稲荷山の麓に立ち、奥社へ続く参道を見上げると、朱の鳥居が隙間なく連なって一本の朱いトンネルになっている。千本鳥居である。願いが「通る」ように、あるいは「通った」礼として奉納された鳥居が、江戸期からこの山を覆い尽くしてきた千本鳥居[1]。その朱の奥には、神でも獣でもない白い影が潜んでいる。狐である。
伏見稲荷大社は和銅四年 (711) の創建と伝わる、全国三万社余に及ぶ稲荷神社の総本宮だ。だが「お稲荷さん」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、祭神の名でも社殿でもなく、社頭に一対で座る白い狐の像ではないだろうか。稲荷とは何者で、狐はそこに何の縁があるのか ── この問いは、聖と妖の境界をそのまま走っている。本記事は京都府の妖怪事典がたどる千二百年の都の宏観を離れ、この一つの聖地に密着して、稲荷をめぐる四つの像を解きほぐす。
稲荷信仰の総本宮 ── 山がそのまま神域である
伏見稲荷大社の本質を理解する鍵は、社殿ではなく山そのものにある。背後にそびえる稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置する標高二三三メートルの霊峰で、古くから三ヶ峰と呼ばれ、三つの峰が西から東へ段々に高く連なっている稲荷山[1]。社伝によれば、和銅四年 (711) 二月初午の日、渡来系氏族の秦伊呂具 (はたのいろぐ)がこの三ヶ峰の山頂に三柱の神を勧請したのが起源とされる (『山城国風土記』逸文)。

稻荷神
主祭神为宇迦之御魂神(仓稻魂命)。这是以《古事记》《日本书纪》中记载的谷物与食物之神为本相的日本最大信仰神。以711年(和铜4年)秦氏于伏见稻荷大社的劝请为起点,如今被供奉在全日本3万多座稻荷神社及分祀社中,神社数量位居日本所有信仰系统之首。中世纪以后,与佛教的荼枳尼天发生习合(融合),在丰川稻荷、最上稻荷等佛寺中也被作为本尊供奉。狐狸本身并非神明,而是神使,但在民间信仰中两者经常被视为同一存在。作为五谷丰登、生意兴隆、合家平安及屋敷神,其信仰被广泛供奉于神社、佛寺、宅邸、路边小祠乃至公司内部的神坛。
查看详情主祭神は宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ)。『古事記』上巻 (712)、『日本書紀』 (720、倉稲魂命) に既出の穀物・食物神である。名の「ウカ」は古代日本語の「食 (うけ)」に由来し、穀物に宿る霊力を擬人化したものだ。つまり稲荷の本義は、人を化かす狐ではなく実りの神にある。五穀豊穣を司る農耕神が、やがて商売繁盛・家内安全・開運出世へと祈りの幅を広げ、神社数で日本最大の信仰系統を築いた。
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御山巡りとお塚信仰 ── 無数の私的な神
稲荷山の独自性は、参拝が本殿で完結しない点にある。山に登り、七神蹟や無数の塚を巡拝することを「お山する」といい、参詣の人は今も日夜あとを絶たないお山[1]。明治になって七神蹟地が確定され親塚が建立されると、それを契機に、個々人が自らの信仰心から神名を石に刻んで奉納するお塚信仰が爆発的に広まったお塚信仰[6]。
明治三十五年 (1902) の時点で六三三基だったお塚は、昭和七年 (1932) には二二五四基、昭和四十二年 (1967) には七七六二基へと増え続けた[6]。
このお塚の海は、稲荷信仰の核心を物語っている。人々は「何某稲荷大神」という、自分の家や自分だけの稲荷を勝手に名づけ、石に刻み、山に祀る。稲荷とは中央の一柱の神でありながら、同時に無数の私的な神でもある。この「分けても減らない」性格こそ、稲荷が三万社に増殖した原理であり、後に見る屋敷神化の土壌でもあった。
狐はなぜ稲荷の使いになったのか
ここでようやく狐が登場する。だが注意したいのは、狐は稲荷神そのものではなく神使 (御使い) だという正統の立場だ。社頭に狛犬の代わりに据えられる一対の白狐は、神意を運ぶ眷属であって、祈る対象は背後の神である。
では、なぜ数ある動物の中で狐が選ばれたのか。有力な説は語呂に発する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神 (みけつのかみ) があるが、狐の古名は「けつ」であり、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端とされる御饌津神と三狐神[7]。やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。興味深いことに、稲荷山はもともと弥生以来の蛇神信仰の地でもあり、狐を神使とする信仰が広まったのは平安期になってからだという[7]。
実利的な側面も見逃せない。狐は秋に里へ下りて田畑を荒らす鼠を捕食する。稲を守る益獣が、稲を司る神の使いに重ねられるのは自然な連想だった。狐がくわえる稲穂・巻物・鍵・宝珠は、田の実り・言葉・倉・宝を媒介する者という、この神使の職能を視覚化したものだ。
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命婦 ── 女官の格を授かった白狐
稲荷の神使思想がもっとも洗練された形をとったのが、命婦 (みょうぶ) である。伏見稲荷大社の末社・白狐社 (びゃっこしゃ) には「命婦専女神 (みょうぶとうめのかみ)」が祀られ、これは神格化された白狐の称号にほかならない白狐社。
「命婦」とは本来、律令制下で宮中に仕えた女官の位階を指す語で、五位以上の女性に与えられた称号だ。これが稲荷の白狐に冠せられた背景には、稲荷社が天慶五年 (942) に正一位の極位を授けられた最高位の神であった事実がある。神格が極まった稲荷に近侍する狐もまた、宮中の女官になぞらえて高貴な存在と観念されたのだ。
命婦という発想は、稲荷信仰が単なる素朴な動物崇拝ではなく、朝廷・神祇制度と深く結びついて成熟したことを示している。白狐の「白」は、神と同じく目に見えない清浄・透明な存在であることの徴とされた。白狐社は江戸初期の寛永年間 (1624〜1644) に建立された一間社春日造檜皮葺で、国の重要文化財に指定されている。神に仕える狐に位階を与えるという観念は、各地の稲荷社で「正一位稲荷大明神」の幟とともに広がり、白狐を命婦・専女 (とうめ) と呼ぶ習いを生んだ。
仏のお稲荷さん ── 荼枳尼天との習合
稲荷信仰のもう一つの顔が、仏教側から来た荼枳尼天 (だきにてん) である。サンスクリット語「ダーキニー (Ḍākinī)」に由来するこの天部の神は、白狐にまたがる天女の姿で表され、「仏のお稲荷さん」として信仰されてきた荼枳尼天。
その源流は穏やかではない。ダーキニーはインド密教において、空を飛び人の死を予知してその心臓を食らう女性の鬼神であったダーキニー。中期密教で大黒天 (マハーカーラ) に調伏され、空海により平安初期に真言密教とともに日本へ伝わると、当初は胎蔵曼荼羅の閻魔天の眷属・奪精鬼として描かれた。半裸で血器・短刀・屍を持つ恐ろしい像である。
なぜこの鬼神が稲荷と結びついたのか。鍵はまたしても狐だった。狐が古墳や塚に棲み屍を食らうとされたインド以来の観念と、神道で狐を稲荷神の神使とする伝統が、共通項を介して急速に重なった。東寺・真言宗が荼枳尼天を稲荷神に習合させて全国に布教した結果、荼枳尼天の概念を含んだ稲荷信仰が広まることとなる稲荷の神仏習合[12]。
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神社の稲荷と寺院の稲荷 ── 明治の分岐点
ここで伏見稲荷と対比すべきが、寺院系の稲荷である。荼枳尼天を本尊とする豊川稲荷 (妙厳寺) や最上稲荷 (妙教寺) は、鎌倉〜室町期に成立し、荼枳尼天を憑き物落とし・病気平癒・開運出世の福徳神として祀る寺院として発展した[12]。
両者の道を決定的に分けたのが、明治の神仏分離である。神道色を求められた多くの稲荷社は宇迦之御魂神を祀る神社となり、伏見稲荷大社はその総本宮として神社の側に立った。一方、豊川稲荷などは荼枳尼天を本尊とする寺院として分離を免れ、仏教側に残った[12]。同じ「お稲荷さん」が、神社と寺院という二つの制度に分かれて今日に至るのは、この時の分岐の名残である。宇迦之御魂神と荼枳尼天は、江戸の庶民にとってはどちらも等しく「お稲荷さん」であり、白狐を介して一つに溶け合っていた。
稲荷=狐の俗信はどう生まれたか
正統には狐は神使にすぎない。それでも民間で「お稲荷さん=狐神」という観念が根強いのはなぜか。その答えは江戸の都市にある。
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屋敷神ブームと「伊勢屋稲荷に犬の糞」
江戸時代、各地から集まった武士が新開発の宅地に住みはじめると、土地の神として稲荷を祀る習慣が生まれ、それが屋敷神となって大名・旗本から商人へと広まった江戸の稲荷ブーム[13]。庶民も町ごとに小祠を作り、「火事・喧嘩・伊勢屋・稲荷に犬の糞」と詠まれるほど稲荷は江戸の風景に偏在した。天保五年 (1834) の『祠曹雑識』には江戸有名稲荷一〇六社の番付が載り、裏長屋の小祠まで含めれば四千社以上にのぼったともいわれる[13]。
先に見た稲荷山のお塚信仰と同じ「分けても減らない」性格が、ここでは都市スケールで作動した。各家・各町が自前の稲荷を持つようになると、中央の宇迦之御魂神という抽象的な神格よりも、目に見える社頭の白狐像こそが「お稲荷さん」の実体として人々の意識を占めていく。神使にすぎなかった狐が、信仰の前面にせり出したのである。
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狐憑きと稲荷下げ ── 妖へ傾く稲荷
稲荷と狐の一体化は、聖なる方向だけでなく、不安と恐怖の方向へも振れた。狐憑きである。修験者や巫者が狐を神使とみなして修法や託宣を行う「稲荷下げ」は、稲荷信仰・荼枳尼天法・狐を使う託宣を背景に成立した習俗だった狐憑きと稲荷下げ[14]。
ここで稲荷の白狐は、命婦のような清浄な神使から、人に憑き家筋に取りつく野狐・管狐・オサキの系統へと滑り落ちる。同じ狐でありながら、福徳を運ぶ眷属と、災いを移す憑き物とが、稲荷という一つの名のもとに同居した。九尾の狐が玉藻前として王権を惑わす大妖狐になり得たのも、稲荷信仰が育てた「神に近い高貴な白狐」と「人の内側に入り込む危うい狐」の二面性があったからにほかならない。聖地・伏見稲荷の朱の鳥居の奥には、神使の白狐と、人を惑わす妖狐とが、ほどけずに同じ尾を共有している。
朱のトンネルの先にあるもの
伏見稲荷大社を歩くとは、稲荷という神格の重層を歩くことだ。山頂の三ヶ峰に降りた宇迦之御魂神という古い穀物神。社頭に座り稲穂をくわえる神使の白狐。女官の格を授かって白狐社に祀られる命婦。インドの鬼神から白狐に乗る天女へと変じ、寺院に「仏のお稲荷さん」として祀られる荼枳尼天。そして、神使と妖狐の境を行き来する狐そのもの。
千本鳥居の朱は、この多層を一本のトンネルに束ねている。願いが「通る」ようにと奉納された朱の連なりは、聖と妖、神道と仏教、中央の一柱と無数の私的な神を、矛盾のまま並走させてきた稲荷信仰の姿そのものだ。京都という結界都市の全体像については京都府の妖怪事典に譲るが、稲荷山という一点に立てば、日本人が神と妖と獣の境界をいかに緩やかに、そして豊かに引いてきたかが、白い狐の目を通して見えてくる。


