下総国(しもうさのくに)は、坂東のなかでも古代国家の記憶が最も濃く刻まれた地である。利根川と江戸川に縁取られた低湿の平野は、今日の千葉県北部を中心に、茨城県南西部、さらに東京都東部の一角にまで及んだ。律令以前、この地には印波(いには)・下海上(しもつうなかみ)・千葉の国造が置かれ、応神朝にその祖が定められたと伝わる[1]。やがて令制国として「大国(たいこく)」に列せられ、国府は現在の市川市国府台(こうのだい)に営まれた。
下総を貫く一本の軸は、「東国の辺境(フロンティア)」という位相である。北の蝦夷(えみし)へ向かう大和王権の前進基地として、香取の地には武の神・経津主神(ふつぬしのかみ)が祀られた。その同じ坂東の地に、十世紀、新皇を称して討たれた平将門が現れる。香取の武神が国家の東漸を担う神であったなら、将門は国家に叛いて敗れた怨霊であった ── 服従と反逆、この二つの記憶が下総という土地の地霊を形づくっている。
本稿は下総国の妖怪文化を、古代国家の辺境という視座から辿る。香取の経津主神という武神の記憶、相馬御厨を本拠とした将門の怨霊、そして水郷の闇に化けるムジナと、家の罪から生まれた二口女 ── 怨霊・化獣・人妖の三層を、令制国の地理に縫い直してゆく。なお赤えいや船幽霊といった房総の海の怪、将門信仰の全体像は千葉県の妖怪事典に譲り、本稿は古代下総の内陸と古社の記憶に焦点を絞る。
香取の武神と坂東の古代
下総国の精神的な背骨は、利根川下流の香取の地に鎮座する香取神宮である。祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。記紀神話の国譲りに際し、武甕槌神(たけみかづちのかみ)とともに葦原中国へ降り、大国主神に国を譲らせた剣の神であり、日本でも屈指の武神とされる[1]。
香取神宮が古代国家にとっていかに重い社であったかは、その社号が物語る。平安期の『延喜式神名帳』[2]において、「神宮」の号で記されたのは、伊勢・鹿島・香取の三社のみであった[2]。利根川を挟んで相対する鹿島神宮(常陸国)の武甕槌神と、香取の経津主神は、ともに大和王権が東国の蝦夷(えみし)を制してゆく際の前進基地として崇敬を集めた、いわば国家の東の守りの要であった。香取神宮・鹿島神宮に、利根川河口の息栖(いきす)神社を加えた三社は、後世「東国三社」と呼ばれて篤い信仰を集めることになる。
ここで重要なのは、下総という土地が、最初から「国家が東へ伸びてゆく前線」として立ち上がったという点である。律令以前、この地には印波(いには)・下海上(しもつうなかみ)・千葉の三つの国造が割拠していた[1]。下海上国造は現在の銚子・旭・香取郡一帯を、印波国造は印旛沼周辺を治めたと伝わる。これらの在地勢力が大和の王権に組み込まれ、令制国・下総として再編され、市川の国府台に国府が置かれた。武の神を祀り、蝦夷へ向かう前線でありながら、その内側には統合されきらぬ在地の記憶が幾重にも沈んでいる ── この二重性こそ、やがて将門という巨大な反逆者を生む土壌となった。
香取の経津主神は武神でありながら、その荒ぶる力は決して妖異とは語られない。国家の秩序を体現する神だからである。だが同じ坂東の地に、その秩序を真っ向から否定した者が現れたとき、下総は神話の武神と人間の叛将という、対をなす二つの「武」の物語を抱え込むことになる。
新皇・平将門と相馬御厨
下総国の怪異を語るうえで、平将門は避けて通れない。承平・天慶のころ、桓武平氏の血を引くこの坂東の武者は、一族内の私闘から身を起こし、ついには関東諸国の国府を制圧して「新皇(しんのう)」を自称した。同時代の軍記『将門記』[3]が、その乱の経緯を漢文で克明に記している。

平将門
平将門(たいらのまさかど)は、平安中期の坂東(ばんどう)に勢力を張った桓武平氏の武者であり、朝廷に反旗を翻して「新皇(しんのう)」を称し討たれた人物である。死後、その斬られた首にまつわる怪異から日本でもっとも畏れられた怨霊の一とされ、やがて関東の守護神・御霊神(ごりょうしん)として神田明神などに祀られた。 承平・天慶のころ、将門は一族内の私闘から身を起こし、天慶二年(九三九)には常陸(ひたち)をはじめ関東諸国の国府を攻め落として東国を制圧、八幡大菩薩の託宣を称して自ら新皇と名のった。だが翌天慶三年(九四〇)、平貞盛と藤原秀郷(俵藤太)の追討軍に額を射られて戦死する。その生涯は同時代の軍記『将門記』に詳しい。 将門を妖怪・怨霊たらしめたのは、史実の乱そのものよりも、後世に語られた首の伝説である。京で晒された首が腐らず夜ごと叫んで東へ飛び去ったという物語は、東京・大手町の将門塚(首塚)の畏怖と結びつき、移し動かせば祟るという信仰を今に伝える。一方で神田明神では、江戸の総鎮守、武運と商売繁盛の神として篤く敬われ、祟りと守護という御霊神の二面を体現している。
詳しく見る将門と下総国を結びつける最も具体的な土地が、相馬御厨(そうまのみくりや)である。相馬郡は下総国の西部 ── 現在の千葉県北西部から茨城県南部にかけての地で、大治五年(一一三〇)、平常重がこの地を伊勢神宮に寄進し、現地管理者である下司職(げすしき)に就いたことで、伊勢神宮領の荘園「相馬御厨」として文献に立ち現れる[4]。後世の系図は、将門の子・小次郎将国がこの相馬を称したと伝え、相馬氏の遠祖を将門に結びつける。史実としての血脈は判然としないが、将門が「相馬小次郎」とも呼ばれ、相馬の地を勢力圏としたことは、彼の物語が下総西部の在地に深く根を張っていたことを示している。
将門の最期もまた、下総の地に刻まれている。天慶三年(九四〇)二月、将門は下総国猿島郡(さしまぐん)の石井(いわい、現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構え、追討に向かった藤原秀郷(俵藤太)と平貞盛の連合軍と決戦に臨んだ[3]。四百騎の精鋭で三千の敵を一時は圧したものの、にわかに風向きが逆転して形勢が傾き、北山へ退く途上、額に流れ矢を受けて討死したと伝わる。新皇僭称からわずか二か月足らずの最期であった。
将門が怨霊・神格の領域に入るのは、その死後である。京で晒された首が腐らず夜ごと叫んで東国へ飛び去ったという首の伝説は、はるか後世の『太平記』[5]などに語られ、将門を菅原道真・崇徳院と並ぶ日本三大怨霊の一柱へと押し上げた。その神格化を最も静かな形で伝えるのが、終焉の地・坂東市岩井に立つ國王神社[6]である。社伝によれば、将門の三女が奥州へ逃れて尼となり如蔵尼(にょぞうに)と号し、父の死後三十三年を経て郷里に戻り、霊木から一刀三拝して将門の像を刻み、小祠に祀ったのが起こりだという。御神体の寄木造の将門木像は、いまも文化財として伝わる。怨霊として畏れられる一方で、娘の手による木像として供養される ── 反逆者にして守護神という将門の二面性が、この古社に凝縮している。
将門にまつわる怪異でとりわけ知られるのが、影武者と桔梗(ききょう)の伝説である。将門には六人の影武者がいて、本物と寸分違わぬ七人の将門が並び立ったため敵は本体を見分けられなかったが、愛妾の桔梗が「本物だけはこめかみが動く」と内通したため討たれた、とも語られる。この影武者譚や桔梗伝説は史実とは言い難く、後世に膨らんだ伝承であるが、下総の各地には将門が拠った城跡や、桔梗の名を嫌って桔梗の花を植えないという村の禁忌まで残り、伝説は土地の記憶として今も生きている。なお首塚そのものや将門信仰の全体像、神田明神への展開は東京・千葉の記事に譲る ── ここで確かめておきたいのは、将門という叛将が、香取の武神と対をなす「もう一つの武」として、古代下総の地霊に組み込まれているという一点である。
水郷の闇に化けるムジナ
香取の武神と将門の怨霊が下総の「公」の記憶だとすれば、村の夜道や家のなかには、より身近な怪が潜んだ。利根川・印旛沼・手賀沼の広大な水郷に縁取られた下総の低地は、田と湿地と点在する農村が織りなす土地であり、アナグマやタヌキ ── すなわちムジナの棲み処と人里とが、ごく近く接していた。

ムジナ
ムジナは本来アナグマ(穴熊)を指す語だが、地域や時代によってタヌキ・ハクビシンとも混称され、同定が一定しない獣の総称である。古くから人を化かす獣として狐・狸と並び称され、夜道で道や川を誤認させ、食物や場所の見え方を変える術に長けるという。文献上の初出は『日本書紀』推古天皇三十五年(627年)春二月の条で、「陸奥国に狢有り。人と化りて歌う」と記され、奈良時代以前から狢が人に化けるという観念が成立していたことを示す。鳥山石燕『今昔画図続百鬼』にも「狢」が立項され、近世には狐狸とともに化かしの代表格として絵画・説話に頻出した。アナグマとタヌキは外見が似て同じ巣穴に同居することもあり、「同じ穴の狢」の語が生まれたほど、両者の区別はしばしば混乱した。
詳しく見るムジナとは本来アナグマを指す語だが、地域や時代によってタヌキ・ハクビシンとも混称され、同定の定まらぬ獣の総称である。古くから狐・狸と並んで人を化かす獣とされ、その文献上の初出は『日本書紀』[7]推古天皇三十五年(六二七)の条、「陸奥国に狢(むじな)有り。人と化(な)りて歌う」にまで遡る。奈良時代以前から、狢が人に化けるという観念は成立していたのである。
このムジナが、下総の地で独自の像を結んだのが「かぶきり小僧」である。おかっぱ頭(かぶきり=禿切り)に丈の短い着物をまとった小僧の姿で、人気のない夜道や山道に現れ、「水飲め、茶を飲め」と声をかけてくるという[8]。どこか間の抜けた、しかし不気味なこの小僧の正体は、人に化けたムジナだとされた。声をかけられても応じてはならぬとされ、夜道を急ぐ者を惑わす。重要なのは、このかぶきり小僧の伝承が、千葉県北部から茨城県南西部 ── まさに古代下総国の版図にまたがって語られてきたという点である。令制国としての下総が解体されて久しい近世以降も、ムジナの化身は旧国の地理に沿って息づいていた。
ムジナの化けものとして最も名高いのは、小泉八雲が『怪談』に収めた「むじな」[9]ののっぺらぼう譚だろう。夜道で泣く女に声をかけると、振り向いたその顔には目も鼻も口もなく、つるりと卵のようであった ── 驚いて逃げ込んだ蕎麦屋の主人もまた同じ顔に変じる、という二度驚かしの物語である。この話は江戸・赤坂を舞台とするが、獣が人に化け、顔という最も人らしい部分を消し去るという想像力の源流は、まさに下総のような関東東部の里にあった。水と田に縁取られ、夜になれば人と獣の境が曖昧になる土地 ── かぶきり小僧ものっぺらぼうも、その水郷の夜の感覚そのものから立ち上がった怪なのである。
飢えと吝嗇の鬼女・二口女
ムジナが獣の悪戯から生まれた化け物だとすれば、二口女(ふたくちおんな)は人間の罪から生まれた、もっと暗い怪異である。江戸後期の絵入り奇談集『絵本百物語』[10](桃山人夜話、天保十二年=一八四一年刊)は、この怪を下総国の話として語る。

二口女
二口女(ふたくちおんな)は、後頭部または項(うなじ)にもう一つの口をもつとされる女の妖怪。江戸後期の奇談集『絵本百物語』(桃山人夜話、天保十二年=一八四一年刊)の一図として広く知られ、編者桃山人(とうさんじん)の文に竹原春泉斎が挿絵を添えた。普段は長い黒髪で後ろの口を覆い、表向きは淑やかな女としてふるまうが、空腹になると後頭の口が二枚の唇をうごめかせて物を乞い、髪を蛇のように操って食物を口へ運ぶと描かれる。ただし髪を触手のごとく動かして食をむさぼる図像表現は本文には記されず、竹原春泉斎の絵による創意とされ、文と画の間には齟齬がある。人妖・半人半妖に分類され、外見は常人と変わらぬまま身体の一部に異形を宿す点に特徴がある。後ろの口は本人の意思とは無関係に飲食を求めて当人を苦しめ、悪行の報いとして身に生じた「奇病」「業病」として語られた。
詳しく見る物語はこうである。ある家に後妻が嫁いだが、先妻の娘を憎んでろくに食事を与えず、ついに餓死させてしまった。それから四十九日の後、夫が薪を割っていた斧が、誤って後ろにいた妻の後頭部を割った。傷はいったん癒えたものの、やがて割れ目は唇の形となり、突き出た頭蓋骨の一部は歯に、肉は舌のようになって、決まった時刻になると激しく痛みだし、食べ物を押し込むと痛みが鎮まった。さらにある時、その口は人語をなし、先妻の子を飢え死にさせた己の心得違いを悔いる声を、小さく呟いたという[10]。
後頭部のもう一つの口は、見て見ぬふりをした罪が決して消えず、自らを喰らい続ける業の具現である。表の口でいくら善人を装っても、見えぬ後ろの口が真実を語ってしまう ── 二口女は、罪は隠しおおせぬという因果応報の思想を、女の身体の異形として可視化した怪異なのである。継子を飢えさせた継母の祟りという主題は、飢えと吝嗇(りんしょく)という、近世農村の最も切実な恐怖に根ざしている。なお髪を蛇のように操って食物を口へ運ぶという有名な図像は『絵本百物語』[10]の本文には記されず、挿絵を担った竹原春泉斎の創意とされ、文と画の間には齟齬がある。
ただし、この二口女を下総固有の古伝として鵜呑みにするのは慎みたい。研究では、二口女の物語は同地に古くから伝わったものではなく、編者・桃山人が編んだ創作的色彩が強いと指摘されている[10]。それでも、継子いじめという普遍的な罪を、わざわざ「下総国の話」として配置した作者の選択には注意が要る。江戸の読者にとって、下総は江戸のすぐ隣でありながら、なお怪異の似合う在地として意識されていた ── 香取の古社と将門の怨霊を抱える下総は、近世の奇談作者にとっても、業と祟りを根づかせるにふさわしい辺境だったのである。
辺境の地霊 ── 神・怨霊・化獣の重なる国
下総国の妖怪文化を貫くのは、「東国の辺境」という古代以来の位相である。香取の地には、蝦夷へ向かう大和王権の前線を守る武神・経津主神が祀られ、延喜式に「神宮」と記される国家的な聖地となった。その同じ坂東の地に、国家に叛いて新皇を称し、相馬御厨を本拠とし、猿島郡石井に討たれた平将門が現れ、怨霊から御霊神へと転じた。服従の武神と反逆の怨霊 ── 下総は、対をなす二つの「武」の記憶を抱える国である。
そしてその古代国家の記憶の足下に、村の夜の怪が息づいていた。水郷の闇に化けるムジナのかぶきり小僧は、令制国・下総の版図にまたがって語り継がれ、家の罪から生まれた二口女は、江戸の奇談作者によって「下総国の話」として配置された。神の社、叛将の塚、村の夜道、家の闇 ── 階層の異なる怪異が、一つの令制国の地理のなかに幾重にも積もっている。
下総とは、古代国家が東へ伸びる前線でありながら、その内側に統合されきらぬ在地の力を抱え続けた土地であった。武神を祀りながら叛将を生み、国家の秩序を体現しながら祟りと業の物語を育てた。この二重性こそが、香取の経津主神から将門の怨霊、ムジナの化身、二口女の業へと連なる、下総の妖怪文化の核心である。歩いて辿れる香取神宮の杜と、坂東市岩井の國王神社。下総の怪異は、いまも古代の地名とともに、利根川の畔(ほとり)に静かに息づいている。より広い房総半島の怪異、海の怪や将門信仰の展開については千葉県の妖怪事典を参照されたい。