本州の日本海側を南北に長く占める越後国は、雪とともに語られる国である。古代、北陸の広域は「高志(こし)の国」と呼ばれ、のちに高志道前・道中・道後に分かたれて越前・越中・越後となった[1]。越後国はそのもっとも奥、頸城(くびき)・古志(こし)・魚沼(うおぬま)・蒲原(かんばら)・岩船(いわふね)などの郡からなる広大な雪の国であった。本事典が扱うのは、その本州側の越後 ── 海を隔てた佐渡国は狸の王国として別の物語を持つため、ここでは雪に閉ざされた山里の怪を主役に据える。
冬の半年を雪に埋もれる越後では、雪と風そのものが怪を生んだ。視界を奪う吹雪、谷を渡る辻風、雪に閉じこめられた家のなかで語り継がれる長い夜 ── そこに鎌鼬や雪童子、そして山中の異獣が姿を見せる。雪国の暮らしを克明に記した鈴木牧之『北越雪譜』(天保8年〔1837〕)[2]は、この国の怪異を知るうえで欠かせない宝庫である。一方で越後の山里は、大江山の酒呑童子伝説と結びついて「鬼の生誕地」の記憶をも抱えた。本事典は、この古き雪国に伝わる妖怪を「高志の国という古代」「越後生まれの鬼」「北越雪譜の雪の怪」「水辺と里の怪」の四つの位相で辿る。県全体を束ねる宏観は新潟県の妖怪事典に譲り、ここでは令制国としての越後 ── 雪と鬼の古層に降りていく。
高志の国という古代 ── 越後国の地誌と信仰
越後の妖怪を語るには、まずこの国の成り立ちと地形を押さえておきたい。越後国は、7世紀末から8世紀にかけて古代の高志国が分割される過程で成立した[1]。はじめ岩船(いわふね)・渟足(ぬたり)の地に柵(き)が置かれ、大宝2年(702)に越中国から頸城・古志・魚沼・蒲原の四郡を受けて、石船・三島・古志・蒲原・沼垂・魚沼・頸城の諸郡からなる広域の国となった。国府は頸城郡に置かれたと伝わるが、その正確な位置は今も定まらず、十世紀ごろは居多(こた)付近、十一・十二世紀以降は直江津のあたりとする説がある。日本海に沿って細長く伸び、背後に三国山脈・越後山脈を負うこの地形こそ、豪雪と隔絶を生み、独自の怪異文化を育てた土壌である。
古代から中世にかけて、越後を縦に貫いたのは北陸道であり、近世にはそこから直江津で分かれて関川宿へ至る北国街道[3]が整えられた。この街道は、佐渡金山の金を江戸へ運ぶ要路として重んじられた。峠と宿場を結ぶこの道筋は、後に見る桐一兵衛のような「夜の峠道の怪」が語られる舞台でもある。人が雪を越えて行き来する道のあるところに、怪は宿るのである。
信仰の中心に立つのが、越後国一宮の彌彦(やひこ)神社[4]である。弥彦山を神体とし、祭神は天香山命(あめのかぐやまのみこと)、伊夜日子(いやひこ)大神とも称される。『万葉集』にも歌われた古社で、越後人の篤い信仰を集めてきた。後述するように、越後の鬼・茨木童子が幼少時に預けられたと語られるのも、この弥彦である ── 国の聖地が、鬼の物語の起点としても記憶されている点に、越後の信仰の奥行きがある。
中世末、この国の名を天下に轟かせたのが上杉謙信であった。謙信は頸城郡の春日山城を居城とし、自らを毘沙門天の化身と称して、出陣前には城内の毘沙門堂に籠って祈念した[5]という。標高約180mの山に二kmに及ぶ城域を持つ春日山城は、軍神の信仰と一体であった。雪に閉ざされる国から最強の戦国大名が立ったことと、その武威を毘沙門天という異界の力に託したことは、越後という土地の心性 ── 厳しい自然と隣り合わせに神異を感じる感性 ── を象徴している。
越後生まれの鬼 ── 茨木童子
越後の妖怪を語るうえで外せないのが、大江山の酒呑童子伝説とつながる「鬼の生誕地」の記憶である。その代表が、酒呑童子の片腕とされる茨木童子だ。

茨木童子
酒呑童子の股肱とされる鬼で、その副将格として大江山の賊徒に名を連ねたと伝わる。出生は摂津国(富松・茨木の里)説と越後国(古志郡軽井沢)説があり、いずれも幼少より異相と剛力を示し、母や里を畏れさせて山へ入ったと語られる。最もよく知られるのは、『平家物語』剣巻系に基づく説話で、渡辺綱に片腕を斬られた鬼が、のちに綱の伯母に化けて腕を奪い返す筋である。中世以降、この鬼が茨木童子と同定され、能『羅生門』や歌舞伎・浄瑠璃で広く演じられた。
詳しく見る茨木童子は、酒呑童子の股肱(ここう)・副将格として大江山の賊徒に名を連ねたと伝わる鬼である。出生地には摂津国(富松・茨木の里)説と越後国説のふたつがあり、越後の伝承では古志郡軽井沢(現長岡市軽井沢)の生まれとし、幼少時に弥彦神社へ預けられた[6]と語る。同じ越後出身説を持つ酒呑童子が蒲原郡砂子塚(現燕市)に生まれて国上(こくじょう)寺の稚児であったとされるのと対をなし、新潟県内には二人が相撲をとったと伝える場所や、茨木童子を祀る小祠まで残る。古志・蒲原という越後の中核の郡に二人の鬼の故郷が置かれていることは、この国が鬼の物語を強く引き寄せたことの証でもある。ただしいずれも近世以降の地域的脚色が大きく、史実の層と伝承の層は慎重に分けて見る必要がある。
この鬼が最もよく知られるのは、京で渡辺綱に腕を斬られる説話である。『平家物語』剣巻[7]では、渡辺綱が一条戻橋で出会った美女を馬に乗せたところ、女は鬼と化して綱の髻(もとどり)を掴み愛宕山へ攫おうとする。綱は名刀髭切で鬼の片腕を斬り落とし、以後この刀は鬼切と呼ばれた。綱は腕を持ち帰って物忌みするが、訪ねてきた伯母(養母)を招き入れると、その正体は鬼で、腕を取り返して飛び去ったという。剣巻自体は鬼の名を明示せず、この鬼を茨木童子と同定するのは後世の付会である。地誌の『摂陽群談』[8]には摂津の出生譚が記され、尼崎・茨木周辺に遺称地が残るとされる。能『羅生門』や歌舞伎・浄瑠璃で広く演じられ、越後と摂津という二つの故郷を背負った鬼として、今日まで語られている。雪国の山里から都の鬼へ ── その移動の物語そのものが、越後と中央を結ぶ古い回路を映している。
北越雪譜の雪の怪 ── 鎌鼬・異獣・雪童子
越後の妖怪のもうひとつの核は、雪である。冬の半年を雪に閉ざされる魚沼・頸城の山里では、雪と風そのものが怪の母胎となった。その記録の中心にあるのが、塩沢(現南魚沼市)で縮(ちぢみ)の仲買商を営んだ鈴木牧之の『北越雪譜』[2]である。牧之は雪国の実情を世に伝えたいと願い、江戸の文人・山東京伝らに刊行を相談しながらも幾度も頓挫し、構想から実に40年の歳月をかけてこの随筆を成した。最終的に滝沢馬琴の門人・京山の助力を得て、天保8年(1837)に江戸の丁子屋文淵堂から初編三巻を刊行、のちに第二編四巻を加えて全七巻となった。雪の結晶の精密な写生から、雪下ろし・雪崩・方言・縮織りの産業、そして雪国に伝わる怪異までを克明に綴ったこの書は当時のベストセラーとなり、雪のない土地の人々が想像しえぬ雪国の実相を伝えた。好奇心本位の地方奇談ではなく、雪と共に生きる暮らしの内側から書かれた点に、この書の比類ない価値がある。
雪国の怪の筆頭が、辻風に乗って人を裂く鎌鼬である。

鎌鼬
鎌鼬は、つむじ風(辻風)に乗って現れ、人の肌を刃物で払ったように切り裂くとされた怪で、雪深い信越・東北・北陸を中心に伝わる。切られた直後は痛みも出血も乏しい、あるいは後から痛みと血が出るなどと語られた。江戸期以降は鎌の爪を持つ鼬の姿で描かれ、鳥山石燕『画図百鬼夜行』では中国の怪獣「窮奇」の名に「かまいたち」の訓を当てている。冬の季語としても用いられる。
詳しく見る鎌鼬は、つむじ風の中心に現れて人の肌を刃物で払ったように切り裂く怪で、雪深い信越・北陸・東北を中心に伝わった。切られた直後は痛みも血も乏しいというのがこの怪の特徴である。各地に同類の解釈が残るが、なかでも飛騨では三体の神が連れ立って現れ、最初の者が人を転ばせ、次の者が刃物で斬り、最後の者が薬を塗っていくため、痛まず血も出ない[9]と語られた。江戸期以降は鎌の爪を持つ鼬の姿で描かれ、鳥山石燕[10]は中国の怪獣「窮奇(きゅうき)」の名に「かまいたち」の訓を当てている。信越の地ではこの怪を悪神の所業とし、暦(こよみ)を踏むと鎌鼬の災いに遭うと戒め、古い暦を黒焼きにして傷につけると治るとも伝えた。
しばしば鎌鼬の正体として語られる「真空説」── 旋風の中心に生じる低圧で皮膚が裂けるという解釈 ── は明治以降に唱えられた近代の説で、妖怪研究の先駆者・井上円了がこれを紹介したが、物理学者の寺田寅彦は随筆「化物の進化」のなかでこれを退け、強風による飛来物の衝突で生じる裂傷と説いた。今日では真空説は俗説とされ、鎌鼬はあくまで風の怪をめぐる民間信仰として理解される。冬の季語としても用いられるこの怪は、雪面を切り裂くように吹く越後の辻風の鋭さから、ひときわ生々しい像を結んだ自然の妖怪である。
雪国の山には、もうひとつ忘れがたい記録がある。異獣だ。
『北越雪譜』第二編巻四[2]は、越後国魚沼郡の山中に出没した怪しき獣を「猿に似て猿に非ず」と記す。頭髪は長く背に垂れ、背丈は人より大きいという。堀内から十日町へ縮を届ける道中、問屋に仕える竹助という男が山中で休む折、この異獣が現れて食をねだったので飯を分けてやると、獣は大きな荷を自ら背負って先導し、池谷村の近くで荷を置いて山へ消えたという。また池谷の機織りの娘の家にもたびたび姿を見せ、急の注文に娘が難儀していた折に機を助け、無事に仕事を果たせたとも伝わる。人を害するよりは食を乞い、時に人の働きを助ける ── 雪山の労働と織物産地の暮らしに寄り添う、奇妙に温かな獣である。魚沼は越後縮の本場であり、機織りは女たちが雪の冬を越すための生業であった。その織物産地の口碑にこの獣がたびたび語られたことは、人と山との交渉が日常であった雪国の世界観を映している。異獣の正体は明かされず、山の精か稀なる獣の類と見なされた。今日の目には未知の霊長類めいた描写にも読めるが、牧之はこれを怪異としてではなく、雪国の山が抱えるひとつの不思議として淡々と書きとめている。
雪が生むのは、刃の怪や山の獣ばかりではない。吹雪の晩に訪れ、春とともに消える儚い童の精もまた、越後の雪に来た。雪童子は、深い降雪や吹雪とともに姿を見せる子供の形をした雪の精である。越後には、子に恵まれぬ老夫婦が雪の日に雪で人形を作ったところ、吹雪の晩に童が訪れ、我が子同然に育てたが、春が近づくにつれ次第にやせ細り、いつの間にか姿を消したと語る昔話が伝わる。以後、冬ごとに現れては春に失せ、数年ののち来なくなったという。この童は雪人形に宿った霊で、優しい老夫婦を慰めるために神が遣わしたものと解される。雪女の眷属あるいはその子と結びつけて語る地域もあるが、雪女ほど文献の裏づけは厚くなく、口承による異伝が主である。雪のはかなさをそのまま人の形にしたような、慰めの怪である。鎌鼬の鋭さ、異獣の温かさ、雪童子の儚さ ── 同じ雪が、これほど性格の異なる三つの怪を生んだところに、越後という雪国の懐の深さがある。
水辺と里の怪 ── 濡女・桐一兵衛
雪と鬼に加え、越後の水辺と里にも固有の怪が伝わる。性格の異なる二つの妖怪 ── 海辺に立つ女怪と、夜の峠で増殖する怪 ── を最後に見ておきたい。
濡女は、海辺や川辺に現れる蛇身に女の頭をもつ怪である。腰から下は鱗に覆われた長大な蛇体で、いつも濡れたままの黒髪を垂らす。鳥山石燕『画図百鬼夜行』[11]は風の巻に、長い髪を水に浸した女面の蛇体としてこれを描き、絵巻系統の濡女像を定着させた。越後との縁は、藤沢衛彦『妖怪画談全集日本篇』が文久年間の越後国の話として濡女を挙げる[12]点にある。ただしその一次出典は明示されておらず、近代の妖怪研究が各地の断片を集成する過程で像が整えられた側面もうかがえる。西日本沿岸の磯女や濡女子と話型を共有する、水辺の女怪群の一類型でありながら、雪国の日本海に面した越後にもその影が伝わったところに、海を介した怪異の往来が見てとれる。
そしてもうひとつ、越後の山間に固有の語りを残すのが桐一兵衛である。新潟県の南魚沼・南蒲原に伝わるこの怪は、斬れば一倍ずつ増えることから「斬一倍」とも記される[13]。ある侍が小峠を越える折、幼子が「早く歩いてお父様に抱かれ」と言いながら追ってきた。不審に思って斬ると、子は二つに割れ、それぞれがさらに増え、ついに群れとなって侍を取り囲んだ。万事休すと観念した時、一番鶏の鳴き声がして怪は「朝だ、帰ろう」と消えた。後で侍は、その鳴き声が自分の刀の目貫(めぬき)に彫られた鶏から発したものだと悟ったという。武器で斬るほどに増えてしまい、力では決して打ち倒せないが、夜明けを告げる鶏の声に祓われる ── この構造には、刃の通じぬ怪に対して暁と鶏鳴という古来の魔除けが効くという、日本の怪異観の典型がよく表れている。北国街道や山越えの道が縦横に走る越後で、夜の峠道の不気味さを「増殖」という独特の形に結晶させた、土地に深く根ざした怪である。
結び ── 雪と鬼の古層
越後国の妖怪文化は、雪と鬼という二つの古層の上に立っている。古代の高志国から分かれ、頸城・古志・蒲原・魚沼の雪深い郡からなるこの国では、雪と風そのものが鎌鼬や雪童子を生み、雪国の暮らしを記録した『北越雪譜』が異獣のような奇談まで書きとめた。大江山の酒呑童子伝説と結びついた茨木童子の生誕地伝承は、弥彦の聖地と古志の里に鬼の記憶を刻み、水辺と峠には濡女と桐一兵衛が伝わる。
雪が人を試すように閉じこめ、軍神を信じる武威が育ち、鬼が都へと旅立った国 ── そのいずれもが、厳しい自然と神異とを地続きに感じる越後の心性から生まれた。海を隔てた佐渡の狸の王国を含めた県全体の眺めは新潟県の妖怪事典に譲るが、本州側の越後だけを取り出してみても、雪国の妖怪文化はこれほど豊かなのである。




