白鷺が翼を広げたような白漆喰の城——姫路城は、その美しさゆえに別名を白鷺城という。一六〇一年から八年をかけて池田輝政[1]が現在の連立式天守へ大改修し、一九九三年には法隆寺とともに日本初のユネスコ世界遺産に登録された、近世城郭の最高傑作である。だがこの稿で見つめたいのは、白い天守そのものではなく、その下にある丘——姫山(ひめやま)の方だ。
城が建つよりはるか昔から、この丘には名があり、神がいた。城は後から、その上に乗ったにすぎない。だからこの地に伝わる妖怪たちは、城の付属物ではなく、城より古い丘の記憶に根を張っている。荒ぶる御子神が嵐とともにこの丘の名を定め、その地主神が天守の最上層に棲みつき、城下の井戸では一人の女が今も皿を数える。神・妖・亡霊——時代も格も異なる三つの怪異が、ただ一つの丘の上に折り重なっている。それが姫路城という聖地の、最も深い相貌である。
第一層 ── 丘の名が生まれた日
姫路という地名そのものが、一柱の荒ぶる神の物語から生まれている。和銅六年(七一三)の官命を受けて霊亀元年(七一五)頃に撰進されたとみられる『播磨国風土記』[1]飾磨郡の条に、その由来が刻まれている。
国作りの大神大汝命[1](おおなむち、大国主神)には、性(さが)のきわめて剛強な御子があった。あまりの乱暴さに父すら手を焼くほどで、その名を火明命(ほあかりのみこと)という。父の大汝命は、わが子の荒々しさに耐えかね、ある計略を立てた。因達神山(いだてのかみやま)で水を汲んでくるよう命じておきながら、その隙に船を出して御子を置き去りにしたのである。
置き去りにされたと知った火明命の怒りは凄まじかった。彼は波風を呼び起こし、逃げる父の船を覆してしまう。このとき転覆した船から散乱した積荷や船具の一つひとつが、姫路市中心部に点在する十四の丘の名の由来になったと風土記は説く。琴の落ちた地は琴神丘に、箱の落ちた地は箱丘(現・男山)に——そして、
蚕子(ひめこ)の落ちし処は、日女道丘(ひめじおか)と号(なづ)く。
蚕(かいこ)を意味する古語「ひめこ」の落ちた丘が、日女道丘。これが転じて「ひめじ」となり、丘は姫山と呼ばれ、やがてその上に建つ城と城下町の名「姫路」となった。つまり、
姫路城が立つ姫山という地面そのものが、神の怒りが地形に結晶した跡なのである。荒ぶる御子が父神に逆らって嵐を呼ぶという話型は、海の支配と航行の危険を神の怒りに重ねる古代の感覚を映すと同時に、各地の風土記に通有する「神の行為が土地の名を定める」という発想を、播磨の地形に即して具体化したものといえる。記紀神話では天孫の系譜に連なる天火明命(あめのほあかりのみこと)と同名・同神とも目されるが、播磨の伝承においては何より「父に背いて嵐を呼んだ荒神」としての貌が際立つ。城ができる九百年も前に、この丘はすでに神話の舞台だった——それが姫路城の第一層である。
第二層 ── 天守に棲む地主神、長壁姫
火明命が名を与えたその姫山に、いつしか一柱の地主神が宿った。

오사카베히메
히메지성 천수에 깃든다고 전해지는 여성 요괴이자 성곽신. 에도 초기 괴담집에서는 성별이 정해지지 않고 여러 모습으로 나타나는 성의 화귀로 기록되었고, 이후 ‘공주’ 형상이 정착했다. 성의 수호신이자 재앙신의 성격을 함께 지니며, 성주의 행실에 따라 길흉을 내린다고 두려워했다. 정체는 늙은 여우, 성신, 인주로 바쳐진 여자, 옛 공주의 영 등 설이 분분하다. 소오사카베히메, 효부히메로도 불린다.
자세히 보기長壁姫(おさかべひめ)は、姫路城天守の最上層に棲むとされる女の妖怪であり、城郭神である。小刑部姫(こおさかべひめ)・刑部姫・小坂部姫とも記される。その信仰の母胎は、姫山の地主神刑部大神[2](おさかべのおおかみ)にある——つまり長壁姫は、城が乗っかったこの丘の、もともとの主なのだ。城の守護神でありながら、人を退ける祟り神でもあるという両義性は、ここに由来する。城を守るのではなく、自分の丘に勝手に建てられた城を、しぶしぶ受け入れている地主神。それが彼女の本質に近い。
伝承では、豊臣秀吉が姫路築城の際に姫山の刑部大神の社を城下の外れへ遷した[2]ことが城の怪異の起こりとも語られる。地主神を追い払って城を建てれば、神は祟る——のちに池田氏の代になって城内の鬼門へ八天堂を建て、刑部大神を勧請したと伝えるのも、この祟りを鎮めるためであった。
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化け物から姫君へ
興味深いのは、長壁姫の像が時代とともに変化していくことだ。江戸初期の怪談では、まだ「姫」の姿に定まっていない。『諸国百物語』[3](延宝五年=一六七七年刊)では、男女の別なく姿を変える城の化け物「城ばけ物」として描かれた。池田輝政とされる城主の病平癒のため天守で祈祷していた比叡山の阿闍梨の前に妖しい女が現れ、これを叱責すると女は身の丈二丈(約六メートル)の鬼神と化して阿闍梨を蹴り殺し、若侍には櫛を与えるなど、次々に姿を変じたという。続く井原西鶴『西鶴諸国ばなし』[4](貞享二年=一六八五年)では、「於佐賀部」が多くの眷属を率い、人の心を自在に読みすかして弄ぶ、人外の存在として描かれている。
それが「十二単をまとう高貴な女」へと姿を整えていくのは、一八世紀以降のことだ。会津の随筆『老媼茶話』[5](寛保二年=一七四二年)には、肝試しに天守へ上った小姓が三十四、五歳ほどの十二単姿の女に「何をしに来た」と問われ、正直に「肝試し」と答えた度胸を愛でられ、証拠の品として兜の錣(しころ)を授かったという、よく知られた挿話が記される。図像の面では鳥山石燕『今昔画図続百鬼』[6](安永八年=一七七九年)が「長壁」を蝙蝠を従えた老姫の姿に描き、後世の長壁姫像に大きな影響を与えた。
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醒めた目と、接ぎ木された英雄
文献を追うと、語り手の距離感の違いも見えてくる。松浦静山『甲子夜話』[7]は、「ヲサカベ」が天守に住んで人の侵入を嫌い、年に一度だけ老婆の姿で城主と会うと記す。ところが静山は、当の姫路藩主酒井忠以に直に尋ねたところ「世間ではそう言われるが、天守に格別変わったことはなく、常々上る者もいる」と答えた、と冷静に付記している。伝承を語りつつ当事者の否定を併記する——随筆らしい醒めた目が、ここに窺える。
一方、後世になるほど物語は派手になる。城主が長壁姫を退治させたとする伝説、ことに宮本武蔵が天守で古狐(小刑部姫の化身)を退治したという話[8]は名高い。武蔵が夜ごと天守に上って怪異の正体を究めると、女が現れて「数百年棲みついた古狐が武蔵を恐れて去った」と告げ、褒美に名刀を授けた——という筋立てだが、これは明治期の講談・実録体読み物で『老媼茶話』[5]の長壁伝説に武蔵譚を接ぎ木した後世の創作とみられ、史実の裏付けはない。
そして近代、泉鏡花の戯曲『天守物語』[9](大正六年=一九一七年)が、天守に棲む妖姫「富姫」を主人公に据えた幻想劇を生んだ。ただしこの富姫は長壁姫伝承を踏まえつつ鏡花が造形した独自の人物であり、伝承上の長壁姫そのものではない点に注意したい。地主神から化け物へ、化け物から十二単の姫へ、そして近代戯曲の幻想の妖姫へ——長壁姫の正体が、老いた狐の化身とも、人柱になった女とも、罪を得て世を去った姫君の霊とも、一つに定まらないところにこそ、この妖怪の捉えどころのなさがある。
第三層 ── 井戸の底で皿を数える女
天守の最上層に地主神が棲むなら、本丸の下、城のいちばん低いところには、もう一柱の女がいる。お菊井戸のお菊である。
『播州皿屋敷』[10]系の物語では、室町期の小寺(細川)家を簒奪せんとする青山鉄山の陰謀のなか、家来の町坪弾四郎が家宝の唐絵の皿十枚のうち一枚を隠し、腰元お菊に罪を着せて責め殺し、井戸へ投じる。以来、夜ごと井戸の底から「一枚……二枚……」と皿を数える女の声が響き、足りぬ一枚に至って絶叫する——累(かさね)・お岩と並ぶ、近世怪談を代表する女性怨霊の誕生である。
この播州系の物語は、浄瑠璃『播州皿屋敷』[10](寛保元年=一七四一年、大坂豊竹座初演、為永太郎兵衛・浅田一鳥作)として確立した。一方、江戸を舞台とする番町皿屋敷[11]系は、講釈師馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』[11](宝暦八年=一七五八年)が現存最古のまとまった文献で、牛込御門内の旗本青山主膳の屋敷を舞台とする。ただし作中の火付盗賊改という役職は青山主膳の生年代と齟齬し、史実ではなく講談として成形された怪談とされる。皿屋敷には播州・番町の二大系統があり、姫路城のお菊はそのうち播州系の本拠なのだ。
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歩いて辿れる怨念
姫路のお菊が他の女性怨霊と一線を画すのは、伝説が地面に根を張り、今も歩いて辿れることだ。
- お菊井戸 ── 姫路城本丸下に現存する。元来は「釣瓶取(つるべとり)の井戸」と呼ばれていたが、大正期に城が一般公開されて以降「お菊井戸」と呼ばれるようになった[12]。
- お菊神社 ── 姫路市内の十二所神社の境内に、お菊を祀る祠がある。お菊大明神として祀られ、これは『播州皿屋敷』の浄瑠璃が成る頃まで遡るとされる[12]。
- お菊虫 ── 寛政七年(一七九五)に同地で大発生し、後ろ手に縛られた女の形に見えるとして「お菊虫」と呼ばれた蛹は、ジャコウアゲハのものと考えられている[12]。十二所神社では戦前、この蛹を「お菊虫」と称して土産に売ったという。後年、姫路市はこのお菊虫の縁と、姫路藩初代藩主・池田氏の蝶の家紋にちなんで、ジャコウアゲハを市の蝶に定めている。
地名・社祠・虫の名にまで伝説が根を張る——この土着の密度こそ、姫路のお菊の強さである。
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一地点の事件ではなく、伝説の型
ただし、お菊の物語を「姫路城で実際に起きた事件」と受け取るのは早計だ。民俗学者の柳田國男[13]は、上州妙義山麓の小幡氏に足利期以来の同型口碑——原因は皿ではなく飯椀に刺さった針で、祟りを恐れて菊作りを禁じたという——があり、その末流が寛永一七年(一六四〇)に姫路城主松平氏へ召し抱えられた点を指摘した。皿屋敷譚は一地点の事件ではなく、全国に分布する伝説型なのである。類話は各地に及び、一説に四十八か所を数えるともいう[14]。怨念の物語が娯楽へと転じていく流れもある——落語「皿屋敷」では、皿を数えるお菊を見物に人が押し寄せる滑稽な噺へと変じ、怪談が近世後期に娯楽化していった受容の姿を伝えている。
三層を貫くもの ── 姫山という一点
ここまで見てきた三つの怪異は、時代も格も、まるで違う。火明命は奈良時代の風土記が語る荒ぶる御子神、長壁姫は中世以来の地主神にして城郭妖怪、お菊は近世怪談の女性怨霊。神話・信仰・怪談という三つの異なる地層に属している。
それでも三柱は、ただ一つの点で確かに繋がっている。姫山だ。火明命は嵐とともに蚕子をこの丘へ散らして名を与え、長壁姫はこの丘の地主神としてその最上層に棲み、お菊はこの丘の麓の井戸に沈んだ。城が乗る前から、この丘は神話の舞台であり、地主神の座であった。豊臣秀吉が、そして池田輝政が、その丘の上に白い天守を築いたとき、彼らは三層の記憶の上に石垣を積んだのだ。だからこそ、城を守護神が嫌い、井戸が泣き、地名そのものが神の怒りを語る。
姫路城を訪れる人は、白鷺の優美な姿に目を奪われる。だがその白い壁の下には、神が嵐を呼んだ丘があり、地主神が天守に棲み、女が井戸で皿を数えている。世界遺産の美しさと、その地面に染み込んだ怪異の記憶——この二つは、決して別物ではない。
姫路城は、播磨という土地の妖怪文化が最も濃く凝縮した一点である。同じ播磨、そして摂津・但馬・淡路を含む県全体の妖怪文化を俯瞰するには、兵庫県の妖怪事典を併せて読まれたい。神話の島・淡路の国生みから、平家の都・福原の怨霊まで——姫山の三層は、その広大な絵巻のなかでも、最も深く掘り下げられた一つの井戸なのである。

