六右衛門
ろくえもん
阿波狸を束ねる総領·六右衛門
津田浦に棲む阿波狸の総領·六右衛門の姿。四国じゅうの狸を束ねる総大将として君臨し、正一位の位階を競い合う狸の序列の頂に立つ老練の長である。かつて弟子として迎え、娘との縁組で跡目を継がせようとした金長を、その出奔の後にはやがて宿敵として勝浦川の岸辺で迎え撃つ。両軍六百匹余りが三日三晩を戦い抜いた大合戦の末、一騎討ちに敗れて散ったと伝わるが、その名は講談·映画·アニメへと語り継がれ、阿波狸合戦のもう一方の主役として今に残っている。
日本の妖怪大百科
ろくえもん
阿波狸を束ねる総領·六右衛門
津田浦に棲む阿波狸の総領·六右衛門の姿。四国じゅうの狸を束ねる総大将として君臨し、正一位の位階を競い合う狸の序列の頂に立つ老練の長である。かつて弟子として迎え、娘との縁組で跡目を継がせようとした金長を、その出奔の後にはやがて宿敵として勝浦川の岸辺で迎え撃つ。両軍六百匹余りが三日三晩を戦い抜いた大合戦の末、一騎討ちに敗れて散ったと伝わるが、その名は講談·映画·アニメへと語り継がれ、阿波狸合戦のもう一方の主役として今に残っている。
ろくろくび
飛頭蛮・抜け首(小泉八雲解釈版)
小泉八雲が世界に紹介し、中国の「飛頭蛮」の系譜を最も色濃く受け継ぐ、凄惨にして凶悪な「抜け首(飛ぶ首)」としての解釈版である。江戸期の見世物小屋で親しまれた「首が伸びるお化け」という滑稽なイメージとは完全に一線を画し、人間の血肉や虫を喰らう恐ろしい魔物として位置づけられる。 このバージョンにおけるろくろ首は、昼間はごく普通の人間に擬態しているが、夜間、眠りにつくと首だけが胴体から切り離され、空を飛び回って獲物を襲う。首の付け根には、切断されたことを示す赤い筋や「梵字(ぼんじ)」のような不気味な傷跡が隠されている。首が飛び去っている間の胴体は完全に無防備であり、もしその間に胴体を別の場所へ動かされたり、首の断面を隠されたりすると、戻ってきた首は肉体と再結合できずに地面に落ちて死滅してしまう。 その性質は極めて残忍で執念深く、獲物を見つけると歯を剥き出して群れで襲いかかる。しかし同時に、自らの意志とは無関係に夜な夜な首が抜け出てしまうという「業の深さ」を背負った哀れな被害者としての側面も併せ持つ。人間の内側に潜む「獣性」や「制御不能な抑圧された情念」が、肉体という檻を抜け出して物理的な暴力として顕現した、呪術的かつ心理的な恐怖の体現である。
わいら
牛似の鉤爪獣・わいら
18〜19世紀の妖怪絵巻に基づく、解説文を伴わない像を再構成した準拠版。巨大な獣体の上半身のみが画かれ、左右の前肢に一本爪の大鉤を有する。体色は作例により暗緑から土色まで幅があるが一定せず、両生類的に見える作例もある。名称は恐れを意味する語義との連想が指摘され、『百怪図巻』『画図百鬼夜行』では「おとろし」と並置される。行動、生態、善悪は記されず、山間の不気味な存在として提示されるに留まる。民間伝承の具体像は未詳で、後代の補説は史料的裏付けに乏しいため採らない。
わすれものこぞう
物隠す悪戯小僧・忘れ物小僧
忘れ物小僧は、ランドセルやポケットから落ちた鉛筆や消しゴムなどを集め、自分の宝物にしてしまう。人が探し物で右往左往している姿を見るとケラケラ笑い、満足げに消えていく。 しかし、完全に意地悪というわけではなく、持ち主が本当に困って涙ぐむと、忘れ物をそっと机の上に戻すこともある。 古くは寺子屋の時代から存在し、子供たちの間で「忘れ物をすると小僧に持っていかれるぞ」と囁かれてきた。
わたなべのつな
羅城門の鬼腕を斬る武者・渡辺綱
この版本では、渡辺綱を「鬼の腕を斬る境界の武者」として読む。綱の名を最も強く残したのは、羅城門または一条戻橋で鬼に出会い、その腕を斬り落とす物語である。場所が門や橋であることは偶然ではない。門は都の内外を分け、橋は此岸と彼岸をつなぐ。鬼は、まさにその境界に現れる。 綱の武勇は、鬼を一太刀で完全に消すものではない。腕を斬ることはできるが、鬼そのものは逃げる。残された腕は、戦利品であると同時に、怪異がまだ終わっていない証拠である。ここに鬼腕譚の面白さがある。斬られた腕は物として屋敷に入り、人間側の管理下に置かれるが、鬼はそれを取り返すために再び人の世界へ戻ってくる。 老女に化けた鬼の再訪は、綱の弱点を明らかにする。彼は武力には優れるが、親族の姿をした相手には礼を失いにくい。鬼はそこを突く。妖怪退治譚では、怪異を見破る眼力が武力と同じくらい重要である。綱は腕を斬ることには成功したが、変装した鬼を完全に防ぐことはできない。この不完全さが、彼を人間的な英雄にしている。 頼光四天王としての綱は、大江山退治でも重要な位置を占める。単独譚では境界の鬼を斬り、集団譚では頼光の指揮下で酒呑童子へ向かう。つまり綱は、個人の武勇とチームの鬼退治をつなぐ人物である。彼の刀は一対一の怪異にも、大きな討伐物語にも参加する。 この版本の綱は、勝利と取り逃がしの間に立つ。鬼の腕を斬る場面は鮮烈だが、鬼が腕を取り戻す展開は、怪異が単純には封じられないことを示す。境界で怪を斬っても、怪は家の中へ、親族の姿へ、記憶の中へ戻ってくる。渡辺綱の物語は、鬼退治の爽快さと、鬼がなお人間世界に入り込む粘り強さを同時に語っている。 鬼の腕は、境界を越えた物である。鬼の体から切り離された瞬間、それは異界の一部でありながら人間の屋敷に保管される。綱は勝利の証として腕を持つが、その腕は鬼が戻ってくるための目印にもなる。戦利品は、同時に呪物なのである。 老女に化けた鬼は、綱の人間性を攻める。武者は鬼には強いが、親族への礼を捨てられない。ここで物語は、力の勝負から認識の勝負へ移る。相手が鬼だとわかれば斬れる。しかし鬼が家族の顔を借りたとき、人は簡単には斬れない。 この版本の綱は、完全無欠の退治者ではなく、境界で勝ち、家の中で揺らぐ英雄である。だからこそ説話に厚みが出る。鬼退治は外で終わらず、持ち帰ったもの、信じた相手、開けてしまった封印によって、日常へ戻ってからもう一度始まる。 綱の魅力は、この揺らぎを含めて武者であるところにある。強いだけなら怪談は短く終わる。だが彼は強く、同時に騙される。だから物語は、刀の一撃から屋敷の会話へ移り、外の鬼退治から内側の疑念へ深まっていく。 その余韻が、綱の武勇をただの勝利譚にしない。
わにゅうどう
燃ゆる車輪の入道顔・輪入道
鳥山石燕の図像に拠る像を基準とする解釈。夜道や辻にて、燃えさかる車輪が低空を巡行し、轂に据わった入道面が通行人を凝視する。視線を合わせたり恐怖に囚われると魂気を奪われ、茫然となると語られる。由来は京都の車輪怪談に遡り、片輪車と素材を共有する可能性が高いが、石燕は入道面を採用し男性像として定着させた。出自は不詳で、怨霊・付喪神・怪火のいずれとも断定できない。対処は戸口に「此所勝母の里」と認めた紙札を貼ること、あるいは直視を避け身を隠すこととされる。地域名や人名を特定する異聞は少なく、古典記録の範囲で語られる素朴な妖怪像が中核である。
わらいはんにゃ
角牙浮かぶ笑みの鬼・笑般若
江戸後期の浮世絵・戯画に見られる笑般若像を基礎にまとめた版本。角・牙・逆立つ髪、見開いた眼と引きつる笑みが核となる。手にするものはしばしば生と死を連想させ、観者に不安を与える意匠が施される。鬼女はもとは人であり、妬心・怨恨・執着が積もって変化すると解される点で、般若面の観念に通じる。具体的な土地伝承の細部は乏しいが、夜席の語り物や絵本で恐れと戒めの象徴として扱われ、女の怨の極相を示す図像として継承された。現地口承では名のみ残る例があり、像容の伝達は主として絵画資料に依拠する。
われい
宇和島の御霊・山家清兵衛公頼
和霊は、怨霊が御霊へ、そして守護神へと転化する御霊信仰の力学を、近世宇和島の歴史のなかで体現する存在である。生前の山家清兵衛は藩政改革に身を捧げた家老であり、その非業の死(和霊騒動)と、関与者を襲った落雷・海難の連鎖が、人々に祟りの実感を与えた。畏怖から祀られた霊は、無実が公に認められたことで性格を反転させ、「和霊さま」として漁業・産業を守る神格を得た。和霊神社の和霊大祭で練り歩く牛鬼の群れは、この御霊を慰め鎮める祭礼装置であり、宇和島では妖怪(牛鬼)と御霊(和霊)とが祭りのなかで分かちがたく結びついている。
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