伊勢神宮は、日本人にとって特別な社である。天皇が祈り、年間数百万の人が訪れ、二十年に一度すべての社殿が建て替えられる ── 日本の神々の頂点に立つ聖地。だが妖怪事典という視点から眺めると、伊勢は奇妙なほど「空白」の地に見える。これほどの大社でありながら、ここに伝わるのは天照大御神ただ一柱。鬼も、化け物も、夜の怪も、ほとんど語られない。
なぜ、日本最大の聖地に妖怪がいないのか。本稿はこの逆説から出発し、伊勢が魔も穢れも寄せつけぬ「清浄」をどう保ってきたか、そしてその聖性に庶民がいかに熱狂したかをたどる。
天照大御神の宮 ── 神々の中心
伊勢神宮の中心は、五十鈴川のほとりに鎮まる内宮(皇大神宮)である。祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)[1]── 高天原を統べる太陽の神にして、皇室の祖神とされる、日本神話の最高神である。

天照大御神
天照大御神(Amaterasu)是《古事记》(712年)与《日本书纪》(720年)中登场的太阳女神,也是父亲伊邪那岐命在阿波岐原洗涤黄泉国污秽时,从左眼诞生的三贵子之长女。《古事记》中标记为“天照大御神·天照大神”,《日本书纪》中则称为“日神·大日孁贵·天照大神”,伊势神宫的神职人员在神前诵读的神名为“天照坐皇大御神”。她受父亲之命统治高天原,后因弟弟素戔呜尊在高天原的暴行而震怒,隐没于天岩屋中,给世界带来了无尽的黑暗。这一“天岩户隐退”传说是日本神话中最宏大的篇章之一。在八百万神明的智慧与歌舞的诱导下,她从岩户中重新现身,随后将三神器(八咫镜、八尺琼勾玉、草薙剑)授予孙子琼琼杵尊,命其降临苇原中国(天孙降临),从而成为神武天皇及历代天皇皇统的祖神。她以伊势神宫内宫(皇大神宫)为主要镇座地,自古至今作为日本的最高神格受到崇敬。
查看详情天照大御神をめぐる神話のうち、最もよく知られるのが天岩戸の挿話である。弟・須佐之男命の乱暴に心を痛めた天照大御神が天岩戸に隠れると、世界は闇に包まれた。困り果てた神々は岩戸の前で祭りを催し、天宇受売命の舞に誘われて天照がわずかに顔をのぞかせた瞬間、ふたたび世に光が戻ったという。太陽の神の隠れと再生を語るこの神話は、闇に対する光、穢れに対する清浄という、のちの伊勢信仰の核にある主題を、すでに先取りしている。
伊勢神宮は内宮だけではない。衣食住を司る豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る外宮(豊受大神宮)[1]を擁し、両正宮を中心に、別宮・摂社・末社あわせて百二十五の社からなる広大な宮域を形づくる。月の神・月読命を祀る月読宮もまた、内宮の別宮の一つである。伊勢はいわば、神々が整然と配置された一つの宇宙であった。
倭姫命、
神の鎮まる地を求めて
天照大御神は、はじめから伊勢にいたわけではない。社伝によれば、もとは宮中に祀られていた神を、ふさわしい鎮座の地を求めて各地へ遷したという。その旅を担ったのが、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)である。倭姫命は天照大御神の神魂を鎮める地を求めて諸国を巡行し、垂仁天皇の代に伊勢へ至って鎮座させた[1]と伝わる。
この巡行の途上で神が仮に祀られた各地は、のちに「元伊勢」と呼ばれ、今も全国に点在する。神がさまよい、土地を選び、ようやく落ち着いた ── その終着点が、五十鈴川の清流のほとりであった。なぜ伊勢だったのか。清らかな川が流れ、海と山に守られたこの地が、神の鎮まる「清浄」の条件を満たしていたからだと語られる。
道を照らす神 ── 猿田彦
伊勢の地には、天照大御神を迎える以前から鎮まっていた神がいる。猿田彦(さるたひこ)[2]── 天孫降臨のとき、天から降る瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した、国つ神にして「導きの神」である。
猿田彦は、役目を終えたのち伊勢の五十鈴川の川上に鎮まったと伝わり、伊勢市宇治浦田の猿田彦神社を本拠とする[2]。鼻が長く、背が高く、目が赤く輝くというその異形の姿は、のちの天狗の原型の一つ[2]とも言われる。神域の入口で道を照らし、邪なものを退ける ── 猿田彦は、伊勢という聖域を守る門番のような存在でもあった。導きの神が地を清め、太陽の神がそこに鎮まる。伊勢の聖性は、こうした神々の重なりの上に成り立っている。
二十年に一度、
宮は若返る
伊勢の清浄を支えるのは、神話だけではない。世界にも類を見ない、徹底した「更新」の仕組みがある ── 式年遷宮である。
式年遷宮は、原則として二十年ごとに、内宮・外宮の正殿をはじめ諸社殿を新たに建て替える制度で、持統天皇四年(六九〇)に第一回が行われた[1]。隣り合う敷地に寸分たがわぬ社殿を建て、神を遷し、古い社殿は解く。千三百年にわたり、伊勢は二十年ごとに姿を新しくしつづけてきた。古びることなく、つねに若々しくあること ──「常若(とこわか)」と呼ばれるこの思想は、穢れや老いを溜めこまず、絶えず清浄を更新する装置にほかならない。
清浄を守る仕組みは、ほかにもあった。古代の伊勢では天皇以外が幣帛を捧げることを禁じる「私幣禁断」[1]が厳格に守られ、たやすく人の願いを受けつけぬ聖域として隔てられていた。参拝者は五十鈴川の流れで手を清め、身を浄めてから神前に進む。穢れを断ち、魔を寄せつけぬ ── 伊勢が妖怪の棲まぬ地であったのは、偶然ではなく、幾重もの仕組みによって清浄が守られてきた結果だったのである。
お蔭参りの熱狂 ── 犬さえ伊勢を目指した
隔てられた聖域も、時代がくだると庶民に開かれていく。中世以降、御師(おんし)と呼ばれる神職が全国を回って伊勢信仰を広め、江戸時代には「一生に一度は伊勢へ」が庶民の願いとなった。
そして、ときに熱狂が爆発した。お蔭参り[3]である。およそ六十年の周期で、伊勢神宮へ向かう爆発的な集団参拝が起こり、明和八年(一七七一)には二百万人規模に達した[3]という。さらに古くは宝永二年(一七〇五)にも三百三十万から三百七十万人規模のお蔭参りが起きた[3]と伝わる。異なる地方、異なる身分の人々が、伊勢へ向かう道中で同じ体験を分かちあう ── お蔭参りは、藩や階級の壁を越えて「日本人」という共通の感覚を育てる場でもあった、と指摘される。さらに驚くべきは、奉公人や子供が主人や親に無断で参拝に出る「抜け参り」が、社会から黙認され、むしろ賞賛された[3]ことである。伊勢へ向かうことは、日常の主従や親子の秩序すら一時的に超える、聖なる行いとされた。
極めつきは「お蔭犬」だ。飼い主の代わりに、犬が伊勢参りをしたという ── 首にしめ縄や銭をつけられた犬が、道中の人々に世話されながら伊勢を目指し、無事に帰ってきた[3]という記録が残る。人も、子も、犬さえも伊勢を目指した。妖怪を寄せつけぬ清浄の宮は、その清らかさゆえに、これほどの信仰を惹きつけたのである。
妖怪の棲まぬ聖域
なぜ、日本最大の聖地に妖怪がいないのか。
答えは、伊勢が「妖怪を必要としない場所」だったからである。妖怪とは多くの場合、境界や闇、穢れや祟りの生まれるところに立ち現れる。だが伊勢は、式年遷宮で絶えず若返り、五十鈴川の流れで穢れを洗い、私幣禁断で雑多な願いを退けてきた。魔の入りこむ隙そのものを、幾重もの仕組みで塞ぎつづけた地である。妖怪が棲まないのは、伊勢の貧しさではなく、その聖性の極限を示している。
同じ三重の地でも、鈴鹿の峠には鬼が現れ、海辺には海の怪が語られる。聖と怪は、一つの国のなかで背中合わせに息づいている。三重県全体の妖怪文化については、三重県の妖怪事典も併せて読まれたい。神の宮と鬼の峠 ── その対照のなかにこそ、伊勢の聖性は際立つのである。
