中国地方の脊梁、中国山地が瀬戸内へ向かって緩やかに下りはじめるあたりに、美作国は横たわっている。海をもたず、津山盆地を中心に真庭の旭川流域・東の美作市域へと小さな盆地が連なる山の国だ。この旧国が歴史に名を刻むのは和銅六年(七一三)、それまで吉備の一角を成していた備前国の北六郡 ── 英田・勝田・苫田・久米・真島・大庭を割いて美作国が立てられた[1]ときである。国府は苫田郡(現在の津山市総社)に置かれ、一宮には中山神社が据えられた。海の文化を背に負う備前・備中とは袂を分かち、山と川と鉄で生きる国がここに生まれた。
その地勢が、美作の妖怪を決定づけている。中国山地北部の備中・美作はやがて砂鉄を原料とするたたら製鉄の一大地帯となり、鉄・牛馬・木材・紙が旭川と吉井川の高瀬舟で瀬戸内へ運ばれた[2]。深い山には神が棲み、川の淵には水の怪が潜み、鉄を熔かす炎と牛馬を商う市が人を寄せる ── 海なき内陸の、山と川と渓谷の妖異。それが美作の怪の核である。山が呑む生贄、川が引く水神、淵で神となった巨獣。この旧国の妖怪は、いずれも「山と水のあわい」から立ち上がってくる。岡山県全体の妖怪文化を束ねる視点は岡山県の妖怪事典に譲り、本稿は美作という山の旧国に絞って、その奥処を辿る。
山の神が呑む ── 中山神社と猿神の生贄譚
美作国の妖怪を語るとき、まず立つべきは一宮・中山神社である。津山市一宮に鎮座するこの古社は、和銅六年の建国とともに美作の総鎮守と定められた。祭神は鏡作神とも金山彦命とも伝えられ、鉄や金属の神を祀る点に、たたらの国・美作らしさがにじむ。そしてこの社こそ、日本の妖怪説話のなかでも屈指の名高い一篇 ── 猿神の生贄退治譚の舞台である。

猿神
猿神(さるがみ)は、サルの姿で現れる神霊にして妖怪であり、相反する二つの顔をもつ。一面では山の神・山の主の使いとして畏敬され、日吉大社(滋賀県大津)では神使「神猿(まさる)」として山王信仰の中核に据えられた。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、平安京の鬼門(北東)にあたる比叡山麓の社が都の鬼門封じを担ったことから、魔除けの霊獣とされた。庚申信仰では「申」がサルに通じ、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が悪行を天に告げる三尸の虫を封じる象徴として広く流布した。他面では、中世説話において人に害をなす荒神として描かれ、毎年若い女を生贄に求める大猿の伝承が知られる。この生贄要求型の猿神は、東国の猟師と猟犬によって退治されるのが定型で、犬の活躍が必ず伴う点に特徴がある。地方では人に憑く憑き物としても恐れられ、神使から荒神・憑き物まで、サルをめぐる多層的な信仰を映す存在である。
詳しく見る平安末期の説話集『今昔物語集』巻二十六第七「美作国神依猟師謀止生贄語」[3]はこう伝える。美作国中山の神は猿の姿をとり、高野の神は蛇の姿をとった。中山の猿神は年に一度、選ばれた未婚の処女を生贄に求め、捧げねば祟って田畑を荒らした。ある年、生贄に定められた娘の家に、東国からやって来た犬使いの若い猟師が婿入りする。彼は娘の身代わりを申し出、ひそかに二匹の犬へ猿を噛み殺す訓練を施したうえで、生贄を納める長櫃に身を潜めた。
祭りの夜、神殿に運び込まれた櫃の蓋が開くと、身の丈七、八尺(二メートルを超える)の大猿が、百匹ほどの眷属を従えて現れる。猟師は飛び出すや犬を放ち、猿どもを次々と噛み殺させ、大猿の喉元へ刀を突きつけた。すると神たる大猿は神主に憑いて命乞いをし、「今後は二度と生贄を求めぬ」と誓う。猟師はこれを許し、以後この地に人身御供は絶えたという。続く第八話「飛騨国猿神止生贄語」も同型の生贄退治譚であり、ともに犬が決定的な役割を果たす。同話はほぼ同内容で『宇治拾遺物語』にも伝わるが、その筆頭に置かれたのが美作・中山の猿神であった点は重い。
この説話が美作の妖怪史で核心をなすのは、それが「神」と「妖怪」の境目そのものを語っているからだ。生贄を求めるうちは祟り神=妖怪に限りなく近く、退治されて誓いを立てたのちは祀られる神へと戻る。神格と妖怪格は固定した属性ではなく、人との関係しだいで振り子のように行き来する ── 海をもたず、ただ深い山と相対して生きてきた美作の社は、その振り子をいまも体現している。山の神を畏れ、ときに供物を捧げ、ときに刃をもって対峙し、最後に契約を結んで祟りをやめさせる。生贄を呑む露わな暴力から、人と神の取り決めへ。その転回の物語が、建国とともに立てられた一宮を舞台に語られたことは、美作という国の精神の出発点といってよい。
猟師を勝たせた猟犬の存在も見逃せない。犬が山の魔を祓う霊力をもつという観念は各地の犬神・霊犬信仰と響き合い、生贄を呑む山神に対して、人に従う犬が切り札となる構図は、人里と山の力関係を象徴している。なお岡山備前や徳島木頭の一部では、猿神は人に憑く憑き物としても恐れられ、その害は犬神より大きいと語られた。神使の聖性と、生贄を貪り憑く荒神性 ── 同じ猿の像にこの両極が重なり合うさまは、山の国・美作の信仰の奥行きそのものである。
山里に忍ぶ艶 ── 作州高田の絡新婦
山の神が露わな暴力で人を呑むなら、美作の山にはもう一体、まったく逆の手口で人へ忍び寄る怪がいる。絡新婦だ。

絡新婦
絡新婦は大蜘蛛が美女に化けて人を誘うとされる妖怪で、「絡新婦」は本来の「女郎蜘蛛」に漢名を当てた熟字訓である。鳥山石燕『画図百鬼夜行』は火を吹く子蜘蛛を従える女の姿で描く。住処に人を誘い、糸で絡め取って弱らせ食らうとされ、滝や淵、山里の廃屋など水辺・人里の境界での怪異譚が多い。正体を見破られると天井裏や岩間へ逃れるという伝承が各地に伝わる。なお、源頼光が退治した大蜘蛛は『土蜘蛛草紙』に説く土蜘蛛で、絡新婦とは本来別系統の妖とされる。
詳しく見る絡新婦は本来「女郎蜘蛛」と書き、大蜘蛛が美しい女に化けて人を誘うとされる妖怪である。享保十七年(一七三二)刊の怪談集『太平百物語』[4]に「孫六女郎蜘にたぶらかされし事」の一話があり、その舞台がまさに美作 ── 作州高田である。郷士の孫六が、ある夜、見も知らぬ華やかな女に誘われて立派な屋敷へ上がり込む。一夜の歓を尽くして覚めてみれば、屋敷も女も影かたちなく、ただ自分の身の周りには蜘蛛の巣がびっしりと張りめぐらされていた、という筋立てである。女の正体は、人の精を吸わんとする女郎蜘蛛であった。
絡新婦の像は地域によって大きく異なる。各地の女郎蜘蛛淵の伝承では、滝壷や深い淵を棲み処とし、糸を投げて男の足に絡め、水中へ引きずり込む水辺の妖蜘蛛として語られることが多い。伊豆の浄蓮の滝や仙台の賢淵がよく知られる。これに対し美作のそれは、山里の家屋へ妖艶な女として忍び込み、男に近づいて精を奪おうとする点に特色がある。海なき盆地という地勢が、外からやってくる艶やかな来訪者への警戒と憧れを、この怪の像に映し込んでいるのだろう。
蜘蛛が女に化けるという発想の根には、巣を張って獲物を待ち、糸で獲物を絡め取る蜘蛛の生態への観察がある。それが「男を誘い込んで搦め捕る美女」という妖怪像へ昇華した。山が人を丸ごと呑み込む猿神と、人に化けてそっと忍び寄る絡新婦 ── 美作の怪は、いずれも「親しげな顔をした山の脅威」という一点で深く通じ合う。生贄を要求する露わな暴力と、美貌で油断を誘う静かな捕食。盆地を囲む山々は、その両極の恐ろしさをともに抱え込んでいるのだ。
川の淵に潜む ── 吉井川のごんご
山から視線を川へ移そう。津山の城下を貫いて流れる吉井川は、たたらの鉄や久世の牛、山の木材や紙を高瀬舟で瀬戸内へ運んだ、美作の大動脈である。その川の淵に潜むのが、ごんごだ。
ごんごは、美作国(現在の津山市を中心とする岡山県北部)で河童を指す方言名である。頭に皿、背に甲羅をもち、相撲を好み、人や馬を水中へ引き込むという姿かたちは一般の河童と変わらない。だが「ごんご」という独特の呼び名にこそ、この土地の水神観が宿る。語源には河童の古称「河子(かわこ)」が「ごうご」を経て「ごんご」に転じたとする説と、水を司る「金剛(こんごう)」に通じるとする説の両様が伝わる[5]。岡山県南部から中国地方一帯では河童を「カワコ(川子)」と呼ぶ呼称圏があり、ごんごはその方言が津山で独自に訛ったものと考えられている。
民俗研究者・島田秀三の『心のふるさと美作伝説考』には「覗き淵のゴンゴ」の一章があり、吉井川が市街でゆるく湾曲する覗き淵(のぞきみぶち)に棲むごんごが、泳ぐ人を水へ引き込んだと記す[6]。子どもが川で溺れぬよう「ごんごが出るぞ」と戒める ── 水辺の禁忌を担う、土地に根づいた水の妖である。海をもたぬ美作にとって、川は恵みであると同時に、人と馬の命をひそかに奪う淵を抱えた畏怖の場でもあった。
興味深いのは、このごんごが現代の津山では恐ろしい妖から郷土の象徴へと転じている点だ。毎夏「津山納涼ごんごまつり」が吉井川河畔で催され、市内を巡る「ごんごバス」や「ごんご通り商店街」など、土地の名物として親しまれている。人を引き込む水の怪が、いまや川とともに生きる町の顔になっている ── 畏怖から愛着への転回は、猿神が祀られ、はんざきが神となる美作の精神風土と、静かに通じ合っている。
淵で神となった巨獣 ── 湯原のはんざき大明神
吉井川の怪が河童なら、西の旭川上流にはもっと巨大で、もっと土着の水の怪が伝わる。真庭市湯原温泉、龍頭の淵のはんざき大明神である。

はんざき大明神
はんざき大明神は、美作国の旭川上流·向湯原村(現·岡山県真庭市湯原温泉)に伝わる大山椒魚(はんざき)の怪である。「はんざき」とは中国山地でオオサンショウウオを指す古い呼び名で、体を半分に裂いても生き続けると信じられたことに由来するという。龍頭の淵と呼ばれる深淵に長さ三丈六尺(約十メートル)に達する巨大なはんざきが棲み、尾で人馬を淵に叩き込んでは餌食にしたと語られる。退治されたのちに祟りをなし、これを鎮めるために祠に祀られて「はんざき大明神」となった。妖怪が神へと転じた典型例であり、毎年八月八日の「はんざき祭り」として今も湯原温泉郷に生きている。
詳しく見る「はんざき」とは、中国山地でオオサンショウウオを指す古い呼び名だ。体を半分に裂いても生き続けると信じられたことに由来するという。美作国湯原・向湯原村(現在の真庭市湯原温泉)の旭川上流に龍頭の淵という深淵があり、そこに長さ三丈六尺(およそ十メートル)に達する巨大なはんざきが棲み、尾で人馬を淵に叩き込んでは餌食にしたと語られる。
江戸前期の美作地誌『作陽誌』(元禄四年・一六九一)は、およそ百年前の出来事としてこの退治譚を記す[7]。文禄の頃(一五九三年前後)、向湯原村の若者・三井彦四郎が、村を苦しめる大はんざきの退治を買って出た。彦四郎は腰に綱を結んで村人に握らせ、わざと大はんざきに飲み込まれると、懐の小刀で腹を内側から裂き、村人に引き上げられて脱出する。岸に引き揚げられた巨獣は、長さ三丈六尺・胴回りも一抱えを超えるものだったという。腹の内から斬るというこの異様な退治の段は、巨大山椒魚という現実の生き物の不気味さを、説話の核へ見事に練り上げている。
はんざき大明神の物語が真に美作的なのは、ここから先である。退治ののち、彦四郎の家には毎夜すすり泣く声が響き、家人が次々と病に倒れ、三井家はついに絶えた[8]。村にも災いが続いたため、人々ははんざきの祟りを畏れ、龍頭の淵のほとりに祠を建てて「はんざき大明神」として祀り、読経と祈祷でその霊を慰めた。害獣として斬られた巨獣が、祟り神を経て土地の守護神へと昇華する ── 御霊信仰の典型を、中国山地の渓谷にそのまま伝える貴重な一例である。
この鎮魂は、いまも生きている。毎年八月八日に湯原温泉郷で営まれる「はんざき祭り」では、巨大なはんざき山車や獅子舞が温泉街を練り歩く[9]。岡山の奇祭として知られるこの祭りは、退治された巨獣を悼み、祀り、その霊と共に生きる土地の意志の表れだ。山の神を畏れて契約を結んだ中山の猿神、川とともに生きるごんご、そして淵で神となったはんざき。海をもたぬ美作の妖怪が一様にたどるのは、「畏れられた怪が、鎮魂と契約を経て祀られる神へ反転する」という同じ弧であり、それは深い山と川に抱かれて生きてきたこの旧国の、共生の作法そのものなのである。
結び ── 院庄の桜と、山なお深く
美作の妖怪を見渡すと、海の妖異が一体も登場しないことに改めて気づく。海坊主もぬらりひょんも、それらは備前・備讃灘の海が育てた怪であり、美作の領分ではない。この旧国の怪は、ことごとく山と川と淵から生まれた。一宮中山神社の山が呑んだ猿神、作州高田の山里に忍んだ絡新婦、吉井川覗き淵のごんご、旭川龍頭の淵のはんざき ── 海なき内陸の、たたらと牛馬と高瀬舟の国だからこその妖怪の地層が、ここには沈んでいる。
歴史もまた、この山の国に深い影を落とした。元弘二年(一三三二)、隠岐へ流される後醍醐天皇が美作国守護の院庄館に宿った夜、備前の児島高徳が庭に忍び入り、桜の幹に十字の詩を刻んで天皇を励ました[10]という伝説は、津山の作楽神社に今も伝わる。都を追われた帝が山の旧国で一夜を過ごし、忠臣が桜に望みを託す ── 史実か伝承かをいまは措くとしても、海から遠く隔たった山の国・美作が、都の権力の浮沈をも静かに見届けてきたことを、この一片の物語は伝えている。
中山神社の山はいまも深く、吉井川の淵はいまも昏く、龍頭の淵のほとりでは八月になれば巨大なはんざきが練り歩く。海をもたぬぶん、山と川と渓谷の闇を一身に引き受けてきた美作国 ── その奥処に沈む妖異の地層こそ、この旧い山の国の、ほんとうの深さである。
