香川県坂出市、五色台の一峰·白峰に、一つの陵がある。崇徳天皇陵 ── かつて帝位にあった一人の上皇が、流刑の地で果て、葬られた場所である。そしてこの白峰は、日本三大怨霊の「筆頭」、すなわち最強の怨霊が眠る地として知られてきた。
菅原道真は学者であり、平将門は武将であった。だが崇徳上皇は、天皇その人である。位の頂点にあった者が、なぜ日本でもっとも恐れられた大魔縁·大天狗となったのか。本稿は、白峰に眠る崇徳の物語をたどる。
帝、
讃岐に流される
崇徳天皇は、鳥羽上皇の皇子として生まれ、わずか五歳で即位した。だが父·鳥羽との不和は深く、やがて譲位を強いられる。鳥羽の死をきっかけに、皇位継承と摂関家の対立がからみあい、ついに武力衝突へと至った ── 保元元年(一一五六)の保元の乱である。崇徳上皇は後白河天皇方に敗れた[1]。
敗者となった崇徳に下された処分は、苛烈なものだった。崇徳は讃岐国(現·香川県)へ配流された。天皇·上皇の配流は、およそ四百年ぶりの出来事であった[1]。かつて宮廷の頂点にあった帝が、海を渡って西国の地へ流される ── それは前例なき転落であった。
保元の乱は、王家と摂関家の対立が武力に転じた、日本史の転換点でもあった。崇徳上皇と左大臣·藤原頼長の側に対し、後白河天皇·関白藤原忠通の側 ── そして双方の陣営に、源氏と平氏の武士が分かれて加わった。父と子、兄と弟が敵味方に裂かれて戦ったこの乱を境に、政の実権は貴族から武士の手へと移りはじめる。崇徳の敗北と配流は、古い時代の終わりを告げる事件でもあった。
血で書いた呪い
讃岐での崇徳には、一つの名高い伝説がある。崇徳は配流先で五部大乗経を写経し、せめてこれを都の寺に納めたいと朝廷に差し出した。だが後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑い、受け取りを拒んだ[1]という。
返された写経を前に、崇徳の絶望は怒りへと変わる。激怒した上皇は舌を噛み切り、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書きつけた[1]と『保元物語』は伝える。帝位を奪われた者が、国そのものを呪い、秩序の転覆を誓ったのである。ただし、この血書経の逸話は崇徳の崩御から年を経てはじめて語られたもので、実物を見た者はなく、後世の脚色である可能性も指摘されている[1]。伝説の真偽はともあれ、人々が崇徳の無念をそれほど深いものと感じていたことは確かである。
都を遠く離れた讃岐で、崇徳がどのような日々を送ったかは、その多くが伝説に包まれている。ひたすら写経に明け暮れたとも、わずかな供の者とともに寂しく暮らしたとも語られる。かつて万乗の位にあった帝が、ふたたび都の土を踏むことなく、八年あまりの歳月を西国の地で過ごした ── その深い孤独と無念こそが、のちの壮大な怨霊伝説を育む土壌となった。
大天狗となった帝 ── 白峰相模坊
崇徳の死後、都には不穏な出来事が続いた。保元の乱ののち、平治の乱、平氏の専横、源平の争乱と、世はとめどなく乱れていく。人々はこれを、崇徳の呪いの成就と見た。帝位を追われた崇徳の怨霊は、もはや並の亡霊ではない ── 天狗の王、大魔縁として畏れられるようになる。

시라미네 사가미보
시라미네 사가미보(白峰相模坊)는 사누키국 시라미네에 자리한 대천구로, 8대 천구의 하나로 꼽힌다. 무로마치 요쿄쿠 『구라마 텐구』에 '시슈(시코쿠 사국)에는 시라미네의 사가미보'로 읊어진다. 그 최대의 특징은, 호겐의 난에 패해 사누키로 유배되어 붕어한 스토쿠 상황의 시라미네 능을 지키는 천구로 여겨진다는 점에 있다. 그 이름의 유래에는 두 설이 있다. 하나는 『호겐 모노가타리』에 등장해 스토쿠 편을 든 승려 사가미 아자리 쇼손에서 비롯한다는 설이고, 또 하나는 사가미국 오야마에서 온 대행자가 스토쿠의 영혼을 지키는 진수(鎮守)가 되었다는 설로, 후자는 오야마 호키보의 '이좌' 전승과 짝을 이룬다. 일본 3대 원령이자 '일본 제일의 대천구'로도 불린 스토쿠와, 그 능을 지키는 천구——두 이야기는 떼려야 뗄 수 없이 맺어져 있다.
자세히 보기その崇徳の霊と分かちがたく結びつくのが、白峰相模坊である。讃岐白峰に住むとされる大天狗で、日本を代表する天狗の一に数えられる。崇徳院の陵を守り、あるいはその配下として、白峰の山に君臨すると語られてきた。帝が大天狗となり、天狗がそれに従う ── 白峰は、人の世の秩序が裏返った、もう一つの宮廷のような様相を帯びていく。
西行、
白峰に霊を見る
この崇徳の怨霊を、文学の頂点で描いたのが、上田秋成の『雨月物語』(安永五年·一七七六刊)の一篇「白峯」である。
物語はこう進む。歌僧·西行が讃岐の白峰陵を訪れ、読経して歌を手向けると、崇徳院の亡霊が返歌で応じる。やがて西行と院のあいだに激しい論争が起こり、院は怨念をあらわにして、平氏の滅亡を予言する大風とともに、その異形の姿を現す。このとき、院の配下の天狗「相模」が現れる── 白峰相模坊である。崇徳を頂く魔界の宮廷が、まざまざと立ち上がる場面であった。秋成は、史実の怨霊伝説を、文学の極北へと昇華させたのである。
三大怨霊の筆頭
崇徳上皇は、菅原道真·平将門とならぶ「日本三大怨霊」の筆頭、すなわち最強の怨霊とされる[1]。学者·道真の祟りも、武将·将門の祟りも恐ろしい。だが帝位そのものにあった崇徳の怨念は、国家の根幹を揺るがすものとして、別格の畏怖を集めた。保元の乱から始まる武士の時代の到来そのものを、崇徳の呪いの結果と見る向きさえあった。
この最強の怨霊を、朝廷はついに鎮めにかかる。明治元年(一八六八)、明治天皇は勅使を讃岐に遣わし、京都に白峯神宮を創建して崇徳の霊を都へ迎えた[1]。崩御から七百年をへて、ようやく崇徳は京へ帰ったのである。怨霊を否定せず、神として手厚く祀り、その力を鎮める ── 道真や将門と同じく、崇徳もまた御霊信仰の枠組みのなかで祀られた。だが筆頭の怨霊の帰京に、明治の新政府がみずから動いたという事実は、その霊力がいかに重く受けとめられていたかを物語る。
白峰は、
今も
白峰には、今も崇徳天皇陵が静かに眠る。四国八十八ヶ所の一つ·白峯寺がその近くに建ち、参る人の姿が絶えない。瀬戸内の穏やかな海を見おろすこの峰が、日本最大の怨霊を抱く地であることを、訪れる多くの人は知らない。陵のかたわらには四国霊場の札所·白峯寺があり、巡礼の鈴の音が今も山に響く。崇徳を祀る頓証寺殿も陵に寄り添うように建ち、流された帝の魂を、この地は八百年以上にわたって守りつづけてきた。
帝でありながら流人として死に、怨霊となって国を呪い、大天狗の王として畏れられ、七百年をへて神として京へ迎えられた ── 崇徳上皇の生涯は、日本人が「祟り」と「鎮め」をどう考えてきたかの、究極の一例である。香川県全体の妖怪文化については、香川県の妖怪事典も併せて読まれたい。
