两说:一说有如能乐描写,钟化为热汤吞没僧人;另一说则称以水灭火,钟体仍存。鸟山石燕在《今昔百鬼拾遗》中以“道成寺鐘”绘示此异说。

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道成寺鐘の伝承は、諸本で大きく揺れる。『道成寺縁起』では、女が蛇身となって鐘に巻きつき火を吐き、長く燃えたのちに水で消火して鐘を除けたとする[11]。一方、能『道成寺』では「鐘は即ち湯となつて」と語り、熱で鐘が融け去る描写が強調される[12]。鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』に「道成寺鐘」を図示し、「鐘とけて湯となる」と記しながら、当時その鐘が他寺に納められていた事実をも併記した。怪異がいかに伝承の過程で変奏されてゆくかを、この鐘ほどよく示す器物はない。

この物語が紀伊国に固有なのは、それが熊野参詣という具体的な信仰の道のうえに据えられている点にある。安珍は奥州白河から熊野本宮を目指す参詣僧であり、清姫の宿は熊野古道沿いの真砂にあった。前節で見た「蟻の熊野詣」の巡礼路を舞台装置として、この悲劇は成立している。聖地へ向かう清浄な道であればこそ、そこで破られた約束と裏切られた情念が、いっそう深い罪と怪へ転じた。日高川町には、いまも清姫の墓と伝えられる塚や、安珍ゆかりの地が点在し、物語が土地に深く根を下ろしていることを示す。近世にはこれが人形浄瑠璃・歌舞伎・舞踊へ展開し、「娘道成寺」をはじめとする道成寺物の巨大な系譜をつくった[13]

高野の深山と海辺の淵──天狗と牛鬼

熊野が南の海へ開く他界なら、紀伊国の北、紀ノ川の上流に屹立するのが高野の山である。弘仁七年(八一六)、空海が朝廷の許しを得て、標高およそ千メートルの峰々に囲まれた盆地を真言密教の根本道場として開いた。九世紀初頭に開かれたこの伽藍は、のちの真言寺院の規範となった[4]。深山に籠もって法力を練るこの土地の性格は、おのずと山の主たる天狗の領分と重なってゆく。

天狗

てんぐ(Tengu)

天狗是据说栖身日本山岳的妖怪兼神格般的存在,是与修验道的山伏分不开的山中之主。它的形态大体有两路:一路是赤红脸、高鼻、身着山伏装束、手持羽团扇、脚踏独齿高木屐的鼻高天狗;另一路是有鸦喙与翅膀的乌天狗,其下还连着木叶天狗、木屑天狗这类下位的眷属。早先被想象成鸢一样的鸟,经过中世,渐渐定型为长鼻的山伏之相。 天狗既是妨碍佛法的魔,一旦被降伏又会转成护持佛法的护法神——这一两义性正是天狗的本质。“高傲的高僧堕落而成天狗”这一观念,与佛教所说的“天狗道”相连,在镰仓末的绘卷里也被当作讽刺来画。另一方面,在山岳信仰里它被敬畏为山的守护者、武艺与法力的高手,是试炼乃至引导修行者的存在。自京都的鞍马山、爱宕山起,诸国的灵山都被传说各有大天狗坐镇,近世的《天狗经》把它们的总数数到四十八。

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天狗は山伏と分かちがたく結びついた山の主であり、仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じるという両義性を本質とする。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びついた。永仁四年(一二九六)頃の『天狗草紙』は、南都北嶺の名だたる寺の驕れる僧たちを天狗に擬えて風刺しており、天狗が中世に「仏道の慢心の象徴」として観念されたことをよく示している[14]。諸国の霊山にはそれぞれ大天狗が座すと信じられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げる[15]。修験の聖地である高野もまた、そうした天狗の棲む山として畏れられた。人が忽然と消える天狗攫い、伐られる大木の音が響くのに翌朝には何もない天狗倒し、山中にこだまする天狗笑い──深山の不可解は、ことごとく天狗の仕業として語られたのである。法力を練る行者と、その法力を試し、あるいは妨げる天狗とは、同じ深山の論理から生まれた対の存在であった。

紀伊にはもうひとつ、黒潮の洗う海の顔がある。その海辺と淵に現れるのが牛鬼である。

牛鬼

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牛鬼主要出没于西日本的海岸、深潭与山间,是日本妖怪中最凶猛、也最具神威的一类。它的形态并不固定,有时是牛头鬼身,有时又长着蜘蛛躯体和牛的头颅。早在平安时代,《枕草子》便把牛鬼列入“可怕之物”,可见人们对它的恐惧由来已久。牛鬼有着截然相反的两张面孔:一面是吃人、散播毒气的恶鬼与疫神;另一面则会在祭礼中走在神轿前方,凭借自身的凶猛驱逐邪祟。它从古代文献中的怪异,逐渐进入地方信仰与民俗表演,是理解日本妖怪与祭礼关系时不可忽视的存在。

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牛鬼は西日本の海岸や淵に現れる屈指の凶悪な怪で、牛の頭に鬼の胴、あるいは蜘蛛の胴に牛の首など、多様な異形に描かれる。平安の『枕草子』に「おそろしきもの」として名指しされるほど古くから畏怖された存在だ。和歌山では各地の淵や滝に牛鬼が語られ、その性質は土地ごとに少しずつ異なる。牟婁の牛鬼淵は底が海に通じるとされ、淵の水が濁ると「牛鬼がいる」と恐れられ、夕暮れに現れて、見ただけで人を病ませ、あるいは狂わせるという。すさみの琴の滝の牛鬼は人の影を嘗め、影を嘗められた者はほどなく死ぬといい、串本の笹の平の牛鬼は美しい鳥に化けて人を惑わすと伝えられた[16]。淵・滝・海という水の境界に現れ、影や視線を介して命を奪うこの怪は、紀伊の海辺の人々が抱いた水難と風土病の恐怖を、そのまま異形に凝らせたものであった。

紀伊の牛鬼で興味深いのは、それに対抗する呪文が残されていることである。出会ったとき「石は流れる、木の葉は沈む、牛は嘶く、馬は吼える」と、ことごとく逆さまの言葉を唱えれば命が助かるという。これは、牛鬼という存在の理を反転の言葉で攪乱しようとする、海辺の民の切実な防御の知恵であった[16]

果無の雪に残る片足──一本だたら

紀伊国の最奥、牟婁の山深く、和歌山と奈良の境をなす果無山脈には、皿のような一つ目に一本足の山霊が棲むと伝えられた。

一本踏鞴

Ippon-datara

一本踏鞴是传说中长着一个大眼、仅有一条腿的山野妖怪,主要见于纪伊熊野与奈良伯母峠等地。它以在雪地里留下宽大的单只脚印而闻名,真正见到其身形的人极少。流行说法称它只在每年十二月二十日的“末二十日”出没,这一天被视为禁入山林的凶日。民间还把它与锻冶、踏鞴冶炼联系在一起,亦有将其解读为独眼锻冶神式微后的遗影。

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一本だたらは、十二月二十日の「果ての二十日」にのみ現れるとされ、姿を見た者はなく、雪上に幅一尺ほどの単跡を残すのみだという。一本足で飛ぶように走り、出会えば病を得るとして山入りを厳しく忌んだ。「果無」の名すら、この時期に人通りが絶えることに由来するという説が伝わる[17]。その核には、伯母ヶ峰の猪笹王の物語がある。背に熊笹の生えた巨大な猪が狩人に撃ち倒され、亡霊が一本足の鬼と化して峰越えの旅人を襲った。これを丹誠上人が封じ、年に一度この日だけ解放を許したため、果ての二十日が峰の厄日となったと語られる[17]。名の「だたら」を製鉄のたたら師に通わせ、片足で鞴を踏み片目で炉火を見続けた職能者の零落と見る近代の解釈もあるが、これはあくまで一説にすぎない。

興味深いのは、一本だたらが今なお語り継がれる生きた伝承だという点である。西牟婁では、河童の一種が山に入って化したカシャンボを一本だたらと呼ぶ例もあり、二〇〇四年春には白浜の富田で一本足の足跡が見つかって話題になった[17]。果無という地名の重い響きと、年に一度の厄日という禁忌が、この山霊を紀伊の山岳信仰のなかへ深く織り込んでいる。

むすび──二つの古層が育てた怪

紀伊国は、ひとつの令制国のなかに性質の異なる二つの聖地を抱えていた。北の紀ノ川流域は木の神の鎮まる「木の国」であり、高野の深山が真言密教の法力を練る場であった。南の牟婁・熊野は、神武が荒神に倒れて蘇り、渡海僧が南海の浄土へ消えてゆく「他界の入口」であった。

この稿で辿った怪は、どれもこの二つの古層から生まれている。神々の上陸する辺境だからこそ熊野権現の荒ぶる神威があり、他界へ通う参詣の夜道だからこそ送り雀が鳴き肉吸いが火を乞い、その清浄な道のうえで破られた約束が清姫を蛇へと変え、鐘を湯へと融かした。深山の法力が天狗を呼び、海と淵の境界が牛鬼を生み、果無の禁忌が一本だたらの片足を雪に刻んだ。

聖が極まる土地にこそ、異形は最も濃く生まれる──木の神の国にして神々の上陸する辺境、紀伊国の妖怪は、その二つの古い記憶の上に立っている。現代の県域全体の妖怪文化については、和歌山県の妖怪事典を併せて読まれたい。

纪伊国全部妖怪9

纪伊国相关全部妖怪的完整清单,包括正文未细写的传承。

  • 熊野权现

    熊野权现

    神格

    kumano-gongen

    三山一体・净土的圣地・熊野权现

    神霊・神格紀伊国熊野本宮大社(現·和歌山県田辺市本宮町) ── 熊野三山(本宮·速玉·那智)の核

    “本地垂迹”思想的完成形态。熊野权现是日本神佛习合思想“本地垂迹说”被最精密地体系化了的实例。熊野三山的主祭神分别被赋予了佛教的“本地佛”。例如,本宫的家津美御子大神是阿弥陀如来,速玉大社的熊野速玉大神是药师如来,那智大社的熊野夫须美大神则是千手观音。因此,参拜熊野就相当于消灭了过去世的罪孽(药师)、获得了现世的利益(千手观音),并得到了来世极乐往生(阿弥陀如来)的承诺。它作为一个横跨过去、现在、未来三世的完整救赎系统而发挥作用。 修验道的教团化与网络。熊野是修验道发祥的圣地之一,它不仅仅是一个祈祷的场所,更是一个极其严酷的修行实践地。中世以后,修验道发展成为了本山派(天台宗系)和当山派(真言宗系)等巨大的教团组织,并以熊野的信仰权威为后盾,构建了全国规模的网络。日本各地之所以会有那么多“熊野神社(十二所权现)”被分灵劝请,正是这些修验者通过网络进行传教活动的成果。至今全国仍有数千座熊野神社,这充分显示了熊野权现对地方社会的深度渗透。 “道路”本身所具有的宗教性。在谈论熊野权现信仰时,绝不能忽略“熊野古道”的存在。通往熊野的路程极其艰险,沿途设有许多被称为“九十九王子”的小神社。参拜者不仅仅是为了到达目的地,他们在险峻的山道上跋涉、历经千辛万苦这一过程本身,就被视为一种能够消灭罪障的修行(道中修行)。从现代公共历史学(Public History)的角度来看,熊野古道不仅是一处历史遗产,它作为一种用自己的身体来净化精神的“实践信仰的空间”,至今仍保持着独特的价值。

  • 牛鬼

    牛鬼

    传说

    ushi-oni

    牛头蛛身、潜伏水底的牛鬼

    动物化形以濑户内海为中心,流传于四国、中国地方沿海及武藏等地

    江户时期的妖怪绘卷,以及今天常见的妖怪图鉴,往往把牛鬼画成牛头、蜘蛛身体的海中恶鬼。幽暗水底带来的原始恐惧,与蜘蛛网般不肯放过猎物的执拗结合在一起,形成了这副最广为人知的模样。 在日本古代生活中,牛与农耕、治水关系密切,也曾被视作神圣动物、水神的使者,甚至水神本身,例如牛头天王。有人因此认为,潜伏深潭的牛鬼原本是人们既敬又怕的水神;随着信仰渐渐衰退,它的神格也跌落成了妖怪。 仅仅舔到水中倒影便能令人丧命,利用濡女作饵、趁人松懈时袭击,也说明牛鬼并非只有蛮力的野兽。它还保留着昔日凶神蛮不讲理的威势,甚至被斩断的部位也能凭怨念继续行动,普通人几乎无法抵挡。人们要么向千手观音等更强大的佛法求助,要么把牛鬼请进祭礼,让它走在神轿前方,借这股凶猛力量守护城镇、驱逐其他邪祟。

  • 清姬

    清姬

    传说

    きよひめ

    焚烧道成寺的蛇女・清姬

    人妖・半人半妖纪伊国(现・和歌山县) / 道成寺(现・和歌山县日高郡日高川町钟卷)

    这个版本将道成寺传说中的“清姬”的个人特性放在首位。她不仅仅是一个蛇怪。告白爱情的女人、被逃避的女人、越过河流的女人、焚烧钟的蛇女这四个层面重叠在一起。道成寺以绘卷说书的形式传承这个故事,而在能剧《道成寺》中,后传里的白拍子消失在钟下,又再次作为蛇身的鬼女出现。换言之,清姬的恐怖之处在于,过去发生的事件并没有结束,而在演艺的舞台上一次又一次地被现时化。 在妖怪分类中,清姬既是“蛇女”,也是“般若化的女人”。般若在面具上刻下的愤怒与悲伤、桥姬在桥与河中寄托的嫉妒、八岐大蛇在神话中展示的蛇的灾厄性,清姬将这些都集中在一个人的身体上。寺院的钟原本应该是一个安全的藏身之处,但一旦触碰到清姬的执念,它就成了火炉而不是避难所。这就是道成寺传说的象征意义所在。佛法的寺庙、熊野参拜之路、日高川的水、钟的金属声、女人的火在这一点上碰撞,爱情故事由此变成了妖怪传说。

  • 天狗

    天狗

    传说

    てんぐ(Tengu)

    何谓天狗——类型与图像的总论

    山野之怪京都府·滋贺县·和歌山县(诸灵山的大天狗各座)

    这一版讲的不是某座灵山的一座天狗,而是一篇总论,要从图像与类型的历史里,把“天狗究竟是什么”彻底解开。各座的个别传承,留给各自大天狗的页面。 天狗之姿并不划一。第一类是鼻高天狗——赤红脸、高鼻,戴山伏的兜巾、披铃悬,手执羽团扇、脚踏独齿高木屐。第二类是乌天狗,有鸦喙与翅膀,执剑或金刚杖。第三类是被称作木叶天狗、木屑天狗的下位天狗,力弱而数多,被视为眷属。与其说是固定的分类,不如说是映出天狗之像随时代与地域而有的宽度。 图像随时代而变迁。平安时期的天狗,先是被想象成鸢一样的鸟,乌天狗之像便留着这一痕迹。长鼻变得突出,是在镰仓末以后;《是害房绘卷》里就画着一幕:化作人形的天狗,在变回鸟形时鼻子伸长。关于鼻高的起源,有学说说它源自伎乐面里高鼻的治道面,又把乌天狗系于迦楼罗面;也有看法把长鼻看作鸟喙的图像遗存——但都谈不上是定论。它又与《日本书纪》里被写作鼻长七咫的猿田彦神相叠,祭礼上以天狗面充猿田彦之役的风气,也由此而生。 天狗的两义性,根在佛教天狗道的观念。因学佛道而不堕地狱,因弄邪法而又去不了极乐——这一中间的境地,堕进去的被说成是傲慢的僧人。《天狗草纸》把这观念画成对七大寺僧人的讽刺,不过“只有高傲的僧人才会变天狗”这种简单化,知切光岁也提醒说过了头。它虽是魔,一旦被降伏便转成护法;据说修验者诵《天狗经》,便能招来诸国的天狗成就所愿——护法与魔之间这道摆幅,正是天狗的内核。 “八大天狗”这一归束,确切的中世典据在室町时期的谣曲《鞍马天狗》的词章里。大天狗把麾下诸国的天狗,按地理之序唱将出来——“筑紫有彦山的丰前坊,四州有白峰的相模坊、大山的伯耆坊、饭纲的三郎……大峰的前鬼一党,葛城高间”——这一段说明,八大天狗并非江户的创作,而是把根扎在中世的信仰与艺能里。不过它的构成因资料而摇摆,还有加上石锤山法起坊的异传,并非固定的名簿。

  • 一本踏鞴

    一本踏鞴

    名妖

    Ippon-datara

    纪伊·熊野传承准拠

    山林精怪以纪伊国(熊野)为中心的山间地区

    基于纪伊、熊野至奈良的记载所成的一本踏鞴形象。多言其一目一足,然目击寥寥,降雪后留下一枚巨大的单足足迹,常被视为现身的证据。最著名特征为十二月二十日出现,此“穷尽之二十日”与山神与道路禁忌相叠,用以劝戒入山。与锻冶的关联上,民俗学常以踏鞴工一足踏风箱、一目观炉之作法,解释其独足独眼之姿。伯母峰系谱中又被视同为鬼神“猪笹王”,曾扰峰岭,后被僧人封印,仅于每年一次获释。熊野、严岛等地则言“只见足迹不见身”,虽令人畏惧,但直接加害有限。各地一本足传说(如雪入道、雪坊)有习合与混同,然本条以熊野、奈良系为骨干,核心为忌日与单足迹、锻冶起源说三点。

  • 道成寺之钟

    道成寺之钟

    稀有

    Dōjōji no Kane

    石燕图会·道成寺之钟

    家宅与器物精怪纪伊国(和歌山县日高郡由良町・道成寺)

    对鸟山石燕《今昔百鬼拾遗》中“道成寺之钟”的图像诠释。安珍藏身于巨钟内,化作蛇身的女子缠绕其上,异说记载钟受炽热而融化成汤;同时亦附带传闻称钟本体在史实中仍有存留。本作所谓“妖怪性”,并非器物自体妖化,而是执念附于器上而引发异变的民俗观念之可视化。可视为江户时期吸纳能乐、说经、缘起等叙事差异后混融的接受图像。

  • 田八狐

    田八狐

    少见

    Tamehachi-gitsune

    北山村传承版

    动物成精和歌山县东牟娄郡北山村

    依北山村的地形传说所塑的形象。据说狐会附在人身上,赋予超常的轻灵身手,可一跃跨越绝壁。因并存与蛇或修验者竞逐的异说,故对手与术法细节并不固定。以村人所述断崖上的痕纹为物证,承担唤起村境灵威与禁忌的功能。至于仪礼与人名等细节传承欠明,叙事多为概述。

  • 送雀

    送雀

    少见

    okuri-suzume

    传承整理版

    山林精怪纪伊国・大和国(今和歌山县、奈良县吉野郡东吉野村)

    “送雀”在日本被视为山路危险的预兆与凶兆。其鸣声常先于本体,被认为会引出狼或“送狼”的出没,形成劝诫行旅者避免跌倒与拖行的行为规范。一说名从实鸟“蒿雀”(拟合青鵐)而来,但与其夜行性不尽相符。因目击形貌稀少, 具体形象未定, 奈良部分地区与“夜雀”混称。和歌山妙法山一带多有传闻, 据说会被纸灯笼火光吸引。传承核心重在“作为前兆的鸣声”, 属于以声音为主体的怪异。

  • 肉吸

    肉吸

    少见

    nikusui

    山中乞火的食肉女妖

    通用分类纪伊国(熊野与果无山一带)

    据熊野与果无山一带的传说类型而定型,核心是化作年轻女子索要提灯火,夺火后乘暗吸食对方的肌肉与精气。见闻中常以挥动火绳、打火石等手边之火驱逐,或以刻有佛名的弹丸显其白骨真形,凸显山中禁忌与随身求生智慧。近世图像亦见潜入屋内贴身夺精者,然本版本以山野邂逅与夜路戒备为主,强调提灯、火种、念佛之语具护符作用;避免与异域传说混淆,依纪伊地方的口碑与记录为据。

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