建御名方・洩矢神・ミシャグジ・甲賀三郎。敗者の神がたどり着いた聖地

国譲りに敗れた神の湖。諏訪大社と諏訪信仰の古層

諏訪大社·すわたいしゃ
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諏訪湖は、八ヶ岳のふもとに沈む信濃のへそである。その南北の岸に分かれて鎮座するのが、信濃国一之宮・諏訪大社 ── 上社本宮と前宮、下社秋宮と春宮、あわせて四宮からなる、列島でも屈指の古社である。だがこの社の何より特異なのは、本宮・春宮・秋宮のいずれもが本殿をもたず、上社は背後の守屋山を、下社はイチイや杉の神木を神体として拝む、社殿以前のかたちを今に残している点だ。

ここは、国譲り神話に敗れた神が逃れ着いた湖である。中央の物語で討たれた神が、この地でこそ最強の軍神に転じ、その神が来るより前から土地を押さえていた先住の神は、敗れてなお祭りの実権を握りつづけた。石や木に降りる名もなき精霊が信仰の底に沈み、地の底をめぐって蛇となった男が大明神に押し上げられる ── 諏訪大社とは、勝者ではなく敗者と古層の神々が幾重にも積み重なった、稀有な信仰の地層である。この聖地に密着して、諏訪を貫く神々の物語をたどっていきたい。山国・信濃全体の妖怪文化については長野県の妖怪事典を併せて読んでほしい。

国譲りに敗れた神の行き着いた湖

諏訪大社の主祭神は、国譲りに敗れて諏訪へ落ちのびた神である。

建御名方神

たけみなかたのかみ

建御名方神(たけみなかたのかみ)は、日本神話に登場する強力な神であり、長野県の諏訪大社を総本社とする「諏訪信仰」の中心的な祭神(諏訪大明神)です。『古事記』の「国譲り」の神話においては、大国主神(おおくにぬしのかみ)の御子神として登場します。高天原からの使者である建御雷神(たけみかずちのかみ)に対して力競べを挑みますが敗北し、科野国(信濃国)の洲羽海(諏訪湖)まで追いつめられ、この地から一歩も出ないことを条件に降伏しました。神話の中では「敗北した悲劇の神」として描かれますが、その後の諏訪の地においては土着の神々を平定し、開拓を進めた「剛力無双の武神・軍神」として崇敬を集めます。さらには狩猟、農業、風雨を司る龍神としての性格も併せ持ち、中世の武家社会から現代の御柱祭(おんばしらさい)に至るまで、極めて独自性の強い、熱狂的な信仰を全国規模で集め続けている神格です。

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『古事記』の国譲り段で、大国主の子・建御名方神(たけみなかたのかみ)は、天つ神の使者である建御雷神(たけみかづち)に力くらべを挑む。だが建御雷の手は氷柱と化し、剣の刃と化して、逆に建御名方の手を葦のように握りつぶした。敗れた神は科野国の州羽海(すわのうみ=諏訪湖)まで追いつめられ、「この地から出ぬ」と誓って降伏したという。中央神話における明白な「敗者」である。

ところが諏訪では、この敗者が一変する。風と水をつかさどる軍神・諏訪明神として、平安後期には伊勢・香取と並ぶ武神にまで押し上げられ、坂上田村麻呂・源頼朝・武田信玄ら名だたる武将の戦勝祈願を受けた。最後まで抗戦した剛力と、土着の自然神としての猛々しさが、武士の精神に深く響いたのである。敗れて辺境に封じられた神が、その地でこそ最強の戦神に転じる ── この反転こそ、諏訪信仰の入口だ。

諏訪大社が他社と決定的に異なるのは、その構えである。上社は諏訪湖の南、下社は北に分かれ、湖をはさんで対をなす。本宮は背後の守屋山を、下社秋宮はイチイの古木を、春宮は杉の古木を神体とし、本殿をもたない「諏訪造り」── ただ上社前宮にのみ本殿がある。湖そのものを神域とし、山と木を拝むこの古いかたちが、社の年代の深さを物語る。

そしてこの神は、冬の諏訪湖の上を歩く。厳寒に湖面が凍ると、氷が轟音とともにせり上がり、一本の道筋となる御神渡り(おみわたり)── これは、上社の男神・建御名方神が、下社に鎮まる后神・八坂刀売神(やさかとめのかみ)のもとへ通った跡だと、諏訪の人々は信じてきた。上社のほとりの八剣神社(やつるぎじんじゃ)では、毎冬その出現を見守り、亀裂の方角からその年の作柄や世相を占う神事を続けている。文安二年(一四四五年)以来、五百八十年あまりにわたって記録が積み重ねられ、いまや気候変動の生きた証言ともなっている。湖を渡る神という物語そのものが、諏訪湖を神域とするこの社ならではの想像力である。

先住神モリヤとの戦い

だが建御名方が来るより前から、諏訪には土地の神がいた。

洩矢神

もりやのかみ

洩矢神(もりやのかみ)は、諏訪地方に伝わる先住神・地主神である。諏訪大社の祭神である建御名方神が諏訪へ入る以前から土地を押さえていた神として語られ、現在の岡谷市川岸東に鎮座する洩矢神社では、建御名方神と藤島社で対峙し、のちに和解して諏訪上社の神長官として諏訪神社に尽力した神と説明される。諏訪大社公式の歴史説明では、建御名方神は国譲りに反対した後、出雲から諏訪へ移り信濃国を築き治めた神とされるため、洩矢神はその「到来する諏訪明神」に対して、土地側の記憶を担う神として位置づけられる。

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中世の縁起『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』(一三五六年)は、諏訪へ侵入しようとする明神に、先住の神・洩矢神(もりやのかみ)が立ちはだかったと伝える。洩矢神は鉄の輪(鉄輪)を執り、建御名方は藤の枝をとって争い、ついに洩矢が敗れたという。鉄を手にした土着の神が、藤蔓の神に屈する ── この一戦は、外から来た新しい神が古い土地の神を平定した記憶を、神話のかたちで刻んだものだろう。

注意すべきは、洩矢神を蘇我氏と争った物部守屋と混同しないことだ。両者は名が通じるだけの別の存在であり、洩矢神はあくまで諏訪の地主神・祭祀神である。

そして諏訪の真の特異さは、ここからだ。洩矢神は敗れはしたが、消されはしなかった。その後裔を称する守矢(もりや)氏は、明治にいたるまで、実に約七十八代にわたって上社の神長官(じんちょうかん)── 祭祀の実務をつかさどる最高位の神官 ── を世襲しつづけた。勝った神を祀る役を、負けた神の一族が握る。諏訪とは、敗者の血脈が祭りの中枢に座りつづけた、稀有な土地なのである。

両神が争った地は天竜川をはさんで対峙したと伝わり、岡谷市川岸には、建御名方を祀る藤島社と、洩矢神を祀る洩矢神社とが、いまも分かれて残る。茅野市の神長官守矢史料館には、その守矢家に伝来した古文書群が納められ、勝った神と負けた神が同じ祭祀圏で並び祀られるという、諏訪独特の重層を今に伝えている。

ミシャグジ ── 諏訪信仰の古層

その守矢氏があやつったのが、諏訪信仰の最も深い層に沈む精霊である。

御左口神

みしゃぐじ

御左口神(みしゃぐじ)は、諏訪地方を中心に伝わる土着神・依代神である。人格をもった一柱の神というより、石・木・柱・境界・土地そのものに降りる神霊として語られ、諏訪大社上社の祭祀や守矢氏の神事体系と深く結びついてきた。建御名方神を中心とする諏訪明神信仰の背後には、こうしたミシャグジ信仰を古層として見る研究があり、御左口神は「諏訪信仰の底に沈む神」として重要である。

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御左口神(ミシャグジ)は、人格をもった一柱の神というより、石・木・柱・境界・土地そのものに降りる神霊として語られてきた。姿は固定されず、特定の像をもたず、依代に「降ろされる」ことではじめて現れる── そういう神である。神長官守矢氏は、このミシャグジを童子に降ろし、その子を「大祝(おおほうり)」── 神そのものの依代となる現人神(あらひとがみ)── に仕立てた。

幼い大祝は、即位の儀によって生き神となり、生身のままで諏訪明神そのものとして遇された。上社大祝の職は諏方(すわ)氏が世襲し、神官でありながら神そのものとして崇められた。神が人の姿を借りて地上にあらわれるというこの観念は、まれびと信仰にも通じ、諏訪が神と人との境を限りなく薄くしてきた土地であることを示している。

この古層をいまも露わにするのが、諏訪の動物供犠である。上社の御頭祭(おんとうさい)では、かつて鹿の頭を七十五も供えた(いまは剥製の数頭に縮小されている)。その中には必ず耳の裂けた「高野の耳裂け鹿」が混じるとされ、諏訪七不思議のひとつに数えられた。江戸後期に諏訪を旅した記録者・菅江真澄(すがえますみ)は、この御頭祭に並ぶ鹿の頭の異様をスケッチに残し、それが今日、神長官守矢史料館の展示の根拠となっている。元旦の蛙狩神事(かわずがりしんじ)で蛙を射て供えるのも、動物供犠の古いかたちを今に伝える。

仏教が殺生を忌んだ時代にあって、狩猟の神に獣の首を捧げつづけた諏訪は、際立って異質だった。諏訪信仰には「慈悲と殺生は両立する」という独自の思想があり、「鹿食免(かじきめん)」という護符を授かれば、神の許しのもとで狩猟と肉食が認められた。厳しい山国に生きる人々にとって、諏訪明神は仏教の教条主義から現実の暮らしを守る、生々しい生命の神だったのである。なお、ミシャグジを縄文以来の自然霊の名残とみる説(柳田國男の塞の神論、中沢新一の宿神論)は魅力的だが、これらは近代以降の解釈であって、確かなのは「守矢氏がこの精霊を降ろす祭祀を握っていた」という一点である。

甲賀三郎の地底巡り

諏訪の神は、湖から、山から、そして地の底からも来る。

甲賀三郎

こうがさぶろう

甲賀三郎(こうがさぶろう)は、中世説話『神道集』「諏訪縁起の事」系に現れる、地底巡りと蛇身化の主人公である。近江国甲賀郡の有力者の三男として語られ、信濃国の蓼科山の穴へ妻の春日姫を探しに入り、兄の嫉妬によって地底に閉じ込められる。地下の異郷を長く巡った末に地上へ戻るが、その身は蛇、あるいは龍の姿へ変じており、やがて諏訪上社の明神へ結びつけられる。甲賀三郎は、古事記の建御名方神とは別系統の中世諏訪縁起が生んだ「武士が蛇体を経て神へ至る」物語型として見るのがよい。

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室町期の説話集『神道集』の「諏方縁起事」によれば、近江・甲賀の三郎は、さらわれた妻・春日姫(かすがひめ)を求めて信濃・蓼科山の人穴へ下り、地上で綱を引く約束をした兄の裏切りによって地底に取り残された。地の底には七十あまりの国々が連なっていた。三郎はその一つ一つをさまよい歩き、やがて維縵国(ゆいまんこく)にたどり着いて、そこで十三年あまりを過ごす。

ようやく地上へ還り出たとき、長い地底のくらしのために、その身はすでに鱗におおわれた大蛇に変じていた。やがて僧の教えで人の姿を取り戻した三郎は諏訪上社の大明神となり、妻の春日姫は下社の神になったという[13]。地の底をめぐって蛇となり、神に至る ── この物語は、建御名方とは別系統の中世諏訪縁起が生んだ「武士が蛇体を経て神へ至る」という型であり、諏訪の龍蛇神信仰と分かちがたく結びついている。

御代田町の真楽寺には、いまも「甲賀三郎が出ずる池」が伝わり、近世にはこの物語が『甲賀三郎窟物語』として浄瑠璃化されて、諏訪の神話だけでなく甲賀・伊賀・芸能の領域へも広がった。湖の神・山の神・地底の蛇 ── 諏訪明神は、いくつもの異なる物語の到達点として、重層的に語り継がれてきたのである。

御柱と狩りの祭

諏訪の信仰は、文献の中だけでなく、いまも祭りのかたちで地上に立ちあがる。

数えで七年に一度、寅と申の年に、モミの巨木を山から曳き出し、急斜面を人ごと滑り落とす御柱祭(おんばしらさい)── 正式には「式年造営御柱大祭」という、諏訪大社最大の神事である。一本数トンから十数トンにおよぶ柱を、人の力だけで山から里へ曳き下ろす「山出し」、急坂を一気に下る「木落し」、そして上社・下社それぞれの四隅に四本ずつ、計十六本の柱を建てる「建御柱(たておんばしら)」── この一連の神事は、死者を出すこともあるほど激しく、それでも諏訪六市町村の氏子が総出で、絶やさず繰り返してきた。

その歴史は古い。先の『諏方大明神画詞』には、寅・申の年の造営が桓武天皇の御代に始まったと記され、平安初期にはすでにこの式年の祭礼が行われていたことがうかがえる。柱に神を降ろし、その木とともに山から里へ神を迎えるという、古い樹木信仰がそのまま祭になったものだ。本殿をもたず、山と木を神体とする諏訪大社にとって、巨木を立てる御柱は、社殿に代わる神の依代そのものなのである。

こうして見てくると、諏訪大社の神々にはひとつの通奏低音があることに気づく。敗れた者、抗った者、地に堕ちた者が、消し去られるのではなく、神として、この湖のほとりに祀られ語り継がれてゆくのである。国譲りに敗れた建御名方も、鉄輪を執って抗い敗れた洩矢神も、石木に降りて姿を定めぬミシャグジも、地底をめぐって蛇となった甲賀三郎も ── 勝者の物語ではなく、敗者と古層の神々こそが、この聖地の想像力の核にある。

諏訪大社とは、新しい神が来ても古い神を消さず、敗れた神も土地の神も、同じ湖をはさんで祀りつづけてきた地である。湖を渡る男神、鉄を執った先住神、石木に宿る精霊、蛇身の大明神 ── そのどれもが、諏訪という土地の記憶そのものなのだ。山国・信濃の妖怪文化の全体像は長野県の妖怪事典に詳しい。

諏訪大社の妖怪一覧4

諏訪大社ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

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