平安京の表玄関として、朱雀大路(すざくおおじ)の南端にそびえていた羅城門(らじょうもん)。本来は、都の威容を象徴する壮麗な正門であった。
だが、たび重なる倒壊のすえに再建されることなく荒れ果て、いつしか、死者が捨てられる場所、そして鬼の棲む門として、人々に恐れられるようになる。栄華の象徴から、怪異の巣窟へ ── 本稿は、その落差そのものが伝説となった、羅城門の物語をたどる。
都の正門、羅城門
羅城門は、古代日本の都城の正門である。平安京においては、都の中央を南北に貫く朱雀大路の南端に位置し、北端の朱雀門(すざくもん)と相対していた。平城京にも同名の門があった[1]。
都を訪れる者が最初にくぐる門であり、外の世界と都とを画する、いわば国家の表玄関であった。羅城門は二階建ての堂々たる楼門であり、その壮麗さは律令国家の威信そのものであった。なお、後世に広く知られる「羅生門」という表記は、謡曲や芥川龍之介の作品を通じて定着したもので、本来の表記は「羅城門」である。その壮麗な姿は、律令国家の威厳を内外に示すものであったろう。だが ── この「都の内と外の境」という立地こそが、のちに羅城門を、異界と接する不吉な場所へと変えていくことになる。
倒壊と、荒廃
羅城門の栄華は、長くは続かなかった。
平安京の羅城門は、弘仁7年(816年)8月の大風で倒壊し、その後再建されたものの、天元3年(980年)7月の暴風雨で再び倒壊した。以後、再建の計画は持ち上がるものの、ついに建て直されることはなかった[1]。門を支えた礎石や瓦は、いつしか持ち去られ、あるいは土に埋もれていった。都の南の玄関口が、訪れる者を迎えるどころか、近づく者もない無人の廃墟と化していったのである。
平安遷都からわずか二百年足らず。都の正門が、礎石を残して崩れ落ち、そのまま打ち捨てられたのである。かつて国家の威容を誇った門が、修復されることもなく荒れるにまかされる ── そのさびれた姿は、見る者の心に、栄枯盛衰の無常を強く刻みつけたにちがいない。
死者の捨てられる門
再建されぬまま荒れ果てた羅城門は、やがて、おぞましい場所へと変貌する。
『今昔物語集』によれば、羅城門は倒壊以前からすでに荒廃しており、その上層には、引き取り手のない死者の亡骸が捨てられていた[1]。明るい都の表玄関であったはずの門が、いまや死体の集積する、闇の場所となっていたのである。当時の都では、身分の低い者や引き取り手のない死者が、手厚く葬られることなく打ち捨てられることも珍しくなかった。荒れ果てて人目につかぬ羅城門の上層は、そうした亡骸を遺棄するのに、いわば好都合の場所だったのである。
同じ『今昔物語集』には、夜、羅城門の上層に登った盗人が、若い女の死骸の髪を抜いている老婆に出くわす、という名高い説話が収められている[1]。死者の髪を抜く老婆 ── この陰惨な情景こそ、荒廃した羅城門の不気味さを、後世に語り伝える原風景となった。
羅城門の鬼
死者が捨てられ、闇に沈む荒れ果てた門 ── そこに、鬼が棲むと噂されるようになるのは、もはや必然であった。
荒廃した羅城門には鬼が巣食うとされ、室町時代の謡曲『羅生門』をはじめ、さまざまな怪奇譚の舞台となった[2]。人の住まぬ闇、累々たる死者、そして都の境界という立地 ── 鬼が棲むと信じるに足る条件が、この門にはすべてそろっていたのである。荒廃そのものが、怪異を呼び寄せたといってよい。鬼とは、しばしば、人の理解を超えた恐怖が形をとったものである。都の秩序の及ばぬ荒れ果てた門に、人々が鬼の姿を見たのは、そこが文明の光のとどかぬ「闇」であることの、何よりの証であった。
渡辺綱、鬼の腕を斬る
羅城門の鬼をめぐる最も有名な物語が、源頼光の四天王·渡辺綱(わたなべのつな)による鬼退治である。

茨木童子
酒呑童子の股肱とされる鬼で、その副将格として大江山の賊徒に名を連ねたと伝わる。出生は摂津国(富松・茨木の里)説と越後国(古志郡軽井沢)説があり、いずれも幼少より異相と剛力を示し、母や里を畏れさせて山へ入ったと語られる。最もよく知られるのは、『平家物語』剣巻系に基づく説話で、渡辺綱に片腕を斬られた鬼が、のちに綱の伯母に化けて腕を奪い返す筋である。中世以降、この鬼が茨木童子と同定され、能『羅生門』や歌舞伎・浄瑠璃で広く演じられた。
詳しく見る謡曲『羅生門』によれば、酒呑童子を討ち果たしたのちの頼光の宴の席で、羅城門に鬼が棲むという話が出た。渡辺綱は「王城の総門に鬼などいるはずがない」と言い、その真偽を確かめるべく、ただ一人羅城門へと向かう。そして門で鬼と遭遇し、激闘のすえ、その片腕を斬り落とした[2]。一説には、綱は確かに門を訪れた証として、自らの名を記した札を門に立ててきたともいう。そして斬り取った鬼の片腕は、まぎれもない証拠として持ち帰られた ── この腕をめぐる後日譚が、のちの物語へと連なっていく。
この羅城門の鬼は、しばしば、大江山の酒呑童子の配下である茨木童子(いばらきどうじ)と同一視される。ただし本来、羅城門の鬼と茨木童子は別の存在であり、また綱が鬼の腕を斬った場所を一条戻橋とする『平家物語』剣巻の伝説とも異なる、別系統の物語である[2]。同じ「渡辺綱の鬼斬り」でも、橋の物語と門の物語の二つがあるわけで、この異伝の絡み合いは、一条戻橋の伝説とあわせて読むと、いっそう興味深い。
芥川龍之介と、羅城門の今
荒廃した羅城門のイメージは、近代にいたって、新たな命を吹き込まれる。
大正の文豪·芥川龍之介は、『今昔物語集』の説話に着想を得て、小説『羅生門』を著した[1]。荒れ果てた門の下で、行き場を失った下人が、死者の髪を抜く老婆と対峙し、生きるための悪へと踏み出す ── その舞台に、芥川は羅城門の荒廃を選んだのである。飢えと寒さのなか、盗みをためらっていた下人は、「生きるためだ」という老婆の言い分を聞くや、その着物を剥ぎ取り、闇の中へと消えていく。崩れた門は、人がモラルの一線を越える、まさにその瞬間の象徴として描かれた。門の崩れた姿は、人の世のモラルが崩れる瞬間の象徴として、現代文学のなかに生きつづけている。
栄華の象徴として建てられ、荒廃して鬼の棲む門となり、近代文学の名舞台となった羅城門。今その場所には、ささやかな「羅城門跡」の碑が残るのみである。だが、繁栄と荒廃、聖と穢れ、人と鬼 ── そのすべてを呑み込んできた門の記憶は、千年を越えて、なお人々の想像をかきたててやまない。京都の妖怪と怪異の全体像は京都府の妖怪事典も参照されたい。
