YOKAI.JP
那須野 九尾の狐が果てた原 ── 那須野と殺生石

玉藻前·九尾の狐·殺生石。帝を誑かした妖狐の最期

九尾の狐が果てた原 ── 那須野と殺生石

那須野 · なすの

地図で見る

栃木県の北部、那須連山のふもとに広がる那須野(なすの)。今でこそ高原リゾートとして親しまれるこの地は、かつて、日本三大妖怪の一つにも数えられる金毛九尾の狐 ──「玉藻前(たまものまえ)」が、最期を遂げた原であった。

帝を誑(たぶら)かした絶世の美女、その正体は九つの尾をもつ妖狐だった。陰陽師に見破られ、都を追われた狐がたどり着いたのが、この那須野である。そして討たれた狐の怨念は、近づくものの命を奪う「殺生石(せっしょうせき)」と化した ── 本稿は、那須野に刻まれた九尾の狐の伝説をたどる。

那須野という原

那須野は、那須岳(茶臼岳)を中心とする那須連山の南麓に広がる、広大な扇状地である。古くは人を寄せつけぬ荒野として知られ、その荒涼とした風景が、妖狐伝説の舞台にふさわしい陰影を与えてきた。

なかでも那須湯本温泉のほど近く、岩がごろごろと転がり、硫黄の匂いの立ちこめる一角がある。草木も生えず、鳥さえ落ちるというこの地こそ、九尾の狐が果てて石になったと伝わる「殺生石」のある場所である。賽(さい)の河原を思わせるその荒涼たる景観は、訪れる者に、いまもどこか不穏なものを感じさせる。那須野はまた、源平の昔に扇の的を射抜いた弓の名手·那須与一(なすのよいち)を生んだ地としても知られる。広い原野と、火山の恵みである温泉、そして荒ぶる毒石 ── 恵みと畏れの同居するこの土地柄が、那須野独特の伝説世界を育んできた。

玉藻前、
帝を誑かす

物語は、平安の都にさかのぼる。

玉藻前

たまものまえ

玉藻前は、平安時代の末、鳥羽上皇に仕えたという絶世の美女である。その正体は九尾の狐とされるが、人としての玉藻前は何より、たぐいまれな美しさと深い学識をそなえた宮廷の女君として語られてきた。和歌や管弦はもちろん、仏教の経典から天竺・震旦(インド・中国)の故事まで、どんな問いにもよどみなく答え、宮廷の人々を驚かせたという。 「玉藻前」という名にも物語がある。ある夜、清涼殿での詩歌管弦の宴のさなか、一陣の風が灯火を吹き消すと、暗闇の中で彼女の身からまばゆい光が放たれ、あたりを昼のように照らした。玉のように光る藻、という意味で「玉藻前」と呼ばれるようになったと伝わる。それまでは藻女(みくずめ)と呼ばれていたともいう。やがて上皇の寵愛を一身に集めるが、上皇が原因の知れぬ病に倒れたことから、その正体が疑われていく。

詳しく見る

鳥羽上皇のもとに、玉藻前と呼ばれる美しい女房がいた。比類なき美貌と、いかなる問いにも答える博識で、上皇の寵愛を一身に集めていた。玉藻前は、ただ美しいだけの女房ではなかった。あらゆる学問·詩歌·音曲に通じ、公卿たちのどんな難問にもよどみなく答えたという。その底知れぬ知性こそ、人ならぬものの証だったのかもしれない。だが、上皇がにわかに病に伏せると、その原因をめぐって、ある陰陽師が暗躍する。陰陽師·安倍泰成(あべのやすなり)は、上皇の病が玉藻前の仕業であると見抜いた。泰成が真言を唱えると、玉藻前は変身を解かれ、金毛九尾の狐の正体を現して、宮中から姿を消した

絶世の美女の正体が、九つの尾をもつ古狐であった ── この衝撃的な転換こそ、玉藻前伝説が長く人々を惹きつけてきた核心である。この九尾の狐は、古代中国やインドでも、殷を滅ぼした妲己(だっき)や、周の幽王の后·褒姒(ほうじ)などに化けて国を傾けた、と語られる。海を越えて災いをなしてきた妖狐が、ついに日本の帝のもとに現れた、というのである。

九尾の狐、
那須野に追われる

宮中を逃れた九尾の狐が逃げ込んだ先が、東国の那須野であった。

九尾の狐

きゅうびのきつね

九尾の狐は、狐が長い年月を経て霊力を高め、尾を九つに分けたとされる妖狐である。ただし、その名は単に「尾の多い化け狐」を指すだけではない。日本の妖怪図像の中では、九尾の狐は狐信仰、稲荷信仰、狐憑き、王権を惑わす美女譚、そして玉藻前から殺生石へ至る物語を結びつける、もっとも大きな狐の像である。 源流をたどると、中国古典『山海経』南山経の青丘山に、狐に似て九つの尾を持ち、声は嬰児のようで人を食う獣が見える。ここでの九尾狐は怪物であると同時に、古代中国では太平の世に現れる瑞獣としても語られた。後代の中国・日本の文献は、この吉祥の狐と人を惑わす凶狐を重ね、九尾の狐を「めでたい神獣」と「国を傾ける妖狐」の両方に育てていった。 日本に入った狐の観念は、二つの方向へ広がる。一方には、稲荷大神の使いとして祀られ、田畑・商売・家内安全を守る白狐がある。伏見稲荷大社が語るように、稲荷信仰は奈良時代の和銅4年(711)に稲荷山へ神が鎮まったとする由緒を持ち、今も全国に約3万社といわれるほど広い信仰圏を持つ。もう一方には、人を化かし、人に憑き、家筋や土地に取りつく野狐・管狐・オサキ・飯綱の系統がある。九尾の狐は、この善狐と凶狐のあいだをまたぐ。神に近い白狐の高貴さを持ちながら、同時に人間社会の奥へ入り込み、権力そのものを揺るがす危うさを持つ。 とくに日本で九尾の狐を決定づけたのが、玉藻前と殺生石の物語である。玉藻前は、鳥羽院の寵愛を受けた絶世の美女として語られ、やがてその正体を狐と見破られて那須野へ逃れ、討たれた後に毒を放つ石になったとされる。ここで大切なのは、九尾の狐、玉藻前、殺生石が同じものではなく、物語上の段階を異にする点である。九尾の狐は本相、玉藻前は宮廷に現れた化身、殺生石は討たれた後の成れの果てである。この三段階が結びつくことで、狐はただ人を化かす動物ではなく、美、知、政治、死、鎮魂までを背負う大妖狐になった。

詳しく見る

放っておけば災いをなす妖狐を討つべく、朝廷は討伐軍を派遣する。三浦介義明(みうらのすけよしあき)·上総介広常(かずさのすけひろつね)らを将とし、軍師には正体を見破った安倍泰成が任じられた。武士たちは那須野を取り囲み、知略を尽くして狐を追いつめていく。討伐は容易ではなかった。神通力を操る狐に、武士たちはたびたび翻弄されたと伝わる。一説には、動く的を射る訓練として犬を追い射る武芸「犬追物(いぬおうもの)」が、この狐退治の調練から始まったともいわれる。

そして、ついにその時が来る。三浦介の放った二本の矢が、狐の脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐はついに息絶えた。帝をも誑かした古狐の、壮絶な最期であった。だが ── 物語は、これで終わらない。狐の執念は、その亡骸とともに、那須野の地に深く沈んでいくのである。

殺生石となった怨念

討たれた九尾の狐の怨念は、消えることがなかった。

殺生石

せっしょうせき

殺生石は、栃木県の那須湯本温泉のそばにある大きな溶岩塊で、近づいた生き物の命を奪う毒石として古くから恐れられてきた。一帯は火山の噴気地帯で、地面の割れ目から硫化水素や亜硫酸ガスといった有毒な火山ガスが絶えず噴き出している。これらのガスは空気より重く窪地にたまるため、そばに寄った鳥や虫、小さな獣が中毒で死んでしまう。生き物を殺す石、という意味で「殺生石」と呼ばれるようになった。 草木も生えない硫黄くさい荒れ地は「賽の河原」と呼ばれ、無数の地蔵が並ぶ。元禄2年(1689)にここを訪れた松尾芭蕉は『おくのほそ道』に、毒気のために蜂や蝶のたぐいが砂地の色も見えないほど折り重なって死んでいた、と書き残している。伝説では、この石は討たれた九尾の狐(玉藻前)の化身とされるが、その物語は別に詳しく語られる。

詳しく見る

九尾の狐が斃れたのち、その亡骸は巨大な毒石へと変じ、近づく人や鳥獣の命をことごとく奪うようになった。人々はこれを「殺生石」と名づけて恐れた。生けるものを殺す石、という直截な名そのものが、人々の恐怖の深さを物語っている。その毒気の及ぶ範囲は広く、付近一帯は長く人の立ち入りを避けられてきた。妖狐の怨念が石に宿り、生あるものを殺しつづける ── その伝説には、討たれてなお消えぬ妖異への、深い畏れがこめられている。

興味深いのは、この伝説が、那須湯本に実在する自然現象に根ざしている点である。殺生石のある一帯は火山地帯で、硫化水素や亜硫酸ガスといった有毒な火山ガスが絶えず噴き出している。2022年12月にも、殺生石の付近でイノシシ八頭の死骸が見つかっている。近づく生き物が次々と倒れるという伝説は、決して荒唐無稽な作り話ではなく、目に見えぬ毒気に対する、人々の経験的な実感から生まれたものだったのである。

玄翁和尚の済度

人々を苦しめつづけた殺生石も、やがて、ある高僧の手によって鎮められる。

室町時代の至徳2年(1385年)、玄翁(げんのう)和尚という名僧が、殺生石を打ち砕いて、その怨念を済度(さいど)したと伝わる。法力をもって石を割り、狐の魂を成仏させたというのである。怨念を抱いた存在を打ち砕き、その魂を仏の道へ導く ── 玄翁和尚の済度は、武力による討伐とはまた異なる、仏教的な解決のかたちであった。狐は討たれただけでは鎮まらず、僧の祈りによってようやく成仏する。そこには、怨霊を恐れ、その鎮魂を切に願った中世の人々の心性が、よく表れている。砕けた殺生石の破片は、各地へと飛び散り、会津や美作など、遠く離れた土地にも「殺生石」の伝説が残ることになったと語られる。なお、堅いものを打ち砕く大きな金槌を「玄能(げんのう)」と呼ぶのは、この玄翁和尚の名にちなむともいわれている。

割れた殺生石、
今も

九尾の狐の伝説は、現代にいたってもなお、人々の関心を集めつづけている。

2022年3月、那須の殺生石が、自然に真っ二つに割れていることが確認され、大きな話題となった。「封じられていた九尾の狐が解き放たれたのではないか」── そんな声がインターネット上を駆けめぐったのも、この石にまつわる伝説の根強さゆえであろう。

帝を誑かした絶世の美女、見破られて逃げた九尾の狐、近づくものを殺す毒石、そして高僧による済度 ── 那須野に伝わる玉藻前の物語は、美と妖、罪と罰、怨念と救済という、人の心をとらえてやまぬ主題を、一つの原野の風景のなかに凝縮している。荒涼たる殺生石の景は、その壮大な伝説を、いまも静かに語り伝えている。栃木の妖怪と伝承の全体像については栃木県の妖怪事典も併せて読まれたい。

那須野の妖怪一覧3

那須野ゆかりの妖怪を網羅したリスト。記事内で取り上げきれなかった伝承も含む。

  • 玉藻前

    玉藻前

    伝説

    たまものまえ

    鳥羽院寵愛の九尾狐・玉藻前

    動物変化宮中清涼殿(現·京都府京都市)で鳥羽院に寵愛され、正体露見後に下野国那須野(現·栃木県那須町)で殺生石と化す

    この版では、玉藻前が正体を暴かれ、討たれるまでの顛末に目を向ける。鳥羽上皇の病がいよいよ重くなったとき、占いを命じられた陰陽師の安倍泰成(史実の安倍泰親がモデルとされる)は、病の元が玉藻前その人であることを言い当てた。泰成が宮中で祈祷を行って追いつめると、玉藻前はついに人の姿を保てなくなり、狐の正体をあらわして都から東へと逃げ去る。 逃げ込んだ先は、下野国の那須野(いまの栃木県那須一帯)であった。野に潜んで人や家畜を害する妖狐を退治するため、朝廷は東国の武士、上総介広常と三浦介義明らを差し向ける。武士たちは野を囲んで狩り立て、ついに矢で狐を射倒したと伝わる。玉藻前を仕留めたこの武士たちの名は、源平のころに実在した坂東武者のものと重なっており、伝説と史実が地続きに語られているのがおもしろい。 物語のなかで玉藻前は、たいてい「傾国の美女」――その美しさと知恵で国の頂点に取り入り、内側から傾けてしまう者――の代表として描かれてきた。しかしその一方で、討たれたのちには祠に祀られ、神として手を合わせられてもきた。恐ろしい妖狐でありながら、どこか心を惹かれずにいられない。この二面性こそが、玉藻前を単なる悪役で終わらせず、長く愛されつづける存在にしている。

  • 九尾の狐

    九尾の狐

    伝説

    きゅうびのきつね

    白面金毛の九尾狐

    動物変化中国・青丘山(『山海経』九尾狐) → 山城国(玉藻前露見) → 下野国那須野(退治)

    「白面金毛の九尾狐」は、白い顔、金色の毛、九つの尾を持つ妖狐という意味である。今日では玉藻前の正体としてよく知られるが、この像は一度に完成したものではない。中国古典の九尾狐、妲己を九尾狐狸とする大陸系の悪女譚、日本の玉藻前伝説、那須の殺生石伝説が、長い時間をかけて重ね合わされて生まれた姿である。 古い九尾狐は、必ずしも悪ではなかった。『山海経』の青丘狐は人を食う獣として現れる一方、九尾の狐は古代中国で瑞獣としても語られ、日本にも「九尾狐神獣也」という受け止め方が入っていたことが指摘されている。つまり九尾とは、最初から単純な邪悪の印ではなく、異界の力が極まったしるしだった。その力が王権を祝うものにも、王権を破るものにもなりうるところに、九尾狐の怖さがある。 玉藻前が最初から白面金毛九尾狐だったわけでもない。『神明鏡』に玉藻前の名が現れ、『玉藻の草子』で鳥羽院に仕えた美女が狐と見破られる筋は整うが、そこに描かれる狐は尾二つの古狐とされる。寺島修一の整理によれば、玉藻前が「九尾」と強く結びつくまでには、おおよそ400年近い変化があった。この時間差を見落とすと、玉藻前伝説がどれほど編み直されてきたかが見えなくなる。 物語を大きく変えたのは、妲己の狐と玉藻前の接続である。殷の紂王を惑わした妲己が九尾狐狸に変じる話は、中国の注釈書や小説を通じて増幅され、日本にも早くから知られていた。江戸後期になると、この妲己の筋に天竺の華陽夫人、日本の玉藻前が接続される。『絵本三国妖婦伝』は、同一の妖狐がインド・中国・日本の三国で王を惑わすという読本的な大構成を作り、玉藻前を白面金毛九尾狐の日本での姿として決定的に広めた。 那須の殺生石は、この妖狐に死後の物語を与えた。謡曲『殺生石』では、石はただの毒石ではなく、討たれてなお妄執を残す狐の霊が宿る場所になる。僧の法力によって石が砕け、霊が鎮められるという筋は、妖狐退治を鎮魂の物語へ変える。那須町の公式伝承でも、殺生石は天竺・唐から飛来した九尾狐の化身が石となったものとされ、芭蕉が『おくのほそ道』に記した毒気の風景と結びついている。玉藻前は宮廷で暴かれて終わるのではなく、那須の土地に石として残り続ける。 絵画と芸能は、この二重性をさらに強く見せた。寛延4年(1751)初演の人形浄瑠璃『玉藻前曦袂』以後、玉藻前は浄瑠璃・歌舞伎で繰り返し演じられ、絶世の美女でありながら妖狐でもある役として人気を集めた。歌川国芳の「阿部安近祈玉藻前」では、美女の背後に九つへ分かれる光が走り、画面は女房装束の優雅さと狐の本性を同時に示す。鏡に本性が映る、水面に狐影が出る、後光が尾へ変わるといった意匠は、玉藻前を「見抜かれる存在」として描くための装置であった。 白面金毛の九尾狐が恐ろしいのは、牙や爪の怪物だからではない。彼女はまず美と知として現れる。仏典、漢籍、和歌、管弦に通じ、宮廷の問いに淀みなく答え、寵愛と信頼を得る。暴力で外から攻めるのではなく、言葉と魅力によって中心へ招き入れられる。そのため、正体を見破る側にも武力だけでは足りない。陰陽師の占い、祈祷、鏡、水面、そして物語そのものが、隠された狐を表へ出す。 その一方で、白面金毛の九尾狐は完全な外敵でもない。稲荷の白狐、天狐・空狐の階梯、狐女房の情、狐憑きへの恐れと同じ狐の想像の中から生まれている。玉藻前として現れれば王権を傾け、殺生石となれば土地に毒気を残すが、鎮められ、祀られ、絵に描かれ、舞台で演じられることで、人々はこの妖狐をただ排除するのではなく、記憶の中に留めてきた。白面金毛の九尾狐は、退治された悪ではなく、退治された後も語られ続ける悪である。

  • 殺生石

    殺生石

    名妖

    せっしょうせき

    那須の毒気石・殺生石

    住居・器物殺生石·那須湯本(現·栃木県那須町) ── 玉藻前·九尾狐が石化した地

    この版では、毒石としての殺生石が、能の舞台や信仰の場としてどのように語られてきたかを見る。謡曲『殺生石』では、旅の僧・玄翁が那須野で石に近づくと、一人の里の女が現れて石の由来を語り、やがて石が割れて中から狐の霊が姿をあらわす。霊は生前の悪行を悔い、僧の法力で救われて成仏を約し、消えていく。ここでの殺生石は、ただ人を殺す石ではなく、迷える魂が宿り、弔いによって鎮められる対象として描かれている。 殺生石の周りは、草木も生えず硫黄の煙が立ちこめる荒涼とした地で、古くから「賽の河原」と呼ばれ、亡き者を弔う無数の地蔵が並ぶ。すぐ隣には那須温泉神社が鎮座し、毎年五月の御神火祭では、神社の火を石の前まで運んで、山の火と石の霊威を鎮める神事が行われるという。 こうしてみると、殺生石の恐ろしさは、石そのものが意思をもって動くというより、「ここから先へ踏み込めば命を落とす」という境(さかい)の感覚に根ざしている。毒気の満ちる一帯そのものが、人の世とあの世のあわいのように畏れられ、その境を侵す者にだけ災いが及ぶ、と考えられてきたのである。

続けて読む ── 他の地域へ