日本海に浮かぶ佐渡は、本州から海を隔てた一個の世界である。古代より一国を成して「佐渡国」と呼ばれ、今は新潟県の一部となったこの島は、ふたつの相反する歴史を背負ってきた。ひとつは都を追われた貴人・知識人を迎えた遠流(おんる)の島としての記憶であり、もうひとつは金が島中を動かした天領の記憶である。
この島の妖怪文化は、その孤立した地理を色濃く映している。本州では狐と狸が化かしの双璧をなすのに対し、佐渡には狐がいない ── 大狸・団三郎が狐を島から追い払ったからだと語り継がれてきた。狐なき島で化かしの領分を一手に握ったのは、狢(むじな)と狸である。流された都人と、化かす狢たち。本稿はこの「流人と狸の島」という一本の軸から、佐渡という一国の妖怪を辿る。海辺には怪火が舞い、宿根木の入江には海の老女が浮かぶ。新潟県全体の見取り図は新潟県の妖怪事典に譲り、ここでは島そのものの内側へ分け入る。
流人の島 ── 佐渡という一国
佐渡が他のどの令制国とも違うのは、海に隔てられた一国であったという一点に尽きる。奈良時代、聖武天皇の頃に佐渡は伊豆・隠岐などと並ぶ「遠流」の地と定められた。養老六年(722)に都を逐われた万葉歌人・穂積老を皮切りに、承久の乱に敗れた順徳上皇(承久三年〔1221〕)、鎌倉幕府と諸宗を批判した日蓮(文永八年〔1271〕)、将軍足利義教の怒りに触れた世阿弥(永享六年〔1434〕)と、政争に敗れた都の貴人・知識人が次々とこの島へ送られた[1]。海を渡るという行為そのものが、都との断絶を意味した。
順徳上皇は承久の乱に敗れて越後の寺泊から佐渡へ渡り、二十年あまりを島で過ごして真野(現佐渡市)で生涯を閉じたと伝わる。その遺骨を葬ったとされる真野御陵(火葬塚)は今も島に残り、敗れた帝の長い幽閉の歳月を今に伝える。日蓮もまた寺泊を発って塚原・一谷で三年を過ごし、雪と風の吹きすさぶ堂で『開目抄』を著したとされる。能を大成した世阿弥にいたっては、七十をこえた老齢で島へ流された。世阿弥は若狭小浜を発ち能登を回って佐渡の大田の浦に着き、島で小謡集『金島書』を記した[2]。配流の年月・経緯には諸説あり、史実の層と後世の伝承の層は慎重に分けて見る必要があるが、帝・宗祖・能役者という性格の異なる者たちが、それぞれの絶望と祈りを携えてこの一島へ送られた事実は重い。流された者たちが残した都の文化は、孤島という器のなかに薄い層となって幾重にも積もっていった。
その島に、もうひとつの相貌を与えたのが金である。慶長六年(1601)に本格採掘の始まった佐渡金山は、徳川幕府の直轄領(天領)として佐渡奉行の支配下に置かれ、江戸期を通じて幕府の重要な財源となった[3]。金山の坑道と精錬で栄えた相川には、全国から人と富が流れ込んだ。流人の島は、同時に黄金の島でもあったのである。配流の悲哀と金の活気 ── この相反する二つの気が混じり合うところに、佐渡の怪異は生まれた。
狐なき島のムジナ ── 団三郎狸の眷属たち
本州の妖怪文化を語るとき、化かしの主役は狐と狸である。ところが佐渡には狐がいない。この島で化かしの領分を一手に握るのは狸であり、佐渡ではしばしば狸と狢(むじな)が同じものとして扱われる。その頂点に立つのが、日本三名狸の一に数えられる大狸・団三郎である。

단사브로 타누키
사도에 전해지는 변신 너구리들의 총수. 너구리를 뜻하는 ‘무지나’로도 불리며, 신기루와 환상을 써서 사람을 홀리고 나뭇잎을 금으로 보이게 하여 물건값을 치렀다는 이야기가 전한다. 자신의 굴에 환술을 걸어 호화로운 저택처럼 꾸미고 손님을 들였다고도 한다. 한편 궁핍한 이들에게 돈을 꾸어주어 차용증만 놓아두면 다음 날 돈이 놓여 있었다는 이야기도 남아 있다. 뒤에 아이카와의 ‘후타츠이와 대명신’으로 모셔져 신앙의 대상이 되었다.
자세히 보기団三郎は、佐渡相川に伝わる化け狸の総大将である。数百の眷属を率い、夜道に壁や行列の幻を立て、蜃気楼を見せて人を惑わし、木の葉を金に見せかけて買物をしたと語られる。その住処は相川下戸(おりと)村にあったとされ、借用書に金額・返済日・名を記して判を押し置けば、翌朝には書が消えて金が置かれていた[4]という。その金は人に化けて金山で稼いだものとも伝わる ── 団三郎が「金を貸す狸」であったのは、この島が金で動いていた土地であったことと無縁ではない。困窮者には無利子で金を貸す情け深い狸でありながら、農夫との機知比べに敗れて以後は人を化かすのを控えたという伝えや、人に化けて医者にかかったという話なども島の各地に記録される。化かす力と情け深さ、神異と人間臭さを併せ持つところに、団三郎という狸の独特の人格がある。
その団三郎が島を支配する象徴的な伝承が、「佐渡に狐がいない」という由来譚である。団三郎が狐を海上で退け、佐渡から追い払ったため、この島には狐の化かしがないのだと語られた[4]。本州では狐と狸が化かしを分け合うのに対し、狐を欠いた佐渡では狸(狢)が化かしの全権を握る ── この異例の生態こそが、団三郎を一個の島の総帥へと押し上げたのである。淡路の芝右衛門狸、讃岐の太三郎狸と並ぶこの大狸は、やがて相川の二ツ岩大明神[5]として祀られ、商売繁盛・金運の神として篤い信仰を集めた。化け狸が土地の守り神へと転じた点に、この島の懐の深さがよく表れている。二ツ岩の社は今も相川の奥にひっそりと佇んでいる。
団三郎の系譜を引き、島中の化かしを担うのが、その眷属たる狢たちである。
ムジナは、本来はアナグマを指す語でありながら、地域や時代によってタヌキ・ハクビシンとも混称され、同定の定まらぬ獣の総称である。化かしの手口はおおむね三つの型に整理される ── 田や道を深い川と思わせて立ち往生させる型、馬糞を饅頭に・肥溜めを風呂に見せて口にさせ入らせる型、そして方角の感覚を狂わせて夜道に迷わせる型である。文献上の初出は古く、『日本書紀』推古天皇三十五年(627年)春二月の条に「陸奥国に狢有り。人と化(な)りて歌う」と記され[6]、奈良時代以前から狢が人に化けるという観念が成立していたことを示す。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(安永八年〔1779〕)[7]にも「狢」が立項された。
佐渡における狢の扱いは、本州のそれと一線を画す。この島では狢を「トンチボ(団三郎狢)」と呼び、団三郎の系譜に連なる存在として、また山の神に通じるものとして畏れた。アナグマとタヌキは外見が似て同じ巣穴に同居することもあり、「同じ穴の狢」の語が生まれたほど両者の区別は混乱した ── その混同の歴史こそが、ムジナという存在の曖昧な輪郭をかたちづくっている。なお小泉八雲『怪談(Kwaidan)』(1904)[8]所収の一編「貉(Mujina)」は、顔ののっぺりした「のっぺらぼう」を狢の化けたものとして描き、英語圏にムジナの名を広く知らしめた。狐を欠いた佐渡で、狢がこれほど多彩な化かしを背負わされたのは、団三郎という総帥のもとに島の化かしが一系統へ束ねられたからにほかならない。
夜に光る青鷺火 ── 寺の梅にともる怪火
佐渡の闇には、獣の化かしとは別の怪が浮かぶ。夜空に青白く灯る怪火、青鷺火である。

청사기비
밤에 왜가리의 몸이 청백색으로 빛나 보이는 괴이. ‘고위의 불’, ‘고위의 빛’으로도 불린다. 에도 시대의 화집과 수필에 기록이 있으며, 달 밝은 밤이나 비 오는 밤에도 목격된다. 정체는 주로 괭이갈매기(고이사기)로 여겨지며, 비상할 때 푸른 불처럼 보여 사람들을 놀라게 했다. 발광은 물가의 부착물이나 깃털의 반사로 설명되기도 하지만, 지역에서는 괴화(火)로 전해진다.
자세히 보기青鷺火(あおさぎび)は、夜間にサギの体が青白く発光して見える怪火である。別名を五位の火・五位の光といい、その正体はゴイサギ(五位鷺)とされることが多い。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』[7]や竹原春泉『絵本百物語』に描かれ、江戸後期には広く知られた。月夜に飛ぶ五位鷺が火のように見えるという『和漢三才図会』の記述ともつながり、その発光は羽毛に付着した発光性の物質の反射などと説明されることもあるが、田園と寺院の闇にふと浮かぶ青い光を、人々は神異と見て語り継いだ。
佐渡には、この怪火に具体的な舞台が残る。佐渡新穂村(現佐渡市)の根本寺(こんぽんじ)の梅の大木に、毎晩のように龍燈(りゅうとう、龍神が灯すという怪火)が飛来した。これを不審に思った者が弓で射落としたところ、正体はサギであった[9]と語られる。人々が龍神の聖火と信じて拝んでいたものが、実は夜に光る一羽の鷺であった ── この種明かしの構造こそ、青鷺火という怪のおもしろさである。鷺という身近な水鳥が、夜の闇のなかで神異の光へと変じ、やがて弓の一矢でただの鳥へと戻る。聖と俗のあいだを行き来するこの怪に、寺と田園が隣り合う佐渡の里の信仰の質感がよくにじんでいる。根本寺は日蓮ゆかりの古刹であり、流人の島の信仰の歴史が、こうした怪火の舞台にも影を落としている。
臼負い婆と海辺の里 ── 宿根木の入江の怪
獣と怪火が島の山野を領するなら、海辺には海の怪が浮かぶ。佐渡の南端、宿根木(しゅくねぎ)の入江には、海の老女の話が伝わる。臼負い婆である。

절구 멘 노파
절구 멘 노파는 니가타현 사도섬 시키네 바닷가에 나타난다고 전해지는 바다 요괴다. 흰 피부의 노파가 수면에 떠올라 두 손을 등 뒤로 돌리고 무엇인가를 짊어진 듯한 모습만 보인 뒤, 다시 바다 속으로 사라진다고 한다. 출현은 수년마다 한 번꼴로 전해지며, 사람을 해친다는 기록은 없다. 이소메나 누레온나와 같은 계열의 해녀형 요괴로 간주되곤 한다.
자세히 보기佐渡の怪異を集めた近世の怪談集『佐渡怪談藻汐草』は、宿根木の「あかえの京(きょう)」での目撃談を記す[10]。好漁で評判の場所が不漁と雨に見舞われ、薄暗くなった折、海底から白い肌の老婆が現れて周囲を見回し、再び沈んでいったという。同行者はこれを数年に一度現れる「あやかし」とし、「臼負い婆」と呼ぶと述べて、特段の害はないと語った。原典では背負い物は「何か」とされ、臼と断定する記述はむしろ後年の整理に見られる。両手を背に回して何かを背負う姿で水面に浮かぶこの怪は、磯女・濡女の類とみなされることが多い。
宿根木は、廻船業で栄えた小さな入江の集落である。狭い谷あいに板壁の家々が密集する独特の町並みは、今も国の重要伝統的建造物群保存地区として残る。西廻り航路の北前船が日本海を行き交った時代、こうした入江の村は海とともに生き、海に多くを委ねていた。漁の不漁という、海辺の暮らしにとって最も切実な不安のなかで、人々はふと見た海の老女に名を与え、害なきものとして語り継いだ。臼負い婆が「害はない」と伝えられるところに、海を恐れつつも海とともに生きるほかなかった島の人々の、海への複雑な心持ちが読みとれる。怪を退治するのではなく、名を与えて共に暮らす ── そこに、本州の英雄譚的な妖怪退治とは異質の、島の語りの肌合いがある。
金と能の島 ── 流された文化が根づくところ
佐渡の妖怪を貫く「流人と狸」という軸は、最後にこの島の文化史へとつながる。流された都人が持ち込んだ文化は、孤島という閉じた環境のなかで、本州とは異なる形に育った。その最も鮮やかな例が、能である。
世阿弥が島で『金島書』を記したことは先に触れたが、その世阿弥配流の記憶と、西廻り航路で伝わった上方文化とが、この島に能を深く根づかせた。佐渡には江戸期に二百を超える能舞台があり、今も三十余りが現存する。人口当たりの能舞台数は、江戸期も現在も全国一とされる[11]。一個の島がこれほど濃密に能を抱えるのは、流された文化が島という器のなかで凝縮された結果である。
金もまた、島の精神に深い影を落とした。天領の佐渡金山[3]に集まった富は、団三郎を「金を貸す狸」へと造形させた。化かしの大狸が金融の神めいた性格を帯び、二ツ岩大明神として金運の神に祀られるのは、金山の島ならではの想像力である。坑道に潜って金を掘る人々の暮らしと、木の葉を金に変えて金を貸す狸の物語とは、同じ島の同じ土壌から生まれた双子の幻想であった。流人の悲哀、金の活気、海への畏れ、そして孤島に凝った文化 ── これらすべてが、佐渡という一国の怪異に独特の色合いを与えている。本州の妖怪が街道や峠や都を舞台に語られるのに対し、佐渡の怪は海という境界によって閉じられた島のなかで、外へ漏れることなく濃く醸されたのである。
結び ── 海に閉ざされた一個の妖怪世界
佐渡の妖怪は、本州の延長では捉えきれない。狐のいない島では狸と狢が化かしの全権を握り、団三郎という大狸が眷属を率いて島を治めた。寺の梅には青鷺火がともり、宿根木の入江には臼負い婆が浮かぶ。そのいずれもが、海に隔てられたこの島でこそ濃く醸された物語である。
流された都人と、化かす狢たち。配流の悲哀と金の活気。海を恐れ、海とともに生きる暮らし ── 佐渡という一国は、これらが渾然と溶け合った、ひとつの閉じた妖怪世界である。新潟県という広い見取り図のなかでの佐渡の位置づけは新潟県の妖怪事典に譲るが、島そのものの内側には、本州とは切り離されたからこそ生まれた、独自の怪の生態系が今も息づいている。

