日本の神話において、死者の行きつく国 ── それが「黄泉(よみ)」である。地の底深くにあるとされるこの暗い国は、『古事記』が伝える、哀しくも壮絶な物語の舞台となった。
亡き妻を慕って死者の国へ向かった男神イザナギと、変わり果てた女神イザナミ。そして、追いすがる鬼女を、わずか三つの桃の実が退ける ── 日本人が今も節分などで親しむ「桃の魔除け」は、この神話にその源をもつといわれる。本稿は、生と死の境を定めたこの神話を、『古事記』に沿ってたどる。
死者の国、
黄泉
黄泉は、日本神話における死者の世界である。「よみ」という言葉は「闇(やみ)」に通じるとも、地下の「夜見(よみ)」の国を意味するともいわれ、いずれにせよ、光のとどかぬ暗い死の国として思い描かれてきた。古代の人々にとって、そこは一度その国の食べ物を口にすれば二度と帰れなくなる ──「黄泉竈食(よもつへぐい)」と呼ばれる、後戻りのできぬ世界であった。
この国が神話のなかで決定的な意味をもつのは、国生み·神生みをなしとげた二柱の神 ── イザナギとイザナミの物語の、悲劇的な転回点となるからである。生と死、この世とあの世の境がいかにして定められたのか。その起源が、黄泉をめぐる物語に語られている。
イザナギ、
亡き妻を追う
イザナギとイザナミは、天つ神の命を受けて日本の島々を生み、さらに数多くの神々を生んだ、創造の夫婦神である。だが、その神生みの果てに、悲劇は訪れた。イザナミは火の神を生んだことがもとで命を落とし、比婆山(ひばやま)に葬られた[1]。創造の喜びの果てに訪れた、思いがけぬ死 ── それが、黄泉の物語の発端であった。最愛の妻を失ったイザナギは、その死を受け入れることができず、妻を連れ戻そうと、ついに黄泉国へと足を踏み入れる。
闇のなかでまみえた妻は、すでにこの世に帰れぬ身であった。それでもイザナミは、黄泉の神に相談すると告げ、「その間、決して私の姿を見ないでください」とイザナギに言い残す。だが、あまりに長く待たされたイザナギは、こらえきれずに火を灯してしまう。照らし出された妻の体は、すでに変わり果て、全身から雷(いかづち)を生じていた[1]。あまりの恐ろしさに、イザナギは一目散に逃げ出した。見てはならぬものを見てしまった夫の、破られた約束 ── ここから、二神の壮絶な追走が始まる。
黄泉醜女と、
三つの桃
姿を見られ、辱められたイザナミの怒りは凄まじかった。

요모쓰시코메 (황천추녀)
요모쓰시코메(황천추녀)는 일본 최고(最古)의 신화서 『고사기』(712년)와 『일본서기』(720년)에 등장하는 황천국의 여성 귀신이다. 고사기에서는 '요모쓰시코메(予母都志許売)', 일본서기에서는 '요모쓰시코메(泉津醜女)' 또는 '요모쓰히사메(泉津日狭女)' 등 표기가 다르며, 일본서기는 '여덟 명의 요모쓰히사메'라며 복수형으로 언급한다. 망자의 나라로 내려간 남편 이자나기노미코토가 아내 이자나미노미코토의 부패한 모습을 본 것에 대해 이자나미가 격노하여, 이자나기를 추적하기 위해 보낸 명계의 추격자이다. 야쿠사노이카즈치(여덟 뇌신), 요모쓰이쿠사(황천 군대)와 함께 세 차례의 추격 중 첫 번째를 맡는다. 이자나기는 검은 머리장식을 던져 포도로 변하게 하여 시코메가 먹게 하고, 빗의 빗살을 부러뜨려 던져 죽순으로 변하게 하여 재차 발을 묶었으며, 마지막에는 요모쓰히라사카(황천의 고개)에서 복숭아 세 개(오카무즈미노미코토)를 던져 격퇴했다. 이는 기키(고사기와 일본서기) 신화에서 복숭아의 마귀 퇴치 신앙의 기원 설화이다.
자세히 보기黄泉醜女は、死の国に棲む恐ろしい鬼女である。その名の「醜(しこ)」は、たけだけしく恐ろしいものを意味する。激怒したイザナミは、この黄泉醜女(よもつしこめ)を遣わして、逃げるイザナギを追わせた[1]。鬼女の追跡は執拗をきわめる。イザナギは髪飾りや櫛を投げて山ぶどうや筍を生じさせ、それを醜女が食べる隙に逃げのびようとするが、なおも追っ手は迫ってくる。
そして、現世との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで来たとき、イザナギは最後の手段に出る。坂のふもとに生えていた桃の木から、桃の実を三つもぎ取って投げつけると、追っ手はことごとく退散した。イザナギはこの桃に「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」という神の名を与え、「人々が苦しみ患うとき、自分を助けたように助けてやってほしい」と告げた[1]。桃が魔を祓う力をもつとされる信仰の源流は、この神話にあるといわれる。もっとも、桃を聖なる果実とする観念そのものは、古く中国から伝わったものとされる。仙人の食べる「仙果」として不老長寿をもたらし、邪気を祓うとされた桃の霊力が、日本の神話のなかで、死の国の鬼女を退ける武器となったのである。
千引岩と、
生死の境
桃で追っ手を退けたイザナギだったが、最後には、怒り狂ったイザナミ自身が追ってきた。
イザナギは、千人がかりでようやく動かせるほどの巨石「千引(ちびき)の石」を引いてきて、黄泉比良坂を塞いだ[2]。この石を境に、二神は永遠に引き裂かれる。石を隔てて、イザナミは「あなたの国の人を、一日に千人くびり殺す」と告げ、イザナギは「ならば、私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」と応えた[1]。
この問答こそが、人がかならず死に、それでもなお新たな命が生まれつづける ── そのことわりの起源とされる。死者の数を生者の数が上回るように定められたこの瞬間に、生と死のあいだの、揺るぎない境界が引かれたのである。この黄泉比良坂の伝承地は、島根県松江市東出雲町の揖屋(いや)に伝えられ、今も「千引きの磐座(いわくら)」と呼ばれる岩が残る[2]。
桃の魔除けは、
今も
黄泉の物語が後世に遺したもののなかで、最も身近に生きつづけているのが「桃の魔除け」である。
イザナギを救った桃は、邪気を祓い、魔を退ける聖なる果実として、長く信じられてきた。鬼を退治する昔話の主人公が桃から生まれた「桃太郎」であることも、ひな祭り(桃の節句)に桃の花を飾る習わしも、その根にはこの黄泉神話の記憶がある。目に見えぬ災いを、桃の力で遠ざける ── 古代の人々が死の国の物語に託したその願いは、形を変えながら、今も日本の暮らしのなかに息づいている。
死とは何か、生とは何か。その問いに、日本の神話は、黄泉という暗い国の物語をもって答えた。そして同時に、その闇を払う一条の光として、桃の実を私たちに手渡したのである。
