紀伊半島の深い山々のなかに、熊野本宮大社は鎮まる。熊野速玉大社·熊野那智大社とともに「熊野三山」をなし、全国に約三千社あるといわれる熊野神社の総本社である。
平安の昔から、上皇から庶民にいたるまで、身分を問わぬ人々が、この山深い地を目指して列をなした。その様は「蟻の熊野詣(くまのもうで)」と呼ばれたほどである。なぜ人々は、はるばるこの地へと向かったのか ── それは、熊野が「浄土」、すなわち死してのちに生まれ変わる、蘇りの地と信じられていたからである。
浄土とされた森
熊野本宮大社は、速玉·那智とともに熊野三山を構成し、全国に約三千社ある熊野神社の総本社とされる[1]。その信仰の核心にあるのが、「熊野は浄土である」という考えであった。

구마노 곤겐
구마노 곤겐(Kumano Gongen)은 구마노 삼산(구마노 본궁 대사, 구마노 하야타마 대사, 구마노 나치 대사)에 모셔진 신들의 총칭으로, 일본 고래의 자연 숭배(신토)와 불교가 고도로 융합된 신불습합의 상징적 존재입니다. '곤겐(권현)'이란, 부처나 보살이 일본의 중생을 구제하기 위해 임시(권)로 일본 신의 모습을 취해 나타났다(현)는 의미를 가집니다. 구마노는 예로부터 험준한 산들과 깊은 숲, 바다로 둘러싸인 영지였으며, 거석이나 폭포, 대하(大河)에 대한 경외를 바탕으로 한 원초적인 산악 신앙이 숨 쉬고 있었습니다. 거기에 불교의 정토 사상이나 수험도의 수행 체계가 결합함으로써, 구마노 곤겐은 '현세의 구제'와 '내세의 극락왕생'을 모두 약속하는 강대한 신앙의 대상으로 발전했습니다. 헤이안 시대 후기부터 가마쿠라 시대에 걸쳐서는 역대 상황(상왕)들에 의한 구마노 행차가 빈번히 이루어졌고, 이윽고 신분이나 남녀, 나아가 정(淨)과 부정(不淨)을 불문하고 모든 사람을 끌어들여, 참배객의 행렬이 끊이지 않는 모습을 가리켜 '개미의 구마노 참배'라 일컬을 정도로 일본 최대의 영장이 되었습니다.
자세히 보기神仏習合の進展とともに、熊野三山の神々は仏と同一視された。本宮大社の主祭神は阿弥陀如来、速玉大社は薬師如来、那智大社は千手観音と見なされ、熊野の地そのものが浄土と考えられるようになった[1]。神の社でありながら、仏の浄土でもある ── この重層した信仰こそが、熊野を他に類を見ない聖地たらしめた。神は仏が仮に姿を現したものだとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の考えのもと、熊野の神々は「熊野権現(ごんげん)」と総称された。「権現」とは、仏が人々を救うために神の姿をかりて現れる、という意味である。深い森と川に抱かれたこの地は、あの世とこの世の境にある、神聖な異界とされたのである。
川の中洲の聖地、
大斎原
今でこそ山あいの地に建つ熊野本宮大社だが、その元の鎮座地は、別の場所にあった。
社伝によれば、熊野本宮大社は崇神天皇の代に、熊野川·音無川·岩田川の合流する中洲「大斎原(おおゆのはら)」に創建されたと伝わる[2]。三つの川が出会う中洲という地形そのものが、水に囲まれた聖域としてふさわしかったのだろう。清らかな水に囲まれた中洲は、俗世から切り離された清浄の地であり、参詣者は川の水で身を清めてから神域へと足を踏み入れたという。平安時代には式内社の名神大社に列せられ、熊野信仰の中心として栄えた。
だが、その聖地は思わぬ災厄に見舞われる。明治22年(1889年)、十津川大水害が熊野一帯を襲い、大斎原の社殿は上四社を除いてことごとく流失した。難を逃れた神々は、現在の高台の地へと遷座した[2]。今、もとの大斎原には二基の石祠が残るのみだが、その跡地には日本一の大きさを誇る大鳥居がそびえ、かつての聖地の記憶を今に伝えている。
八咫烏の導き
熊野を語るうえで欠かせないのが、神の使いとされる三本足の烏 ──「八咫烏(やたがらす)」である。
八咫烏は太陽の化身とされ、その三本の足はそれぞれ天·地·人をあらわすという。古くから「導きの神」として篤い信仰を集めてきた[2]。神話では、神武天皇が東征の途上、熊野の険しい山中で道に迷ったとき、この八咫烏が現れて大和へと導いたと伝わる。道を示し、人を正しい方角へと導く神鳥 ── その信仰は今も生きており、日本サッカー協会の紋章に八咫烏が用いられていることはよく知られている。勝利を願うサッカー関係者が、必勝祈願に本宮を訪れることも多い。八咫烏はまた、熊野三山が授ける護符「熊野牛王宝印(ごおうほういん)」にも、烏の文字を組み合わせた独特の図像として刷り込まれている。「おからすさん」とも呼ばれるこの護符は、誓いを破れば熊野の烏が死ぬとされ、固い約束を交わす起請文(きしょうもん)の料紙としても用いられた。
蟻の熊野詣
熊野信仰が頂点をきわめたのは、平安後期から中世にかけてである。浄土をこの世に求める浄土教信仰の高まりとともに、人々はこぞって熊野を目指した。
白河院による天永3年(1116年)の熊野詣が大規模な参詣の契機となり、院政期には歴代の上皇による熊野御幸がさかんに行われた。とりわけ後白河院の参詣は、生涯に三十四回にも及んだという[1]。やがて参詣は貴族だけのものではなくなり、民衆もまた頻繁に熊野へ詣でるようになり、その絶え間ない人の列は「蟻の熊野詣」と呼ばれた[1]。身分の貴賤を問わず、すべての人を受け入れる ── それが熊野の懐の深さであった。都から熊野へと続く道は「熊野古道」と呼ばれ、なかでも紀伊田辺から本宮へ向かう「中辺路(なかへち)」は、多くの参詣者が歩いた主要路であった。山中には王子(おうじ)と呼ばれる末社が点々と置かれ、長い道のりをゆく旅人を見守った。
死と再生の地
なぜ、これほどまでに人々は熊野に惹かれたのか。その根底には、「熊野で再び生まれ変わる」という、蘇りへの切実な願いがあった。
熊野詣は、けわしい山道をたどる苦行の旅である。人々はその道行きを、一度死んで浄土をくぐり、新たな生命を得て帰る道程になぞらえた。那智の地からは、観音の住む補陀落(ふだらく)浄土を目指して、僧侶たちが小船で太平洋へと船出する「補陀落渡海」さえ行われた[1]。生きながら浄土へ渡ろうとするこの捨身の行は、熊野が死と再生の聖地であったことを、何よりも雄弁に物語っている。熊野で生まれ変わるという思想は、過去の罪や穢れをいったん洗い流し、まっさらな自分として再び歩み出すという、再生への祈りでもあった。だからこそ、あらゆる人が救いを求めて、この地を目指したのである。本宮の主祭神·家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)は、しばしば須佐之男命(すさのおのみこと)と同一視されるが、その素性には諸説があり、いまだ謎に包まれている。謎めいた神を祀る森が、人々にとって、生死の境を越える特別な場所であったことは間違いない。
蘇りの森は、
今も
明治の大水害を越え、神々が高台へと遷ってもなお、熊野本宮大社は蘇りの聖地でありつづけている。平成16年(2004年)には、熊野三山と参詣道「熊野古道」が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、今では国内外から多くの参詣者·旅人が、古道を歩いてこの地を訪れる。
上皇も、庶民も、そして今を生きる私たちも ── 人はみな、何かに行き詰まったとき、自らを新たにしたいと願う。その願いを千年のあいだ受けとめてきたのが、紀伊の山深くにある、この蘇りの森である。熊野をはじめとする和歌山の信仰と妖怪の全体像は和歌山県の妖怪事典も併せて読まれたい。
