五島列島は、長崎県の西、東シナ海に向かって弧を描いて散らばる大小百四十余の島々である。福江島・久賀島・奈留島・若松島・中通島の上五島五島に、北の小値賀島・宇久島を加えた連なりは、九州本土の最西端からさらに西へ突き出し、その先はもう中国大陸へ続く外洋しかない。日本列島の「海の果て」とでも呼ぶべき位置に、この島々はある。
だからこそ五島は、古来「向こう側」と最も近い場所だった。遣唐使船は東シナ海を横断する直前、福江島三井楽の岬を最終寄港地とした。三井楽は『万葉集』や『蜻蛉日記』に「みみらくのしま ── 亡き人に逢える島」として歌われ、死者に会える西方浄土の入口とされた。海の彼方には大陸があり、浄土があり、死者がいた。本記事は、この「海の果ての島」がなぜ海と死をめぐる怪異を育てたのかを、海坊主・磯女・山童・ガータローという四つの怪を軸に、史料と伝承を分けながら辿る読み物である。あわせて長崎県の妖怪事典も参照されたい。
海の果ての島 ── 遣唐使と「みみらくのしま」
五島列島の妖怪を語るには、まずこの島々が立つ地理的な位相を押さえねばならない。五島は九州本土から西へ離れた孤立した島嶼で、目の前に広がるのは荒い東シナ海である。漁と海運に生きるほかなく、平地と深い山林に乏しい。怪異が棲みつく「奥」としての深山よりも、すぐ目の前にひらける外洋の闇のほうが、島の暮らしにとってはるかに切実だった。五島の怪が圧倒的に海の怪に偏るのは、この地理の必然である。
そして五島は、ただ孤立していたのではない。古代、ここは日本と大陸を結ぶ航路の最終地点だった。遣唐使船は博多や難波を発ったのち、九州の西岸を南下し、五島の福江島・三井楽(みいらく)で水と食料を整えてから、一気に東シナ海を横断して唐を目指した。三井楽は遣唐使にとって「最後に踏む日本の土」であり、ここを過ぎれば生きて帰れるかも知れぬ命がけの渡海が待っていた。
この三井楽が、やがて死者と結びつく。三井楽は『肥前国風土記』に「美禰良久之埼(みねらくのさき)」として記され、平安期には『蜻蛉日記』(10世紀)に「亡き人に逢える島 ── みみらくのしま」として現れる[1]。藤原道綱母は、亡き母を慕って「ありとだによそにても見む名にし負はばわれに聞かせよみみらくの島」── そこにあるとだけでも、せめて遠くから見たい、その名を負うのなら、私に聞かせてくれ、みみらくの島よ ── と詠んだと伝わる。海の彼方の島は、死者に会える西方浄土の入口として、都の歌人たちの想像力のなかで歌枕となったのである。同じ海の道を、生きて唐へ渡ろうとする遣唐使と、死者に会おうとする悲しみとが、ともに西へ向かって辿った。三井楽はその両方の祈りが交わる岬だったのである。
海の果てに立つ島が、生者の世界の「最後の土地」であると同時に、死者と出会う「異界の入口」でもある ── この二重性こそ、五島の妖怪文化の根である。遣唐使が命を賭して渡った海、亡き人がいるとされた海、そして漁師が日々生計を委ねた海。同じ一つの東シナ海が、生と死、現実と異界を同時に抱えていた。五島の海の怪は、すべてこの「海の果て」という位相から立ち上がってくる。
沖に立つ巨怪 ── 海坊主と舳乞い
その海の怪の筆頭が海坊主である。凪いだ夜の海面が突如盛り上がり、巨大な黒い坊主頭の影として船の前に立ちはだかる ── 五島の漁師が最も恐れた、海そのものの恐怖の化身である。

우미보즈
우미보즈는 일본 각지의 연안에 전해지는 해상 괴이로, 특히 어부들이 두려워해 온 존재다. 잔잔하던 바다가 갑자기 솟구치더니 거대한 검은 그림자나 민머리 승려의 모습이 되어 배 앞을 가로막는다고 한다. 온몸이 드러나는 경우는 드물고, 대개 머리와 어깨만 수면 위로 내민 모습으로 이야기된다. 밤바다나 거친 풍랑 속에서 나타나 배를 뒤집고 사람을 깊은 바닷속으로 끌어간다고 여겼다. 에도 시대 문헌인 『와칸 산사이 즈에』(1712)와 『부쓰루이 쇼코』(1775)에도 바다 위에 선 거대한 괴이의 이름이 보인다.
자세히 보기海坊主は五島列島をはじめ、愛媛・岡山・鳥取・和歌山・宮城など全国の漁村に広く分布する怪[2]だが、土地ごとに性質は一様でない。船の行く手を阻んで網や櫂を折る怪力の主として語る地がある一方、長崎の五島列島や愛知の師崎・知多郡では、海坊主が「柄杓を貸せ」と迫り、渡せば海水を汲み入れて船を沈めにかかる[3]という話型を伝える。漁師は底を抜いた柄杓を渡すことで、汲んでも汲んでも水が溜まらぬ隙に逃げ延びたという。
五島の海坊主には「舳乞い(へさきこい)」とも呼ばれる相がある。船の舳先に取りつき、行く手を阻んで離れぬというこの怪は、底を抜いた柄杓を差し出す対処と一続きの、海上で何かを「乞う」存在として語られた。その正体は溺死者の亡霊が変じたものとする説[4]や、零落した竜神・海神が生贄を求める姿とする説が伝わる。鳥山石燕は海坊主そのものを描かなかったが、海上に立つ盲僧姿の海座頭を『画図百鬼夜行』に収めており、近世の妖怪画にも海への畏れが繰り返し像を結んでいる。
五島という外洋の島で、海坊主が「海そのものの恐怖」の象徴となったのは自然なことだった。沖へ出れば帰らぬ者が出る。その理不尽な海難死を意味づけ、海と折り合いをつけるための装置として、巨大な黒い頭は夜の海に立ちつづけたのである。
磯辺に立つ女 ── 磯女と海辺の境界
海坊主が沖の沖に立つとすれば、もう一体の海怪は陸と海の境目に立つ。五島・小値賀の海辺に伝わる磯女である。

이소온나
이소온나는 아마쿠사·시마바라·쓰시마·가카라시마를 비롯한 규슈 북서부 연안에 나타나는 여자 바다 요괴다. 모래사장과 갯바위, 정박한 배에 다가가 긴 머리카락으로 사람을 휘감아 피를 마신다고 한다. 상반신은 아름다운 여자와 비슷하지만 하반신은 희미하게 사라지거나 뱀처럼 이어진다고 하며, 뒤에서 보면 젖은 바위로밖에 보이지 않는다는 이야기도 있다. 지역에 따라 이소조시·누레조시·아마·우미히메 등 여러 이름으로 불린다. 바다가 잔잔할 때 모습을 드러내고, 해난 사망자의 원한과 연결되는 곳도 있다. 같은 해안의 위험한 존재인 우시오니와 함께 나타난다는 전승도 남아 있다.
자세히 보기磯女は、沖と陸のあわい ── 磯辺や停泊地に立つ女の怪である。長崎県南島原では、磯女が沖を凝視し、声をかけた者に甲高い叫びを放って髪を絡め、生血を吸うという。天草では夜、艫綱(ともづな)を伝って船に忍び込み、眠る者に髪を被せて害するため、見知らぬ港では艫綱を取らず錨のみを下ろす習い[5]があった。島原半島では、苫の茅を三本着物に乗せて寝れば避けられるとも伝わる。避け方が具体的な作法として残っていること自体が、この怪がどれほど切実に信じられていたかを物語る。
五島列島では、小値賀の磯女を水死者の霊とする説が伝わる。北九州には蟹の化身とする異伝、福岡沿岸には水上を歩くという話もあり、磯女の像は西日本沿岸の各地で少しずつ姿を変える。沖の舟を直に襲う海坊主とは異なり、磯女は磯辺や停泊地という陸と海の境界に立ち、髪と血をめぐる女の海怪として固有の像を結んだ。
長い髪に絡め取られ生血を吸われるという主題は、海で命を落とした者への鎮魂と恐れが、女の姿に凝ったものだろう。死者に会える島と歌われた五島で、水死者の霊が磯辺に女の姿で立つという伝えは、「みみらくのしま」の信仰と地続きの、海と死をめぐる島の心性を映している。海坊主と磯女 ── 沖と磯に立つこの二体は、五島の海怪の双璧である。
山と川を去来する童 ── 山童とガータロー
ここまで海の怪を辿ってきたが、五島には山と川の怪も棲む。海に囲まれた島でありながら、五島の妖怪文化のもうひとつの軸は、山と水とを去来する童の怪 ── 山童とガータローにある。
まず山童である。山童は九州の山地に棲むと伝えられる一つ目・一本足ともいわれる山の怪で、注目すべきは、近世の博物書がこの島々をその生息地として名指ししていることだ。寺島良安『和漢三才図会』(1712年)は、筑前国(福岡県)や五島列島に山童がいると記している[4]。姿は人に似て顔は丸く、髪は赤く長く目を覆い、十歳ほどの童の背丈で、山中の小屋に現れて塩を盗み、樵や炭焼きの仕事を手伝っては酒や握り飯を求めるという。
山童の最大の特徴は、河童との季節的な去来の信仰にある。肥後(熊本)では、ガラッパが秋の彼岸に山へ入って山童となり、春の彼岸に川へ戻ってガラッパになる[6]と語られ、水の怪と山の怪が同一の存在の二つの相であるという観念が九州一帯に根を張る。海に囲まれ川の乏しい五島で、山の童と水辺の河童が地続きに語られてきたのも、この去来の信仰の延長にある。
そしてその五島の河童こそ、ガータローである。

가타로
가타로(河太郎)는 나가사키현 고토 열도에 전해지는 갓파이다. 키는 큰 것이 1미터 정도이고 머리에 접시를 얹고 있으며, 그 물이 마르면 힘과 신통력을 잃는다는 규슈 갓파의 공통된 모습을 지닌다. 고토에서는 갓파를 주로 가타로라고 부르지만, 지역에 따라 '가아타로', '갓파', '캬타로', '갓파돈' 등 호칭이 나뉜다. 장난을 좋아하고 씨름을 즐기는 성미이며, 여우처럼 사람에게 빙의한다는 점, 양팔이 등딱지 안에서 연결되어 있어 팔이 쉽게 빠진다는 점이 고토 갓파의 특징으로 이야기된다. 물고기를 훔치는 해를 끼치기도 하지만, 사람과 술을 주고받는 얌전한 갓파 이야기도 남아 있다.
자세히 보기ガータロー(河太郎)は、五島で河童を指す呼び名である。五島では河童をガータローと呼ぶのが主だが、地域により「ガアタロ」「ガッパ」「キャタロ」「ガッパドン」など呼称が分かれる[7]。頭に皿を戴き、その水が乾くと力を失うという九州の河童の形姿をもち、いたずら好きで相撲を好む。両腕が甲羅の内で繋がっているため腕が抜けやすい、という五島特有の伝えもある。
このガータローを名高くしたのが、火伏せ ── すなわち火災除けの神としての信仰である。福江島の大円寺川にある水神社は消防の神として知られ、ここに五島中の河童の大将が住むと伝えられる。享保8年(1723年)、江戸の五島藩邸が火災に見舞われた際、邸内から大勢の火消しが現れて屋敷を守り、それが実は五島から来た河童であったという伝説が江戸で広まり、水神社への参拝者が急増した[7]という。藩はこの霊験にあやかって「水天宮御守」を授与し、よく売れて藩財政を潤したとも伝わる。害をなす悪戯者の河童が、海を越えて江戸の藩邸を火から守る守護神にまでなったのである。
福江島三井楽町の白良ヶ浜・弁天島には、河童がいたずらをして付けたという足跡が岩肌に残る[8]とも伝わる。海に囲まれ川の乏しい島嶼にあって、ガータローは水神への畏れと火伏せの願い、そして人なつこい悪戯者という両面を併せもつ、五島固有の河童像を結んでいる。山童とガータローが表裏をなして山と川を去来するこの構図は、海の島でありながら山と水の霊を同じ一続きのものとして畏れた、五島の人びとの心性の現れである。
捕鯨とキリシタンの島 ── 怪異の背景にある暮らし
五島の妖怪を育てた暮らしの背景に、二つの歴史を添えておきたい。捕鯨と、キリシタンである。
近世の五島は、西海捕鯨で栄えた島だった。上五島の中通島・有川では、紀州湯浅の技術者が有川湾に回遊する鯨を地元の者と共同で突取りしたのを始まりとし、江戸期に近海捕鯨業が発達した。有川には鯨組の見張り場「山見小屋」が置かれ、鯨見山の山頂から沖を見張り、鯨が現れると狼煙をあげて漁に繰り出した[9]。鯨は島に莫大な富をもたらす一方、巨大な海の生き物への畏れも生んだ。海坊主の巨大な黒い影が、鯨に生きる島で語られたことには、海の巨きさへの実感が裏打ちされている。
いまひとつ、五島の精神史を語るうえで避けて通れないのが、キリシタンの歴史である。寛政9年(1797年)、領主五島盛運の依頼を受け、大村藩外海地方の潜伏キリシタン農民が五島へ移住した。同年から数年で三千人余りが宇久島を除く島々に渡り、迫害を逃れて険しい海辺や離島に隠れ里を築いた。2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、野崎島・頭ヶ島・久賀島・奈留島の集落が世界遺産に登録された[10]。これは妖怪伝承そのものではないが、人びとの不可視の世界への想像力が、在来の妖怪とは別の回路にも流れたことを意味する。本記事は妖怪を主題とするため深入りはしないが、五島の怪異文化を語るとき、この異質な信仰の層が背景に横たわっていることだけは留めておきたい。
捕鯨で海の巨きさを知り、隠れ里で不可視の世界と向き合った島。その暮らしの厚みが、五島の怪異に独特の手応えを与えている。
海の果てに立つ怪たち
東シナ海の最果て、遣唐使が命を賭して渡った海、亡き人がいると歌われた「みみらくのしま」。五島列島の妖怪は、ひとつ残らずこの「海の果ての島」という位相から生まれている。
沖に立つ海坊主、磯辺に立つ磯女、山と川を去来する山童とガータロー ── 海の怪と山の怪が地続きに語られるこの島々の怪異は、海に囲まれた孤立した島でありながら、海も山も水も、すべてを一続きの霊地として畏れた人びとの心性の結晶である。山に鬼を見るのではなく、水平線の向こうに異界と死者を見る。それが、東シナ海の果てに浮かぶこの島々の、固有の怪異のかたちである。
五島の海洋怪異は、いまふたたび光を当てられている。三井楽は国の名勝・日本遺産として遣唐使と「みみらくのしま」の記憶をたどる地となり、世界遺産の潜伏キリシタン関連遺産とともに、磯女や海坊主を語り継ぐ島の物語が見つめ直されている。怪を生んだ畏れは薄れても、海の果ての島が抱えた物語は、いまも人を島へと招いている。五島の妖怪をさらに広く長崎全体の海の信仰のなかで見るなら、長崎県の妖怪事典へと辿られたい。

