茨城県鹿嶋市、常陸国の一宮として東国に重きをなす鹿島神宮(かしまじんぐう)。全国に数ある鹿島神社の総本社であり、武の神を祀る古社として知られる。
だがこの神宮の名を、武勇とはまた別のかたちで全国に知らしめているものがある ── 境内の一角に頭を出す、小さな霊石「要石(かなめいし)」である。地中深くに横たわる巨大な大鯰(おおなまず)を、この石が抑えこみ、地震を鎮めている ── そう信じられてきたのである。本稿は、武神と要石の社·鹿島神宮の信仰をたどる。
東国の大社、
鹿島神宮
鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市宮中に鎮座する常陸国一宮で、全国の鹿島神社の総本社である。主祭神は、武神·軍神として名高い武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)[1]。神武天皇の東征を助けたとされる霊剣の神でもあり、古来、朝廷や武家から篤い崇敬を受けてきた。「神宮」の称号は、古代には伊勢·鹿島·香取の三社にのみ許された格別のものであった。利根川をはさんで相対する香取神宮とともに、鹿島神宮は東国の守りの要とされ、ヤマト王権の東方経営の拠点でもあった。
また鹿島神宮は、鹿を神使とすることでも知られ、境内では今も三十数頭の日本鹿が飼われている[1]。奈良の春日大社が、この鹿島の神を勧請して創建され、その際に神が白鹿に乗って旅したという伝承から、鹿が神の使いとされるようになった。東国の地にあって、国家鎮護の武神を祀る ── それが、鹿島神宮の本来の姿であった。
武神·武甕槌大神
鹿島神宮の主祭神·武甕槌大神は、日本神話のなかでも屈指の武勇を誇る神である。

建御雷神
建御雷神是《古事记》和《日本书纪》中登场的雷、剑、武之神格。其父伊邪那岐命用十拳剑斩杀火神迦具土时,剑根部的鲜血飞溅到岩石上,由此诞生了三柱神,建御雷神便是其中之一。《古事记》中记为“建御雷之男神·建御雷神·建布都神·丰布都神”,《日本书纪》中记为“武瓮槌神·武瓮雷神”。作为让国神话的主角,他与经津主神从高天原降临出云国伊那佐之小滨,与大国主神的次子建御名方神进行角力,将手化为冰柱和利剑,一把捏碎建御名方的手,将其一路追击至信浓国诹访。这场角力被视为日本相扑的起源。在神武东征(古代天皇建国神话)中,建御雷神之剑·韴灵(又名布都御魂)通过高仓下献给神武天皇,成为平定熊野恶神的重要神器。此剑作为奈良县石上神宫的神体,至今仍被供奉。建御雷神作为鹿岛神宫(茨城县鹿嶋市)的主祭神,自古受到崇敬;中臣氏(藤原氏)自古将其作为氏神信仰,平城京迁都(710年)后,将鹿岛神劝请至春日大社(768年)作为藤原氏氏神。作为武家、武道、相扑、剑道及镇压地震(鲶绘的要石信仰)的守护神,从古代到现代一直受到深厚的崇敬。
查看详情武甕槌大神は、葦原中国平定(国譲り)の神話において、経津主神(ふつぬしのかみ)とともに出雲へ遣わされ、大国主神に国譲りを迫る大役を果たした[1]。このとき、抵抗する建御名方神(たけみなかたのかみ)と力比べをして打ち負かした逸話は、相撲の起源の一つともいわれる。武甕槌大神はまた、刀剣の威力を神格化した神でもある。神武天皇が東征の途上、熊野で危機に陥ったとき、この神が霊剣·韴霊(ふつのみたま)を授けて窮地を救ったと『古事記』は伝える。国譲りの神話は、神々の天上界高天原から地上へと連なる、壮大な物語の一部をなしている。武をもって国を平定したこの神話ゆえに、武甕槌大神は武人たちの守護神とされ、旅立ちにあたって武運を祈る「鹿島立ち(かしまだち)」という言葉も生まれた。東国から防人(さきもり)として遠く九州の守りへ赴く兵士たちが、旅の無事をこの神に祈ったことが、その語源の一つともいわれている。
地中の大鯰
鹿島神宮のもう一つの顔 ── それが、地震を鎮める神としての信仰である。その根底にあるのが、地中に棲む巨大な鯰の伝説である。

大鲶
传说中潜伏地底的巨大鲶鱼,每当它扭动身躯便引发地震。早期民间多以地底的龙蛇为致震之因,到江户时期逐渐转为鲶鱼之说。人们相信鹿岛、香取两社的“要石”镇压其动。安政大地震后,大量“鲶绘”版画流行,既作镇震护符,也被视为世道更新的象征。
查看详情古来、日本では、地震は地中に棲む巨大な鯰が暴れることで起こると信じられてきた。日本列島の下には、途方もなく大きな大鯰が横たわっており、それが身をよじるたびに、大地が激しく揺れる ── 地震という、人の力ではどうにもならぬ天災を、人々はこの大鯰の姿に重ねて思い描いたのである。もっとも、鯰が地震を起こすという観念が広く定着したのは、おおむね中世以降のことと考えられている。それ以前は、地中の竜や、大地を支える存在が動くために地が揺れる、などとも語られた。やがて鯰のイメージが定着し、地震といえば鯰、という結びつきが、人々のあいだに深く根を下ろしていった。そして、その大鯰を抑えこむ役目を担うとされたのが、鹿島の神であった。
要石、
大鯰を抑える
要石は、地表にはわずかな頭を出すばかりだが、その地中の部分は計り知れぬほど大きいとされる。寛文4年(1664年)、水戸藩主·徳川光圀(みつくに)が要石の正体を確かめようと、七日七晩にわたって掘らせたが、ついにその底には達しなかったと伝わる[2]。地上に出た要石は、鹿島のものは中央がくぼんだ凹型、香取のものは凸型をなすとも伝えられ、両者あわせて、地中の大鯰の頭と尾を貫いているとされた。小さな石が、地の底で巨大な鯰を押さえつけている ── このイメージは、人知を超えた天災を、神の力が辛うじて封じているという、人々の畏れと祈りの形そのものであった。
鯰絵の流行
地中の大鯰と要石の信仰が、一気に全国へと広まる契機となったのが、幕末の大地震である。
鯰絵には、暴れる大鯰を、鹿島の神や要石が懲らしめる様子が、しばしばユーモラスに描かれた。なかには、地震で焼け出された人々と鯰のやりとりを通じて、世の不公平を風刺する「世直し」の願いを込めたものもあった。災害の恐怖と、それを乗り越えようとする庶民のたくましさが、一枚の絵のなかに同居していたのである。鯰絵は、地震からわずか数か月のあいだに、数百種も刷られたといわれる。鯰を懲らしめる絵があるかと思えば、復興景気に沸く職人たちが、むしろ鯰を拝む絵さえあった。
要石、
今も
地震という、いつ襲うとも知れぬ災いを、地中の大鯰の仕業と見立て、その頭を一つの石が抑えている ── 鹿島神宮の要石信仰は、自然の猛威に対する、日本人ならではの向き合い方を映し出している。
地震列島に生きる人々にとって、要石は、目に見えぬ脅威を鎮める、心のよりどころであった。今日も鹿島神宮の境内には、その小さな要石が静かに頭をのぞかせ、武神の杜には神使の鹿が遊ぶ。武をもって国を鎮め、石をもって地を鎮める ── 東国の大社·鹿島神宮は、二重の意味で「鎮めの社」でありつづけている。茨城の妖怪と信仰の全体像は茨城県の妖怪事典も参照されたい。
