和銅五年(712年)、ヤマトの朝廷は奥羽の北辺に一つの国を建てた。出羽国——羽州(うしゅう)とも呼ばれたこの国は、いまの山形県と秋田県の全域にわたる、本州でも屈指の広大な令制国である。だが建国のとき、この地はすでに人の住まう穏やかな国土だったわけではない。北には朝廷の支配のおよばぬ蝦夷(えみし)の世界が広がり、出羽国とは、その境に向かって打ち込まれた最前線の楔(くさび)であった。城柵が築かれ、関東や北陸から人が移され、湯の湧く霊山には行者が分け入る——古代の出羽は、まつろわぬ北とヤマトとがせめぎ合う、緊張をはらんだ辺境だったのである。
その辺境の風土が、独特の妖異と神格を育てた。語ることを禁じられた赤い霊巌の権現、生きながら仏になろうと土へ消えた行者、雪とともに月から降りたという女——いずれも、山と雪と死がすぐ隣にある北国の暮らしから立ち上がってきた存在である。本記事は、この出羽国を「蝦夷との境に建った国」「北の修験の国」という二つの相からとらえ直し、旧国に伝わる三柱を軸に、神格と妖怪と史実の行者を慎重に区別しながら、なぜこの古き北国でこうした姿が語られたのかを辿る。出羽国はのちに現在の山形県と秋田県へ分かれてゆくが、両県を貫く他界観の根は、この一つの古国の地中で結ばれている。
蝦夷との境に建った出羽国
出羽国の歴史は、城柵とともに始まる。和銅元年(708年)、朝廷は日本海側の北進拠点として出羽郡を置き、前後して庄内地方に出羽柵(でわのき)[1]を築いた[1]。その文献上の初見は『続日本紀[2]』和銅二年(709年)、蝦夷征討のため諸国に命じて兵器を出羽柵へ運ばせたという記事である[2]。柵(き)とは、ただの砦ではない。役所であり、軍事拠点であり、交易の窓口でもある、辺境を経営するための複合施設であった。
和銅五年(712年)九月、出羽郡は出羽国へと昇格し、同年十月には陸奥国から置賜(おきたま)郡と最上(もがみ)郡を譲られて、国としての体制を整えた[3]。建国当初の国府機能は出羽柵が担い、東国・北陸の諸国からは八百戸を超える柵戸(きのへ)——辺境を開拓し守るために移された民——が送り込まれた[3]。出羽という国は、もとからそこにあった国ではなく、北の境を押し広げるために人為的につくられた、いわば国境の国だったのである。
天平五年(733年)、出羽柵は北の秋田村高清水岡(現·秋田市)へと移され、天平宝字四年(760年)ごろまでに秋田城[4]と呼ばれるようになる[4]。雄物川河口を見おろす丘に築かれたこの城は、出羽国北半の政庁であると同時に、津軽・渡嶋(わたりしま)、さらに海の向こうの渤海国とも結ぶ、対北方交易・外交の最前線でもあった[4]。古代の出羽は、ヤマトの北端にして、北方世界への入口でもあったのだ。
だが境とは、つねに軋(きし)む場所である。朝廷に服した蝦夷は俘囚(ふしゅう)と呼ばれ、北秋田・米代川流域に多く暮らした。元慶二年(878年)、秋田城司の苛政に堪えかねた俘囚が大規模に蜂起し、秋田城を焼いて雄物川以北の独立を要求する——元慶の乱[5]である[5]。発掘調査では、このとき城が焼けたことを示す焼土層が確かめられている[5]。朝廷は藤原保則を出羽権守に据え、俘囚に食糧を支給する懐柔策でようやく乱を収めた[5]。力でねじ伏せるだけでは治まらぬ北の境——その記憶は、のちに在地の俘囚長・清原氏が大きな勢力へと育っていく素地ともなった。出羽の妖異がしばしば「人ならぬ世界との境」に立つのは、この国がそもそも境として生まれ、境として生きてきたことと、決して無縁ではない。
北の修験 ── 出羽三山と鳥海山
蝦夷との境であったこの北国には、もう一つの相がある。ヤマトの中央から最も遠い辺地であるがゆえに、ここは他界に近い聖地ともみなされた。出羽の山岳信仰の核をなすのが、羽黒山・月山・湯殿山からなる出羽三山である。
伝承では、開祖は崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(はちこのおうじ)[6]とされる。推古天皇元年(593年)、父帝が蘇我馬子に弑された政変を逃れて北へくだった皇子が、由良の浜で八人の乙女に出会い、三本足の烏に導かれて羽黒山に分け入り、三山を開いたという[6]。出羽国の建国(712年)より一世紀以上もさかのぼるこの開山譚は、史実というより信仰の起点だが、王権の中央から最も遠い辺地こそ聖性に満ちるという感覚を、よく映している。蝦夷との境という地政が、そのまま「俗世の果て=他界の入口」という宗教的想像力に転じたのだ。
羽黒修験では、羽黒山を現在、月山を過去、湯殿山を未来になぞらえ、三山を巡れば生きながら一度死んで生まれ変わるとされた[7]。これが「三関三渡(さんかんさんと)」、すなわち生まれかわりの旅である[7]。山に入ることが死であり、山を下りることが再生である——この擬死再生の回路こそ、出羽の妖異と神格を貫く背骨であり、現在の山形県の妖怪事典が詳しく辿るところでもある。
三山と並んで、出羽の北の聖地が鳥海山である。標高二二三六メートルのこの秀麗な火山は「出羽富士」とも呼ばれ、山頂の本社と山麓の里宮からなる鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)[8]を擁する出羽国一宮である[8]。古代には国家の守護神として、噴火するたびに朝廷が神階を上げて鎮めようとした畏れ多い山であり、その信仰圏は山形側の庄内から秋田側の由利・横手盆地にまでまたがる[8]。一つの霊山が国境をまたいで仰がれてきたこと自体が、出羽国が山形と秋田を一つに束ねていた古の姿を、いまに伝えている。そして出羽を貫く最上川は、米沢から村山、庄内の酒田へと下って日本海に注ぎ、山の信仰と里の暮らしを一本の水脈で結んでいた。
語らぬ湯殿の権現
三山の奥の院、最奥の聖地とされたのが湯殿山である。ここには社殿がない。御神体は、熱湯を噴き上げる茶褐色の巨大な霊巌そのものだ。参拝者は土足を許されず、素足でこの岩に登って大地の熱を直に踏む。そして古来、この山中で見聞きしたことは一切口外してはならぬと戒められ、「語るなかれ、聞くなかれ[9]」と言い習わされてきた[9]。

湯殿山大権現
湯殿山大権現は、出羽三山の奥の院湯殿山に祀られる神仏習合の権現である。明治の神仏分離以前、出羽三山は仏が神の姿をかりて現れた「権現」を祀る修験道の霊山であり、羽黒山・月山・湯殿山の三山がそれぞれ過去・現在・未来を象徴する一つの行場をなしていた。湯殿山には社殿がなく、御神体は熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌そのものである。参拝者は土足を許されず、素足でこの霊巌に登って大地の力を直に受ける。古来この山中で見聞きしたことを口外することは固く禁じられ、「語るなかれ、聞くなかれ」と言い習わされてきた。明治六年(1873年)の神仏分離・廃仏毀釈により権現号は廃され、湯殿山神社として大山祇命・大己貴命・少彦名命を祀る形に改められたが、語らぬ霊巌を御神体とする信仰の核は今も変わらない。
詳しく見る明治以前、出羽三山は仏が神の姿をかりて現れる「権現」を祀る神仏習合の霊山であり、湯殿山の本地仏は大日如来とされた。その神格が湯殿山大権現である。語ることを禁じられた赤い霊巌——これを妖怪と呼ぶのは正しくない。湯殿山大権現は明確に神格であり、本記事では妖怪と峻別して扱う。ただ、社も像も持たず、ただ熱湯の湧く岩として在り、その姿を語ることすら許されぬという有り様は、人の言葉が届かぬ領域に立つ存在として、畏怖の質において妖異と地続きでもある。名づけえぬもの、語りえぬものへの畏れは、妖怪を生む心の源流でもあるからだ。
元禄二年(1689年)、松尾芭蕉は『奥の細道[10]』の旅で出羽三山を巡った。羽黒・月山と詠み進めた芭蕉は、湯殿山についてだけは「総じてこの山中の微細、行者の法式として、他言することを禁ず。よりて筆をとどめてしるさず」と記し、あえて何も書き残さなかった[10]。そして残したのが「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の一句である[10]。口にできぬ霊域の前で、ただ感涙に袂を濡らすほかなかった——書かないことによって、書けぬ聖性を最も強く伝えた句として名高い。表現を尽くす俳人が、ここでは沈黙を選んだ。その沈黙が、湯殿山の御神体の本質を逆照射している。
明治六年(1873年)の神仏分離・廃仏毀釈により権現号は廃され、湯殿山神社は大山祇命・大己貴命・少彦名命を祀る形に改められた[11]。それでもなお、語らぬ霊巌を御神体とする信仰の核は変わらなかった。鶴岡市の山深くに、その赤い岩は今日も湯を噴き続けている。撮影も口外も慎まれるその場所は、古代以来の境の感覚——人の言葉と理(ことわり)が届く世界と、届かぬ世界との境——を、近代のただなかに残しているのである。
即身仏 ── 仏となった行者
湯殿山の死と再生の信仰が、最も峻烈な形をとって現れたのが即身仏である。これは妖怪でも神話でもなく、実在した行者たちの史実であり、ここでは敬意をもって、信仰と史実を分けて記す。

即身仏
即身仏とは、厳しい修行の果てに自らの肉体を生きながら仏とすべく土中に入定し、ミイラ化して残った行者の遺体をいう。とりわけ出羽の湯殿山を聖地とする湯殿山系の行者たちが、木の実・草根・樹皮のみを食して脂肪と水分を絶つ「木食行(もくじきぎょう)」を数千日にわたり重ね、死後に体が腐らぬよう肉体を整えてから土中の石室に入り、鉦を鳴らしながら断食して絶命したと伝えられる。死は終わりではなく、衆生を救うために永遠の禅定に入った姿と観念され、掘り出された遺体は仏として寺に祀られた。生身の人でありながら死して半ば神格化された存在であり、山形の山岳信仰が育んだ独特の他界観を体現する。湯殿山系の即身仏は現在も大日坊・注連寺などに安置され、参拝の対象となっている。
詳しく見る即身仏とは、厳しい修行の果てに、自らの肉体を生きながら仏に変えるべく土中に入定し、そのままミイラとなって遺った行者の遺体をいう。湯殿山を聖地とする行者たちは、米や麦などの五穀を断ち、木の実・草の根・樹皮のみを食べて体内の脂肪と水分をきわまで削ぎ落とす「木食行(もくじきぎょう)[12]」を、しばしば数千日にわたって重ねた[12]。死後に腐らぬよう肉体を整えたのち、土中に掘った石室に入り、一本の竹筒で空気を取りながら鉦を打ち読経し、やがて断食のうちに絶命したと伝えられる。三年三月を経て掘り出された遺体が朽ちていなければ、それは仏として迎えられた。
重要なのは、彼らがこれを「死」とは観念しなかったことだ。即身仏は終わりではなく、衆生を救うために永遠の禅定に入った姿とされた。生身の人が死してなお半ば神格化される——これは出羽独特の他界観をそのまま体現している。湯殿山という生まれかわりの山にあって、行者は自らの身をもって死と再生のあいだに立ち、未来永劫、人々を救い続ける存在になろうとした。湯殿山大権現が「語らぬ神」として山に在るなら、即身仏は「動かぬ仏」として里に在り、ともに出羽の人々の祈りを受け止めてきた。
この苛烈な行を担ったのは、寺の格式ある僧ではなく、生涯を山の信仰に捧げた在家の修行者——「一世行人(いっせいぎょうにん)[13]」と呼ばれる市井の行者たちであった[13]。江戸期の度重なる飢饉のなか、衆生の苦を代行して引き受けるという発想は、追い詰められた民の切実な救済願望と分かちがたく結びついていた。最も低い場所に立つ者の捨身の祈り——それが即身仏であった。
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鉄門海上人と真如海上人
湯殿山系即身仏のうち最も知られるのが、注連寺(ちゅうれんじ)の鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)[14]である。宝暦九年(1759年)、庄内の鶴岡に生まれ、二十一歳で注連寺に入り、仙人沢で二千日に及ぶ木食行を修めた[14]。江戸で眼病が流行したとき、両国橋の上で自らの左眼を抉って隅田川の龍神に「眼病平癒」を祈って捧げたという伝説が残る(この眼供養の逸話は後世の二次資料による伝承であり、史実として断定はできない)。郷里では隧道や架橋の難工事に尽くしたとも伝えられ、信仰と社会事業の両面で民に寄り添った行者であった。文政十二年(1829年)十二月八日、七十一歳で入定したと伝えられる[14]。
いっぽう大日坊(だいにちぼう)に祀られる真如海上人(しんにょかいしょうにん)[12]は、貞享四年(1687年)、朝日村越中山(現·鶴岡市)の農家に生まれたと伝わる[12]。湯殿山大権現を篤く信仰して大日坊を拠点に布教を重ね、七十年余の苦行ののち天明三年(1783年)、九十六歳で土中入定して即身仏になったという[12]。天明の大飢饉が東北を襲ったまさにその時代に、長寿を全うし、最後に自らを仏として民に捧げたその生涯は、湯殿山信仰の理想の姿として今も語られる。
庄内地方には、こうした湯殿山系の即身仏が六体現存している[15]。酒田市の海向寺には忠海上人・円明海上人の二体が安置され[15]、鶴岡の注連寺・大日坊とあわせ、参詣者は今も生き仏の前に手を合わせる。湯殿山を仰ぐ庄内という限られた土地にこれほどの数が集中していること自体が、ここが即身仏信仰の中心地であったことを示している。土中入定は明治期に法で禁じられ、湯殿山系の即身仏は限られた数だけが今日に伝わる。彼らを「ミイラ仏」とのみ呼んで奇異の目で見るのは、この土地の死生観を見誤ることになる。即身仏は見世物ではなく、出羽の山岳信仰が産んだ祈りの結晶であり、今もなお信仰の対象として寺に祀られていることを忘れてはならない。なお、この行と行者の生涯のさらに詳しい背景は、現在の山形県の妖怪事典に譲る。
雪国の女
出羽はまた、本州屈指の豪雪地である。長く深い冬は、山岳信仰とはまた別の角度から、雪そのものに霊を見る感覚を育てた。その結晶が雪女郎(ゆきじょろう)である。

雪女郎
雪女郎は、出羽の豪雪地・山形に伝わる雪女の一系である。全国の雪女が概ね人を凍えさせる恐ろしい存在として語られるのに対し、山形の雪女郎には人の情けに応えて福をもたらす一面や、月の世界から降りてきたという独特の由来が伝わる点に地域色がある。雪の降る夜、白い衣をまとった女として現れ、宿を乞うて人家を訪ねるという。小国地方では、雪女郎はもともと月の世界の姫であり、雪とともに地上へ降りたものの月へ帰れなくなった存在とされ、雪明かりの夜にその姿を見せると語られる。豪雪と長い冬を生きる人々が、雪そのものを畏れつつも慈しんだ感覚が、この雪女郎の像に投影されている。
詳しく見る全国に伝わる雪女が、おおむね人を凍え死なせる恐ろしい存在として語られるのに対し、出羽の雪女郎には、人の情けに応えて福をもたらす一面や、月の世界から降りてきたという独特の由来が伝わる[16]。雪の降る夜、白い衣の女として現れ、宿を乞うて人家を訪ねるという。西置賜の小国地方では、雪女郎はもともと月の世界の姫であり、雪とともに地上へ降りたものの月へ帰れなくなった存在とされ、雪明かりの夜にだけその姿を見せると語られる[16]。月から来た女という由来は、過去の山・月山を死者の世界と見た出羽の月への信仰と、どこかで響き合っているように見える。
小国に伝わる昔話では、雪の夜に白い衣の女が二軒の家を訪ねる[16]。東の家の主は「病人がいる」と無下に追い返し、西の家の老夫婦は女を温かく迎えて茶を出し、寝床を整えてやった。翌朝、女の姿はなく、濡れた白い衣に包まれた金の塊だけが残されていた——女は雪の精で、人の情けの温もりに溶けて消えたのだという[16]。心優しい西の家は生涯栄え、冷たく追い返した東の家は病み、貧していった。凍え殺す怪ではなく、情けに報いる精——豪雪の冬を生き抜く人々が、雪を畏れつつも慈しんだ心が、この姿に投影されている。雪は人を殺しもするが、その雪解け水が翌春の田を潤しもする。福と禍を併せ持つ雪の両義性が、そのまま雪女郎の人格になっている。
同じ「雪の女」でも、出羽のなかでその像は一様ではない。最上地方には、雪女が子を抱いて現れ、通りかかった者にその子を抱かせようとするという、産女(うぶめ)に通じる伝承が語られる[17]。抱いた子はみるみる重くなるという。新庄あたりには牛(べこ)を連れて現れる雪女の話も伝わる[17]。月の姫と語る小国、子を託す最上、牛を連れる新庄——一つの旧国の中に雪女の地域差がこれほど重層するのは、それぞれの土地が雪と向き合う心の違いを、別々の物語に結晶させたからだろう。盆地の最上と海沿いの庄内、山あいの置賜では、同じ豪雪でも冬の質感がまるで違う。雪女郎の多様さは、出羽国という広大な北国の地形の多様さそのものでもある。
そして雪に異界を見るこの感覚は、山形側だけのものではない。雪深い北の出羽——秋田側では、大晦日の闇を裂いて村を訪れる来訪神なまはげ、湖を穿った龍・八郎太郎、雷とともに天から落ちる雷獣など、雪国の畏れと祈りから生まれた妖が数多く語り継がれてきた。それらは現在の秋田県の妖怪事典に詳しい。同じ出羽国の雪が、南では情けに報いる一人の女に、北では村を巡る神々の群れに結晶した——一つの古国のなかにあるこの分岐こそ、出羽の妖怪文化の豊かさにほかならない。
一つの古国、二つの今
出羽国の妖異と神格は、別々に立っているのではない。蝦夷との境に城柵が築かれ、最も遠い辺地が他界の入口とみなされ、生まれかわりの山に行者が分け入った——この古代以来の「境の風土」から、語らぬ湯殿の権現も、土に還った即身仏も、雪とともに降りる女も、すべて枝分かれしている。境であること、他界に近いこと、雪と山と死がすぐ隣にあること。出羽という国は、その地政そのものが妖怪を生む土壌であった。
明治元年(1868年)、戊辰戦争ののちに出羽国は羽前国と羽後国に二分され、やがて山形県と秋田県という二つの現在へと姿を変えてゆく。だが行政の線引きが変わっても、出羽三山を仰ぎ、鳥海山を一つに拝み、豪雪の冬を耐えてきた人々の他界観は、二県をまたいで一つの根でつながっている。山形の即身仏と雪女郎、秋田のなまはげと八郎太郎——それらを一つの物語として読み解く鍵は、和銅五年にこの北辺へ打ち込まれた、出羽国という古き楔のなかにある。