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Tanba Province 都の北西を守る境の国。丹波国の妖怪

酒呑童子・茨木童子・姥ヶ火・釣瓶落とし。湖と河と峠の怪

都の北西を守る境の国。
丹波国の妖怪

Tanba Province · たんば

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都の北西、山城国と境を接する内陸の盆地に、丹波という古い国があった。現在の京都府中部(亀岡・南丹・福知山)と兵庫県東部(丹波篠山・丹波市)にまたがる山々と河谷の国である。「たには」と訓まれたこの地名は、『和名類聚抄』に「太迩波」と記され、その語源を『諸国名義考』は「田庭」(平らで広い耕地)に求める。律令制以前の旧丹波はさらに広く但馬・丹後を抱え込んでおり、713年(和銅6)に北方五郡が丹後国として分立して、都に近い諸郡が丹波国となった。

平安京から見れば、丹波は北西に開く裏口であった。鬼門(北東)を比叡山が、裏鬼門(南西)を石清水八幡が固める一方で、丹波へ抜ける老ノ坂の峠道は、都の結界が最も薄くなる方角に当たる。だからこそ、この境の国には鬼が住んだ。

Shuten Dōji

SHOU-ten DOH-ji

Chef d’un grand oni qui enlevait des gens autour de la capitale à l’époque de Heian. Ivrogne notoire, il vivait dans un pavillon en montagne avec sa bande d’oni et attaquait les voyageurs. Son nom vient de son goût pour l’alcool; « dōji » renvoie à une apparence de novice ou de jeune homme. Il fut abattu par Minamoto no Raikō et ses Quatre Rois Célestes; sa tête continua de mordre même après la décapitation. Son repaire varie selon les versions (mont Ōe, mont Ibuki, mont Atago), et sa localisation aurait été fixée par la divination des onmyōji.

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丹波の妖怪を辿ることは、都が「外」をどう想像したかを辿ることでもある。湖を拓いた神の伝承、一宮に祀られた出雲の神、保津川に立つ怪火、峠道の古木から落ちてくる生首 ── そのどれもが、盆地と河谷と国境という丹波固有の地理に根を張っている。本記事は都の妖怪事典である京都府の妖怪事典の北西を補う一篇として、丹波国の四体の怪を地に即して読み解く。

湖を拓いた神の国 ── 亀岡盆地と出雲大神宮

丹波の中心は、古代には桑田郡、いまの亀岡市あたりにあった。丹波国府の所在は確定していないが、桑田郡(亀岡)に置かれたとみるのが通説で、保津川と園部川が集まるこの盆地が、国の政治と祭祀の核であった。

この盆地には、神話的な地形伝承が伝わる。かつて亀岡盆地は一面の湖であり、その水面が美しく赤く照り映えたことから「丹の湖」「丹波」と呼ばれた ── そして出雲の神・大国主命がこの湖の縁を蹴り裂き、保津峡を開いて水を流し、現れた肥沃な土地を人の住む国に拓いた、という。京都府埋蔵文化財調査研究センターの研究は、この「亀岡湖伝説」(蹴裂伝説)が盆地内の桑田神社・請田神社などの社伝や口承として伝えられてきたもので、統一された一つの物語ではなく、各社が少しずつ異なる形で語り継いできたと整理している。学術的な裏づけは乏しく、あくまで伝承の域を出ない ── だが、盆地という閉じた地形が「もとは湖だった」という想像を呼ぶこと自体が、丹波の地の記憶のかたちである。

水を拓いた神が大国主であることは、偶然ではない。亀岡市千歳には、大国主命を主祭神とする出雲大神宮が鎮座する。御蔭山を神体山とするこの古社は丹波国一宮であり、和銅2年(709)の創建と伝える。注目すべきは、社伝が「出雲大社のほうが当社から勧請を受けた」と語り、「元出雲」を通称とする点である。史実としての先後は措くとしても、山陰の出雲神話の圏が、都の北西の盆地にまで一つの大国主信仰として伸びていたことは確かで、湖を拓く神の伝承はその信仰の地層の上に立っている。

境の鬼 ── 大江山と酒呑童子

丹波の妖怪を語るとき、避けて通れないのが鬼である。都の女房を攫い、酒を好み、源頼光と四天王に討たれた鬼の頭領・酒呑童子。その住処として最も名高いのが、丹波(と丹後の境)の大江山であった。

Ibaraki-dōji

i-ba-ra-ki DOH-ji

Oni de l’époque de Heian, bras droit de Shuten-dōji. Son origine est attribuée soit à la province de Settsu (Tomatsu, Ibaraki), soit à la province d’Echigo (district de Koshi, Karuizawa). On raconte qu’il manifesta dès l’enfance une apparence étrange et une force prodigieuse. Rejoint les brigands du mont Ōe et terrorisa la capitale, mais la troupe de Minamoto no Yorimitsu les écrasa ; Ibaraki-dōji s’échappa de justesse. Plus tard, Watanabe no Tsuna lui trancha le bras, que l’oni, métamorphosé, parvint ensuite à reprendre—un épisode largement repris dans les récits médiévaux, le nô et le kabuki.

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ただし「大江山」がどの山を指すかは、時代によって揺れている。今日では京都府福知山市・与謝野町・宮津市にまたがる千丈ヶ嶽(大江山連峰)を舞台とするのが通説だが、平安から鎌倉にかけての都人にとって「おおえやま」といえば、山城と丹波の国境にある老ノ坂(大枝山)を連想するほうが自然だった。老ノ坂は都から山陰道へ抜ける最初の峠であり、まさに都の北西の境である。頼光が討ち取った酒呑童子の首を埋めたとされる首塚(首塚大明神)も、この峠に残る。鬼が都に最も近づける道、そして首が都に入れず葬られた境界 ── 老ノ坂は二重に「境の地」であった。

現存最古の絵巻である『大江山絵詞』(逸翁美術館蔵、南北朝末-室町初期)は、鬼の住処が陰陽師の占によって突き止められ、頼光らが山伏に身をやつして分け入り、神々から授かった神便鬼毒酒で酒呑童子を酩酊させて討つ筋を伝える。御伽草子系ではさらに出生譚や住処の異伝が増補された。大江山の鬼退治譚そのものは landmark としての大江山の頁に深く譲るとして、ここで丹波の地理から見ておきたいのは、この鬼が「都の北西の山に拠って都を脅かした」という構造である。

酒呑童子の副将格として名を連ねるのが、茨木童子である。その出生は摂津国(富松・茨木の里)説と越後説があり、丹波の生まれではない。にもかかわらず茨木童子が丹波に結びつくのは、大江山の賊徒として酒呑童子の片腕とされたからにほかならない。最もよく知られる説話は、『平家物語』剣巻系に基づく。渡辺綱が一条戻橋で美女に出会い馬に乗せたところ、女は鬼と化して綱の髻を掴み愛宕山へ攫おうとする。綱は名刀髭切で鬼の片腕を斬り落とし、以後この刀は鬼切と呼ばれた。綱が持ち帰った腕は、のちに伯母(養母)に化けた鬼が奪い返して飛び去る ── この鬼を茨木童子と同定するのは後世の付会で、剣巻そのものは鬼の名を明示しない。腕を斬られた場所(一条戻橋)も腕を取り返す場所も都(山城)であって、丹波そのものではない。それでも茨木童子が丹波の名簿に並ぶのは、大江山という拠点が酒呑童子と茨木童子を一つの説話圏へ束ねたからである。境の鬼の物語は、摂津・越後・山城・丹波を一本の鎖でつないでいる。

河の怪火 ── 保津川に立つ姥ヶ火

盆地を拓いた大国主が水を流した先が、保津峡であり保津川である。亀岡盆地から嵐山へと深い峡谷を刻んで流れ下るこの川は、丹波の物資を都へ運ぶ筏と舟運の道であると同時に、怪火の現れる場所として語られた。

Feu de la Vieille (Ubagabi)

ou-ba-ga-bi

L’Ubagabi est une flamme spectrale apparaissant les nuits de pluie, surtout à Hiraoka (Kawachi) et le long de la rivière Hozu (Tanba). Elle vole comme une boule de feu d’environ 30 cm, prenant parfois le visage d’une vieille femme ou la forme d’un oiseau. On la dit née de la malédiction d’une vieille voleuse d’huile au sanctuaire Hiraoka, ou du châtiment céleste frappant une vieille ayant abandonné son enfant. Toucher cette flamme annoncerait le malheur.

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姥ヶ火は、雨夜などに現れる一尺ほどの火の玉である。飛ぶうちに老女の顔や鳥の姿を見せ、人の肩をかすめると不吉をもたらすという。この怪火が最もよく知られるのは河内国の枚岡(現・大阪府東大阪市)で、『諸国里人談』は枚岡神社の灯油を盗んだ老女の祟りが怪火となったと記し、『西鶴諸国ばなし』の「身を捨て油壷」は、一里を瞬く間に飛ぶこの火が「油さし」と唱えると消えると伝える。鳥山石燕も『画図百鬼夜行』に図像を残した、近世にはよく知られた怪火である。

丹波における姥ヶ火の独自性は、その出自譚にある。山岡元隣『古今百物語評判』(天和3年・1686刊)は、丹波の保津川で子を捨てた老女が溺死し、それ以後、川面に怪火が立つようになったと語る。河内の枚岡が「油盗みの祟り」であるのに対し、丹波の保津川では「子を捨てた母の溺死」という、河と母性をめぐる重い悔恨が怪火の核に置かれている。同じ姥ヶ火の名でも、土地が変われば物語の罪も変わる。深く狭い峡谷を流れる保津川の水音と暗さが、この川辺の母の火を呼んだのだろう。怪火は枚岡から山城を経て丹波へと往還しながら、その土地ごとの記憶を吸い込んでいった。

古木から落ちる怪 ── 釣瓶落としの故地

丹波が日本の妖怪史において持つもう一つの重みは、釣瓶落としの主要な伝承地であるという点にある。秋の日没のように、暗い梢からいきなり落ちてくるこの怪は、亀岡を含む丹波の山間の街道に色濃く伝わってきた。

Tsurube-otoshi

つるべおとし

Le *Konjaku Gazu Zoku Hyakki* (1779) de Toriyama Sekien n'inclut pas le Tsurube-otoshi — ce que Sekien a dépeint est un yōkai apparenté, le "Tsurubebi", inclus dans son œuvre précédente *Gazu Hyakki Yagyō* (1776). La source originale du Tsurubebi est le *Kokon Hyaku Monogatari Hyōban* de Yamaoka Genrin (publié en 1686 ; le conte du "Tsurube-oroshi de Nishinooka"), qui théorisait le phénomène de l'esprit d'un grand arbre se transformant en boule de feu et descendant les nuits de pluie en utilisant la théorie des Cinq Éléments (le Bois engendre le Feu). Le Tsurube-otoshi est principalement documenté dans des matériaux locaux et des recueils de folklore de la période Taishō, tels que le *Kuchidanba Kōhishū*, et constitue une légende locale des routes de montagne, des cols et des arbres anciens dans les régions de Chūbu et du Kansai. Il est réparti à travers Kyoto, Gifu, Shiga, Wakayama, Hyogo et Aichi dans les zones du Chūbu et du Kinki, et se divise en deux lignées : le type de Kyoto (prédateur ; une tête coupée tombe de vieux pins ou d'arbres kaya pour dévorer les gens) et le type de Gifu-Shiga (intimidant ; laisse tomber un seau de puits pour effrayer les gens). Le visuel moderne d'une "tête coupée au visage rouge" dépend de l'œuvre de Shigeru Mizuki et ne correspond pas à la forme standard originale des légendes locales. L'expression idiomatique "les jours d'automne tombent comme un tsurube (seau de puits)" partage la même source métaphorique avec le yōkai, mais il n'y a pas de lien direct entre eux.

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まず、根強い誤解を正しておく必要がある。鳥山石燕が描いたとしばしば言われるが、『今昔画図続百鬼』(1779)に釣瓶落としは収録されていない。石燕が描いたのは類縁の「釣瓶火」で、こちらは前作『画図百鬼夜行』(1776)所収である。釣瓶火の原典は、まさに丹波と縁の深い『古今百物語評判』(1686)の「西の岡の釣瓶おろし」譚であり、大木の精霊が雨夜に火の玉となって木から降りる怪を、元隣が五行説(木は火を生む)で理論づけたものだった。江戸期に「釣瓶落とし」という名で図像化された一次史料は確認できず、この妖怪はもっぱら明治から大正期の郷土誌・口承採集に登場する在地伝承である。釣瓶落としを掲げるなら、その故地は石燕の絵筆ではなく、丹波の街道筋の語りの中にこそ求めねばならない。

その語りの宝庫が、丹波である。大正期の郷土研究『口丹波口碑集』は、亀岡周辺の釣瓶落としを具体的な字(あざ)の名とともに記録している。南桑田郡曽我部村字法貴(現・亀岡市曽我部町)では、カヤの木から落ちてきて「夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい」とゲラゲラ笑いながら再び上っていったという。同じ曽我部村字寺では、古松から生首が降りて人を喰らい、飽食すると2、3日は現れなかったと伝わる。船井郡富本村(現・南丹市八木町)ではツタの絡まる松に、大井村字土田(現・亀岡市大井町)では人を食う怪として語られた。古松・カヤ・杉といった峠道や寺社境内の古木に宿る怪 ── これが丹波の釣瓶落としの素顔である。

この妖怪は、地域によって性格を大きく変える。京都(丹波)系は人を喰らう捕食型で、岐阜・滋賀系は釣瓶(井戸の桶)を木の上から落として驚かすだけの脅嚇型である。丹波の釣瓶落としが「飽食した日は2、3日現れない」という捕食のリズムまで備えた殺害妖怪として恐れられたのに対し、隣接圏の同名の怪は実害の少ない物笑いに近い。釣瓶落としの分布は京都・岐阜・滋賀・和歌山・兵庫(丹波篠山)・愛知の中部・近畿に集中し、その中で丹波は最も凶暴な捕食型の核心をなしている。なお、現代に広く流通する「赤ら顔の生首」の像は水木しげるの作画系統に由来するもので、在地伝承本来の標準形ではない ── 丹波の語りでは、生首・声を伴う精霊・無形の桶へと、その姿は一様ではなかった。

結び ── 都の北西を守る、
語りの境

丹波の四体を並べると、この国の妖怪が一本の地理に貫かれていることが見えてくる。盆地を拓いた大国主の蹴裂、その水が流れ下る保津川の母の火、都へ抜ける老ノ坂の鬼、街道の古木から落ちる生首 ── すべてが「湖と河と峠」という丹波の地形そのものに根を張っている。

そして四体に共通するのは、丹波が「境の国」であるという位相だ。酒呑童子と茨木童子は都と山陰を分かつ大江山・老ノ坂の鬼であり、姥ヶ火は河内から山城を経て保津川へ流れ着いた怪火であり、釣瓶落としは中部・近畿の山間街道を渡り歩いた怪である。いずれも一つの土地に閉じず、境を越えて往還しながら、丹波という結節点で固有の語りを結んだ。都が鬼門と裏鬼門を結界で固めたその裏側で、北西に開いた丹波の峠と河谷は、怪が都へ通い、また都から押し出される通り道であり続けた。

千年の都の妖怪を知りたければ、その北西の境に立つ丹波を見なければならない。鬼の都・大江山の深部、そして京都全体の妖怪文化の宏観については京都府の妖怪事典に譲るが、その都を都たらしめた「外」の最初の一歩が、この丹波国だったのである。

Tous les yokai de Tanba Province5

Liste complète des yokai liés à Tanba Province, y compris ceux non traités dans l'article ci-dessus.

  • Toyouke

    Toyouke

    Divin

    とようけのおおみかみ

    Toyouke-Omikami, la Grande Divinité du Geku Présidant aux Repas Sacrés

    神霊・神格Hiji-no-Manai, Province de Tanba (Actuelle région de la ville de Miyazu, préfecture de Kyoto) / Geku (Toyouke Daijingu) du sanctuaire d'Ise (Actuelle ville d'Ise, préfecture de Mie)

    Le cœur de Toyouke-Omikami réside dans le fait de placer le simple fait du « dieu qui mange » au centre des rites religieux. Amaterasu-Omikami est la déesse ancestrale impériale, et le Naiku est le centre du sanctuaire d'Ise, mais le système d'offrande des repas sacrés à Amaterasu est soutenu par le Geku. Quand l'histoire officielle du sanctuaire d'Ise appelle Toyouke la Miketsu-kami d'Amaterasu-Omikami, cela ne signifie pas simplement qu'elle est une déesse en charge de la nourriture. L'acte même de purifier le riz, l'eau, le sel et le feu, et de les offrir quotidiennement pour que la déesse du soleil puisse continuer à être accueillie en tant que déesse du soleil, est déifié. L'histoire de l'établissement du Geku dépeint Toyouke comme un « dieu invité parce qu'elle était nécessaire. » Dans les explications officielles du Jingu basées sur le *Toyouke-gu Gishikicho*, Amaterasu apparaît dans le rêve de l'Empereur Yuryaku, déclarant qu'être seule à un endroit est douloureux et qu'elle ne peut pas profiter paisiblement de ses repas sacrés, demandant ainsi que la Toyouke-Omikami résidant à Hiji-no-Manai soit amenée à ses côtés. Ici, Amaterasu ne nomme pas Toyouke depuis une position supérieure ; au contraire, centrée sur la nécessité de manger, elle *a besoin* de Toyouke. Le cœur du mythe n'est pas la domination, mais une relation de fourniture et de dépendance. Cette relation est jouée quotidiennement à travers le *Higoto Asayu Omikesai*. Deux fois par jour, matin et soir, au Mikeden du Geku, du riz, de l'eau, du sel, et d'autres articles sont offerts aux divinités du Naiku, du Geku, et des sanctuaires auxiliaires. Les articles du repas sacré sont strictement prescrits, cuisinés en utilisant le feu spécialement allumé dans l'Imibiyaden, et purifiés avec l'eau sacrée puisée au sanctuaire Kami-no-Mi'i. Le pouvoir de Toyouke ne se manifeste pas en un instant comme le tonnerre ou une épée. Il apparaît dans la répétition ininterrompue d'allumer le feu, puiser l'eau, cuire le riz, l'offrir, réciter les prières, et de recommencer tout cela le lendemain matin. Les détails des repas sacrés nous apprennent que Toyouke n'est pas un vague symbole de la « nourriture en général. » Non seulement le riz, mais l'eau, le sel, le saké, le poisson, les algues, les légumes et les fruits sont désignés, et des baguettes sont fournies. Il ne s'agit pas simplement de placer les produits de la nature tels qu'ils sont ; c'est une série d'étiquettes par lesquelles les humains les offrent aux dieux à travers le feu, l'eau et les récipients. La vertu divine de Toyouke englobe à la fois la production de la récolte et le processus de sa purification, de sa présentation devant les dieux, et de son établissement en tant que prière. Dans le mythe, Toyouke apparaît sous de multiples noms : Toyouke-bime-no-Kami, Toyuuke-no-Kami, et Toyouke-Omikami. La base de données Kokugakuin identifie Toyouke-bime comme l'enfant de Wakumusubi, notant la possibilité de la lire comme l'esprit de la nourriture ou du riz. D'autre part, concernant Toyuuke-no-Kami, bien que considérée comme la divinité du Geku d'Ise, un débat prudent demeure sur sa position dans le texte du *Kojiki* et si elle est exactement la même divinité. En d'autres termes, Toyouke n'est pas une divinité complètement fermée dans un seul texte classique. Elle est une divinité avec l'épaisseur de l'histoire rituelle elle-même, formée en superposant la déesse de la nourriture du *Kojiki*, les traditions Manai de Tanba/Tango, et les rites du Geku d'Ise. La coutume du *Geku-sensai* (vénérer d'abord au Geku) est aussi une clé pour comprendre cette divinité. Dans les festivals du Jingu, la Miketsu-kami est vénérée d'abord au Geku avant de passer au Naiku. Cela ne signifie pas que le Geku est supérieur en statut au Naiku. Cela représente plutôt l'ordre de préparation de l'acte d'offrir de la nourriture à la divinité suprême avant de vénérer cette divinité suprême. Toyouke n'usurpe pas le centre. Mais elle accomplit discrètement et préventivement ce qui est nécessaire pour que le centre continue d'être le centre. Cet acte de « remplir préventivement » est précisément ce qui fait ressortir Toyouke non pas comme un dieu auxiliaire, mais comme le dieu se tenant à la porte du rituel. Le sentiment que la nourriture doit être préparée avant d'accueillir les dieux montre que la prière commence avec les procédures de la vie quotidienne. Cette figure est facile à comprendre pour les lecteurs modernes. Ceux qui cuisinent, ceux qui soutiennent la table à manger, ceux qui cultivent les champs, et ceux qui commencent leur travail nécessaire à la même heure chaque matin ne deviennent souvent pas les protagonistes de l'histoire. Mais au moment où cette répétition est perdue, la vie quotidienne et les rites religieux s'arrêtent. Toyouke-Omikami n'est pas seulement dans les coulisses du mythe. Depuis le Geku, elle continue discrètement de nous montrer que la préparation de la nourriture elle-même est l'acte central qui anime l'ordre des dieux.

  • Ibaraki-dōji

    Ibaraki-dōji

    Légendaire

    i-ba-ra-ki DOH-ji

    Ibaraki-dōji (selon les récits traditionnels)

    人妖・半人半妖Province de Settsu ou province d’Echigo (selon les sources)

    Interprétation fondée sur l’image façonnée par les chroniques guerrières médiévales, les otogizōshi et le théâtre de l’époque d’Edo. Premier lieutenant de Shuten-dōji, il tient le mont Ōe avant de fuir face à la ruse de Raikō. En épilogue, les récits de l’Ichijō Modoribashi et de la porte Rashōmon content l’épisode du bras tranché et repris par Watanabe no Tsuna. Lieu de naissance et sexe font débat, mais des traces subsistent en traditions locales de Settsu et d’Echigo. Ici, on suit la trame la plus diffusée dans les sources, en évitant tout embellissement superflu.

  • Shuten Dōji

    Shuten Dōji

    Légendaire

    SHOU-ten DOH-ji

    Shuten-dōji d’Ōeyama

    人妖・半人半妖Provinces de Tanba et de Yamashiro (monts Ōe, Atago, etc., versions variées)

    Figure du chef ogresque retranché à Ōeyama, menant ses démons. Il descend au village déguisé en moine ou en jeune guerrier, exploitant ivresse, désir et faiblesses humaines. En banquet, il feint l’hospitalité, mais n’est qu’un ravisseur féroce. Dans les récits de chasse, un serment sacré fut détourné contre lui et un vin empoisonné l’affaiblit. On dit que recevoir des visiteurs en habits de yamabushi scella son destin.

  • Feu de la Vieille (Ubagabi)

    Feu de la Vieille (Ubagabi)

    Épique

    ou-ba-ga-bi

    Ubagabi (conforme aux récits traditionnels)

    自然現象・自然霊Province de Kawachi et province de Tanba (Japon)

    Version de référence fondée sur les essais et récits de fantômes de l’époque d’Edo. En Kawachi, on raconte qu’une vieille femme ayant volé l’huile d’un sanctuaire devint après sa mort un feu étrange errant les nuits de pluie autour des portails et des chemins villageois. En Tamba, il est lié aux noyades de la rivière Hozu, redouté comme des lueurs se massant à la surface. Sa forme est une boule de feu orangée d’environ un pied, parfois marquée d’un visage de vieille ou d’une silhouette d’oiseau. La rencontre est tenue pour un funeste présage, et des exemples mentionnent qu’il recule face à l’interpellation ou à des mots tabous. En arrière-plan se trouvent l’huile des sanctuaires, l’abandon d’enfants et les drames aquatiques, faisant de ce feu errant un symbole des tabous locaux et des croyances.

  • Tsurube-otoshi

    Tsurube-otoshi

    Peu commun

    つるべおとし

    Tête Coupée Tombant des Arbres Anciens : Tsurube-otoshi

    Monstres des montagnes et des champsVillage de Sogabe, district de Minamikuwada (actuellement Sogabe-cho, ville de Kameoka), village de Tomimoto, district de Funai (actuellement Yagi-cho, ville de Nantan), et village d'Ooi Tsuchida (actuellement Ooi-cho, ville de Kameoka), préfecture de Kyoto / Village de Kuze, district d'Ibi (actuellement Ibigawa-cho), préfecture de Gifu / Ville de Hikone, préfecture de Shiga / Kuroe, ville de Kainan, préfecture de Wakayama / Ville de Tamba-Sasayama, préfecture de Hyogo / Région montagneuse de Mikawa, préfecture d'Aichi

    Correction Académique (Note la plus importante pour cette Espèce) : Les monstres inclus dans le volume "Mei" du *Konjaku Gazu Zoku Hyakki* (1779) de Toriyama Sekien sont Nue, Itsumade, Jami, Mōryō, Mujina, Nobusuma, Nozuchi, Tsuchigumo, Hihi, Dodomeki, Buruburu, Gaikotsu, Tenjō-sagari, Ohaguro-bettari, Ōkubi, Dodomeki, Kanedama et Amanozako (18 entités au total), et le Tsurube-otoshi n'y figure pas. Ce que Sekien a dessiné était le yōkai apparenté Tsurubebi, qui était inclus dans le *Gazu Hyakki Yagyō* (1776) — le prédécesseur du Zoku Hyakki. Le texte original du Tsurubebi est le *Kokon Hyaku Monogatari Hyōban* de Yamaoka Genrin (publié en 1686 ; l'histoire du "Tsurube-oroshi de Nishinooka" à Nishiyama, Kyoto), qui théorisait l'étrange phénomène de l'esprit d'un grand arbre se transformant en boule de feu et descendant de l'arbre les nuits de pluie en utilisant la théorie des Cinq Éléments (le Bois engendre le Feu). Autrement dit, le "Yōkai Tsurube-otoshi (une tête coupée ou un masque de démon tombant d'un arbre)" et le "Tsurubebi de Sekien (un feu mystérieux tombant d'un grand arbre)" sont des lignées distinctes qui ont divergé après l'ère Shōwa, et Sekien n'a pas directement représenté le premier. Il n'existe pas de sources visuelles primaires portant le nom "Tsurube-otoshi" de la période Edo, et il apparaît principalement comme folklore local dans les archives topographiques et les recueils de folklore de la période Taishō. C'est une correction essentielle qui doit être précisée pour maintenir la qualité académique de yokai.jp, et la "théorie de l'iconification de Sekien de 1779" largement répandue devrait être explicitement démentie. Les documents principaux sur le Tsurube-otoshi sont des recueils de folklore et des matériaux locaux de l'ère Taishō. L'étude régionale de Kyoto *Kuchidanba Kōhishū* (un recueil de l'ère Taishō du folklore des districts de Minamikuwada et Funai) sert de document historique central, l'enregistrant comme une légende locale des routes de montagne, des cols et des vieux arbres dans les régions du Chūbu et du Kinki. Le fait que la source primaire ne soit pas l'iconographie de la période Edo mais un recueil de tradition orale locale est une caractéristique unique de ce yōkai, ce qui en fait un cas exceptionnel qui ne correspond pas à la généralisation selon laquelle "les yōkai proviennent de l'iconification de la période Edo". Le folklore local du Tsurube-otoshi est concentré dans les régions du Chūbu et du Kinki : ① Préfecture de Kyoto — Hōki, village de Sogabe, district de Minamikuwada (actuellement Sogabe-cho, ville de Kameoka ; tombe d'un arbre kaya, rit "Avez-vous fini votre travail de nuit ? Dois-je laisser tomber le seau ? Grin, grin" et remonte), Tera, village de Sogabe (une tête coupée descend d'un vieux pin, dévore les gens et disparaît pendant 2-3 jours lorsqu'elle est rassasiée), village de Tomimoto, district de Funai (actuellement Yagi-cho, ville de Nantan ; un pin couvert de lierre), Tsuchida, village d'Ooi (actuellement Ooi-cho, ville de Kameoka ; mange les gens) — documenté dans l'étude régionale de la période Taishō, *Kuchidanba Kōhishū*. ② Village de Kuze, district d'Ibi, préfecture de Gifu (actuellement Ibigawa-cho) — lâche un seau depuis un grand arbre qui est sombre même en journée. ③ Ville de Hikone, préfecture de Shiga — lâche un seau depuis les branches d'un arbre en visant les passants. ④ Kuroe, ville de Kainan, préfecture de Wakayama — légendes similaires. ⑤ Ville de Tamba-Sasayama, préfecture de Hyogo. ⑥ Région montagneuse de Mikawa, préfecture d'Aichi (folklore dans le village de Toyone, etc.). Il a pour caractéristique géographique de se concentrer autour d'arbres anciens (pin, kaya, cèdre, zelkova) le long des routes de montagne, des cols et des enceintes de sanctuaires dans les zones du Chūbu et du Kinki. Son comportement se divise en deux selon les régions : La lignée de Kyoto est prédatrice (mangeant des humains et restant rassasiée 2-3 jours), ce qui en fait un yōkai mortel ; la lignée de Gifu-Shiga est intimidante (laissant simplement tomber un seau pour faire peur), causant peu de dommages réels. La lignée de Kyoto présente un modèle prédateur spécifique où il "n'apparaît pas pendant 2-3 jours lorsqu'il est repu", et il était craint comme un monstre meurtrier plutôt qu'un simple farceur. D'un autre côté, la lignée de Gifu-Shiga, comme son nom l'indique, laisse simplement tomber un "tsurube (seau de puits)" d'un arbre pour surprendre les gens, un yōkai relativement inoffensif situé entre une "menace surnaturelle" et un "sujet de rire". Bien qu'il porte le même nom de "Tsurube-otoshi", l'entité elle-même varie considérablement selon la région, offrant un excellent exemple de la diversité régionale des légendes locales. Le visuel moderne d'une "tête de vieillard rouge, barbu et échevelé" dépend fortement des illustrations de Shigeru Mizuki et n'est pas la forme standard originale dans le folklore local. La forme originale varie considérablement selon la région, se divisant en trois lignées : ① Une tête coupée solitaire (Tera, village de Sogabe, Kyoto), ② Un monstre informe qui laisse tomber un seau de puits lui-même (Gifu et Hikone, Shiga), et ③ Un type d'esprit accompagné de rires et de paroles (Hōki, village de Sogabe, Kyoto). L'image de la "tête coupée rouge" a été popularisée par les mangas et animes de Shigeru Mizuki tels que *GeGeGe no Kitarō* et *Akuma-kun*, devenant l'image générale moderne, mais d'un point de vue folklorique, la forme standard a changé avant et après Mizuki. C'est également une illustration parfaite de l'impact décisif qu'a eu la "Culture Yōkai de Mizuki" sur la perception qu'ont les Japonais des yōkai. L'expression "les jours d'automne tombent comme un tsurube" (une métaphore comparant l'assombrissement rapide du coucher de soleil automnal au mouvement d'un seau de puits et d'une corde plongeant d'un coup) n'a pas de lien direct de lignée avec le yōkai Tsurube-otoshi. Ils partagent la même source métaphorique d'"un seau de puits = quelque chose qui tombe rapidement", mais l'expression idiomatique a été établie indépendamment comme une expression météorologique. Cependant, le fait que le concept de l'appellation du yōkai (les trois éléments de vitesse de chute, d'obscurité et de surprise) repose sur la même base métaphorique que l'idiome est remarquable sur le plan de l'histoire culturelle — démontrant la richesse de la culture métaphorique japonaise, où un outil quotidien comme un "seau de puits" a évolué à la fois en une expression météorologique et en un nom de yōkai. Distinctions par rapport aux yōkai similaires : ① Tsurubebi (le feu mystérieux tombant d'un arbre dans le *Gazu Hyakki Yagyō* de Sekien, qui, comme mentionné, est la lignée d'origine de la période Edo qui a divergé du Tsurube-otoshi dans les temps modernes), ② Kodama (les esprits des arbres en général ; le Tsurube-otoshi est un "monstre individuel résidant dans un arbre ancien spécifique", une variante de la lignée kodama), ③ Kosoma (un phénomène surnaturel acoustique faisant des bruits de hache et d'arbres qui tombent dans les montagnes, de nature différente du Tsurube-otoshi qui compte principalement sur des attaques visuelles de chute), ④ Les lignées de têtes coupées (Otoshikubi, Kubikireuma, etc. ; ils partagent l'aspect de la "tête", mais la tête coupée de la lignée de Kyoto dans le Tsurube-otoshi est une entité yōkai indépendante, et non un monstre de décapitation). La série de yōkai en quatre parties de Toriyama Sekien comprend le *Gazu Hyakki Yagyō* (1776) → *Konjaku Gazu Zoku Hyakki* (1779) → *Konjaku Hyakki Shūi* (1781) → *Hyakki Tsurezure Bukuro* (1784), et toutes les images sont accessibles publiquement sur la NDL Image Bank de la Bibliothèque de la Diète nationale. Le Tsurubebi est inclus dans le volume "In" du *Gazu Hyakki Yagyō*. Lors de l'inscription du Tsurube-otoshi sur yokai.jp, il doit être clairement indiqué que typeOfSource = "Folklore local (Chūbu/Kinki)" et firstAttestedSource = *Kuchidanba Kōhishū* de la période Taishō, tout en niant explicitement la désinformation répandue de la "théorie de l'iconification de Sekien de l'époque Edo". Dans la culture yōkai moderne, il a été popularisé par le *Yōkai Zukan* de Shigeru Mizuki et la statue de bronze sur la *Mizuki Shigeru Road* (ville de Sakaiminato, préfecture de Tottori), et apparaît comme un yōkai de Kyoto dans *GeGeGe no Kitarō* (doubleur 3ème saison : Masato Hirano, 5ème saison : Hisao Egawa) et *Le Clan des Yakuza Yōkai* (Nurarihyon no Mago). En tant qu'excellent exemple d'un yōkai populaire issu de la tradition orale locale et popularisé par les œuvres de Shigeru Mizuki, le Tsurube-otoshi est une étude de cas importante montrant le mécanisme de modernisation de la culture yōkai japonaise — un yōkai fascinant situé à l'intersection des études folkloriques, de l'histoire de l'art et de la théorie des médias, démontrant un itinéraire de circulation des yōkai modernes allant du folklore local non illustré de l'époque Edo à la collecte orale de l'ère Taishō, à la vulgarisation de Mizuki, et aux animes et jeux modernes.

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