愛知県の妖怪文化を一本の糸で貫こうとすれば、その糸はおそらく鉄と剣、そして疫病と風に行き着く。尾張と三河という二つの旧国が一つの県に束ねられたこの地は、伊勢湾と三河湾という二つの内海を抱え、古来から海運と鍛冶と信仰が交差する結節点であった。
象徴は熱田神宮に奉斎される草薙剣である。『日本書紀』が伝えるところでは、この剣はスサノオが出雲で八岐大蛇を斬った尾から出た天叢雲剣に由来する[1]。剣を生んだスサノオは、中世には疫病除けの最高神格である牛頭天王と同一視され、その総本社が尾張西部の津島神社に置かれた。剣は鉄であり、鉄を打つ鍛冶の神は隻眼の風神として尾張・伊勢の境に祀られ、暴風を「一目連の神風」と呼ばせた。そして県土の南、三河湾の小島には、夜具という最も卑近な布が人を覆って息を奪うという、近代民俗学だけが拾い上げた素朴な怪が伝わる。
スサノオ・剣・鉄・風・疫 ── 愛知の妖異はこの連環の上に並んでいる。本稿は、津島の疫神王、尾張の隻眼の風神、三河湾の島の布の怪という三つの相を軸に、その背骨にある「剣と鉄、疫と風」の地誌を辿る。
二つの内海が結ぶ国 ── 尾張・三河の地誌
愛知県という行政区画は、明治の廃藩置県を経て尾張国と三河国を一つに束ねたものである。だが二国の素性は対照的だ。西半の尾張は木曽三川 ── 木曽川・長良川・揖斐川 ── が伊勢湾へ注ぐ沖積低地に広がり、水の集まる平野が早くから稲作と商工業を養った。東半の三河は山地が海まで迫り、三河湾という閉ざされた内海に小島と漁村を点在させる。同じ県のなかに、巨大な河口デルタの都市文化と、入り組んだ海岸線の島嶼文化が同居しているのである。
この地形が信仰と妖異の形を分けた。水の集まる尾張西部には、木曽三川の氾濫と夏の疫病に対峙する祈りが堆積し、疫神を川面に流す祭が育った。鉄と火を扱う鍛冶の記憶は伊勢湾の対岸まで連なり、湾を囲む山に隻眼の神を結晶させた。一方、本土から切り離された三河湾の島々では、外界の絵物文化とは無縁の、口頭でだけ伝わる素朴な怪が温存された。二つの内海 ── 伊勢湾と三河湾 ── が水のネットワークでこの二国を結び、それぞれの土地が抱えた不安を、それぞれの妖異の姿に変えたのである。

近世に入ると、尾張の重心は熱田台地の上に築かれた名古屋城下へ移る。慶長十五年(1610)に徳川家康が天下普請で築いた名古屋城は、清須から城下ごと移転する「清須越」を伴い、人と物と信仰を一気に集約した。城の鬼門にあたる方位には寺社が配され、東海道は熱田の宮宿から海上七里の渡しで桑名へ渡った ── つまり多度山と一目連を望む伊勢路の入口が、尾張の南端にあったのである。剣を祀る熱田、疫を祓う津島、風を呼ぶ多度。この三点を結ぶ三角形の内側に、愛知西部の妖異の地理はほぼ収まる。
津島天王 ── 全国三千の天王社を束ねる疫神の都
愛知の妖異を語るうえで避けて通れないのが、尾張西部の低湿地に鎮座する津島神社である。木曽三川が伊勢湾へ注ぐ手前、水の集まるこの土地に、社伝は欽明天皇元年(540)の鎮座を伝え、全国に約三千社あるとされる天王社・津島社の総本社を称する[2]。京都の八坂神社が西日本の祇園信仰の中軸なら、津島神社は東海を中心とする天王信仰の中軸であり、両社はしばしば「西の八坂、東の津島」と並び称される。
ただし、社伝の創建年と史料上の初出は分けて見ておきたい。津島社の確実な初出は承安五年(1175)の『大般若経』奥書に見える「津島社」の記載であり、欽明天皇元年(540)の鎮座は社伝の伝承である[3]。神格の渡来譚も後世の整理を経ている。同社所蔵の天文九年(1540)書写『牛頭天王講式』は、日本に渡った牛頭天王が孝霊天皇の代に対馬から西国へ渡来し、欽明天皇の代に四神相応の霊地として尾張国海部郡門真荘津島に垂迹したと記す[3]。神そのものが海を越えて尾張へ来着したという物語の構図が、津島という水辺の港町にふさわしい。
その主祭神こそ、日本独自の疫神王である。

牛頭天王
日本独自の尊格で、 インド·中国·朝鮮など海外ではその存在は確認されていない。 起源には祇園精舎 (インド) 守護神説·朝鮮半島由来説 (牛頭山·渡来人由来)·素戔嗚との習合説などが並立する。 中世以降は素戔嗚命との同一視が定着し、 『備後国風土記』 逸文の蘇民将来説話 (武塔神=牛頭天王が貧しい蘇民将来兄弟に試され、 茅の輪を授けて疫病から守る譚)の主神として、 疫病退散信仰の最大神格となった。 京都八坂神社 (旧·祇園社、 656 年高麗使伊利之創建説·869 年祇園御霊会開創) を中心に、 祇園祭 (日本三大祭の一·869 年起源)の主神格として広く崇敬された。 明治神仏分離 (1868) により全国の牛頭天王社·天王社·祇園社は強制的に素戔嗚命を主祭神とする神社に改称されたが、 「天王さん」 「祇園さん」 の通称と疫病退散·茅の輪くぐりの民俗は今も続く。
詳しく見る牛頭天王は日本でのみ祀られる尊格で、インド・中国・朝鮮にその存在は確認されていない[4]。起源には祇園精舎の守護神とする仏教由来説、朝鮮半島の牛頭山を経て渡来人がもたらしたとする説などが並立し、決め手はない。だが中世以降、牛頭天王はスサノオと同一視[5]され、その性格は決定的に方向づけられた。出雲で八岐大蛇を斬り、草薙剣を生んだ荒ぶる神は、荒れるがゆえに疫を祓う神でもある。津島神社が後に建速須佐之男命を主祭神として掲げる理由も、この習合の歴史に根がある。
信仰の核となる物語は、津島でも津島の外でも変わらない。『備後国風土記』逸文の蘇民将来説話 ── 旅の途中で宿を乞うた武塔神(=牛頭天王)を、裕福な兄ではなく貧しい蘇民将来が粟飯でもてなし、その礼に「茅の輪を腰につけ、我は蘇民将来の子孫なりと唱えれば疫病を免れる」と教わった譚[6]である。翌日、もてなさなかった一族は疫病で死に絶え、蘇民将来の一族だけが生き残った。茅の輪をくぐり、門に「蘇民将来子孫之門」の護符を貼る民俗は、この一行の説話から全国の天王社へ広がった。津島神社の夏もまた、この疫病退散の祈りに貫かれている。
天王川に浮かぶ五艘の火 ── 尾張津島天王祭
津島の信仰がもっとも劇的に立ち現れるのが、毎年七月第四土曜・日曜に行われる尾張津島天王祭である。約六百年の伝統をもち、現存史料からは十五・十六世紀ごろに始まったと推測される川祭で、昭和五十五年(1980)に「尾張津島天王祭の車楽舟行事」が国の重要無形民俗文化財に指定され、平成二十八年(2016)にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」三十三件の一つに登録された[7]。厳島神社の管絃祭、住吉大社の住吉祭とともに日本三大船祭の一つにも数えられる。
宵祭では、かつて天王川と呼ばれた水面に津島五車のまきわら船 ── 五艘の巻藁船 ── が浮かび、半球状に組まれた提灯およそ五百個に火が入る。水に映る無数の灯りは、夏に荒れ狂う牛頭天王の荒魂を慰め、川へ送り出して疫を祓う所作にほかならない。翌日の朝祭では、市江車楽の舟が能人形を載せて漕ぎ出し、川中から鉾を持った若衆が一斉に飛び込んで対岸の社へ駆け上がる。伝染病の多くが夏に発生することから、酷暑を無事に越すための祈願として祭が営まれてきた[7]という由来は、京都祇園祭が貞観の疫病大流行を起源とするのと同じ論理の上にある。

この祭の本義をもっとも露わにするのが、華やかな船渡御の陰で深夜に営まれる神事である。津島神社では、朝祭の後の深夜、人の罪と穢れを葦の束に封じて川へ流す「神葭流し」(御葭流し)が執り行われる。十四日前の神葭刈場選定神事に始まり、七十五日後の神葭納め神事に至る一連の行事は、疫神を葦に移してこの地から流し去る祓えであり、これこそ天王祭の起源的な核と考えられている[8]。提灯の火船は人目を集める表の祭であり、葦に疫を移して闇の川へ流す神葭流しは、見せるためでなく祓うための裏の祭である。都の祇園御霊会が六十六本の鉾を立てて街路を巡るのに対し、尾張の天王祭は内海へ注ぐ川面に火の船を浮かべ、葦に穢れを乗せて水に託す ── 地形が信仰の形を分けた好例である。
津島の隆盛を後ろから支えたのは戦国の覇者たちだった。隣接する勝幡城に出自をもつ織田氏は津島神社を氏神と仰ぎ、津島湊の経済力を背景に勢力を伸ばした。続く豊臣一門も社領を寄進している。現存する楼門は天正十九年(1591)に豊臣秀吉が寄進したと伝わり、国の重要文化財に指定されている[2]。本殿は慶長十年(1605)、徳川家康の四男・松平忠吉の室である政子の寄進と伝え、こちらも重要文化財である[3]。津島湊の交易と織田・豊臣・松平の信仰が結びつき、東海の天王信仰はこの地から各地へ勧請されていった。
ところが明治を迎えると、この神格は制度の側から大きく揺さぶられる。明治元年(1868)の神仏分離令により、仏教色を帯びた「牛頭天王」の称号は禁じられ、全国の天王社・祇園社は素戔嗚命を主祭神とする神社へと改称された[9]。京都祇園感神院が八坂神社となったように、津島牛頭天王社も社名から牛頭天王の名を外し、建速須佐之男命を主祭神とする津島神社へと改められた。しかし庶民の口は「天王さん」の呼び名を手放さず、茅の輪くぐりも護符も祭も連続した。二〇二〇年以降の疫禍において、人々が再び茅の輪に手を伸ばしたとき、千数百年の記憶を蓄えた疫神王の像が静かに浮かび上がったのである。
尾張の鍛冶と隻眼の風神 ── 一目連
剣を生んだ国は、剣を打つ国でもある。熱田神宮が草薙剣を御神体として祀る尾張は、中世から近世にかけて多くの刀工を抱え、鉄と火を扱う鍛冶の記憶が濃い土地であった。その鍛冶の記憶が、伊勢と尾張の境に一柱の異形の神を結晶させている。

一目連
多度大社別宮・一目連神社に祀られる風の神。古くは片目を失った龍神とされ、のちに鍛冶神・天目一箇神と習合して同一視された。伊勢湾沿岸では風雨を司る神として畏敬され、航海安全や雨乞いの祈願が盛ん。社殿に扉を設けないのは、神が自在に出入りし神威を発揮するためと伝えられる。暴風を起こす力をもつと畏れ敬われた。
詳しく見る一目連は、桑名の多度大社別宮・一目連神社に祀られる片目の風神である。本拠は伊勢国側にあるが、その神威は国境を越え、寺島良安が正徳二年(1712)頃に編んだ『和漢三才図会』は、伊勢・尾張・美濃・飛騨で不時に吹く暴風を「一目連の神風」と称したと記す[10]。多度山から神が社を出て荒ぶると颶風が起こり、樹木を抜き岩を倒すが、ただ一路のみを破らずに吹き抜けるとも伝えられた。一目連神社の社殿に扉が設けられていないのは、神が自在に出入りして神威を発揮するためだという。尾張の農民にとって、突然の暴風はこの隻眼の神の通り道であった。
なぜ片目なのか。ここで風神は鍛冶神と重なる。大同二年(807)に斎部広成が撰した『古語拾遺』は、天岩戸神話において天目一箇神が刀・斧・鉄鐸を作ったと記し、この神を隻眼の鍛冶神とする[11]。隻眼の由来は、鍛冶が炉の鉄の色を片目を細めて見極める所作、あるいは火と鉄を扱う職業が片目を損なう職業病に求められ、天目一箇神は『古事記』の天津麻羅、さらには火を吹く面ひょっとこの原型とも結び付けられる[12]。一目連は後世、この天目一箇神と習合し、風を呼ぶ龍神でありながら鉄を打つ片目の神という、二重の相をもつに至った。

剣の国・尾張において、剣の素材たる鉄を司り、嵐を呼ぶ片目の神が畏れられたのは偶然ではない。熱田の草薙剣・スサノオ・牛頭天王・天目一箇神は、いずれも鉄と火と荒ぶる力をめぐる神格であり、伊勢湾を囲む地形のなかで互いに響き合っている。とりわけ熱田神宮は、八岐大蛇の尾から出現した天叢雲剣を、ヤマトタケルの東征で野焼きを薙ぎ払った故事から「草薙剣」と改めて奉斎する社[1]であり、剣をめぐる記憶が尾張の地霊の核に据えられている。
一目連の「連」の字も示唆的である。連は龍蛇を連ねた姿を思わせ、多度の神は古くから雨を司る龍神として祈られてきた。風を呼ぶ神は雨を呼ぶ神でもあり、嵐の片目神は旱魃の年には恵みの雨を運ぶ存在へと反転する。畏怖と祈願は同じ神格の表裏であった。江戸期には伊勢湾の船乗りが多度山の雲行きや霧を見て天候を読み、海難除けや雨乞いを一目連に祈ったと伝わる。多度大社そのものが「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡われた伊勢信仰の重要な一翼であり、伊勢へ向かう尾張の人々にとって、片目の風神は道中の天候を握る身近な神でもあった。鍛冶場の火と海上の風と田畑の雨が、一柱の隻眼の神のうちで結ばれていたのである。
三河湾の島の怪 ── 佐久島の布団かぶせ
尾張の疫と風から、県土の南、三河湾へ目を移す。知多半島と渥美半島に抱かれた穏やかな内海には、佐久島・篠島・日間賀島という三つの有人島が浮かぶ。佐久島は三河湾のほぼ中央に位置し、西三河・知多半島・渥美半島のいずれからもおよそ十キロ前後という、湾の臍のような場所にある[13]。古来から漁場に恵まれ、伊勢と東国を結ぶ海上交通の要でもあったこれらの島は、本土とは異なる時間の流れを保ってきた。
その歴史は深い。島内には後期古墳を中心とする四十七基の佐久島古墳群があり、昭和四十一年(1966)に発掘された山ノ神塚古墳からは金環や勾玉が出土している[13]。古墳時代にすでに海を介した交流の拠点だったことを物語る遺物である。近世には海運の島として栄えた。江戸期の佐久島は伊勢・志摩と関東を結ぶ航路の要衝で、海路なら最速半日、陸路ならおよそ四日という速度差ゆえに、農業ではなく沿岸海運が島の経済を支えた[13]。なかでも最大の有人島・佐久島には、近代民俗学だけが拾い上げた一つの素朴な怪が伝わっている。

布団かぶせ
布団かぶせ(ふとんかぶせ)は、愛知県三河湾佐久島に伝わる夜具の怪である。何の前触れもなく寝床にふわりと布団が飛来し、人の上に被さって息を詰まらせるとされる。出現の時刻や場所、退治法の細部は古い記録に明記されておらず、佐渡の衾や鹿児島の一反木綿と同じく、夜具・布類が人を覆って窒息させるという骨格のみが短い民俗報告として伝わる。一次典拠は瀬川清子 (1895-1984) が三河湾の漁村を調査した採集ノートで、柳田國男編『海村生活の研究』(1949) に収められた一行ほどの記述に尽きる。江戸期の絵巻・絵本類にも、近世の地誌類にも姿が見えない、近代沿岸民俗学が拾い上げた地方の怪である。在地の漁業集落で語られた素朴な伝承であり、後世の妖怪事典がこれを「夜具系の怪」として枠付けたことで、衾・一反木綿と並ぶ類例として位置を得るに至った。
詳しく見る布団かぶせは、何の前触れもなく寝床にふわりと布団が飛来し、人の上に覆いかぶさって息を詰まらせるという夜具の怪である。注目すべきは、その典拠の細さだ。この怪の古い記録は、民俗学者・瀬川清子の三河湾佐久島調査ノートが、柳田國男編『海村生活の研究』(日本民俗學會、1949)に組み込まれた経路でのみ知られ、原文は「ふわっと来てスッと被せて窒息させる」程度の一行ほどの採集メモに尽きる[14]。出現の時刻も退治法も遭遇者の証言も記録に残っていない。瀬川清子は柳田國男に評価されて研究会に招かれ、その民俗学研究所で初の女性所員となった人物であり、全国の漁村調査の只中でこの島の一行を書き留めた。
ここで事実と脚色をはっきり分けておきたい。現代の妖怪事典やウェブ図鑑が「軽い布団が突如重くなる」「夜道で覆いかぶさる」などと詳しく描写するのは、後世の脚色を含むとみるべきで、原典の素朴さに立ち戻る視点が要る。布団かぶせは、江戸期の絵巻・絵本にも近世の地誌にも姿を現さない。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』にも存在しない。これは新潟県佐渡島の衾、鹿児島県大隅の一反木綿と同じで、夜具・布類の怪が江戸の絵物妖怪の系譜ではなく、近代民俗学が地方の口頭伝承から拾い上げた領域に属することを示している。
その兄弟たちと並べてみると、形態の差が際立つ。
衾は風呂敷状の白布、一反木綿は反物状の細長い白布、布団かぶせは布団状 ── 地理的に遠く離れた島嶼や沿岸で、ほぼ同じ骨格をもつ怪が独立に発生している。今野円輔『日本怪談集妖怪篇』(1981)は、これらを野衾と並べて「頭上の怪」として整理した。海に閉ざされた漁村の夜の不安 ── 突然の窒息感、金縛り、悪夢 ── を、最も身近な夜具という器物に重ねて語った民俗的な説明装置として読むこともできる。記録が一行に過ぎないことが、逆にこの怪のキャラクター化を妨げ、近代の採集記録の純度を保ったまま現代へ届かせた。

なぜ三河湾の島でこの怪が生まれたのか。手がかりは島の暮らしそのものにある。閉ざされた内海の漁村では、夜の海から戻った漁師が狭い寝間で疲れ果てて眠る。湿った海風、低い天井、軋む板戸 ── そうした生活の手触りのなかで、寝入りばなの息苦しさや金縛りは「何かが布団ごと覆いかぶさってきた」という説明を呼び寄せる。布団かぶせは、外から来る化け物というより、寝床という最も安全なはずの場所が突如反転して人を襲う、内側からの不安の形象化であった。本土の都市が河童や天狗のような輪郭のはっきりした妖怪を描いたのに対し、島はもっとも卑近な夜具にこそ怪を見たのである。
その記録の希少さは、島の運命とも重なる。佐久島の人口は昭和二十二年(1947)に千六百三十四人を数えたが、平成二十二年(2010)には二百七十一人、令和二年(2020)には百九十六人にまで減り、住民のおよそ五割を高齢者が占める[13]。海に閉ざされた小さな漁村が、瀬川のノート以外にはほとんど記録を残さなかったこの怪を、過疎の進むいまも静かに伝えている。一九九〇年代以降は現代アートによる島おこしが進み、訪れる者の目には穏やかな芸術の島と映るが、その夜具の下には一行の採集メモだけが息づいている。
結び ── 二つの内海と一本の連環
愛知の妖怪文化は、尾張と三河という来歴の異なる二国を、伊勢湾と三河湾という二つの内海が水のネットワークで結んだところに育った。津島の牛頭天王は、剣を生んだスサノオが疫を祓う神へと転じた習合の頂点であり、その荒魂を川面の火で慰め、葦に穢れを移して流す天王祭は、地形が信仰の形を決めた証である。尾張の一目連は、剣の素材たる鉄を打つ隻眼の鍛冶神が風を呼ぶ龍神と結ばれた、火と風の神格であった。そして三河湾の佐久島の布団かぶせは、神話格の神々とは対照的に、一行の採集メモのなかにだけ生き残った無名の島の怪である。
三者を貫くのは、自然の脅威を神格や怪異に翻訳して飼いならそうとする民の知恵である。夏の疫病は牛頭天王の荒魂となり、葦に移して川へ流せば祓える。突然の暴風は一目連の通り道となり、扉なき社に祀れば畏れと祈りの対象になる。寝床の息苦しさは布団かぶせとなり、語り継ぐことで名を与えられる。形のない不安に名前と物語を与えること ── それが愛知の二つの内海が育てた妖怪文化の本質であった。
神話の最高位から無記名の島の夜具まで ── 愛知の妖異は、剣と鉄、疫と風という連環の上に、振れ幅の大きな姿で並んでいる。津島神社の茅の輪、多度山の暴風、佐久島の寝床。どれもこの地を歩けば今も辿れる場所であり、土地の記憶が妖異の形をとって残っている。

