越中国は、いまの富山県にあたる旧国である。上位の富山県の妖怪事典では、立山を「地獄と浄土が同居する山」としてとらえ、立山地獄の鬼、姥尊、富山湾の蜃気楼までを広く扱っている。このページでは、その大きな立山信仰の中から、一体の予言獣に焦点を絞る。越中立山の件、すなわち「くたべ」である。
江戸後期、疫病の不安が高まる時代に、越中立山の薬種塚へ現れたという不思議な獣の刷物が流行した。人の顔をもち、獣の身体をもち、これから名も知れぬ病で人が多く死ぬと告げる。しかし同時に、自分の姿を見ればその難を逃れ、長寿を得るとも告げる。越中国の妖怪文化は、ここで恐怖と救いを一枚の絵に結びつけた。

Kudan (Prophetic Human-Cow Yokai)
Kudan is a half-human, half-cow prophetic creature that spread widely in the late Edo period. It has a human face on a bovine body and is said to appear, deliver prophecies about public affairs or harvests, and soon die. Broadsheets and printed books from the Tenpō era record varying locations and appearances. Some notices claimed that displaying its image brought protection from calamity and prosperity at home, though accounts differ by region and source. The supposed link to the legal phrase ‘ken no gotoshi’ (“as stated above”) is considered a folk etymology.
Read more越中を読む入口は、
立山である
越中国の妖怪文化は、まず立山から読まなければならない。富山湾の海面から三千メートル級の山並みへ一気に立ち上がる地形は、日常の世界と他界とを近づける。立山は、地獄谷の噴気を冥界の責め苦と見なし、山上を浄土と仰ぐ信仰を育てた。立山曼荼羅には、開山伝説、地獄、浄土、禅定登拝道、布橋灌頂会が描かれるとされる[1]。
上位の富山県記事では、この立山信仰を背骨に、地獄谷の鬼や姥尊を扱っている。越中国の記事では、その宏観を受け取りながら、別の角度を見る。クタベは、立山の社寺で古くから語り継がれた在地伝説というより、江戸後期の疫病不安のなかで「越中立山」という名を背負わされた霊獣である。このずれが面白い。
立山は、ただ恐ろしい山ではなかった。薬草や信仰、死者供養、旅、絵解きが集まる場所でもあった。人びとはそこに、普通の土地にはいないものが住んでいてもおかしくないと感じた。クタベが現れる舞台に「越中立山」が選ばれたのは、立山がすでに他界と知識の山として広く知られていたからである。
薬種塚に現れたクタベ
越中立山のクタベについて、富山県[立山博物館]は、江戸期に疫病流行を予言する妖怪が各地に現れるなか、立山でも薬種を掘りに来た者の前へクタベが現れたとする刷物が残る、と紹介している[2]。クタベは疫病流行を告げ、自分の姿を見れば病難を逃れられると語り、見ることができない人々のために自分の絵を描いて知らせよと伝える。
研究紀要「疫病流行を告げる『クタベ』と越中立山に現れた理由」では、大阪府立中之島図書館蔵『保古帖』に貼られた摺物が詳しく検討されている[3]。そこには「唐名ニ而ハ件、日本ニ而ハくたべ」とあり、越中立山の薬種塚へ「くたべ」というものが現れた、と記される。クタベは、今後四、五年のうちに名もない病で多くの人が死ぬと告げ、常に自分の姿を見れば病難を逃れ長寿を得ると語る。
ここで重要なのは、クタベが単に恐怖を告げるだけではないことである。予言は不安を生む。しかし、絵姿を見るという対処法も同時に差し出す。つまりクタベは、疫病そのものよりも、疫病の時代に人びとが欲した「見れば助かる」という希望の形である。言葉は恐ろしく、絵は救いになる。予言獣の力は、この二重性にある。
件なのか、
くたべなのか
件(くだん)は、人の顔に牛の身体をもつ半人半牛の予言獣として知られる。だが、越中立山のクタベは、単純に後世の件像へ回収してしまうと細部を失う。立山博物館の解説では、刷物に「唐名では件、日本ではくたべ」とある一方、絵姿は「顔は人、体は獣」とされ、文献によって表記や像容が揺れる[2][3]。
この揺れは、予言獣の本質に近い。アマビエ、神社姫、件、クタベといった存在は、固定した一つの種族というより、不安の時代に絵と文で増殖する情報の形である。刷物に載ることで遠くへ届き、写されることで効験が広がる。姿は少しずつ変わるが、「これを見れば災いを逃れる」という構造は保たれる。
越中立山のクタベは、その意味で、山に棲む妖怪であると同時に、紙の上を旅する妖怪でもある。薬種塚に現れたという舞台は立山に置かれているが、人びとが実際に手にしたのは刷物の絵であった。山の奥へ行かなくても、クタベの姿は町へ届く。越中国の名は、紙面の上で疫病除けの権威になったのである。
なぜ立山だったのか
細木ひとみの研究は、クタベが立山信仰の中心である芦峅寺・岩峅寺の伝承や、立山を訪れた人々の日記には見えないことを指摘する[3]。つまり、クタベは「立山に伝わるクタベ」ではなく、「立山に住むと言われたクタベ」だった。この区別は、越中国の記事にとって大切である。
では、なぜ立山なのか。立山は、地獄と浄土を同時に抱く山として知られ、曼荼羅と絵解きによって各地へ信仰が広まった。環境省の記事も、立山では地獄谷の火山景観が死後の世界と見立てられ、人びとは亡くなった人に会い、自分の罪を浄化する場所として立山参詣を意識したと説明する[4]。そのような山なら、疫病を予見する霊獣が住むと言われても、受け手は納得しやすかった。
さらに、クタベの出現地が「薬種塚」とされる点も見逃せない。薬種は病と直接結びつく。立山に薬草や薬の知識を連想させる力があり、富山の売薬の名も広がっていたなら、疫病除けの霊獣を越中立山に置くことには説得力があった。クタベは、霊山としての立山と、薬の国としての越中が交わる地点に生まれた予言獣である。
絵を見るという護符
クタベは、姿を見れば病難を逃れると告げる。ここには、妖怪の絵を「見る」ことそのものが護符になるという発想がある。アマビエの絵を写して人に見せる話と同じく、絵は単なる挿絵ではない。見る、写す、貼る、伝える。そうした行為が、災いを遠ざける儀礼になる。
越中立山のクタベの場合、刷物は疫病の恐怖を広げる媒体でもあり、同時にその恐怖を鎮める媒体でもあった。怖い知らせを読む者は、同じ紙面で救いの方法も受け取る。これは、近世の情報社会の妖怪らしさである。山奥で一人が見た不思議は、刷物によって都市の不安へ接続され、さらに都市の不安が「立山」という霊地へ投げ返される。
この往復運動が、クタベを越中国の妖怪にしている。現地で古くから語り継がれたというより、越中国という地名が持つ霊威と薬のイメージを、江戸後期の人びとが必要とした。だからこそ、クタベは「虚構だから薄い」のではない。むしろ、疫病の時代に人びとがどんな土地へ救いを求めたかを、はっきり映す妖怪である。
結び
越中国の妖怪をクタベから読むと、立山という山のもう一つの顔が見えてくる。立山は地獄と浄土の山であり、死者に会い、罪を浄める山であった。同時に、疫病の時代には、病を予見し、絵姿によって難を逃れさせる霊獣の住む山としても想像された。
件(くたべ)は、半人半牛の奇獣としてだけではなく、恐怖と救済を一枚の紙にまとめる装置であった。越中立山の名、薬種塚という場所、刷物に描かれた姿、そして「見れば助かる」という約束。これらが重なったとき、越中国は疫病不安の時代に、遠くから頼られる霊山の国になったのである。