基本説明
泥田坊(どろたぼう)は、鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』(安永十年=一七八一年刊)[1]の「雲」の巻に収められた妖怪である。荒れ果てた泥田のなかから上半身だけをぬっと現し、全身は泥のように黒く、顔には目が一つきり、両手の指は三本しかない異形の姿で描かれる。夜ごと田に湧き出ては「田を返せ、田を返せ[1]」と恨めしげに叫ぶとされ、その声は田を売り払われた者の怨念のあらわれとして語られる。石燕は図に短い解説文を添えており、舞台を「北国(ほっこく)」とするほかは、土地に根ざした口承伝承や近世の他資料に対応する目撃譚はほとんど確認されない。すなわち泥田坊は、特定の事件記録というより、勤労によって田を守った先祖と、それを蕩尽した子孫という対比を一個の妖怪像に結晶させた、石燕の創作的色彩の濃い怪である。後世にはもっぱら、怠農・売田を戒める教訓的寓意として、また土地と労働への執着が死後にまで及ぶさまを示す象徴として紹介されてきた。一つ目で三本指という不完全な身体造形そのものが、田を奪われ人としての形を保てぬまでに崩れた執念の表現と読まれることもある。
民話・伝承
石燕[1]が図に添えた解説は次のように記す――「むかし北国に翁あり、子孫のためにいささかの田地をかひ置きて、寒暑風雨をさけず時々の耕作おこたらざりしに、この翁死してよりその子、酒にふけりて農業を事とせず、はてにはこの田地を他人にうりあたへければ、夜な夜な目の一つあるくろきものいでて、田をかへせ田をかへせとののしりけり」。すなわち北国のある翁が、子孫のためにと田を買い置き、暑さ寒さも風雨もいとわず丹精して耕した。だが翁の死後、その子は酒に溺れて農を捨て、ついに田を他人へ売り渡してしまう。すると夜ごと、一つ目の黒いものが田から現れ「田を返せ」と罵り続けた、というのである。この挿話に対応する地域伝承は村上健司『妖怪事典』[2]でも「未詳」とされ、石燕以前の確かな典拠は見いだされていない。それゆえ研究者のあいだでは、泥田坊を石燕の創作と見る立場が有力である。とりわけ多田克己[3]は、これを石燕一流の言葉遊びと読み、「北国」を新吉原(江戸の遊廓)の異称、「田を返せ」や「泥」「一つ目」を遊里にまつわる隠語と解して、放蕩と色街を妖怪の姿に仮託した諷刺と見る解釈を示している。一方で呼称そのものについては、何もかも台無しにする意の「泥田を棒で打つ」という諺に由来するとする説や、狂歌師の雅号に由来するとする説など諸説があり、いずれも確証を欠く。総じて泥田坊の「物語」は、土地と労働への執着、放蕩への戒め、そして石燕の機知という複数の層が重なって成り立っており、確たる民間伝承の所産というより近世妖怪画というメディアが生んだ造形と理解するのが穏当である(後半の言葉遊び説・教訓的読解はいずれも後世の解釈であり、石燕自身の意図を断定するものではない)。
コレクション収録
この妖怪は以下のコレクションに収録されています:
徹底解説
鳥山石燕の図像と短文解説に準拠し、泥田から上半身を出す片目・三本指の姿を基調とする。史料上の伝承拡張は避け、寓意性を強調する立場を採る。田地を売り捨てた不孝・怠農を咎める声として現れ、夜間の田の畔に立ち、低い声で「田を返せ」と繰り返すとされる。近世同時代の裏付けに乏しいため、あくまで石燕による言葉遊びと社会風刺の可能性を念頭に置いた再現であり、実在の土地・人物に結びつけて断定しない。視覚的特徴は泥に塗れた僧形風の上半身、片目、大きな口、三指の手。
妖怪設定
この区画は物語を楽しむための当サイト独自の設定です。史実・考証ではありません。
- 性格
- 執拗で嘆き深い
- 相性
- 勤労を怠る者と不和
- 能力・特技
- 夜間に田の畔へ出没する泥に紛れて姿を現す反復する叫びで人心に悔恨を促す
- 弱点
- 日の出とともに消える, 農事が正しく行われると現れにくい
- 生息地
- 田の畔, 泥田, 用水路周辺
出典・参考文献
3- 1
今昔百鬼拾遺 — 鳥山石燕(安永10年(1781年)) [古典文献]
- 2
妖怪事典 — 村上健司(毎日新聞社, 2000年) [古典文献]
- 3
妖怪馬鹿 — 京極夏彦・多田克己・村上健司(新潮社(OH!文庫), 2001年) [古典文献]
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