近江(おうみ)という国の名は、湖から生まれた。古代の人々は琵琶湖を「淡海(あふみ)」── 真水の海と呼び、都に近いこの湖を、遠江(とおとうみ)の浜名湖に対して「近(ちか)つ淡海」と名づけた[1]。やがて「近淡海」が「近江」へと縮まる。国の名そのものが、中央に横たわる巨大な湖の存在証明なのである。
近江国は東山道に属し、湖の東を東山道が、西を北陸道が貫き、平安期には東海道もここを通った。東国と西国を分かつ境であり、都へ入る者も都を出る者も、必ずこの水と道の国を踏む ── 近江は、日本列島の交通の臍(ほぞ)であった。この稿では、現代の滋賀県の妖怪事典が湖国全体の怪を見渡したのを承けて、もう一段だけ時を遡る。古代に都が置かれ、英雄が斃れ、最古の人魚が記された「淡海の都」── 令制国としての近江に、妖怪と怪異がどう根を張ったかをたどりたい。
淡海の都 ── 大津宮と壬申の乱の記憶

近江を語るとき、避けて通れないのが、ここがかつて日本の都であった事実だ。天智天皇六年(六六七年)、中大兄皇子は飛鳥から近江へ都を遷し、翌年、天智天皇として即位する[2]。白村江の敗戦(六六三年)で唐と新羅の脅威にさらされた朝廷が、湖に守られた要害の地を選んだのだといわれる。この近江大津宮で、全国規模では初の戸籍とされる庚午年籍(こうごねんじゃく)が編まれた。
だが都の命は短かった。六七一年に天智が崩じると、翌六七二年、天智の子・大友皇子と弟・大海人皇子のあいだで皇位を争う壬申の乱が起こる[3]。激戦の末に大海人皇子(のちの天武天皇)が勝ち、都は再び飛鳥へ戻った。近江大津宮は、わずか五年余で歴史から退場する。古代最大の内乱が決した地 ── その記憶が、近江の地層の最も古い層に刻まれている。妖怪や怨霊の物語が、のちにこの国でかくも濃く育つのは、ここが「都であったが都でなくなった土地」だったことと、けっして無縁ではないだろう。
その大津宮と畿内とをつなぐ咽喉(のど)が、瀬田の唐橋であった。琵琶湖から流れ出る川はただ一本、瀬田川しかない。湖の水がすべてここを通る以上、橋は天然の関門になる ──「唐橋を制する者は天下を制す」と称され、壬申の乱でも、橋をめぐる攻防が乱の帰趨を決した[4]。橋の架設は、大津宮遷都のころにさかのぼると伝わる。湖と道と都を一点で結ぶこの橋が、後世、龍と大百足の物語の舞台になるのは、地理の必然であった。
瀬田唐橋の龍と三上山の大百足 ── 道の妖怪

近江国を象徴する妖怪退治譚は、この瀬田唐橋から始まる。平安の武将・俵藤太(たわらとうだ)こと藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が、橋に横たわる大蛇に道をふさがれた。ひるまず踏み越えると、大蛇は人の姿に転じ ── 瀬田川と琵琶湖を支配する龍王の化身であった。

大百足
大百足は巨大な百足の妖怪で、近江国三上山を幾重にも巻くほど長大な体をもつと語られる。甲は硬く、並の刀矢をはね返すという。脚は火のように赤く輝き、毒牙は甲冑をも噛み砕くと畏れられた。湖沼の水神たる龍蛇と対立し、これを脅かす存在として伝承に現れる。一方で百足は前へ進むのみで退かぬ虫として勇猛不退の象徴とされ、武家や鉱山にゆかりの信仰の対象ともなった。各地に異同が多く、その実体は一様でない。
詳しく見る龍王は、近江富士とも呼ばれる三上山(みかみやま)を七巻き半する大百足に一族を喰われ、困り果てていた。秀郷は龍王の願いを容れ、二本まで弾かれた矢の三本目に唾をつけ、神仏の加護を得たその一矢で百足の眉間を射抜く。礼として龍宮へ招かれた秀郷は、尽きることのない米俵や巻絹を贈られた ── これが「俵藤太」の名の由来だとも伝わる[5]。武勇譚は『太平記』巻十五にも組みこまれているが[6]、興味深いことに、その『太平記』本では大百足の棲み処を三上山ではなく比良山とする。同じ近江の山でも、語り手によって舞台が湖の東から西へ動く ── このあたりの異伝の機微は、湖国全体を見渡す滋賀県の妖怪事典に詳しい。ここで確かめておきたいのは、橋の下の龍、湖を渡る矢、山に横たわる百足という、近江の地形そのものが物語を動かしているという一点である。道の妖怪は、道のかたちに従って生まれる。
その瀬田唐橋の東詰には、近江国一宮の建部大社(たけべたいしゃ)が鎮まる。祀られるのは古代最大の英雄神・倭建命(やまとたけるのみこと)── だが各地の荒ぶる神を平定したこの英雄ですら、近江の山の神には敗れた。

倭建命
倭建命 (ヤマトタケル) は『古事記』·『日本書紀』 に登場する古代日本最大の英雄神格で、 第 12 代景行天皇の皇子として描かれる悲劇的英雄である。 古事記表記は「倭建命·小碓命 (オウス)」、 日本書紀表記は「日本武尊·小碓尊·倭男具那 (ヤマトオグナ)」 等。 兄·大碓命殺害譚で父·景行帝に疎まれ、 西は熊襲 (クマソ·南九州)·出雲、 東は東国 (東海·関東·東北) への遠征を相次いで命じられ、 行く先々で土地神·豪族を平定した。 熊襲征討では女装で兵営に潜入し兄弟の頭領·熊襲建 (クマソタケル) を討ち、 死に際の熊襲建から「ヤマトタケル」 の名を献じられた。 叔母·倭姫命 (ヤマトヒメ·伊勢神宮斎宮の祖) から授かった草薙剣 (クサナギノツルギ·ヤマタノオロチの尾から出た神剣) で駿河国焼津の野火攻めを脱出、 走水の海では妃·弟橘比売 (オトタチバナヒメ) が海神の怒りを鎮めるため入水した悲劇を経て、 最後は近江·伊吹山の山神の祟りで重病となり、 伊勢国能褒野 (ノボノ·現·三重県亀山市) で没した。 死後に白鳥となって飛翔した白鳥伝説は古代日本における「英雄の昇天·転生」 譚の代表とされ、 三重県·愛知県·岐阜県·静岡県等の各地に陵墓伝承·白鳥神社·熱田神宮 (草薙剣の継承地) 等の聖地を残す。
詳しく見る『古事記』によれば、ヤマトタケルは伊吹山の神を素手で討とうと登り、道で出会った白い大猪(『日本書紀』では大蛇)を「神の使いだろう、帰りに殺す」と侮った[7]。怒った神は大氷雨(おおひさめ)を降らせて彼の正気を奪う。山を下りた英雄は、伊吹山南麓の醒井(さめがい、現·米原市)の「居醒(いさめ)の清水」でわずかに息を吹き返したと伝わるが、ついに病を得て、伊勢の能煩野(のぼの)で力尽きた。澄んだ湧水はいまも街道沿いに流れ、英雄の最期を近江の地に結びつけている。琵琶湖を見おろす伊吹の山は、英雄を殺すほどの荒神(あらがみ)の坐す山として、この国の北東にそびえていた。建部大社が彼を武運の神として祀るのは、敗れてなお神格を得た英雄への、近江の人々の敬意のかたちであろう。
湖底の最古の人魚と、
湖を掘った巨人 ── 水の妖怪

近江が「淡海の海」と呼ばれた水の国であることは、妖怪の系譜にもくっきりと刻まれている。日本最古の人魚の記録は、ほかでもない近江のものだ。

人魚
人魚(にんぎょ)は、海や川に棲むとされる半人半魚の妖怪であり、日本の民俗伝承において「不老長寿」と「厄災の予兆」という相反する二つの顔を持つ特異な存在です。西洋の美しいマーメイド(Mermaid)とは異なり、日本の古文献に登場する人魚は「猿のような顔に魚の胴体」「鋭い歯と角を持つ」といった奇怪な姿で描かれることが多く、漂着すると戦争や疫病などの不吉な出来事が起こる凶兆とされていました。一方で、その肉は「不老不死の霊薬」としての性質を持つという強烈な信仰があり、これを食べて800年を生きたとされる「八百比丘尼(やおびくに)」の伝説は日本全国に広く分布しています。江戸時代に入ると、人魚は畏怖の対象から一転して「見世物」や「珍獣」として好奇の対象となり、猿の上半身と魚の下半身を巧妙に繋ぎ合わせた「人魚のミイラ」が職人によって大量に制作され、国内外に流通する一大ブームを巻き起こしました。
詳しく見る『日本書紀』推古天皇二十七年(六一九年)の条に、近江国の蒲生河(がもうがわ)に「其の形(かたち)人の如し」というものが現れたと記される[8]。海ではなく、湖へ注ぐ淡水の川に現れたところが、いかにも近江らしい。同じ年、摂津国の堀江でも「児(わかご)の如し、魚にも非ず人にも非ず」というものが網にかかったと併記されるが、近江の蒲生河の例は、文献に裏づけられた人魚の最古例として知られる。もっとも当時「人魚」という語はまだ成立しておらず、後世の人々がこれを人魚と読みかえたものだ。明治の博物学者・南方熊楠は、この古例をオオサンショウウオの誤認だろうと推測している ── 怪異の記録は、しばしば、まだ名を持たぬ何かへの戸惑いから始まる。
水の妖怪は、湖の創成譚にまで遡る。近江には、琵琶湖そのものを掘ったという巨人の伝説が伝わる。

ダイダラボッチ
ダイダラボッチは、窪地、池沼、井戸、塚、山などを「巨人の身体が残した跡」として語る、日本の巨人伝承を代表する名である。関東・中部を中心に、ダイダラ坊、ダイダボッチ、ダイラボッチ、デエダラボッチなど土地ごとに呼び方が変わり、大太法師・大多羅法師といった漢字も当てられた。全国で同じ生涯や容姿を持つ一個体ではなく、各地の景観を巨人の行動で説明する類似の語りが、近い名のもとに集められてきた存在である。 伝承の中心にあるのは、巨人の顔や衣服よりも、通り過ぎた後の痕跡である。一歩で地面が沈んで池や沼になり、踏ん張った場所が盛り上がり、運んだ土や履物から落ちた土が丘や塚になる。山を背負う、土を掘って別の場所へ置く、杖を突く、排泄するといった動作は、離れた山、海、窪地、湧水を一つの巨体へ結びつける。ただし、すべての土地で同じ動作や持物が語られるわけではなく、善悪、知性、対人態度にも全国共通の性格づけは見られない。 『常陸国風土記』と『播磨国風土記』にも、巨大な「上古の人」や「大人」の身体、足跡、排泄によって地形を説明する古代説話が記されている。これらは後世のダイダラボッチ伝承とよく似た構造を持つが、古代本文にその名はない。古代から同じ妖怪が変わらず語り継がれた証拠ではなく、巨人の身体で土地の形を説明する発想の古さを示す比較資料として位置づけられる。
詳しく見るダイダラボッチは、山や湖をつくるほどの巨体を持つ国造りの巨人だ。富士山を盛り上げるために近江の土を掘り、その掘った跡が琵琶湖になったと語られる[9]。湖の輪郭と富士の山容が、一人の巨人の手仕事として一続きに想像されているのである。この伝説の縁から、昭和四十三年(一九六八年)に静岡の富士宮市と近江八幡市は夫婦都市の縁を結んだ。神話を都市交流に変えてしまうあたりに、伝説がいまも生きていることがうかがえる。掘った土が富士になり、その跡が湖になる ── 列島の地形を一つの物語で結ぶこの巨人は、近江が「水の国」であることの、最も雄大な説明になっている。
そして、夜の湖そのものが妖しい火をともす。彦根に伝わる蓑火(みのび)は、湖を渡る舟人の妖怪である。

蓑火
蓑火は、梅雨時の夜などに琵琶湖を渡る舟上で、雨具の蓑に点々と現れる蛍状の怪火と伝えられる。熱さや燃え広がりはなく、蓑を脱ぎ捨てれば消えるが、手で払うと数を増し、星の瞬きのようにきらめくという。水死者の怨霊の化現とする説のほか、近代の見立てでは気体発光現象の一種とも解され、各地に類例が報告されている。
詳しく見る旧暦五月の雨の夜、琵琶湖の舟上で、蓑(みの)に蛍のような火の玉がいくつもまとわりつく。手で払えば払うほど数を増し、けれども熱くはなく、蓑を脱げば消えるという[10]。鳥山石燕も『今昔百鬼拾遺』にこれを描いた[11]。火でありながら水上にともるという矛盾を、そのまま静かな美しさに変えてしまうところが、湖国の怪らしい。水死者の魂が火になるという説もあれば、明治の井上円了は湖面から立つ燐(りん)やガスのなせるわざと説いた ── 怪異と科学のあわいで、蓑火はいまもほのかに光りつづけている。
三井寺の怨霊 ── 山門寺門の争いが生んだ鼠

都の記憶が古代の層なら、中世の近江に怪異を呼びこんだのは、寺と寺との争いである。大津の三井寺(園城寺)は天台寺門宗の総本山で、たびたび戦乱に焼かれては再興された「不死鳥の寺」として知られる。この寺の歴史に重なる怨霊譚が、頼豪(らいごう)と鉄鼠(てっそ)の物語だ。

頼豪
頼豪(らいごう、長保4年〔1002〕-応徳元年〔1084〕)は、園城寺(三井寺)に住した平安中期の天台僧で、修法の験力で知られた実在の阿闍梨である。『扶桑略記』や『古事談』は、承保元年(1074)に白河天皇の皇子誕生を祈願して成就し、その褒賞として三井寺への戒壇建立を望んだと伝える。だが受戒の独占を守ろうとする延暦寺(山門)の猛反対で勅許は反故にされ、頼豪は深い怨みを抱いて護摩堂に籠もり、断食のすえ憤死したという。後世の説話は、この無念が怨霊と化し、祈り得た皇子を呪殺し、さらに無数の鼠となって延暦寺の経蔵を食い荒らしたと語り継いだ。頼豪は史実の高僧でありながら、寺門と山門の戒壇抗争という政治的緊張を背負わされ、怨霊譚の主人公へと変貌した中世的人物像の典型である。妖怪としては、その怨念が鼠の姿をとった「鉄鼠(てっそ)」と一体に語られ、人格をもつ怨霊と群れなす害獣という二つの相を併せ持つ点に特色がある。
詳しく見る頼豪は、白河天皇に皇子誕生を祈願し、百日の祈りの末にこれを成就させた三井寺の高僧だった。恩賞として三井寺に戒壇(かいだん ── 僧に戒を授ける場)を設けることを願ったが、これを嫌う比叡山延暦寺の強硬な反対で叶わず、憤死したと伝わる ──『平家物語』は、恨みのあまり怨霊と化した頼豪が、自ら祈り出した皇子を呪い殺したと語る[12]。承暦元年(一〇七七年)、皇子はわずか四歳で世を去ったという。
この怨念が、やがて鉄の牙を持つ鼠の群れへと姿を変える。

鉄鼠
鉄鼠(てっそ)は、三井寺の僧・頼豪の怨念が化したと伝える鼠の妖怪で、経巻や仏像を食い破る無数の鼠の群れとして語られる。名そのものは江戸後期、鳥山石燕『画図百鬼夜行』(安永5年〔1776〕)が一匹の鼠を闇に据えて「鉄鼠」と画題を付したことに始まり、その賛は「頼豪の霊、鼠と化すと世にしる所也」と簡潔に由来を記す。古伝では頼豪鼠・三井寺鼠とも呼ばれ、固有の名というより、軍記が伝える怨霊化生の挿話に石燕が一語の画題を与えて結晶させた図像上の所産である。化生の鍵となるのは『太平記』巻十五の語で、頼豪の悪念が「石の身に鉄の牙」をもつ八万四千の鼠となって叡山を駆けたとする誇張的描写が、石燕の画題「鉄鼠」の直接の典拠とみられる。石燕は群れや破壊の場面ではなく、牙を剝いて経巻に取りつく一匹の鼠を静かに描き、集団の災厄を一個の象徴へ凝縮した。怨霊が人格から無数の小動物へ拡散し、鼠本来の齧歯習性がそのまま破壊力として読み替えられる発想は、個の怒りが集団の祟りへ転じる中世的怪異観を鮮やかに示す。妖怪としての鉄鼠は、怨霊の主体である頼豪と一体に語られながらも、図像としては「牙をもつ怪鼠」という視覚的形象に独立して結晶した点に固有の意義がある。
詳しく見る後世の物語では、頼豪の怨霊は八万四千の鉄鼠となって比叡山へ押し寄せ、経巻や仏像を食い荒らした[13]。江戸の妖怪画はこれを鉄鼠(てっそ)と名づけて結晶させ、三井寺には鼠の霊を祀る十八明神社(じゅうはちみょうじんしゃ)── 通称「ねずみの宮」が、いまも比叡山の方角をにらむように建っている。
怨霊が鼠に化けるという発想の背後には、近江の宗教史そのものがある。同じ天台でありながら、円珍(えんちん)門流の三井寺(寺門)と、円仁(えんにん)門流の延暦寺(山門)とは、座主の補任や戒壇の権をめぐって長く反目しあった ── これを「山門寺門の争い」と呼ぶ[14]。正暦四年(九九三年)には山門が寺門の坊舎を焼き、寺門の僧およそ一千人が山を下って三井寺に拠った。頼豪が望んで容れられなかった「戒壇」とは、まさにこの対立の核心であった。怪異は、ここでは空想の産物ではない。生々しい権力闘争の記憶が、鼠という小さな獣の姿を借りて語り直されたのである。
比良の天狗と、
地の底をめぐる三郎 ── 山と地下の妖怪
近江は道と湖の国であると同時に、湖を囲む山の国でもある。湖の西にそびえる比良山(ひらさん)には、大天狗が宿る。

比良山次郎坊
比良山次郎坊は、近江国の比良山に根を張る大天狗であり、四十八天狗・八大天狗において、愛宕山太郎坊に次ぐ次席(第二位)に名を連ねる。鼻高の大天狗として描かれ、山気と風を操り配下の天狗を統べる存在とされる。 琵琶湖西岸にそびえる比良山系を拠とし、中世にはこの山の天狗が実名で文献に現れる。慶政(けいせい)が延応元年(一二三九)に著した『比良山古人霊託』は、比良山の老天狗(古人)との問答を記し、比良が古くから天狗の棲む霊山と観念されていたことを伝える。愛宕太郎坊を筆頭とする天狗界の序列のなかで、次郎坊はその次席として、しばしば太郎坊と対で語られてきた。
詳しく見る比良山次郎坊(ひらさんじろうぼう)は、愛宕山の太郎坊に次ぐ大天狗とされる。注目すべきは、天狗が単なる人を化かす妖怪としてではなく、宗教を論じる存在として一次史料に現れることだ。鎌倉時代の僧・慶政(けいせい)が著した『比良山古人霊託(ひらさんこじんれいたく)』(一二三九年)には、ある女房に憑いた比良山の大天狗と慶政とが、仏法をめぐって長く問答するさまが記されている[15]。日本を代表する八天狗を数えるとき、その筆頭が愛宕の太郎坊、これに次ぐのが比良の次郎坊だとされた。琵琶湖を見おろす比良の高嶺は、それほどの大天狗が坐すにふさわしい山と仰がれたのである。
天狗という存在そのものについては、近江の比良に限らず、修験の山すべてにまたがる広がりを持つ。

天狗
天狗は、日本の山岳に棲むとされる妖怪にして神格的存在であり、修験道の山伏と分かちがたく結びついてきた山の主である。その姿には大きく二つの系統がある。ひとつは赤ら顔に高い鼻、山伏の装束をまとい羽団扇と一本歯の高下駄を具えた鼻高天狗、いまひとつは鴉のくちばしと翼をもつ烏天狗で、さらにその下に木の葉天狗・木っ端天狗といった下位の眷属が連なる。古くは鳶(とび)のごとき鳥の姿で観念されたものが、中世を通じて長鼻の山伏像へと固まっていった。 天狗は仏法を妨げる魔でありながら、調伏されれば仏法を護る護法神に転じる――この両義性が天狗の本質である。慢心した高僧が堕ちて天狗になるという観念は、仏教の説く「天狗道」と結びつき、鎌倉末の絵巻にも風刺として描かれた。一方、山岳信仰のなかでは山の守護者・武芸と法力の達人として畏敬され、修行者を試し、あるいは導く存在とされた。京都の鞍馬山や愛宕山をはじめ、諸国の霊山にはそれぞれの大天狗が座すと伝えられ、近世の『天狗経』はその総数を四十八に数え上げている。
詳しく見る験力、飛行、慢心、そして護法 ── 天狗は、聖と魔の両方を一身に背負う、修行の山の住人である。鼻高の山伏天狗、烏天狗、木の葉天狗と図像も多彩で、ときに人をたぶらかし、ときに仏法を守護する。比良山次郎坊は、その天狗類のなかでも、近江という土地に固有の名を与えられ、正統な大天狗として語り継がれた一例だといえる。
同じ近江の南東、甲賀の地からは、地の底をめぐる異形の英雄が生まれた。

甲賀三郎
甲賀三郎(こうがさぶろう)は、中世説話『神道集』「諏訪縁起の事」系に現れる、地底巡りと蛇身化の主人公である。近江国甲賀郡の有力者の三男として語られ、信濃国の蓼科山の穴へ妻の春日姫を探しに入り、兄の嫉妬によって地底に閉じ込められる。地下の異郷を長く巡った末に地上へ戻るが、その身は蛇、あるいは龍の姿へ変じており、やがて諏訪上社の明神へ結びつけられる。甲賀三郎は、古事記の建御名方神とは別系統の中世諏訪縁起が生んだ「武士が蛇体を経て神へ至る」物語型として見るのがよい。
詳しく見る中世の説話集『神道集』の「諏訪縁起」によれば、甲賀の領主の三男・甲賀三郎(こうがさぶろう)は、天狗にさらわれた妻・春日姫(かすがひめ)を救うべく、信濃の蓼科山(たてしなやま)の人穴へと分け入った[16]。だが地上へ引き上げる綱を兄に切られ、地の底に取り残されてしまう。地下には七十二もの国があったと語られ、三郎はそのひとつ維縵(いかん)国の王女と契りながらも、なお地上を恋いつづけた。長い帰路の末にようやく地上へ帰り着いたとき、その身はすでに蛇(龍)へと変じていた ── やがて人の姿を取り戻した三郎は、諏訪の明神になったと語られる。武士が地底をめぐり、蛇身を経て神へと昇る ── 甲賀の地は、こんな壮大な転生譚の出発点でもあった。地下を旅する英雄という発想が、湖と山にはさまれた近江の地から立ち上がっているのは、暗示的である。
灯火の妖怪と、
湖国を歩いた商人たち ── 近世の近江

油赤子
江戸中期、鳥山石燕『今昔画図続百鬼』に描かれた妖怪。赤子の姿で行灯の油を嘗めるとされ、その由来は近江国大津で地蔵の油を盗んだ油売りが死後に怪火となったという俗信(『諸国里人談』『本朝故事因縁集』所載の油盗みの火)に求められる。石燕は怪火譚を踏まえ、油への執着を赤子像に託して描いたと解される。
詳しく見る近世に入ると、近江の妖怪は街道や町の暮らしのなかに溶けこんでいく。その代表が油赤子(あぶらあかご)だ。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(一七七九年)に描かれたこの妖怪は、赤子の姿で行灯(あんどん)の油を舐め取る[17]。石燕の図像の背後には、近江国大津の俗信がある ── 大津で地蔵の灯明油を夜ごと盗んで売っていた油売りが、死後に迷って怪火(油坊)と化したという話だ[18]。火の玉が家に入りこんで赤子の姿となり、油を舐め、また火に戻って飛び去る。「灯(あかり)」が怪を呼ぶという発想は、油という商品が貴重で、寺社の灯明や行灯の灯が暮らしの中心にあった時代の感覚から生まれている。
そして油という商品は、近江のもう一つの顔へとつながっていく。湖と東西の街道に恵まれた近江は、近世日本を代表する商人 ── 近江商人を生んだ土地であった。
八幡商人、日野商人、五個荘商人らは、天秤棒一本をかついで全国へ行商に出た。日野商人は売薬や醸造を得意とし、油もまた彼らの扱った重要な商品の一つであった[19]。「近江の千両天秤」という言葉は、天秤棒一本から千両の身代を築く気概と、富を得ても行商の初心を忘れぬ戒めを、同時に伝えている。妖怪の世界では油を盗む怪火が語られ、現実の世界では油を商う商人が街道を歩く ── 油という一つの品をめぐって、怪異と経済とが同じ近江の街道の上で交差していたのである。湖が交通の臍であったからこそ、ここでは物も人も怪も、同じ道の上を行き来した。
結び ── 湖と道が記憶を畳む国
近江国の妖怪をたどると、この国がいかに「境の国」であったかが見えてくる。東国と西国の境、水と陸の境、聖と魔の境 ── そのいずれもが、湖と道という近江の地理に根ざしている。瀬田唐橋に龍と大百足が立ちあがり、伊吹山に英雄を斃す荒神が坐し、蒲生河に最古の人魚が記され、巨人が湖を掘り、三井寺に怨霊の鼠が群れ、比良に大天狗が宿り、甲賀から地底をめぐる三郎が現れ、大津の街道に油の怪火がともる。
古代の都が置かれ、壬申の乱が決し、英雄が斃れた近江は、その後も都の神仏・軍記・怪談を湖と山で受けとめ、独自の怪異に編みなおしてきた。令制国としての近江がたたんだこれらの記憶は、いまも現代の滋賀県の妖怪事典へと地続きに流れこんでいる。淡海の都は、わずか五年で都であることをやめた。だが、都であった記憶も、英雄が敗れた記憶も、商人が街道を歩いた記憶も、この水の国はけっして手放さなかった。近江の妖怪とは、その畳まれた記憶が、湖面にほのかに灯した火なのである。
